【2025年 5月 4日 主日礼拝説教より】
説教「伝道の始まり、その陰で」 詩編 第121篇 7節-8節 使徒言行録 第4章 1節-22節
本日の礼拝は、わたしたちの仙台東一番丁教会が、教会創立144年を迎えることを覚えての特別な礼拝です。わたしたちの教会が、いわば誕生日を迎えた、そう考えてよいと思います。誕生日は、その記念の日を迎えたことを喜ぶだけではなく、そこまで刻まれた神の恵みを思い起こすときであると思います。先週行われた定期教会総会で、6年後に控えた教会創立150年を見据えながら、いくつかの事業の中で、150年史の編纂をなし、そのために献金を献げていくことが決議されました。まさしく、この教会において示された神の恵みを整理して、目に見える形で表そうとするものです。 この教会の始まりに、どのようなことが起こったのでしょうか。1880年10月10日に押川方義と吉田亀太郎が仙台で伝道を始めた、と言われます。基督教講義所を建てましたが、最初は「基督教に耳を傾ける者甚だ少なく」、語るメッセージが受け止められず、あまり人が集まらなかったようです。そこで押川と吉田は町内を一軒一軒巡って歩いて聖書を売りながら伝道をし、講義所にも少しずつ聴衆が集まるようになったと言います。しかし、押川夫妻は経済的困窮によるところもあり、健康を害し、特に方義は3ヶ月も床に伏さねばなりませんでした。その間、吉田が孤軍奮闘の働きをなし、押川方義が回復すると、1881年5月1日に、横山覚、伊藤悌三の二名が、押川から洗礼を授けられることとなりました。そしてこの日が、わたしたち仙台東一番丁教会の創立に記念日として覚えられ、今日の礼拝も献げられていることになります。 しかし、注目をしたいのは、この日から二週間も経たない5月13日に、押川の次女、克子が神のみもとに召されることとなった、ということです。苦労しながらも華々しく伝道が始まり、受洗者が与えられる教会としての大きな喜びの中で、我が娘を天に送る悲しみを味わわされたのでした。けれどもこれこそが、今にまで続く教会の営みなのだと思わされています。 使徒言行録第4章の、弟子たちの最初期の伝道も、きわめて似たところがあります。おそらく死をちらつかせる脅しに屈せずに、死を超える復活の主イエスの福音を、これからも語り続けて行く教会でありたいと願います。 【2025年 4月 27日 主日礼拝説教より】 説教「最も重要な言葉」 申命記 第10章 12節-22節 マタイによる福音書 第22章 34節-40節
今日の聖書には、神がその民イスラエルにお与えになった戒めの中で、最も重要なものは何かについての、主イエスの教えが語られています。最も重要な戒めは2つある、と主イエスはお語りになられました。第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、第二は、「隣人を自分のように愛しなさい」です。いずれも旧約の申命記6:5、レビ記19:18の言葉です。内容的には、第一は神を愛すること、第二は自分のように隣人を愛すること、とまとめられます。旧約の全体が、この2つの戒めに基づいている、といいます。 けれども今のわたしたちは、律法に従って神の救いにあずかるわけではなく新約のイエス・キリストによる救いが与えられています。では旧約の聖書はもういらないのでしょうか。そうではなく、主イエスは、この律法をそのままではなく、新しく完成されたものとされました。その旧約と新約、律法と主イエスの教えを結びつけているのが、今日の2つの教えです。 わたしたちは、この「最も重要な戒め」を読む時に、暗い気持ちになります。神を愛することも、自分のように隣人を愛することも不十分だからです。守れていないからです。けれども、その読み方は間違っています。この2つの戒めを通して、主イエスは律法を完成させる、と言っておられます。明るく生き生きと、神と隣人を愛して生きていくことこそ、主イエスが願うことです。 ではどうするか。その答えは、このみ言葉をどう読むかではなく、このみ言葉を語られた主イエスご自身に目を向けることです。神の独り子であられる主イエスが、わたしたちの罪を全て背負わせて死んでくださいました。そこには、独り子の命さえ尽くしてわたしたちを愛し赦してくださる、という事実があります。わたしたちはこのように神に愛されているので、その神をわたしたちも愛して生きる、それが、主イエスの救いに与って生きることです。隣人に対しても、神の敵であったわたしたちを主イエスが、ご自身の隣人として愛してくださいました。だからわたしたちも隣人を愛して生きます。主イエスが語ってくださったので、神の愛の中で喜んで生きるわたしたちとされました。 【2025年 4月 20日 主日礼拝説教より】 説教「復活の時に起こること」 詩編 第27篇 1節-14節 マタイによる福音書 第22章 23節-33節
