【2025年 10月 5日 主日礼拝説教より】
説教「裏切りに勝つ愛」 ホセア書 第11章 8節-11節 マタイによる福音書 第26章 14節-25節
今日のところには、主イエスが十字架につけられるために捕えられたのは、主イエスの弟子のユダが銀貨30枚で裏切って手引きしたからであることが描かれてます。これは奴隷一人の値にもならない金で売ったことを示しています。 ユダの物語を読むのは、実に重いことです。確かに十二人の弟子一人による裏切りであることを、福音書は繰り返して記しています。西洋の人たちが十三という数字を嫌うのは、主イエスの十字架の死の前日に催された最後の晩餐に集ったのが、主イエスと十二人の弟子、すなわち十三人だったことから来ています。この十三は、十二人プラス一人の裏切りを加えた数だ、ということを忘れることはできません。裏切りの死の匂いが漂っているのです。ただ、この十三はいつも、教会に刻まれています。わたしたちの教会が聖餐を祝い、聖餐のテーブルがある限り、この十三が刻まれています。わたしたちはそのテーブルを囲んでいます。 主イエスは、弟子たちと囲む過越の喜びの祝いの食事の席で躊躇なく、「あなたがたの一人が私を裏切ろうとしている」と言われました。しかしその時にだれも、誰がこの主イエスを敵に渡すのか、ユダを指さして「裏切るのはお前か」と犯人探しをしてはいません。皆、裏切りの心が自分の中にあることを気付かされて、「まさかわたしのことでは」と問い、やがて弟子たちは一人、また一人と裏切っていきます。この十三人は、十一人の弟子と、一人の裏切り者と、一人の主イエス、ではありません。別の意味で十二プラス一でした。十二人のユダと、一人の主イエスだったのです。 弟子のペトロがそうでした。彼は、主イエスから、「私につまずく」と言われた時、他の誰がつまずいても自分だけはあなたについていく、と豪語したのもつかの間、真っ先に「わたしはこの人を知らない」と言ってのけました。この先生について行ったら殺されるだけだ、と理由をつけて捨てたのです。わたしたちもいろいろな理由をつけて、主イエスを捨てる裏切り者です。 けれども主イエスは、「あなたがたは私につまずく。しかし復活の後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。十字架で死に、復活した主イエスが、裏切る弟子たち、わたしたちを赦し、わたしたちを迎えてもう一度立たせてくださいます。 【2025年 9月 28日 主日礼拝説教より】 説教「葬りの備え」 申命記 第6章 4節-5節 マタイによる福音書 第26章 1節-13節
マタイによる福音書第26章以下の主イエスの受難物語を読み始めました。その最初のところに、二日後は過越祭である、という言葉がありました。わたしたちの感覚では明後日、となりそうですが、ここでは今日も含めて二日、つまり明日のことです。明日には、主イエスが捕らえられ、裁かれ、明後日には十字架につけられ、殺される、と主イエスは予告しているのです。その最後の時、主イエスはベタニアというエルサレム近郊の小さな村の、汚れに規定された病のシモンの家で過ごされました。 静かな、緊張感のみなぎる食事の席で、一人の女性が、高価な香油を主イエスの頭に注ぎかけました。それは主イエスの葬りの準備でした。そして主イエスは、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と最大級の賛辞でこの女性のしたことを称賛されました。この出来事で、主イエスはどんなに喜んでおられたことでしょう。 これと同時進行で静かに進められていたのが、主イエスを殺す計画でした。祭司長たちや民の長老たちが、主イエスを騙して捕らえ、殺そうと相談しますが、祭の間は、大群衆が騒ぎ出すといけないからやめておこう、となりました。 なぜ主イエスは十字架につけられたのでしょう。とても難しい問いです。しかしよく考えたら聖書にちゃんと書いてあります。当時の人のほとんどが、主イエスの死を願ったからです。主イエスは、その人々の悪意を敏感に感じ取られながら、しかし神の御心に懸命に沿おうとするために、一人の生身の人間として、本当に苦しまれたのです。 わたしたちも、この主イエスの苦しみがわかるところがあります。