【2025年 11月 30日 主日礼拝説教より】
説教「主イエスはメシアなのか」 マタイによる福音書 第26章 57節-68節
待降節が始まり、毎週一本ずつろうそくの光が増え、今年は12月21日に主日のクリスマス礼拝を献げます。今年は一人の洗礼志願者が与えられ、今度の12月7日の定期長老会で面接・試問が行われます。長老会で、洗礼の決議がなされれば、12月21日のクリスマス礼拝で、洗礼式が行われることになります。 その洗礼式が行われるために大切な、長老会における試問ですが、その試問の核心は何でしょうか。それは、「イエスとは誰か」という問いに答えることです。マタイによる福音書第16章でペトロが12弟子を代表するように告白した「あなたこそ神の子、メシアです」が答えの指針となります。ここで洗礼志願者に対して本当に問うのは、牧師でも長老でもなく、主イエスご自身であり、「あなたは、わたしを何者だと言うのか」という主の問いの前に立つのです。ですから長老会での試問は緊張するところですが、同時に喜びでもあります。 このことと同じ核心がマタイによる福音書第26章の裁判記事にも貫かれています。大祭司の「お前は神の子、メシアなのか」という問いは、歴史を通じて全人類が発してきた決定的な問いを代表する問いです。しかし当時の人々は救いを切実に待ちながら、主イエスの救いが自分たちの期待しているものとは食い違っていました。そのために失望し、絶望して神を裁き、侮辱し、神の独り子であられたはずの主イエスを十字架へと追いやったのでした。まさにここに、人間の罪と絶望が極まったのですが、主イエスは沈黙を守られました。 信仰は、わたしたちが主イエスに問い続けるところではなく、主イエスから「あなたは、私を何者だと言うのか」と問われていることに気づき、自分の救いに関わる答えを自ら語るときに生まれます。主イエスは世界の裁き手であり、わたしたちが神を裁くのではなく、主イエスに裁かれることを受け入れるのです。 今年の6月と7月にもわたしたちの教会では受洗者が与えられました。それぞれの試問で、これらの方々が、唯一無二の歩みが結局主イエスとの出会いへと導かれてきたことを聴きました。来週の試問会でも、主の問いに向き合い、「あなたこそ救い主」と応答します。そこに、絶望に終わらない希望と幸いがあります。 【2025年 11月 23日 主日礼拝説教より】 説教「主イエス、逮捕される」 イザヤ書 第53章 8節 マタイによる福音書 第26章 57節-68節
今日のマタイによる福音書には、十字架直前の決定的場面が描かれています。最後の晩餐の後、ゲツセマネで祈られた主イエスはユダの裏切りによってついに逮捕されました。そしてそのまま、大祭司カイアファの屋敷で最高法院の裁きを受けることとなりました。これは明らかに、事前に準備された不当な裁判でした。なぜなら、罪状もなく、夜間に開かれ、偽証を求めるなど律法に反するものであったからです。裁判の焦点は「あなた(主イエス)は神の子、メシアか」という問いであり、人間が神を裁くという倒錯がここに示されています。 大祭司や議員たちは主イエスをただの人間と見なし、神殿中心の秩序を脅かす存在として排除しようとしました。主イエスの奇跡や人々の期待が反乱を招き、ローマ帝国の厳しい弾圧を恐れたためです。彼らは「一人が死ぬ方が国民全体のために好都合」と考え、体制維持のために主イエスを犠牲にしました。証人の証言は一致せず、最後に「神殿を三日で建て直す」との言葉が持ち出されましたが、これは主イエスの体の復活を指すものであり、神殿破壊の意図ではありませんでした。しかし彼らにはそれが理解できず、主イエスは秩序を壊す者だ、と見なしていました。実際、神殿は後に崩壊し、本当に信頼すべきは神ご自身であることが示されました。 この裁判の本質は人間の固定観念と神の御心の乖離にありました。彼らは聖書を知りながら主イエスを受け入れられず、唾を吐き、殴り、嘲笑しました。この姿はわたしたちとも決して無縁ではありません。わたしたちは、神の御心より自分の願いを優先する危険を犯す者だからです。 だからこそ常に聖書に新しく聴き、神の声に出会うことが大切です。わたしたちは本来神に裁かれる罪人であり、十字架の前に立つ時、自らが赦された存在であることを知ります。それゆえに他者を裁く資格はなく、常に十字架を見上げ続けることが求められます。信仰生活が長くなるほど聖書の言葉を固定化しがちですが、神は生きて働かれる方であり、私たちのイメージを破り新しく語りかけてくださいます。その御声に耳を傾け、十字架と復活に示された神の愛に生きることこそ、わたしたちの歩みの中心とすべきです。 【2025年 11月 16日 主日礼拝説教より】 説教「キリストの復活がもたらしたもの」 詩編 第44篇 2節-17節 ローマの信徒への手紙 第8章 31節-39節
キリスト教の中心的なメッセージは「キリストは死者の中から復活された」という復活の出来事です。この復活によって歴史は新しい段階に入り、死が終わりではなくなり、新しい命の可能性がもたらされました。使徒パウロは一コリント15:20でキリストの復活を「眠りに就いた人たちの初穂」と呼び、復活が歴史を根底から変える出来事であることを強調しています。信じる者にとってキリストの復活は現実のものであり、死を超えた新たな命への希望です。 一方、現実の中では多くの人がこの変化を実感できず、信仰者でさえ罪や死の現実に直面し、不安を抱えることもあります。パウロは苦難や危機の現実を認めつつも、詩編第44篇を引用して神が人間の苦しみを理解し、キリストの死と復活によって死の支配を打ち破ったことを伝えます。さらにパウロは「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができるか」と問うことで、死や罪を超える神の愛の確かさを説きます。 この神の愛は弟子たちの変化にも明確に表れています。復活前には恐れて逃げた弟子たちが、復活後には聖霊の力を受け、大胆に世界へと出て行き、救いの証人となりました。こうして信者は罪と死の力ではなく、神の愛が支配する新しい時代に生きていることが示されています。 教会と信者には復活のしるしが刻まれており、死と罪に滅びることのない新しい命の可能性が宿っています。まだ完全な勝利には至らず、将来の救いを待ちながらも、今ここで新しい命の賜物を受けて歩むことができます。 主イエスの十字架は人間の罪の犠牲としての死を示し、自己中心の法則が支配する現実を映し出しますが、復活は他者のために命を献げる新たな生き方への転換を可能にしました。信者は洗礼や聖餐を通してキリストと結ばれ、その新しい可能性の中を歩みます。困難な現実があっても、主イエスの復活と聖霊の力によって、私たちは他者のために生きる新しい歩みへと進むことが許されています。パウロの「死も命も、天使も支配者も…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない」という言葉を胸に、私たちは希望と愛に支えられ歩み続けていくのです。 【2025年 11月 9日 主日礼拝説教より】 説教「声を聞き分ける神」 エレミヤ書 第23章 1節-4節 ヨハネによる福音書 第10章 1節-18節