イースターおめでとうございます。主イエスは本当に甦られました。この喜びの礼拝の中で与えられたのは、主イエスと復活についての問答の場面です。 実際、「人は死んだらどうなるのか」、わたしたちが切実に知りたいことですが、当時のユダヤ人たちもその答えを求めていました。その結果、2つの対立する説が生まれていました。一つは、人は心でも魂が残り、やがて復活して新しい体を与えられる、という説と、死後の命や復活などはない、という説です。後者の説を語っていたのがサドカイ派と呼ばれる人々でした。 サドカイ派の人々は、主イエスに問いました。「律法にある『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎをもうけねばならない』とあるが、七人の兄弟が次々に一人の女性と結婚し、皆子をもうけずに死んだ場合、もし死者が復活した場合、この女性は誰の妻になるのか」、と。この議論のポイントは、死後の世界があるかないか、ということです。サドカイ派は、そんなものはない、と主張しています。 主イエスは、このサドカイ派の主張に対して、「あなたがたは、聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われました。サドカイ派の主張を退け、あなたがたは間違っていると言われたのです。それはまた、「死んだら愛するものと天国で再会する」と希望をいだいているわたしたちも同じです。30節「復活の時には、めとることも嫁ぐこともない。天の御使いのようになるのだ」。地上における結婚の関係が、復活においてはもうなくなるといいます。ある人にとってはとても寂しい、悲しい教えになります。バルトという人は、「天国で、愛する人にも再会するが、そうでない人とも再会する」と言いました。 主イエスが言われたのは、死後のことや復活を、この世の人生の延長として考えてはならない、ということです。では聖書ではなんと言っているでしょう。「神が、…『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。神が、一人ひとりの名を呼んで、生かしてくださっている、ということです。わたしたちは、その神に信頼して、死後のことも委ねることが許されています。 【2025年 4月 13日 主日礼拝説教より】 説教「皇帝のもの、神のもの」 イザヤ書 第33章 1節-6節 マタイによる福音書 第22章 15節-22節
主イエスがろばの子の背中に乗って都エルサレムに入り、最後の一週間を過ごされます。人々は歓声をあげて迎え入れます、そのことを覚えるのが今日の日です。わたしたちの礼拝ではすでに、比較的最近、その場面を読みました。わたしたちは、読む聖書において、その最後の一週間のただ中にいます。 今日の箇所からは、ユダヤ人の宗教的指導者たちが、主イエスに質問をする、という場面が3つ出てきます。その質問は、「イエスの言葉尻を捕らえて、罠にかけよう」とする、悪意ある質問でした。今日の、その第一の問いは、ファリサイ派の人々からのものですが、ヘロデ党の人々と一緒に主イエスのところに遣わした、とあります。本来、この2つは相容れない、対立関係にありました。ヘロデ党はローマの支配を認め、皇帝への税金はちゃんと納めるべき、というのがその立場です。他方、ファリサイ派は神の民イスラエル建設を目指している、皇帝への税金の反対派です。両者は、主イエスを抹殺しようという思いで一致しました。現代でも、共通の敵によって手を結ぶことがあります。 彼等は、「皇帝に税金を納めることは許されているか」という問いを投げかけてきました。この問いは、どのように答えても、対立していたはずの両者から、批判を浴び、主イエスの影響力を失墜させる事ができるものでした。 この絶体絶命の危機に際して主イエスは、ローマへの税金として納めるのに用いられるデナリオン銀貨をもってこさせ、そこにある皇帝の肖像と銘を示し、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と語られました。「皇帝のものは皇帝に」で、皇帝に税金を収めることを認め、「神のものは神に」で神のご支配に仕えることを蔑ろにしてはならない、と言っておられます。特に、「神のもの」とは何か、が問われます。皇帝の肖像が刻まれている銀貨は、皇帝のものだ、と言われています。では神の肖像、かたちが刻まれた神のもの、それがわたしたち人間です。つまり、わたしたちとこの世界全体が、実は「神のもの」として、その王の権威を認め、それに従え、というのです。その上で、「皇帝のもの」、つまり国家、政治を「皇帝に返す」ことを認めています。大事なことは、常に「神のものを神に返す」信仰に生きることです。 【2025年 4月 6日 主日礼拝説教より】 説教「神に招かれるために」 詩編 第132篇 8節-12節 マタイによる福音書 第22章 1節-14節
新しい年度、2025年を迎えました。この年度から、わたしたちの教会で目に見えて変化することは、『聖書』を、これまでの「新共同訳」から「聖書協会共同訳」に切り替えて、神の言葉を聴くということです。 今日のマタイによる福音書第22章は、主イエスが語られた一つのたとえ話です。ある王が、王子の結婚の祝いの祝宴を催し、そこに人々を招いた、という話です。この宴会を催した王は神のことであり、そこに招かれた人々が、わたしたち人間のことです。信仰とは、神から祝宴への招きをいただくことです。 ところがこのたとえ話には、王からの祝宴の招きに応じようとしない人々のことが語られています。その招きを無視して、一人は畑に、一人は商売に出かけたのです。「わたしは仕事が忙しい、礼拝に行っている暇はない」ということです。あるいはさらに他の人々は、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった、とあります。招きに応じないどころか、招きを激しく拒否しました。 