憎まれたり、誤解されたりした時に、表向きは装えても、内心は穏やかではありません。そして、あの人さえいなければいいのに、と殺意さえ抱く、一度もうそういう経験をしなかった人はいないでしょう。伝道というのは、そういう人たちに、神の敵であるわたしたちが、神と和解しなければならないことを伝えることです。そのためにどうしても、十字架が必要でした。この女のした香油の献げ物は、まさにその十字架の備えとなるものです。主イエスはそれを大変喜ばれました。 【2025年 9月 21日 主日礼拝説教より】 説教「愛の香り」 出エジプト記 第12章 1節-13節 マタイによる福音書 第26章 1節-13節
本日からいよいよマタイによる福音書第26章を読み始めます。いよいよ、というのは、ちょうどこの第26章から、主イエスの受難物語、十字架の死の話になるからです。これから少し丁寧に取り上げていければ、と思います。 「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」と語り始められています。「語り終える」とは、「完成する」という意味の言葉です。それは、地上で主イエスが語らねばならなかったことを全部お語りになって、後は十字架につけられるだけが残った、と主イエスが考えておられたに違いありません。 時は、過越祭を二日後に控えたところです。過越祭とは、イスラエルの人々がエジプトから神に守られて導き出されたときの出来事を思い起こすための祭で、ある説では200万人ものユダヤ人が集まると言われているそうです。この祭は、その直後の除酵祭というものを含めてほぼ8日間かけて行われます。当時、主イエスに敵意を抱いていたユダヤ人指導者は「祭りの間」、すなわち約1週間は混乱が起こると責任が問われるかもしれないので、主イエスを殺すことは控えよう、と考えました。その計画があることをご存知の上で主イエスは、二日後に「わたしは引き渡される」と言われました。 そのきっかけになったのは、民の指導者たちではなく、ご自分の弟子、ユダの裏切りでした。その引き金になったのが、一人の女性が主イエスの自分の持っている香油を注ぎ出してしまうという出来事でした。主イエスが、規程の病(かつては「重い皮膚病」と訳されていました)にかかったシモンの家で食事をしておられたときに、高価な油を主イエスに注いだのです。それを見た弟子たちは憤慨し、「何のためにこんな無駄遣いをするのか」と批判をした、といいます。主イエスは、この女のしたことを重んじられました。この女は、この後の主イエスの死の意味をどれだけ理解していたかはわかりませんが、主イエスの存在が、「ここに愛がある」ことそのものであることを知ったのだと思います。このとき、どんなに異様な香りだったでしょう。わたしたちのために死んでくださる神の愛があることを示す、他では味わえない異様な香りを放っていたと思います。わたしたちの教会も、主イエスのなさった愛の異様な香りを放つ群れとなりたいです。 【2025年 9月 14日 主日礼拝説教より】 説教「最も小さな者の一人に」 エゼキエル書 第33章 10節-16節 マタイによる福音書 第25章 31節-46節
主イエスが地上のご生涯を終わろうとする、その最後に、弟子たちに心を込めてお伝えになったことは、「これで終わりではない」ということでした。これから、自分は十字架につけられて殺され、復活して天に昇る、けれどもそれで終わりではなく、もう一度、あなたがたのところに帰ってくる、この主イエスの再臨の約束を、主イエスはマタイ第24,25章でひたすらお語りになっておられます。 31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。いつ、主イエスがもう一度こられるかはわかりませんが、わたしたちの、死で中断される地上の生活のその向こう側で、必ずしなければならないのが、主イエスの前に立つことです。そこで主イエスは、「あのときはありがとう」とわたしたちに声をかけてくださる、というのです。「あなたはわたしが飢えていた時、喉が乾いていた時、食べ物飲み物をくれたね」とおっしゃるのです。