この言葉は、キリスト教徒であればだれでも知っている言葉と言えるくらい、聖書の中でも人々の心に触れ、人々を励ましてきました。羊飼いは、主イエスの時代、今でいうサラリーマンのような仕事ではありませんでした。羊飼いというのは町の中に入れない、一般の人々からは軽蔑されていた人々でした。 主イエスは羊飼いという職業を、周りの人々のように軽蔑していませんでした。むしろ、彼らが羊に注ぐ愛をご覧になって、それを基にして、ご自分がどのような方であるかを、皆にわかりやすいように説明しようとされたのでした。 主イエスはご自分を二つのものにたとえておられます。私たちがよく知っている「羊飼い」そして「門」です。当時の羊の囲いは、羊飼い自身が扉になっていたそうです。すべての羊が入り終わると、羊飼い自身が扉の役割を果たしました。羊はまぎれもなく私たち人間のことです。この門として入口を守る主イエスという羊飼いがいることによって、安心して、眠ることができます。主イエスは言います。「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである」。命を得、主イエスと共に憩うこと、安心して歩むことが赦されるのです。 主イエスはご自分にたとえている良い羊飼いの特徴を二つ挙げておられます。一つは、羊のために命を捨てること、もう一つは、自分の羊を、知り尽くしている、ということです。羊飼いは細やかに一匹一匹の羊の状態を把握しています。 私たちは本来、主イエスの羊の囲いには入ることができなかった者たちです。私たちは主イエスを知りませんでしたが、主イエスはご存じでした。主イエスの方から私たちを導いてくださいました。狼に、強盗に、罪に、死に対して、震え上がりながら不安の中で生きるしかなかった私たちを主イエスは心にかけ、見つけ、導き、安心できる主イエスの羊の囲い、教会に伴ってくださったのです。 羊飼い主イエスは、傷ついた羊飼いでした。痛んだ救い主でした。おそらく私たち人間によって毎日痛めつけられ、泣いておられるかもしれないのです。しかし主イエスは私たちをあきらめることはなさいません。私たちが永遠の命、キリストとともに生きる命を、有り余るほど、豊かにくださるために、主イエス・キリストは今日も痛みながらも私たちと真摯に向き合っていてくださるのです。 【2025年 11月 2日 主日礼拝説教より】 説教「剣と棒とを捨てよ」 創世記 第9章 1節-7節 マタイによる福音書 第26章 47節-56節
主イエスはどうして十字架につけられたのか。わたしたちは聖書を読む時、特に十字架に向かう場面を読む時に、いつも考えていなければならないことだと思います。それは、わたしの、わたしたちの救いのため、と言われます。では、救われる、というのはどういうことか、本当の救いとは、何がどうなることなのか、それがわからないとこの問いの答えを理解したことにはならないでしょう。 主イエスを捕らえようとしてやってきた大勢の群衆は、武器を持っていました。どうして武装する必要があったのでしょう。それを迎え撃つペトロと思しき弟子も、剣を抜いて、打ちかかって、相手の耳を切り落としたのです。かつてペトロは「ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言いました。ペトロは決して意気地なしではなかったのです。けれども問題は、その振り回した剣が本当にペトロを救うのか、ということです。そこでペトロが100人の武装集団をやっつけたら、ペトロは救われるのでしょうか?ペトロは、どこから救い出されなければならないのでしょうか。 そこで主イエスは言われました。「剣を鞘(さや)に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。その剣はあなたを救う力を持たない、あなたを救うのは剣ではない、あなたを救うのはこのわたしだ、主イエスはそう言われるのです。この時、大勢の群衆は剣や棒を持っています。迎え撃つ弟子たちも剣を握り締めています。けれども、武器をもっていない方がただお一人おられます。主イエスです。わたしたちが剣を持つのは、怖いからです。死にたくない、自分で命を救いたい、そこで握りしめているのが剣です。いろいろな剣を、わたしたちは形を変えて手にしたがっているのではないでしょうか。そこでただお一人、剣を持たない神の子が、立っておられます。 剣を振り回すわたしたちです。なぜそうするか、結局は愛に挫折しているからです。剣は決して勝利のしるしではなく、愛の挫折、愛に敗北したことのしるしです。そのわたしたちを救ってくださるのは、一度も剣を持たず、わたしたちに代わって十字架につけられた主イエス・キリストです。この御子主イエスを、父なる神が死人の中から引き上げてくださり、神の愛の戦いは勝利に終わります。 【2025年 10月 26日 主日礼拝説教より】 説教「御心のままに」 サムエル記下 第7章 18節-24節 マタイによる福音書 第26章 36節-46節
主イエスがいよいよ十字架におかかりになられる、その流れは、弟子たちとの最後の晩餐の場面から始まります。食事が終わり、オリーブ山に行く途中、ゲツセマネという場所に来ました。ここは主イエスがいつも祈っていた所でした。そこで、弟子たちとの最後の祈りの時を迎えています。 主イエスはこの時、苦しみ悩んでいます。以前の新共同訳では「悲しみもだえられた」とあります。十字架の死の前の最後の祈りに際してのこの苦しみは、何よりも、自分が父なる神によって裁かれ、殺され、呪われ、捨てられるための苦しみでした。父なる神と一つであった神の独り子主イエスにとっては、これは実に計り知れない苦しみであり、悲しみでした。この苦しみは、本当の死の持つ苦しみでした。わたしたちも死にます。けれどもその死はもはや、神に裁かれ、捨てられる死ではありません。その死は主イエスが担ってくださったからです。 主イエスはこの時、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」との祈りに続けて、「しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」と祈られました。この祈りは、すでに主イエスが「主の祈り」の中でも教えておられました。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。 わたしたちは、「自分の望むように」なることを神に願い祈ります。主イエスに出会うまでは、そう祈ることしか知りませんでした。そう祈ってはいけないわけではありません。主イエスもそう祈ったのです。けれども主イエスの祈りはそれで終わりではありませんでした。主イエスの祈りは、自分の望み通りになることが一番良いことではなく、神の御心、神の望みがなることが一番良いことだ、ということを知る祈りです。神の愛、神の御心を本当に信頼していなければ、この祈りは祈れません。主イエスは確かに、父なる神を信頼していました。 主イエスはこの時弟子たちに、「私と共に目を覚ましていなさい」と言われましたが、弟子たちは何度も眠ってしまいました。そのことは、弟子たちにとっては聖書に書き残されたくないことに違いありません。けれども主イエスの「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」この言葉を書き残すために、のちの教会がこの言葉で励まされるために、記されたことでした。 【2025年 10月 19日 主日礼拝説教より】 説教「離反を予告されても」 ゼカリヤ書 第13章 7節-9節 マタイによる福音書 第26章 31節-35節