そのように招きに応じなかった人々に対して、王は怒り、軍隊を送ってその者どもを滅ぼしました。そして通りに出ていき、見かけた者は誰でも祝宴に招くよう家来に命じました。もともと神の恵みを受けていたものが、それに答えることをしなかったためにその恵みを失い、代わって別の人々がその恵みにあずかることが、このたとえ話で語られています。もともと恵みをいただいていた者たちとは、祭司長・ファリサイ派などユダヤ人の宗教的指導者たちのことです。彼らが主イエスを受け入れず、むしろ敵対し抹殺しようとしています。 その彼らに代わって、この祝宴に招かれる人たちとは、街の通りで見かけたものは誰でも、です。王はこの宴席を、なんとしてでも一杯にしたかったのです。これは、今この礼拝に集められているわたしたちが、招かれるにふさわしい、立派なものではなく、ただ通りを歩いているだけのような者だったことと重なります。わたしたちはただ、神の招きによって、ここにいるのです。 わたしたちが、その神の招きを、本当にありがたいこととして感謝して受けるために聖餐が備えられています。わたしたちが、神の祝宴に与れるのは、聖餐に表された、主イエスの十字架の死という犠牲によってです。 【2025年 3月 30日 主日礼拝説教より】 説教「神の心を殺さないように」 マタイによる福音書 第21章 33節-46節
教会の信仰の中心にあるのは、主イエス・キリストの十字架です。人間の歴史の中心に、あの主イエスの十字架が立っています。しかし改めて、なぜイエス・キリストは十字架につけられたのでしょうか。今日のたとえ話は、そのことを明快に語っているのではないか、と思います。 なぜ主イエスが十字架につけられたのか。何も難しい話はありません。それは、神のものは神にお返ししなさい、といったために、それは嫌だ、と言った人々に殺されたのです。ぶどう園の主人が、収穫の分け前をくれと要求するのは、当然のことです。しかし他方では、農夫たちが自分の手で働いた収穫を、たとえ相手が農場主であろうとも、出し渋るというのはありそうな話です。しかしそれにしても、主人が遣わしたものを次々殺すというのは、やり過ぎに見えます。 このたとえを直接聞いたのは、祭司長、ファリサイ派の人々でした。彼らもこの話がわかったようです。案外、核心的なことを言っているのは、45節で「祭司長、ファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき」という言葉です。聖書の話が分かるのは、ああ、これは自分のことを言っているのだ、ということに気づくことです。祭司長やファリサイ派の人たちは、このたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っていると気づき、イエスを捕らえようとした、と言うのです。 この主人がしたことは、不思議です。僕たちを送り込んで、次々と乱暴され、殺されているのに、その上に、最後に一人息子を送ってみよう、という、この主人は、随分とお人好しです。けれども、神である主人は、バカ正直にこの農夫たちを信頼しきって一人息子の主イエスを送られたのです。そのようにして農夫である祭司長たち、そしてわたしたちのことを信じておられました。けれどもこの一人息子が十字架につけられて殺されてしまいました。 そのように家を建てる者の捨てた石である主イエスが、いちばん大事な石として、教会が建てられます。教会はただ、神のものを神にお返しするために建てられます。神よ、わたしはあなたのものです、その祈りに導かれたいです。 【2025年 3月 23日 主日礼拝説教より】 説教「独り子をお与えになる神」 イザヤ書 第5章 1節-7節 マタイによる福音書 第21章 33節-46節
主イエスのお働きの最後の一週間、都エルサレムに入られました。多くのエルサレムの人々は、主イエスの到来を喜び、歓声をあげ迎え入れました。そこで主イエスはたとえ話をなさいました。その一つが今日の「ぶどう園と農夫のたとえ話」です。ある説教者は、この話が主イエスのたとえ話の頂点だ、と言いました。それほど多くのことを学ぶことができる、ということでしょう。 このたとえ話が向けられていた、祭司長や長老たち、あるいはファリサイ派の人々など、当時のユダヤ人の指導者たちは、主イエスのエルサレム入城を、喜んで迎え入れはしませんでした。 ある家の主人がぶどう園を作り、ぶどう酒収穫のためのあらゆる準備をして、その土地を農夫たちに貸し、旅に出かけました。収穫の時期になり、主人は自分の当然受けるべき取り分を受け取るために、僕たちを次々と遣わします。しかし農夫たちは、その僕たちのある者を袋叩きし、ある者を殺し、ある者を石で打ち殺しました。そこで主人は最後に、自分の息子なら敬ってくれるだろう、と考えて息子を送りました。しかし農夫たちは、息子をぶどう園の外に放りだして殺してしまいました。僕たちとは旧約の預言者、息子とは神の独り子主イエスのことです。 このたとえ話は、主イエスを受け入れようとしないユダヤ人の指導者たちを農夫として描いています。主人である神は農夫たちに、すべての設備を整えたうえで、ぶどう園を貸し与えました。その農夫たちのところに、主人、つまり神がその息子を遣わしたことを語っています。この農夫は、わたしたちのことでもあります。そしてそのわたしたちのところにも、神はその独り子を遣わされました。それは、神がわたしたちに、「あなたがたの命、人生はわたしが与え、整えたものだ、だからわたしを、あなたがたの主人として受け入れなさい」と告げるためです。 神が、農夫たち、わたしたちに求めておられるのは、その息子である独り子主イエスを敬うことです。それが造り主である神と、造られたわたしたちとの正しい関係です。その関係を築くために、主イエスは十字架で死なれました。 【2025年 3月 16日 主日礼拝説教より】 説教「後で考え直して」 イザヤ書 第42章 14節-25節 マタイによる福音書 第21章 28節-32節