世界の歴史が終わり、その総括が主イエスによってなされる時、そこで問われるのは、最も小さい者に何をしたのか、しなかったのか、それはすなわち、主イエスのために何をしたのか、しなかったのか、ということである、というのです。 ここで主イエスが問うておられることは、愛、と言えます。けれどもそれは、のどが渇いている人にコップ一杯の水を飲ませるような小さなことです。それが終わりの日に問われる、とすれば、その小さな業を、主イエスがどれほど重く受け止めてくださっておられるか、ということになります。 40「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」という主イエスが語る「最も小さな者」とは誰のことでしょう。わたしたちが愛を注ぐべき貧しい人が、主イエスと同一視される、ということでしょうか。そうではなく、「最も小さい者」は私のことです。主イエスがこの私を指さしながら、「この人の痛みは私の痛み、この人の悲しみは私の悲しみ」とこのわたしをご自身と同一視してくださいます。そのために主イエスは十字架にかけられたのです。十字架の主イエス、そのみ苦しみは、ただわたしたちに対する愛の故です。 【2025年 9月 7日 主日礼拝説教より】 説教「わたしたちはこのように生きる」 イザヤ書 第40章 27節-31節 マタイによる福音書 第25章 14節-30節
主イエスが地上のご生涯の殆ど最後に語られた一つのたとえ話を聞きました。ある主人が、かなりの年月、旅に出ました。その留守の間、僕たちに主人は、自分の仕事をしっかりやりなさい、という思いを込めて、自分の全財産を預けました。一人ひとりの僕たちに与えられた財産を「タラントン」と読んでいます。大変大きなお金の単位で、何億とか、何十億という数字です。彼らには見たこともないお金を預けられ、震える手で受け取ったかもしれません。 この僕たちは主イエスの弟子たちのことであり、同時に、今この教会に生きるわたしたち一人ひとりのこと、と言えます。そして主人は主イエスのこと、主イエスがもう一度地上を訪れてくださる、というのです。 主人である肉における主イエスは、確かに今は天に昇られて肉の目で見ることはできません。その意味で今主人は留守だ、と言えますが、神の全財産はちゃんと地上にあって、それがわたしたち一人ひとりに委ねられています。わたしたちの手に委ねられたタラントンこそが、神が生きておられることを示す確かな証拠、と言えます。驚くべきことにわたしたちはその財産を用いて神のために働くように、と任されています。主イエスは安心して不在になれます。 わたしたちは、そのタラントンをじっと見つめながら、改めて、なぜ自分のようなものが今ここに生かされているのか、一体自分は何者で、何のために、どのように生きるのか、考えます。わたしたちは、誰のために生きるのでもない。このわたしにタラントンを預けてくださった、主イエスのために生きます。このタラントンは、人それぞれに与えられた「才能」という意味だと言われます。それは、誰にも例外なく与えられているものです。それらは本来、神からすべて巨額な単位でお預かりしているものであるということは、どんなに小さく見えるものも、自分なんか生きていてもしょうがない、と言わなくてすむようにしてくださっておられます。その主イエスの思いに気づく時、本当の意味で、自分の人生を正しく受け止めることができます。 わたしたち一人ひとりに、タラントンが預けられています。それを、神との愛の関わりの中で受けとってほしい、神はそのことを願っておられます。 【2025年 8月 31日 主日礼拝説教より】 説教「もう、泣かなくともよい」 ルカによる福音書 第7章 11節-17節