先ほど礼拝の中で交読した詩編第100篇は、かつて仕えていた教会の教会学校で必ず読まれていた言葉です。「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」、礼拝に集う子どもたちは、羊飼いである神、主イエスに養われる羊だ、ということを、毎度、思い起こさせられていました。 もしもこの羊飼いとしての神、主イエスがおられなければ、羊にとって大変な危機であり試練です。しかしまさに今日の箇所で示されているのは、羊飼いが打たれて、羊の群れが散らされる、ということでした。それは具体的には、たとえばペトロについては「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」というところに現れています。羊飼いである主イエスのもとにまとまる羊としての弟子ではなく、「羊の群れは散ってしまう」ということが本当に弟子たちに起こる、ということでした。 一番弟子と目されていたペトロが三度主イエスを「知らない」と言ったことは、主イエスの弟子であることをなかなか証しできないわたしたち自身の姿を見つめるための出来事であるかもしれません。けれどもある人は、「この弟子たちが散らされる出来事は、彼らが主イエスの羊であることを示す出来事であり、いかに彼らが羊飼いに依存しているかを示す出来事である、けれどもそれを知らないのは弟子たち自身だった」と言います。依存していることを知らないペトロだから、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」、そう言ったのです。ペトロはこのとき、心の底から、「先生のことを知らないなどとは決して言わない」と思っていたはずです。けれどもその時点でペトロは、自分が誰の羊であるか、自分がどんなにその羊飼いに依存しているか、忘れていました。その自分が依存しているはずの羊飼いを見失っていたからこそ、「自分は大丈夫、自分はつまずかない」と言ってしまったのです。 しかし実際、主イエスは「見るべき面影」「輝かしい風格」のない、わたしたちの病と痛みを追われた羊飼いでした。そしてこの羊飼いにつまずいたペトロが、主イエスを三度「知らない」と言ってしまったのです。この主イエスの弱さにつまずいた弟子、しかしその弱さに、神の確かなご意志が込められています。 【2025年 10月 12日 主日礼拝説教より】 説教「命の勝利」 出エジプト記 第24章 6節-8節 マタイによる福音書 第26章 26節-35節
本日の礼拝は、年に一度の逝去者記念主日聖餐礼拝として献げています。昨年度から随分沢山の教会の仲間たちを天に送りました。今日の礼拝のために、これを目指して来られた方もあります。改めて、この礼拝の大切さを感じています。 そこで、今日はご一緒に、マタイによる福音書26:26以下の、主イエスの弟子たちとの最後の晩餐の記事を読みました。年に一度のこの記念礼拝では、必ず聖餐を祝います。なぜでしょう。最後の晩餐、もう翌日には主イエスが十字架で死ぬことを予感させる出来事です。愛するものを送った悲しみを増し加えるような場面とも言えるかもしれません。けれどもむしろ、このときにこそ、この場面を思い巡らせたいと思いました。キリスト教会が伝道を始めてから約300年の間、迫害の中で死んでいった殉教者の遺体を収めた棺の上に聖餐を置いて、皆でそれを囲んで礼拝をしました。その礼拝は暗闇ではなく、光を意味する食卓でした。主イエスと弟子たちとの最後の食事もまた、暗闇ではなく、光の食卓だったのではないでしょうか。わたしたちも、その光を見たいのです。 この記事に、わたしたちが特に心に刻むべき2つの主イエスの言葉があります。29「言っておくが、私の父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」。そして32「しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。闇の中で、「命の約束」について語っておられます。この最後の晩餐は、実は最後の晩餐ではありません。主イエスがわたしたちと共に、「私の父の国」でこのぶどうの実からその汁を飲んでくださる日が再び来る、と約束してくださいました。 わたしたちは、聖餐において主イエスの罪の赦しの血に与ります。「多くの人のために流す私の契約の血」がこれだ、これは罪の赦しを実現するものである、と主イエスはおっしゃいました。その時に、わたしたちにとって天の父の国が見えてきます。どんなに暗い顔をしていても、父なる神がすでに天におられて、地上の一人ひとりをご支配しておられる、と知ります。死や、憎しみや、裏切りや、絶望が最後の勝利者ではない、ということを知ります。主イエスは甦られました。先回りして戦っていてくださいます。命の主が必ず勝つのです! 【2025年 10月 5日 主日礼拝説教より】 説教「裏切りに勝つ愛」 ホセア書 第11章 8節-11節 マタイによる福音書 第26章 14節-25節
今日のところには、主イエスが十字架につけられるために捕えられたのは、主イエスの弟子のユダが銀貨30枚で裏切って手引きしたからであることが描かれてます。これは奴隷一人の値にもならない金で売ったことを示しています。 ユダの物語を読むのは、実に重いことです。確かに十二人の弟子一人による裏切りであることを、福音書は繰り返して記しています。西洋の人たちが十三という数字を嫌うのは、主イエスの十字架の死の前日に催された最後の晩餐に集ったのが、主イエスと十二人の弟子、すなわち十三人だったことから来ています。この十三は、十二人プラス一人の裏切りを加えた数だ、ということを忘れることはできません。裏切りの死の匂いが漂っているのです。ただ、この十三はいつも、教会に刻まれています。わたしたちの教会が聖餐を祝い、聖餐のテーブルがある限り、この十三が刻まれています。わたしたちはそのテーブルを囲んでいます。 主イエスは、弟子たちと囲む過越の喜びの祝いの食事の席で躊躇なく、「あなたがたの一人が私を裏切ろうとしている」と言われました。しかしその時にだれも、誰がこの主イエスを敵に渡すのか、ユダを指さして「裏切るのはお前か」と犯人探しをしてはいません。皆、裏切りの心が自分の中にあることを気付かされて、「まさかわたしのことでは」と問い、やがて弟子たちは一人、また一人と裏切っていきます。この十三人は、十一人の弟子と、一人の裏切り者と、一人の主イエス、ではありません。別の意味で十二プラス一でした。十二人のユダと、一人の主イエスだったのです。 弟子のペトロがそうでした。彼は、主イエスから、「私につまずく」と言われた時、他の誰がつまずいても自分だけはあなたについていく、と豪語したのもつかの間、真っ先に「わたしはこの人を知らない」と言ってのけました。この先生について行ったら殺されるだけだ、と理由をつけて捨てたのです。わたしたちもいろいろな理由をつけて、主イエスを捨てる裏切り者です。 けれども主イエスは、「あなたがたは私につまずく。しかし復活の後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。十字架で死に、復活した主イエスが、裏切る弟子たち、わたしたちを赦し、わたしたちを迎えてもう一度立たせてくださいます。 【2025年 9月 28日 主日礼拝説教より】 説教「葬りの備え」 申命記 第6章 4節-5節 マタイによる福音書 第26章 1節-13節