今日は、マタイによる福音書だけが伝える、あまり良く知られていないかもしれない、主イエスが祭司長、長老たちにお語りになられたたとえ話です。 ある人に二人の息子がいた、この父親はまず兄のところに行って、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った、しかし兄は「いやです」と答え、父の求めを拒絶した、けれども彼は後で考え直して、結局はぶどう園へ行って働いた、兄に断られた父は今度は弟のところへ行って同じことを言うと弟は「お父さん、承知しました」とよい返事をしたが、結局はぶどう園へ行かなかった、こういうたとえです。主イエスは彼らに、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問われました。答えは当然、最初は拒否したけれども後で考え直して出かけた兄の方です。分かりやすすぎます。 この話の向けられた祭司長や長老たちに対して主イエスは、「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入るだろう」と言っておられます。つまりこのたとえ話は、口では立派なことを言っても結局それを実行しなかった息子(一応祭司長や長老たち)と、口では反抗的なことをいいながら結局は父の願い通りにした息子(一応徴税人や娼婦)との対比になっています。けれどもこれは、「言葉と行動の一致が大事」ということを言おうとしているのではないと思います。なぜなら、祭司長や長老たちが言葉の上でだけ神に従っているのはそのとおりかもしれませんが、徴税人や娼婦たちは当時の罪人の代表であって、とても生活、行動において神の御心を行っていた、とは言えません。 ではなぜ主イエスは、徴税人や娼婦たちが先に神の国に入る、と言われたのでしょう。それは彼らが正しいからではなく、彼らがヨハネの「義の道」を信じたからです。ヨハネは主イエスの登場に先駆けて、自分が神の前に罪人であることを認めて悔い改め、神のもとに立ち帰り、洗礼を授けることを宣べ伝え、徴税人や娼婦たちは、「後で考え直して」それに耳を傾けていました。けれども祭司長や長老たちはそうではなかった、自分たちが悔い改めなければならない罪人であることを認めませんでした。「後で考え直し」悔い改め、赦しを求めるかが問題です。主は祭司長にも「後で考え直す」ことを期待しています。 【2025年 3月 9日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスの権威」 サムエル記上 第8章 4節-22節 マタイによる福音書 第21章 23節-27節
受難節、レントを迎え、わたしたちの礼拝では、主イエスがエルサレムに入り、十字架に向かっていく、最後の一週間の場面を読み進めます。日曜日にエルサレムに入った翌日、神殿で主イエスは、教えておられました。 そこに祭司長や民の長老たちがやってきて、一体「何の権威でこのようなことをしているのか」と尋ねました。それに対し主イエスはすぐにお答えにならず、かえって問い返されました。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」。主イエスが問うておられる、これが大事なことです。 教会でまだ洗礼を受けていない、けれども信仰を求めている「求道者」は、神に対し問いを持ち続け、答えを求めます。その心で、牧師に問い、信仰生活をしている人たちに問います。けれども実は本当は、信仰を求めることは、神から、主イエスからむしろ問われることです。主イエスからの問いかけの中におり、それに答えつつ生きるところにこそ、信仰が生まれます。信仰の道とは、自分から問うことを一度やめて、聖書からの問い、神からの問い、主イエスからの問いにひたすら耳を傾け、答えようとすることです。 主イエスが祭司長や民の長老に問われたのは、「ヨハネの洗礼は…天からのものか、それとも、人からのものか」ということでした。主イエスの登場の前に、荒れ野で、人々の罪を激しく指摘し、悔い改めを求め、洗礼を授けていたのがヨハネでした。その洗礼が神からのものと認めるのか、と主イエスは問うたのです。それは言い換えると、あなたの罪からの悔い改めを迫る言葉は、神からのものであることを認めるか、ということです。主イエスがこの地上に到来したのも、まさに人々に罪を悔い改めさせることが目的でした。もしも、それが神からのものだとわかっているならば、なぜ、まだ受け入れないで罪の中にとどまるのか、という、厳しい問いを、主イエスは投げかけています。わたしたちもヨハネの権威、主イエスの権威を認め、そこから神の呼びかけを聴き、真実の悔い改めへと導かれたいと思います。 【2025年 3月 2日 主日礼拝説教より】 説教「実を結ぶ生き方へ」 申命記 第10章 12節-22節 マタイによる福音書 第21章 18節-22節