やもめは、自分もまた死を覚悟していたかも知れません。夫と死に別れた上、頼りにしていた一人息子までもが今、目の前の棺のなかにいるのです。しかも息子の財産は全て男性親族が受け継ぎます。彼女が生きるためには物乞いなど誰かの憐れみによりすがるしかありませんでした。死んだのは確かに息子でしたが母親もまた死んだも同然でした。町の人が大勢付き添い、息子を葬るため棺が担ぎ出されはじめたそのときです。ふいに、言葉が訪れました。 「もう泣かなくともよい」 母親の涙をそっとすくい上げてくださったのは、神の御子でした。 11節後半にあるように、主イエスも大きな隊列を伴ってこの町に来られていました。主イエスを先頭とする列を「命の列」とするなら、やもめを先頭とする葬儀の列は「死の列」です。2つの大きな隊列がナインの町の門で、力比べをするかのようにぶつかり合います。主イエスは、死へ向かおうとする隊列のやもめを深く憐れみ「もう泣かなくともよい」と告げられ棺に手を触れると死の隊列はピタリと止まりました。さらに棺に向かって「起きなさい」と命じられると、死んでいた若者がなんと起き上がってものを言い始めたのです。若者は主イエスの言葉で生き返りました。私たちは罪をもつがゆえに、必ず死を迎えなければなりません。しかしひとりぽっちで放置されてしまうのではありません。主イエスの十字架の死と復活においてわたしたちには死で終わらない新しい命が与えられているからです。神が、主イエスという救い主をわたしたちに送ってくださったという事実、この事実が「神の顧み」を告げています。それは、このやもめにだけではなく、わたしたちのためにも、主イエスは共にいてくださるということです。神が顧みてくださっているからこそ確かな復活の希望があるとわたしたちは信じることができます。たとえつらいことがあっても、もう泣かなくともよい、生きよと、わたしたちは求められています。 教会は主イエスを頭とする命の列であり、復活の光を道しるべとして歩む大きな群れです。主イエスを先頭とし、弟子たちや大勢の群衆、そしてこのわたしたちも共に加わっている、その命の大きな隊列の歩みが、今、ここにあるのです。 【2025年 8月 24日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスの弟子として」 イザヤ書 第6章 1節-8節 ルカによる福音書 第5章 1節-11節
人々が神の言葉を聞こうとして、群れをなして押し寄せてきたとき、主イエスはゲネサレト湖畔に立っていました。陸には二つの舟が引き上げられています。二舟は一晩中漁をしたものの、一匹も捕ることができませんでした。主イエスは、シモンの舟を選んで乗り込み、湖から群衆に説教を語りました。何気ない場面ですが、ここには「神の選び」という大切なことが記されています。シモンという人間が主イエスを選ぶのでなく、主イエスがわたしたちを選ばれるのです。主イエスはシモンに沖へ漕ぎだし、漁をするよう告げられます。シモンは最初、主イエスの言葉を軽んじました。しかし、おびただしい数の魚が捕れると「わたしから離れてください、わたしは罪深い人間です」と主イエスの膝元にただただひれ伏すことが精一杯でした。神の言葉を疑い、軽んじたことの罪を告白したのです。神の真実に触れたとき、自分が本当はどれほど惨めで神から離れているかが見えてきます。ただ祈るしかなくなったとき、主イエスがあのゴルゴタにおいておかかりになられた十字架の苦しみにおいてこそ、わたしたちの深い罪が覆われ、赦されていることを知らされます。主イエスは、罪を悔い改めたシモン・ペトロに言いました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。「人間をとる漁師」とは主に従う歩みということです。つまりみ言葉の伝道者です。そしてそれは牧師だけの働きを言うのではありません。 今朝は小児洗礼式を通して、神の救いの御業をここにいるすべての人が証人とされました。この幼子はまだ自分で信仰を告白できてはいませんが、神の側からの一方的な恵みにおいて、今、この子もわたしたちと同じように、主イエスの弟子とされました。主イエスの弟子となること、それは主の日の礼拝を守り賛美し、神に祈り続けるということです。受洗が祝福されたこの幼子が自らの罪を認め悔い改めの告白をするときまで、その信仰を見守り続けることも教会の大切な役割として与えられています。シモンたちが主イエスのみ言葉に従って大漁となったように、わたしたちもまた、今、この時において、み言葉にきく教会に置かれていることこそが人々を教会へと招き入れていく伝道の働きです。 【2025年 8月 17日 主日礼拝説教より】 説教「思慮深いおとめたち」 イザヤ書 第22章 12節-14節 マタイによる福音書 第25章 1節-13節