マタイによる福音書第26章以下の主イエスの受難物語を読み始めました。その最初のところに、二日後は過越祭である、という言葉がありました。わたしたちの感覚では明後日、となりそうですが、ここでは今日も含めて二日、つまり明日のことです。明日には、主イエスが捕らえられ、裁かれ、明後日には十字架につけられ、殺される、と主イエスは予告しているのです。その最後の時、主イエスはベタニアというエルサレム近郊の小さな村の、汚れに規定された病のシモンの家で過ごされました。 静かな、緊張感のみなぎる食事の席で、一人の女性が、高価な香油を主イエスの頭に注ぎかけました。それは主イエスの葬りの準備でした。そして主イエスは、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と最大級の賛辞でこの女性のしたことを称賛されました。この出来事で、主イエスはどんなに喜んでおられたことでしょう。 これと同時進行で静かに進められていたのが、主イエスを殺す計画でした。祭司長たちや民の長老たちが、主イエスを騙して捕らえ、殺そうと相談しますが、祭の間は、大群衆が騒ぎ出すといけないからやめておこう、となりました。 なぜ主イエスは十字架につけられたのでしょう。とても難しい問いです。しかしよく考えたら聖書にちゃんと書いてあります。当時の人のほとんどが、主イエスの死を願ったからです。主イエスは、その人々の悪意を敏感に感じ取られながら、しかし神の御心に懸命に沿おうとするために、一人の生身の人間として、本当に苦しまれたのです。 わたしたちも、この主イエスの苦しみがわかるところがあります。憎まれたり、誤解されたりした時に、表向きは装えても、内心は穏やかではありません。そして、あの人さえいなければいいのに、と殺意さえ抱く、一度もうそういう経験をしなかった人はいないでしょう。伝道というのは、そういう人たちに、神の敵であるわたしたちが、神と和解しなければならないことを伝えることです。そのためにどうしても、十字架が必要でした。この女のした香油の献げ物は、まさにその十字架の備えとなるものです。主イエスはそれを大変喜ばれました。 【2025年 9月 21日 主日礼拝説教より】 説教「愛の香り」 出エジプト記 第12章 1節-13節 マタイによる福音書 第26章 1節-13節
本日からいよいよマタイによる福音書第26章を読み始めます。いよいよ、というのは、ちょうどこの第26章から、主イエスの受難物語、十字架の死の話になるからです。これから少し丁寧に取り上げていければ、と思います。 「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」と語り始められています。「語り終える」とは、「完成する」という意味の言葉です。それは、地上で主イエスが語らねばならなかったことを全部お語りになって、後は十字架につけられるだけが残った、と主イエスが考えておられたに違いありません。 時は、過越祭を二日後に控えたところです。過越祭とは、イスラエルの人々がエジプトから神に守られて導き出されたときの出来事を思い起こすための祭で、ある説では200万人ものユダヤ人が集まると言われているそうです。この祭は、その直後の除酵祭というものを含めてほぼ8日間かけて行われます。当時、主イエスに敵意を抱いていたユダヤ人指導者は「祭りの間」、すなわち約1週間は混乱が起こると責任が問われるかもしれないので、主イエスを殺すことは控えよう、と考えました。その計画があることをご存知の上で主イエスは、二日後に「わたしは引き渡される」と言われました。 そのきっかけになったのは、民の指導者たちではなく、ご自分の弟子、ユダの裏切りでした。その引き金になったのが、一人の女性が主イエスの自分の持っている香油を注ぎ出してしまうという出来事でした。主イエスが、規程の病(かつては「重い皮膚病」と訳されていました)にかかったシモンの家で食事をしておられたときに、高価な油を主イエスに注いだのです。それを見た弟子たちは憤慨し、「何のためにこんな無駄遣いをするのか」と批判をした、といいます。主イエスは、この女のしたことを重んじられました。この女は、この後の主イエスの死の意味をどれだけ理解していたかはわかりませんが、主イエスの存在が、「ここに愛がある」ことそのものであることを知ったのだと思います。このとき、どんなに異様な香りだったでしょう。わたしたちのために死んでくださる神の愛があることを示す、他では味わえない異様な香りを放っていたと思います。わたしたちの教会も、主イエスのなさった愛の異様な香りを放つ群れとなりたいです。 【2025年 9月 14日 主日礼拝説教より】 説教「最も小さな者の一人に」 エゼキエル書 第33章 10節-16節 マタイによる福音書 第25章 31節-46節
主イエスが地上のご生涯を終わろうとする、その最後に、弟子たちに心を込めてお伝えになったことは、「これで終わりではない」ということでした。これから、自分は十字架につけられて殺され、復活して天に昇る、けれどもそれで終わりではなく、もう一度、あなたがたのところに帰ってくる、この主イエスの再臨の約束を、主イエスはマタイ第24,25章でひたすらお語りになっておられます。 31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。いつ、主イエスがもう一度こられるかはわかりませんが、わたしたちの、死で中断される地上の生活のその向こう側で、必ずしなければならないのが、主イエスの前に立つことです。そこで主イエスは、「あのときはありがとう」とわたしたちに声をかけてくださる、というのです。「あなたはわたしが飢えていた時、喉が乾いていた時、食べ物飲み物をくれたね」とおっしゃるのです。世界の歴史が終わり、その総括が主イエスによってなされる時、そこで問われるのは、最も小さい者に何をしたのか、しなかったのか、それはすなわち、主イエスのために何をしたのか、しなかったのか、ということである、というのです。 ここで主イエスが問うておられることは、愛、と言えます。けれどもそれは、のどが渇いている人にコップ一杯の水を飲ませるような小さなことです。それが終わりの日に問われる、とすれば、その小さな業を、主イエスがどれほど重く受け止めてくださっておられるか、ということになります。 40「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」という主イエスが語る「最も小さな者」とは誰のことでしょう。わたしたちが愛を注ぐべき貧しい人が、主イエスと同一視される、ということでしょうか。そうではなく、「最も小さい者」は私のことです。主イエスがこの私を指さしながら、「この人の痛みは私の痛み、この人の悲しみは私の悲しみ」とこのわたしをご自身と同一視してくださいます。そのために主イエスは十字架にかけられたのです。十字架の主イエス、そのみ苦しみは、ただわたしたちに対する愛の故です。 【2025年 9月 7日 主日礼拝説教より】 説教「わたしたちはこのように生きる」 イザヤ書 第40章 27節-31節 マタイによる福音書 第25章 14節-30節