ただ今、洗礼の式を執り行い、その一人の人が生まれ変わった大きな出来事、その喜びを見せていただいている中で、みことばに聴こうとしています。洗礼を受ける方も、洗礼を受けた者として、みことばに聴きます。大事です。 今わたしたちが読んでいるマタイによる福音書第21章は、主イエスの地上のご生涯の最後にエルサレムに到来されたこと、そしてその主イエスを迎えた人々の姿が描かれていました。今日与えられた18~22節では、主イエスが歩いている途中、空腹を覚えられ、いちじくの木に実がないかと近寄ったけれども、葉のほかは何もなかったので、その木を呪って枯れさせた、ということが語られています。わたしたちは困惑します。空腹の主イエスが木に八つ当たりした話のように見えるからです。何を語りかけているのでしょうか。 第21章は、主イエスが到来され、人々がそれを迎えたことを描いている、と申しました。その時の迎える人間の側のあり方、姿勢が問われています。それは、自分には関係ないと思っていた国賓が、自分の家を訪ねるようなものです。主イエスを他人事として迎えるのか、それとも、自分に関係する方として迎えるのか。エルサレムの人々は、主イエスを迎える姿勢が整っていなかった、そのことが、主イエスがいちじくの木に実を探したけれども見当たらなかった、ということに現れているのです。 わたしたちはここから、到来なさる主イエスをしっかりお迎えするために備えることを学ぶことができます。しかし、恐れながらビクビクと主イエスの到来を待つことは正しい姿勢ではありません。そのことは、20節以下の主イエスのお言葉、「信仰を持ち、疑わないならば、…(大きなことが)できる」「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」という言葉から理解することができます。主イエスは、「あのいちじくにならないように気をつけろ」ではなく、「信仰を持ち、疑わない」で生きること、「信じて祈る」者となることを教え、励まそうとしておられます。主イエスの到来をよく備えて待ち望む信仰に生き、疑いから解放され、信じて祈る者となる、山が海に飛び込むような驚くべきみ業に生きたいと願います。洗礼式は、その驚くべき御業のしるしです。 【2025年 2月 23日 主日礼拝説教より】 説教「本当の神殿」 エレミヤ書 第7章 1節-11節 マタイによる福音書 第21章 12節-17節
主イエスは都エルサレムに、多くの人の歓呼の声の中で迎えられました。主イエスがお入りになると、他の何もなさらずまっすぐに神殿に直行なさり、その境内で物の売り買いをしていた人を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返しました。主イエスのイメージと合わないような激しい怒りのお姿ですが、そこで主イエスがひっくり返したのは、エルサレムの人々の信仰生活でした。 主イエスがここで見ていたのは、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」とあるように、主の神殿が、真実な祈りの家、礼拝の場となる、ということでした。「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」。実際は、自分の欲を満たす、人のものを奪い取る、礼拝をそのような場にしているではないか、と痛烈に批判しています。この「強盗の巣」という言葉は、エレミヤ書からの引用です。当時、神殿で礼拝をし、犠牲を献げ「救われた」と言っている人が、不道徳で異教の神々に従っていたのです。それでは神殿は強盗の巣窟ではないか、本当に礼拝がなされる祈りの家と言えるのか、というエレミヤの厳しい警告の言葉を用いながら、主イエスも同じ事を見ているのです。 主イエスのあの特別な怒りの激しいお姿は、わたしたちの礼拝を問う激しさです。わたしたちが、神を礼拝するものとして、どのように生きているのか、そのことが主イエスから厳しく問われていることを覚えなければなりません。 このことが14節以下と結び合っています。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」、このような人たちは、完全な形で礼拝を守れなかった人たちでした。それを主イエスがいやし、礼拝を守ることができるようにしてくださいました。15,16節でも、子どもたちが主イエスをほめたたえています。子どもも当時の社会では数に入れられていない者たちですが、礼拝をするものとされているのです。これらの礼拝できなかった人たちは、主イエスが来られたことによって、礼拝できるようになりました。わたしたちも、罪ゆえに神を真実に礼拝できない者でしたが、その十字架の死によって、礼拝できる者と変えられています。 【2025年 2月 16日 主日礼拝説教より】 説教「あなたが必要なのです」 イザヤ書 第62章 1節-9節 マタイによる福音書 第21章 1節-11節