マタイによる福音書の第24章から第25章にかけて、この世界が完成する時、主イエスがもう一度来てくださることが描かれています。特に第25章は3つの主イエスがお語りくださったたとえ話が置かれています。 さらにその先の第26章からは、主イエスの十字架物語が始まります。苦しみうめき、死に赴かれるその直前で、今日の「十人のおとめ」のたとえ、すなわち、婚礼の話をなさいました。普通、たとえば葬儀の席などで、わざわざ婚礼の話をするのは場違いであり、はばかられるものですが、主イエスは死に向かうその心で、結婚の喜び、婚宴の喜びを語っておられます。 この「十人のおとめ」のたとえ話の筋ははっきりしています。五人の、灯を用意していたけれどもそれを絶やさないための油の用意がなかった、愚かで思慮の浅いおとめと、油を用意していた五人の賢く思慮深いおとめが出てきます。このおとめたちは、花婿が来るのを一日中待っていましたが、日が暮れて夜になり、夜が更けても現れないので、居眠りをしてしまいました。夜中に「花婿が来た、さあ迎えなさい」と呼ぶ声で皆起きたけれども、賢いおとめは灯を用意できたのに対し、愚かなおとめは油を用意できず、店で調達し、戻ってきたときには、戸が閉められて、席に座れなかった、という物語です。 おや、と思うのは、目を覚ましていなさい、と警告が発せられながら、賢いおとめたちも愚かなおとめたちと同様、眠っていた、ということです。主イエスは、居眠りしてしまう人間の弱さは、お赦しになっておられました。問題は、そのときにも、「起きなさい、主イエスが来られる」と聞こえた時、喜んで目を覚まし、灯をもって立つことができるか、目覚めた思いで眠る、すなわち死ぬことができるか、が求められています。 この話は、愚かなおとめに何の配慮もない、厳しい話です。しかし、問い詰めているのではなく、主イエスの十字架によって、神との和解の道が開け、主イエスの愛の炎が燃えています。それに見合うわたしたちの火を、消してしまうわけには行かず、わたしたちなりに、小さく、貧しくても灯すことを主イエスから求められています。厳しさの裏に、憐れみがあるたとえ話です。 【2025年 8月 10日 主日礼拝説教より】 説教「失われたものを捜し出す主」 エゼキエル書 第34章 11節-13節 ルカによる福音書 第19章 1節-10節
徴税人は、ローマ帝国の手先のようになってユダヤの同胞から高い税金を集めローマ帝国におさめていました。なかでも、その頭であるザアカイは貧しい人々から不当に高い税金を搾取し、私腹を肥やしていたために忌み嫌われる存在でした。搾取は明らかに神への背きです。神に対しても人に対しても「愛」を手放してしまったザアカイは、神の目からも人からも「失われた者」となってしまっていました。 そんなある日、主イエスがザアカイのいるエリコの町に来られ、ザアカイに向かって「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と突然、宣言なさいました。主イエスが言われた「宿泊」とはもちろん余暇を楽しむことではありません。泊まるという字は、原典のギリシャ語で「つながる」という意味をもちます。ばらばらになっていたものがひとつに繋がる、本来の姿を回復するという内容です。さらに「絶対に泊まらなければならない」という強い義務の形をとっており、神の固い決意が感じられる言葉です。主イエスは、心も魂もザアカイとひとつになる必要がありました。罪に罪を重ね続ける「失われた」ザアカイだったからこそ、主はザアカイとひとつにつながらなければならなかったのです。主の訪れ、それは救いと赦しの宣言です。罪赦され救い出されたザアカイは、自らの罪を悔い改め、神に立ち帰る者となりました。 わたしたちも同じです。神を知らされる前のわたしたちは神の目から見れば「失われた罪人」でした。主イエスがこの地上にお生まれくださり、十字架の死においてわたしたちの罪を贖い、わたしたちが再び神に立ち帰って神と共に歩むことができるよう主はわたしたちを捜し救い出してくださいました。主に捜し出される前のわたしたちは人との愛を見失い、しばしば神を無性に遠く感じる虚しさに囚われていました。でももう「失われた者」ではありません。このわたしたちもまた主イエスに捜し出され、救い出された者として今、こうして教会の礼拝へと招かれています。今、ここに救いが訪れています。御子を十字架におかけになってまで罪人であるわたしたちを赦し義としてくださっている神に感謝し、共に祈り礼拝を捧げてまいりましょう。 【2025年 8月 3日 主日礼拝説教より】 説教「忠実な僕こそ幸い」 エレミヤ書 第5章 26節-31節 マタイによる福音書 第24章 45節-51節