主イエスが地上のご生涯の殆ど最後に語られた一つのたとえ話を聞きました。ある主人が、かなりの年月、旅に出ました。その留守の間、僕たちに主人は、自分の仕事をしっかりやりなさい、という思いを込めて、自分の全財産を預けました。一人ひとりの僕たちに与えられた財産を「タラントン」と読んでいます。大変大きなお金の単位で、何億とか、何十億という数字です。彼らには見たこともないお金を預けられ、震える手で受け取ったかもしれません。 この僕たちは主イエスの弟子たちのことであり、同時に、今この教会に生きるわたしたち一人ひとりのこと、と言えます。そして主人は主イエスのこと、主イエスがもう一度地上を訪れてくださる、というのです。 主人である肉における主イエスは、確かに今は天に昇られて肉の目で見ることはできません。その意味で今主人は留守だ、と言えますが、神の全財産はちゃんと地上にあって、それがわたしたち一人ひとりに委ねられています。わたしたちの手に委ねられたタラントンこそが、神が生きておられることを示す確かな証拠、と言えます。驚くべきことにわたしたちはその財産を用いて神のために働くように、と任されています。主イエスは安心して不在になれます。 わたしたちは、そのタラントンをじっと見つめながら、改めて、なぜ自分のようなものが今ここに生かされているのか、一体自分は何者で、何のために、どのように生きるのか、考えます。わたしたちは、誰のために生きるのでもない。このわたしにタラントンを預けてくださった、主イエスのために生きます。このタラントンは、人それぞれに与えられた「才能」という意味だと言われます。それは、誰にも例外なく与えられているものです。それらは本来、神からすべて巨額な単位でお預かりしているものであるということは、どんなに小さく見えるものも、自分なんか生きていてもしょうがない、と言わなくてすむようにしてくださっておられます。その主イエスの思いに気づく時、本当の意味で、自分の人生を正しく受け止めることができます。 わたしたち一人ひとりに、タラントンが預けられています。それを、神との愛の関わりの中で受けとってほしい、神はそのことを願っておられます。 【2025年 8月 31日 主日礼拝説教より】 説教「もう、泣かなくともよい」 ルカによる福音書 第7章 11節-17節
やもめは、自分もまた死を覚悟していたかも知れません。夫と死に別れた上、頼りにしていた一人息子までもが今、目の前の棺のなかにいるのです。しかも息子の財産は全て男性親族が受け継ぎます。彼女が生きるためには物乞いなど誰かの憐れみによりすがるしかありませんでした。死んだのは確かに息子でしたが母親もまた死んだも同然でした。町の人が大勢付き添い、息子を葬るため棺が担ぎ出されはじめたそのときです。ふいに、言葉が訪れました。 「もう泣かなくともよい」 母親の涙をそっとすくい上げてくださったのは、神の御子でした。 11節後半にあるように、主イエスも大きな隊列を伴ってこの町に来られていました。主イエスを先頭とする列を「命の列」とするなら、やもめを先頭とする葬儀の列は「死の列」です。2つの大きな隊列がナインの町の門で、力比べをするかのようにぶつかり合います。主イエスは、死へ向かおうとする隊列のやもめを深く憐れみ「もう泣かなくともよい」と告げられ棺に手を触れると死の隊列はピタリと止まりました。さらに棺に向かって「起きなさい」と命じられると、死んでいた若者がなんと起き上がってものを言い始めたのです。若者は主イエスの言葉で生き返りました。私たちは罪をもつがゆえに、必ず死を迎えなければなりません。しかしひとりぽっちで放置されてしまうのではありません。主イエスの十字架の死と復活においてわたしたちには死で終わらない新しい命が与えられているからです。神が、主イエスという救い主をわたしたちに送ってくださったという事実、この事実が「神の顧み」を告げています。それは、このやもめにだけではなく、わたしたちのためにも、主イエスは共にいてくださるということです。神が顧みてくださっているからこそ確かな復活の希望があるとわたしたちは信じることができます。たとえつらいことがあっても、もう泣かなくともよい、生きよと、わたしたちは求められています。 教会は主イエスを頭とする命の列であり、復活の光を道しるべとして歩む大きな群れです。主イエスを先頭とし、弟子たちや大勢の群衆、そしてこのわたしたちも共に加わっている、その命の大きな隊列の歩みが、今、ここにあるのです。 【2025年 8月 24日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスの弟子として」 イザヤ書 第6章 1節-8節 ルカによる福音書 第5章 1節-11節
人々が神の言葉を聞こうとして、群れをなして押し寄せてきたとき、主イエスはゲネサレト湖畔に立っていました。陸には二つの舟が引き上げられています。二舟は一晩中漁をしたものの、一匹も捕ることができませんでした。主イエスは、シモンの舟を選んで乗り込み、湖から群衆に説教を語りました。何気ない場面ですが、ここには「神の選び」という大切なことが記されています。シモンという人間が主イエスを選ぶのでなく、主イエスがわたしたちを選ばれるのです。主イエスはシモンに沖へ漕ぎだし、漁をするよう告げられます。シモンは最初、主イエスの言葉を軽んじました。しかし、おびただしい数の魚が捕れると「わたしから離れてください、わたしは罪深い人間です」と主イエスの膝元にただただひれ伏すことが精一杯でした。神の言葉を疑い、軽んじたことの罪を告白したのです。神の真実に触れたとき、自分が本当はどれほど惨めで神から離れているかが見えてきます。ただ祈るしかなくなったとき、主イエスがあのゴルゴタにおいておかかりになられた十字架の苦しみにおいてこそ、わたしたちの深い罪が覆われ、赦されていることを知らされます。主イエスは、罪を悔い改めたシモン・ペトロに言いました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。「人間をとる漁師」とは主に従う歩みということです。つまりみ言葉の伝道者です。そしてそれは牧師だけの働きを言うのではありません。 今朝は小児洗礼式を通して、神の救いの御業をここにいるすべての人が証人とされました。この幼子はまだ自分で信仰を告白できてはいませんが、神の側からの一方的な恵みにおいて、今、この子もわたしたちと同じように、主イエスの弟子とされました。主イエスの弟子となること、それは主の日の礼拝を守り賛美し、神に祈り続けるということです。受洗が祝福されたこの幼子が自らの罪を認め悔い改めの告白をするときまで、その信仰を見守り続けることも教会の大切な役割として与えられています。シモンたちが主イエスのみ言葉に従って大漁となったように、わたしたちもまた、今、この時において、み言葉にきく教会に置かれていることこそが人々を教会へと招き入れていく伝道の働きです。 【2025年 8月 17日 主日礼拝説教より】 説教「思慮深いおとめたち」 イザヤ書 第22章 12節-14節 マタイによる福音書 第25章 1節-13節