わたしたちの教会で、洗礼を受けたい、との志が与えられた時、長老会で洗礼試問のための面接を受けなければなりません。そこで結局何が聞かれるかというと、「イエス・キリストというお方は、一体誰か。あなたはイエス・キリストをあなたの王として、支配者として、信じ受け入れるか」ということです。 主イエスがエルサレムの都に入城され、ここで最後の一週間を過ごされます。人々はエルサレムに、ろばに乗って入城して来られる主イエスを、熱狂的に迎えました。主イエスの通る道に上着を敷き、さらに木の枝を切って道に敷き、「ダビデの子にホサナ」(ここでは「万歳」の意味)と叫びました。自分の大切なものを、主イエスのみ前に献げて、主イエスをお迎えしたのです。 代々のキリスト教会は、主イエスをまことの王として、わたしの主、わたしの神として迎えることは、「主がお入り用なのです」との言葉に真実に答えることだ、と受け止めてきました。主イエスは、二人の弟子にろばを調達に行かせた時、「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであ…る。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」と言われました。これは「主が、必要としている」という言葉です。主イエスが必要としたのは大きな馬ではなく、ろばでした。わたしたちはこのろばです。驚きです。 わたしたちは誰にも必要とされていない、と思ってしまうことがあります。何かに失敗したり、年老いて当たり前のことができなかったりした時、特にそう思ってしまいます。そのわたしたちに主イエスは、「あなたが必要だ」といってくださいます。「わたしがエルサレムに、柔和な王、平和の王として入っていくのに、あなたが必要だ」と言われます。わたしたちは主イエスをお乗せするだけです。それは難しいことではありません。キリスト者としてのわたしたちは、周りの人からは「キリストとはああいうものか」と見られているのです。 わたしたちは、主イエスのご栄光が現れるように、「わたしの主人はイエスさま、あなたです。大切なものを献げますから、存分に用いてください」という祈りと共に、主イエスに必要とされることを喜んで歩みたいと思います。 【2025年 2月 9日 主日礼拝説教より】 説教「唯一のまことの王」 イザヤ書 第52章 1節-10節 マタイによる福音書 第21章 1節-11節
本日から読み始めるマタイによる福音書第21章以下は、主イエスがそのご生涯の最後の一週間、エルサレムに来られたことが語られています。日曜日に「エルサレム入城」し、木曜日に逮捕され、金曜日には十字架につけられて殺され、それから三日目の次の日曜日に、復活されます。 主イエスはなぜ、エルサレムに入られたのでしょう。エルサレムは、神殿が建てられ、王の都、と呼ばれていました。ダビデ王がここで民を治め、神はその子孫の中からまことの王、救い主が生まれることを約束されました。だから「ダビデの子」と呼ばれる救い主が現れたら、必ずエルサレムで王として即位される、と信じられていました。 そのエルサレムに主イエスが来られた時、人々は、約束された救い主として、幸福で平和に暮らせる神の民の王国がこの方によってできる、大いに期待したことでしょう。けれども主イエスご自身は、すでに三度にわたって、エルサレムで苦しみ、十字架で殺され、復活することを告げておられました。人々の期待と、大きな隔たりがここにありました。 その隔たりを理解しながら、主イエスはろばと子ろばに乗って、エルサレムに入られました。その意味するところは、主イエスはご自分がエルサレムに入られることを、特別な意味のある、大切なこととして人々に明らかにしつつも、普通の王が威厳や力を誇示するために用いる立派な馬ではなく、柔和で謙遜な王を示すために、ろばを用いられた、ということです。滑稽な場面ですが、これは、旧約の預言の言葉の成就でもありました。 主イエスが柔和で謙遜であられるとは、どういうことでしょうか。それは、疲れた者、重荷を負う者であるわたしたちをご自分のもとに招かれ、休ませ、背負ってくださるお方だ、ということです。わたしたちの存在を根底から担ってくださる力を内に秘めた柔和さと、神の独り子であられながら、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、十字架で死んで、低いところに下ってくださった謙遜さを持っておられる、ということです。この主イエスこそ、わたしたちのまことの王として、たとえ滑稽に見えても、迎え入れさせていただきたいと思います。 【2025年 2月 2日 主日礼拝説教より】 説教「主よ、憐れみたまえ」 詩編 第51篇 1節-14節 マタイによる福音書 第20章 29節-34節
主イエスと弟子たちは、エルサレムに上る旅路の最後の宿場であるエリコの町を出ると、大勢の群衆が主イエスについて行きました。この人こそ救い主ではないか、あるいは、この人について行けば何かいいことがあるかもしれない、など、いろいろな思いの人がいたことでしょう。 その時、二人の盲人が、おそらく物乞いをしていたと思うが、道端で座っていました。そして、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。群衆は叱りつけて黙らせようとします。自分たちがついて行って話を聞くのに邪魔だ、と思ったかもしれません。けれども盲人たちは必死の大声で叫び続けました。 主イエスだけが、この叫びを受け止めました。立ち止まり、二人を呼び、願い通りその目を開き、見えるようにしてくださいました。主イエスは人々の苦しみに敏感でした。けれどもこの物語のポイントは、主イエスの敏感さというよりも、彼ら二人が「主よ、憐れんでください」と叫び続けたことにあります。叫びがなければ、主イエスは立ち止まらず、いやしはなかったからです。 