わたしたち日本の教会、世界の教会には、信仰の戦いを立派に戦い抜き、この地上の生涯を歩み通した多くのキリスト者たちがいます。そのような人たちは主イエスを主人とする「主の僕」と呼ぶことがあります。 先週、主イエスが再び来られ、この世界が完成するまでの間、「目を覚まし」「待つこと」が大切なことと聴きました。今日のところは、それを巡って主イエスがお語りになられたたとえ話のようなところです。「主人」と「家の使用人たち」と彼らに食事を与える「僕」が出てきます。「主人」とは、神・もしくは主イエスのこと、「僕」とはわたしたちキリスト者のことです。「家の使用人たち」とは「教会」、あるいはそれを超えた「この世界の人々」のことです。 忠実で賢い僕は、主人に言われたとおりに、家の使用人たちに食べ物をきちんと与えていました。そこに主人が帰って来ます。主人は忠実で賢い僕に全財産を管理させるに違いない、といいます。ここで「食べ物を与える」とは、霊の糧である神のみ言葉を分かち合う礼拝を献げること、祈りをすること、あるいは、伝道、証しすること、と理解できます。いずれもキリストの教会で普通になすよう求められていることです。それが待ち望むわたしたちの歩みです。 これに対して悪い僕が出てきます。彼は「仲間を叩き始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりして」主人が命じたことを少しもしません。理由ははっきりしています。「主人は遅れる」と思った、だから何をしてもまだ大丈夫だと思ったのです。 さて、忠実で賢い僕と、悪い僕の違いはどこにあるでしょう。それは何よりも、自分が僕であることをわきまえることです。そして、僕として主人である主イエスが来られるのを待ちます。悪い僕は、自分が僕であることを忘れ、主人は遅れる、だったら、自分が主人になって何が悪い、そう考えてしまいました。キリスト者が自ら主人となるなら、キリスト者でなくなります。 わたしたちは主の僕に徹し、あの「食べ物」を与えながら礼拝しつつ待つことを繰り返し、鍛えられ、様々な誘惑に心惹かれず、罪と戦いながら生きるようになります。多くのキリスト者はそのように戦いながら歩まれました。 【2025年 7月 27日 主日礼拝説教より】 説教「目を覚まし、用意せよ」 創世記 第7章 1節-16節 マタイによる福音書 第24章 36節-44節
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」。神の独り子、主イエスの言葉です。「天地は滅びる」、確かに、目に見えるものはすべて、例外なく滅んでいきます。人間もまた、例外なく死ななければなりません。けれども主イエスは、それだけを語ったわけではありません。「私の言葉は滅びない」、主イエスの言葉は滅びない、神の言葉は滅びない、と約束しておられます。神のご支配を信じ、神の言葉により頼むならば、失望に終わることはない、ということです。主イエスが再び来られ、救いが完成すること、これは必ず実現されることに信頼し、そこに向かって生きるのが、キリスト者の生き方です。 では、その救いの完成をもたらす主イエスは、いつ来られるのでしょう。それは、ただ父なる神だけがご存知だ、といいます。天使も、主イエスご自身も知らない、神の領域のことだ、というのです。ですから、「何年何月何日に世界は終わる」と言って脅す人々は偽者です。その時は、恐怖の日ではなく、主イエスが再び来られて、わたしたちの救いが完成する、喜びの日です。それをなしてくださる時は、父なる神以外にだれもしらないのです。 この主イエスが再び来られる時について、主イエスは「ノアの時と同じだ」と言われました。多くの人々はノアに示された神による大洪水の話をまともに受け取りませんでした。