マタイによる福音書の第24章から第25章にかけて、この世界が完成する時、主イエスがもう一度来てくださることが描かれています。特に第25章は3つの主イエスがお語りくださったたとえ話が置かれています。 さらにその先の第26章からは、主イエスの十字架物語が始まります。苦しみうめき、死に赴かれるその直前で、今日の「十人のおとめ」のたとえ、すなわち、婚礼の話をなさいました。普通、たとえば葬儀の席などで、わざわざ婚礼の話をするのは場違いであり、はばかられるものですが、主イエスは死に向かうその心で、結婚の喜び、婚宴の喜びを語っておられます。 この「十人のおとめ」のたとえ話の筋ははっきりしています。五人の、灯を用意していたけれどもそれを絶やさないための油の用意がなかった、愚かで思慮の浅いおとめと、油を用意していた五人の賢く思慮深いおとめが出てきます。このおとめたちは、花婿が来るのを一日中待っていましたが、日が暮れて夜になり、夜が更けても現れないので、居眠りをしてしまいました。夜中に「花婿が来た、さあ迎えなさい」と呼ぶ声で皆起きたけれども、賢いおとめは灯を用意できたのに対し、愚かなおとめは油を用意できず、店で調達し、戻ってきたときには、戸が閉められて、席に座れなかった、という物語です。 おや、と思うのは、目を覚ましていなさい、と警告が発せられながら、賢いおとめたちも愚かなおとめたちと同様、眠っていた、ということです。主イエスは、居眠りしてしまう人間の弱さは、お赦しになっておられました。問題は、そのときにも、「起きなさい、主イエスが来られる」と聞こえた時、喜んで目を覚まし、灯をもって立つことができるか、目覚めた思いで眠る、すなわち死ぬことができるか、が求められています。 この話は、愚かなおとめに何の配慮もない、厳しい話です。しかし、問い詰めているのではなく、主イエスの十字架によって、神との和解の道が開け、主イエスの愛の炎が燃えています。それに見合うわたしたちの火を、消してしまうわけには行かず、わたしたちなりに、小さく、貧しくても灯すことを主イエスから求められています。厳しさの裏に、憐れみがあるたとえ話です。 【2025年 8月 10日 主日礼拝説教より】 説教「失われたものを捜し出す主」 エゼキエル書 第34章 11節-13節 ルカによる福音書 第19章 1節-10節
徴税人は、ローマ帝国の手先のようになってユダヤの同胞から高い税金を集めローマ帝国におさめていました。なかでも、その頭であるザアカイは貧しい人々から不当に高い税金を搾取し、私腹を肥やしていたために忌み嫌われる存在でした。搾取は明らかに神への背きです。神に対しても人に対しても「愛」を手放してしまったザアカイは、神の目からも人からも「失われた者」となってしまっていました。 そんなある日、主イエスがザアカイのいるエリコの町に来られ、ザアカイに向かって「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と突然、宣言なさいました。主イエスが言われた「宿泊」とはもちろん余暇を楽しむことではありません。泊まるという字は、原典のギリシャ語で「つながる」という意味をもちます。ばらばらになっていたものがひとつに繋がる、本来の姿を回復するという内容です。さらに「絶対に泊まらなければならない」という強い義務の形をとっており、神の固い決意が感じられる言葉です。主イエスは、心も魂もザアカイとひとつになる必要がありました。罪に罪を重ね続ける「失われた」ザアカイだったからこそ、主はザアカイとひとつにつながらなければならなかったのです。主の訪れ、それは救いと赦しの宣言です。罪赦され救い出されたザアカイは、自らの罪を悔い改め、神に立ち帰る者となりました。 わたしたちも同じです。神を知らされる前のわたしたちは神の目から見れば「失われた罪人」でした。主イエスがこの地上にお生まれくださり、十字架の死においてわたしたちの罪を贖い、わたしたちが再び神に立ち帰って神と共に歩むことができるよう主はわたしたちを捜し救い出してくださいました。主に捜し出される前のわたしたちは人との愛を見失い、しばしば神を無性に遠く感じる虚しさに囚われていました。でももう「失われた者」ではありません。このわたしたちもまた主イエスに捜し出され、救い出された者として今、こうして教会の礼拝へと招かれています。今、ここに救いが訪れています。御子を十字架におかけになってまで罪人であるわたしたちを赦し義としてくださっている神に感謝し、共に祈り礼拝を捧げてまいりましょう。 【2025年 8月 3日 主日礼拝説教より】 説教「忠実な僕こそ幸い」 エレミヤ書 第5章 26節-31節 マタイによる福音書 第24章 45節-51節
わたしたち日本の教会、世界の教会には、信仰の戦いを立派に戦い抜き、この地上の生涯を歩み通した多くのキリスト者たちがいます。そのような人たちは主イエスを主人とする「主の僕」と呼ぶことがあります。 先週、主イエスが再び来られ、この世界が完成するまでの間、「目を覚まし」「待つこと」が大切なことと聴きました。今日のところは、それを巡って主イエスがお語りになられたたとえ話のようなところです。「主人」と「家の使用人たち」と彼らに食事を与える「僕」が出てきます。「主人」とは、神・もしくは主イエスのこと、「僕」とはわたしたちキリスト者のことです。「家の使用人たち」とは「教会」、あるいはそれを超えた「この世界の人々」のことです。 忠実で賢い僕は、主人に言われたとおりに、家の使用人たちに食べ物をきちんと与えていました。そこに主人が帰って来ます。主人は忠実で賢い僕に全財産を管理させるに違いない、といいます。ここで「食べ物を与える」とは、霊の糧である神のみ言葉を分かち合う礼拝を献げること、祈りをすること、あるいは、伝道、証しすること、と理解できます。いずれもキリストの教会で普通になすよう求められていることです。それが待ち望むわたしたちの歩みです。 これに対して悪い僕が出てきます。彼は「仲間を叩き始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりして」主人が命じたことを少しもしません。理由ははっきりしています。「主人は遅れる」と思った、だから何をしてもまだ大丈夫だと思ったのです。 さて、忠実で賢い僕と、悪い僕の違いはどこにあるでしょう。それは何よりも、自分が僕であることをわきまえることです。そして、僕として主人である主イエスが来られるのを待ちます。悪い僕は、自分が僕であることを忘れ、主人は遅れる、だったら、自分が主人になって何が悪い、そう考えてしまいました。キリスト者が自ら主人となるなら、キリスト者でなくなります。 わたしたちは主の僕に徹し、あの「食べ物」を与えながら礼拝しつつ待つことを繰り返し、鍛えられ、様々な誘惑に心惹かれず、罪と戦いながら生きるようになります。多くのキリスト者はそのように戦いながら歩まれました。 【2025年 7月 27日 主日礼拝説教より】 説教「目を覚まし、用意せよ」 創世記 第7章 1節-16節 マタイによる福音書 第24章 36節-44節