主イエスは立ち止まり、叫ぶ彼らにあえて「何をしてほしいのか」と問われました。「主よ、目を開けていただきたいのです」と彼らは答えました。当然のことです。そして主イエスがいやしの奇跡を起こされました。 その喜びの中で、彼らはどうしたでしょう。ここには一言、「イエスに従った」とあります。エルサレムへと歩まれる主イエスについていきました。目が見えるようになることを願い、それが叶えられた時、彼らは、目を開け、暗闇から解放して光を与えてくださった主イエスと共にいたい、従っていきたいという思いが彼らに湧き上がってきました。願っていることが変わりました。彼らは、憐れみの主イエスを求めていたことに気づいたのです。 わたしたちも、さまざまな問題、苦しみの解決を願い求めます。その時本当の問題は、憐れみに満ちた主イエスを見失っていることではないでしょうか。わたしたちにとって、本当に必要なのは、恵みと憐れみに満ちた主イエスに出会い、主イエスに従うもの、共に歩むものとされることです。 【2025年 1月 26日 主日礼拝説教より】 説教「仕え、献げに来た主イエス」 詩編 第86篇 1節-15節 マタイによる福音書 第20章 20節-28節
先週の日曜日の夕方、昨年の教会総会で、長老として選ばれたばかりの現役の長老が、逝去されました。この方は1歳で小児洗礼を受け、その70年後の71歳の時に、この教会で信仰告白をした方です。葬儀の礼拝は、十字架にかかり復活された主イエスが、すべてを支配なさる王座に着かれ、永遠の命をもってこの方を受け入れてくださる希望を見ることでした。 今日の聖書にも、主イエスが王座に着かれることを希望を持ってみていた人が出てきます。ゼベダイの二人の息子、ヤコブとヨハネ、そしてその母親です。主イエスが復活し天に昇り、もう一度世界にやって来られたときに、世界が新しくなる、その時に、二人の息子が主イエスのそばで栄光にあずかる事ができることを、この母親は主イエスに願い出たのです。 しかし、このことを聞いた他の弟子たちは腹を立てました。他の弟子たちを出し抜いて、主イエスの右と左に座ろうとする、そんな抜け駆けは許せない、と思いました。ここには、主イエスの弟子たちの間にも、誰が一番偉いか、順位闘いがあったことが示されています。自分こそ主イエスの右に座るべきなのに、なんであいつらが、と思ったでしょう。そのように腹を立てている弟子たちに、主イエスはこう言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」これは、人間関係における常識といったものを教えているのではありません。主イエスの思いは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」という言葉に現れています。つまり、わたしがしているのと同じように、あなたがたも身代金として自分を献げなさい、ということです。神の独り子であられる主イエスは、罪と死の力に捉えられているわたしたち人間を解き放つために、身代金として、ご自身の命を差し出して、わたしたちを救ってくださいました。 主イエスが自分の命を身代わりとして献げて救おうとしている者同士の間で、どうして、誰が偉いとか偉くないとか、問題にするのか、ということです。その愛を受けることに比べれば、他のことはどうでもよいことです。 【2025年 1月 19日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスの杯を飲む者」 エレミヤ書 第15章 15節-18節 マタイによる福音書 第20章 17節-28節
「イエスはエルサレムに上っていく途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた」。主イエスは、十二人の弟子たちに、3回目の「受難予告」をされました。ここで明確に「十字架につけ」られて殺されることを語ります。 この「受難予告」はより正確には、「受難と復活の予告」というべきです。「三日目に復活する」ことまで語られているからです。弟子たちの多くが「受難」、すなわち主イエスの死に反応していますが、ここで復活の勝利をおぼろげながら聞き取った人がいました。それはゼベダイの息子ヤコブとヨハネ、そしてその母親です。彼らは主イエスに、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願いました。「王座にお着きになる」、これが彼らが「復活する」という言葉に聞き取った意味でした。主イエスは十字架で死に、しかしその死の力に打ち勝って復活し、王座に着く、ということを彼らは考えました。その時に誰よりも主イエスのみそば近くでそのご支配の栄光にあずかるものになることを、願い求めたのです。それは基本的に間違っていない見方です。 主イエスは、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と言われました。ヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。主イエスのお受けになる苦しみを、自分たちも受ける、と言ったのです。 けれどもわたしたちは、彼らがこの後どうしたかを知っています。主イエスが逮捕されたとき、逃げ去ってしまいました。苦しみを受けるどころか、自分は死にたくない、と主イエスを見捨てました。主イエスは、そのことをご承知の上で、十字架の道を歩まれました。しかし主イエスはさらに復活され、もう一度彼らをみもとに集め、聖霊が彼らに降って力を与え、彼らは使徒として、迫害も恐れず、主イエスによる神の救いの恵みを宣べ伝える者とされました。そのような仕方で、確かに彼らは杯を飲む事になったのです。 主イエスの飲まれた杯は、神に見捨てられた嘆き悲しみ、絶望の中での死の杯でした。しかし、主イエスがそれを飲み干してくださり、復活してくださったおかげで、わたしたちは救いにあずかることができるようになりました。 【2025年 1月 12日 主日礼拝説教より】 説教「気前のよい神」 イザヤ書 第55章 1節-5節 マタイによる福音書 第20章 1節-16節