主イエスが再び来られることをまともに受け止めて備えるのでなければ、裁きに耐えられない、だから備えなさい、と言うのです。 その時、救われるものと滅ぶものとに分けられる、と主イエスは言われました。その違いはどこにあるのでしょう。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである」。大切なことは、目を覚ましている、ということです。これは、いつ主イエスが来られてもいいように備えていなさい、ということです。わたしたちはすぐに眠りこけてしまうものだからです。目を覚ます、とは具体的には、主の日の礼拝を献げること、祈りの生活を確保すること、神に仕え、隣人に仕える業に励むこと、と言えるでしょう。特に礼拝を献げることは、み言葉に聴き、主の日毎に、主イエスが再び来られる日を待ち望むことを心に刻む、大切なことです。 【2025年 7月 20日 主日礼拝説教より】 説教「天地が滅びても、滅びない言葉」 イザヤ書 第40章 1節-11節 マタイによる福音書 第24章 32節-35節
この世界が終わること、完成することを語るマタイによる福音書第24章を読み進めています。今日の32節以下は、その一つの山かもしれません。 「いちじくの木からたとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出てくると夏の近いことがわかる。それと同じように、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」。今は天に昇られて目に見えない主イエスが、終わりのときにもう一度来てくださいますが、今すでに、ドアのすぐ向こうには来ておられる、その主イエスの近さを悟れ、と言われます。「これらすべてのこと」とは、第24章のはじめから記されていた、戦争、地震飢饉、裏切り、憎み合い、不法、愛が冷え、もうこの世界はおしまいだ、と言いたくなるような、「これらすべてのこと」です。それらを見たら、主イエスが近くにいることを悟りなさい、といいます。事実、「わたしはまた来る」と再臨の約束を残してくださいました。わたしたちは待ち望みながら歩んでいます。 もう一つ、主イエスは決定的なことを語られました。「天地は滅びるが、私の言葉は滅びない」。天地は必ず滅びる、その天地の中に、わたしたちも、愛する者たちも入っています。かつての文語訳では「滅びる」は「過ぎ去る」と訳されていました。わたしたちはいろいろなものを過ぎ去らないようあくせくしますが、結局すべては過ぎ去ります。そんな中で、天地が滅びてもなお過ぎ行かない確かな言葉が打ち立てられる、というのです。主イエスがお語りになる「私の言葉」とは、わたしはあなたの主、あなたの神だ、とご自身の十字架を目前に見ながら語り聴かせてくださった言葉です。あなたがたをみなし子にはしない、わたしはもう一度来る、いやすでに側近くにいる、だから恐れるな、という言葉です。その主であるイエスが今も、わたしたちに告げてくださるのは「いちじくの木からたとえを学びなさい」という言葉でした。 かつて主イエスは実のならないいちじくを呪い、滅ぼされ、枯れさせました(第21章)。その枯らされたいちじくは「天地の滅び」の象徴です。わたしたちの罪が生む、神に滅ぼされなければならない世界でした。しかし主イエスは十字架につけられ、世界ではなく主イエスが滅びを引き受けられたのでした。 【2025年 7月 13日 主日礼拝説教より】 説教「再び来られる主イエス」 ゼカリヤ書 第8章 14節-23節 マタイによる福音書 第24章 15節-31節