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」。神の独り子、主イエスの言葉です。「天地は滅びる」、確かに、目に見えるものはすべて、例外なく滅んでいきます。人間もまた、例外なく死ななければなりません。けれども主イエスは、それだけを語ったわけではありません。「私の言葉は滅びない」、主イエスの言葉は滅びない、神の言葉は滅びない、と約束しておられます。神のご支配を信じ、神の言葉により頼むならば、失望に終わることはない、ということです。主イエスが再び来られ、救いが完成すること、これは必ず実現されることに信頼し、そこに向かって生きるのが、キリスト者の生き方です。 では、その救いの完成をもたらす主イエスは、いつ来られるのでしょう。それは、ただ父なる神だけがご存知だ、といいます。天使も、主イエスご自身も知らない、神の領域のことだ、というのです。ですから、「何年何月何日に世界は終わる」と言って脅す人々は偽者です。その時は、恐怖の日ではなく、主イエスが再び来られて、わたしたちの救いが完成する、喜びの日です。それをなしてくださる時は、父なる神以外にだれもしらないのです。 この主イエスが再び来られる時について、主イエスは「ノアの時と同じだ」と言われました。多くの人々はノアに示された神による大洪水の話をまともに受け取りませんでした。主イエスが再び来られることをまともに受け止めて備えるのでなければ、裁きに耐えられない、だから備えなさい、と言うのです。 その時、救われるものと滅ぶものとに分けられる、と主イエスは言われました。その違いはどこにあるのでしょう。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである」。大切なことは、目を覚ましている、ということです。これは、いつ主イエスが来られてもいいように備えていなさい、ということです。わたしたちはすぐに眠りこけてしまうものだからです。目を覚ます、とは具体的には、主の日の礼拝を献げること、祈りの生活を確保すること、神に仕え、隣人に仕える業に励むこと、と言えるでしょう。特に礼拝を献げることは、み言葉に聴き、主の日毎に、主イエスが再び来られる日を待ち望むことを心に刻む、大切なことです。 【2025年 7月 20日 主日礼拝説教より】 説教「天地が滅びても、滅びない言葉」 イザヤ書 第40章 1節-11節 マタイによる福音書 第24章 32節-35節
この世界が終わること、完成することを語るマタイによる福音書第24章を読み進めています。今日の32節以下は、その一つの山かもしれません。 「いちじくの木からたとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出てくると夏の近いことがわかる。それと同じように、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」。今は天に昇られて目に見えない主イエスが、終わりのときにもう一度来てくださいますが、今すでに、ドアのすぐ向こうには来ておられる、その主イエスの近さを悟れ、と言われます。「これらすべてのこと」とは、第24章のはじめから記されていた、戦争、地震飢饉、裏切り、憎み合い、不法、愛が冷え、もうこの世界はおしまいだ、と言いたくなるような、「これらすべてのこと」です。それらを見たら、主イエスが近くにいることを悟りなさい、といいます。事実、「わたしはまた来る」と再臨の約束を残してくださいました。わたしたちは待ち望みながら歩んでいます。 もう一つ、主イエスは決定的なことを語られました。「天地は滅びるが、私の言葉は滅びない」。天地は必ず滅びる、その天地の中に、わたしたちも、愛する者たちも入っています。かつての文語訳では「滅びる」は「過ぎ去る」と訳されていました。わたしたちはいろいろなものを過ぎ去らないようあくせくしますが、結局すべては過ぎ去ります。そんな中で、天地が滅びてもなお過ぎ行かない確かな言葉が打ち立てられる、というのです。主イエスがお語りになる「私の言葉」とは、わたしはあなたの主、あなたの神だ、とご自身の十字架を目前に見ながら語り聴かせてくださった言葉です。あなたがたをみなし子にはしない、わたしはもう一度来る、いやすでに側近くにいる、だから恐れるな、という言葉です。その主であるイエスが今も、わたしたちに告げてくださるのは「いちじくの木からたとえを学びなさい」という言葉でした。 かつて主イエスは実のならないいちじくを呪い、滅ぼされ、枯れさせました(第21章)。その枯らされたいちじくは「天地の滅び」の象徴です。わたしたちの罪が生む、神に滅ぼされなければならない世界でした。しかし主イエスは十字架につけられ、世界ではなく主イエスが滅びを引き受けられたのでした。 【2025年 7月 13日 主日礼拝説教より】 説教「再び来られる主イエス」 ゼカリヤ書 第8章 14節-23節 マタイによる福音書 第24章 15節-31節
とてもうれしいことに、わたしたちの教会では、先月6月に一人、今月7月に一人、受洗者が与えられ、新しい仲間を迎え入れることができました。一人ひとりの歩みはそれぞれ違います。その一人ひとりに主イエスが出会ってくださいました。そして、この方こそわたしの救い主、と一つの信仰を言い表します。神ご自身にほかならない主イエスが、この世界を訪れられたのは、このわたしのためでもあった、洗礼はそのことを思い起こさせ、確認させます。 主イエスはこの世界に、クリスマスだけ訪れたのではなく、死んで葬られ、復活し、天に昇られ、その後もう一度訪れる、と約束しておられます。「再臨」です。今読んでいるマタイによる福音書第24章、第25章で主イエスが弟子たちにお語りになったのは、「わたしは必ず、あなたがたのところに戻って来る。だからただ、わたしを待ちなさい」ということでした。弟子たちにとって、その原体験となったのは、主イエスのお甦りの出来事でした。主イエスが十字架で死に、しかし甦られて、弟子たちを訪ねてくださいました。弟子たちは、衝撃を持って受け止めたことでしょう。しかし「わたしは必ず来る」と言われた主イエスの言葉を、疑うことができず書き記し、福音書を伝えたのです。 これは、わたしたちも同じです。主イエスに出会って洗礼を受ける、誰にとっても思いがけないことです。そのわたしたちが十字架を見つめながら、わたしは必ずあなたがたのもとに戻って来る、と語る主イエスの言葉を聴きます。 主イエスは、この世界が終わりに向かってやがて味わう大きな苦難、悲しみについて語られます。偽メシアが現れ、戦争、飢饉、地震、人々の憎み合い、裏切り、不法があり、愛が冷える。神はおられないではないか、という状況です。その時、「荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つ」、「その時には…逃げなさい」と主イエスは語られました。この言葉を聴いていた弟子たちは、その意味がわからなかったと思います。けれどもそれから2、3日後、弟子たちは痛いほどわかったと思います。その時憎むべきものは主イエスを十字架につけたからです。弟子たちは逃げました。どこに逃げても、主イエスはもう一度弟子たちを訪ねられました。わたしたちのところにも必ず訪ねられます。 【2025年 7月 6日 主日礼拝説教より】 説教「大きな苦難が来る時にも」 ダニエル書 第12章 1節-13節 マタイによる福音書 第24章 15節-28節