今朝、わたしたちに与えられたのは、主イエスがお語りになられた、とても印象深いたとえ話です。 ぶどう園の主人が、自分のぶどう園で働く労働者を雇うために夜明けに出かけました。主人は一日1デナリオンの賃金を約束して、夜明けと共に労働者をぶどう園に送りました。主人は再び9時頃に広場に行き、「ふさわしい賃金を払う」と約束してぶどう園へ送りました。主人はさらに、12時、午後3時、そして5時にも同じように仕事にあぶれた人たちを雇い、自分のぶどう園に送りました。ぶどう園の仕事は夕方6時ころの日没とともに終わります。ぶどう園の主人は、最後に来た人から順に賃金を支払います。最初に、5時に雇われ、1時間くらいしか働いていない人に支払われた賃金は、丸々1日分の賃金である1デナリオンでした。次に3時に雇われた人も1デナリオン、12時と、9時に雇われた人も皆、1デナリオンずつ支払われました。そして最後に夜明けとともに働き始めた人にも、支払われたのは1デナリオンでした。この最初からいた彼らは不公平ではないか、と不平を漏らした、といいます。 もしわたしたちがこの場にいて、同じ立場なら、きっと同じ不平を漏らすだろう。けれどもわたしたちは、この話が天の国のたとえであることを忘れてはなりません。それならば、ぶどう園の主人とは父なる神のことであり、ぶどう園とは天の国を指し、そこで働く労働者とは、天の国のために働く人、となるでしょう。この1デナリオンの賃金とは、神が与えてくださる救いです。どうして1日中働いた人も、1時間しか働かなかった人も、同じ1デナリオンだったのでしょう。それは、神が与えてくださる救いは、一つしかないからです。 けれども最初から働いた人の心の動きはよくわかります。彼らは妬んでしまいました。なぜ1日中働いた自分と、1時間しか働かないこの人が、同じ賃金なのか。ポイントは、ぶどう園の主人である神の「同じ賃金を払ってやりたいのだ」という救いの決意、憐れみの心です。そもそもわたしたちは皆、ただ神の憐れみによって5時から見出され、雇われた者に変わりはありません。何歳であっても、この救いへの招きに応える者たちが起こされますように。 【2025年 1月 5日 主日礼拝説教より】 説教「神は何でもできる」 創世記 第18章 10節-15節 マタイによる福音書 第19章 16節-30節
一人の、大変な金持ちであった若者が、主イエスの前に立ち、永遠の命について語り合いました。この出来事の数週間後に、主イエスは十字架で死に、復活されます。彼は光栄にも、その生涯の終わり近くに会うことができました。けれどもこの物語の結末は、22「悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」という悲しいものでした。 みなさんも、この物語を読んでいろいろな感想を持つでしょう。主イエスはこの財産家の若者に対して、あなたの持ち物を全部捨てなさい、天に富を積むことになる、それからわたしに従いなさい」と言われて、ひるまない人がいるでしょうか。わたしたちにはこの若者の悲しみがわかる所があります。 けれどもその悲しみは、一方で永遠の命と、他方で自分の財産を天秤にかけ、「永遠の命は大事だろうけど、財産も大事だよな」というようなところが、この悲しみの本質ではないと思います。これだけは大事、としがみついている財産が、本当にわたしの命を支えられない、その根源的な悲しみ、死の恐れと結びつく悲しみです。全世界を手に入れても、命の代わりにはなりません。 すでに主イエスは、この金持ちの若者に17節「善い方はおひとりである」と語られました。ただ一人の善い方の前に立ちなさい、と言われました。そのただひとりの善い方、神を見えなくさせるものが、捨てるべき財産でした。この金持ちは財産に妨げられて、悲しみながら立ち去りました。その悲しみは深かったと思います。けれども、その立ち去る若者を見つめた主イエスの悲しみはもっと深かったことでしょう。 この主イエスの悲しみは、主イエスが十字架につけられる前の晩の様子としても描かれています。ゲツセマネで徹夜の祈りをしながら、悲しみのあまり悶え始め「父よ、できることなら、この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしの願いではなく、御心のままになさってください」と善い方、神にしがみついたのです。「神は何でもできる」、あなたのためならどんなことでもする、とおっしゃって、神の独り子主イエスが、今なお地上の財産にしがみついているわたしたちのために、苦しみを、悲しみを引き受けてくださいました。
瀬谷 寛 牧師
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