前回、マタイによる福音書第24章のはじめの部分を読みました。主イエスがこの世の終わりについて、そのしるしについて語られていました。「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」、また「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」という言葉がありました。ウクライナや、イスラエルや、イランなどでおきていることと酷似しています。争い、憎しみ、破壊をもたらす大きな力が働いています。 本日のところには、「荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たら」とあります。その憎しみと破壊をもたらす力を体現している者が、人々が恐れかしこむ、国の政治の中心の立場に着く、ということでしょう。主イエスが語られたこれらのこの世の終わりのしるしは、わたしたちに恐怖を覚えさせます。そして、世界の現実もその苦しみと破局へ向かっています。 そこで主イエスがまず語られたのは、意外にも「逃げなさい」というものでした。憎むべき破壊者の支配と戦いなさい、ではないのです。憎しみと破壊をもたらす力はわたしたちを飲み尽くそうとする、そこで、最後のギリギリまで守り、戦う必要はない、陣地を捨てて逃げなさい、と言われます。しかもそこでは家の中のものを持たず、戦うことを放棄しなさい、言い換えれば、神にすべてを委ねなさい、といいます。その世界に破局をもたらす力は、「世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難」だ、といいます。その力に打ち勝つことのできる者は、一人もおらず、ただ神が選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださることだけが、わたしたちの救われる道です。 また、そのときには、偽メシアや偽預言者が現れるから、それらを信じるな、ともいわれます。それはたとえ信仰者であっても惑わされてしまうほどだ、といいます。それらのものを信じずに、「人の子」である主イエスご自身が再び来られることを信じなさい、といいます。そのときは、稲妻のように、すべてのものがそれをはっきりと見ることができるからだ、といいます。 この世界の終わりは世界の崩壊ではない、わたしたちが克服できないような大きな苦しみの中で、主イエスが大きな力を帯びて天から来られることです。わたしたちは、その救いを信じて、そこに希望を置くことを許されています。 【2025年 6月 29日 主日礼拝説教より】 説教「前のものに全身を」 フィリピの信徒への手紙 第3章 12節-16節
フィリピ、という今のギリシャに位置していた町で礼拝をしていた人々に、手紙を書いた人物は、パウロという人でした。彼は保守派のユダヤ教徒で、キリスト教の人々を、脅し、捕まえ、手をかけていた、殺していた人物でしたが、パウロは衝撃的な仕方でイエス・キリストに出会い、ユダヤ教徒ではなく、正真正銘、キリスト教徒として歩み始めた人でした。 パウロはすでにキリスト教徒になっているのに、「私は、すでにそれ(キリストと共に生きる命)を得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。」と語ります。「なんとかして捕えようと努めているんだ」と言っているのです。その理由は、「自分がキリスト・イエスによってすでに捕らえられているからです」。日本語になっていないような気がします。 フィリピの教会の人々のなかには、「わたしたちはすでにキリストのものとなっている。救われている。だから気を張って生きなくて大丈夫。罪を犯すのも、人間だから仕方ないよね」そう言っている人がいたらしい。だからパウロはいてもたってもいられず、筆をとったわけです。わたしたちは改めて、キリストに捕えられている、キリストのものになっている、と言いながらも、それをとらえようとしているパウロの姿に注目をしたいのです。 すでに十字架にかかられ、復活されたあのイエス・キリストを信じたときから、私たちの手はキリストによって、握りしめられている。その手は、離されることはない。問題は、その手を私たちは、果たして日常生活を送るにあたって、握り返すことができているか、ということ。それをパウロは問いかけるのです。私たちがなすべきことの一つに、握られたその手を、ほかの誰かに伝えることがあります。手を握り返す、というレースの最中に、なぜこのようなことが、ということも起こるかもしれません。どれだけ過酷なレースであったとしても、イエス・キリストはゴールで待っていてくださいます。へこたれても、癒し、起こしてくださる聖霊が併走してくださっています。そのレースを走り終えたとき、ともに泣いて喜んでくれるチームメイト、信じる群れ、教会という共同体があります。なにより、つらかったね、よく頑張ったね、手を握り返してくれてありがとう、そう言って温かく抱いてくださるイエス・キリストがいらっしゃいます。だからわたしたちはパウロのように、走り続けることができるのです。 【2025年 6月 22日 主日礼拝説教より】 説教「世の終わりに備える」 イザヤ書 第44章 1節-8節 マタイによる福音書 第24章 1節-14節
瀬谷 寛 牧師
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中野 実 教師
成 智圭 教師
瀬谷 寛 牧師
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瀬谷 寛 牧師
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原 妃弥子 神学生(東京神学大学)
原 妃弥子 神学生(東京神学大学)
瀬谷 寛 牧師
原 妃弥子 神学生
瀬谷 寛 牧師
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成 智圭 教師(東北学院中高)
瀬谷 寛 牧師