とてもうれしいことに、わたしたちの教会では、先月6月に一人、今月7月に一人、受洗者が与えられ、新しい仲間を迎え入れることができました。一人ひとりの歩みはそれぞれ違います。その一人ひとりに主イエスが出会ってくださいました。そして、この方こそわたしの救い主、と一つの信仰を言い表します。神ご自身にほかならない主イエスが、この世界を訪れられたのは、このわたしのためでもあった、洗礼はそのことを思い起こさせ、確認させます。 主イエスはこの世界に、クリスマスだけ訪れたのではなく、死んで葬られ、復活し、天に昇られ、その後もう一度訪れる、と約束しておられます。「再臨」です。今読んでいるマタイによる福音書第24章、第25章で主イエスが弟子たちにお語りになったのは、「わたしは必ず、あなたがたのところに戻って来る。だからただ、わたしを待ちなさい」ということでした。弟子たちにとって、その原体験となったのは、主イエスのお甦りの出来事でした。主イエスが十字架で死に、しかし甦られて、弟子たちを訪ねてくださいました。弟子たちは、衝撃を持って受け止めたことでしょう。しかし「わたしは必ず来る」と言われた主イエスの言葉を、疑うことができず書き記し、福音書を伝えたのです。 これは、わたしたちも同じです。主イエスに出会って洗礼を受ける、誰にとっても思いがけないことです。そのわたしたちが十字架を見つめながら、わたしは必ずあなたがたのもとに戻って来る、と語る主イエスの言葉を聴きます。 主イエスは、この世界が終わりに向かってやがて味わう大きな苦難、悲しみについて語られます。偽メシアが現れ、戦争、飢饉、地震、人々の憎み合い、裏切り、不法があり、愛が冷える。神はおられないではないか、という状況です。その時、「荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つ」、「その時には…逃げなさい」と主イエスは語られました。この言葉を聴いていた弟子たちは、その意味がわからなかったと思います。けれどもそれから2、3日後、弟子たちは痛いほどわかったと思います。その時憎むべきものは主イエスを十字架につけたからです。弟子たちは逃げました。どこに逃げても、主イエスはもう一度弟子たちを訪ねられました。わたしたちのところにも必ず訪ねられます。 【2025年 7月 6日 主日礼拝説教より】 説教「大きな苦難が来る時にも」 ダニエル書 第12章 1節-13節 マタイによる福音書 第24章 15節-28節
前回、マタイによる福音書第24章のはじめの部分を読みました。主イエスがこの世の終わりについて、そのしるしについて語られていました。「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」、また「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」という言葉がありました。ウクライナや、イスラエルや、イランなどでおきていることと酷似しています。争い、憎しみ、破壊をもたらす大きな力が働いています。 本日のところには、「荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たら」とあります。その憎しみと破壊をもたらす力を体現している者が、人々が恐れかしこむ、国の政治の中心の立場に着く、ということでしょう。主イエスが語られたこれらのこの世の終わりのしるしは、わたしたちに恐怖を覚えさせます。そして、世界の現実もその苦しみと破局へ向かっています。 そこで主イエスがまず語られたのは、意外にも「逃げなさい」というものでした。憎むべき破壊者の支配と戦いなさい、ではないのです。憎しみと破壊をもたらす力はわたしたちを飲み尽くそうとする、そこで、最後のギリギリまで守り、戦う必要はない、陣地を捨てて逃げなさい、と言われます。しかもそこでは家の中のものを持たず、戦うことを放棄しなさい、言い換えれば、神にすべてを委ねなさい、といいます。その世界に破局をもたらす力は、「世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難」だ、といいます。その力に打ち勝つことのできる者は、一人もおらず、ただ神が選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださることだけが、わたしたちの救われる道です。 また、そのときには、偽メシアや偽預言者が現れるから、それらを信じるな、ともいわれます。それはたとえ信仰者であっても惑わされてしまうほどだ、といいます。それらのものを信じずに、「人の子」である主イエスご自身が再び来られることを信じなさい、といいます。そのときは、稲妻のように、すべてのものがそれをはっきりと見ることができるからだ、といいます。 この世界の終わりは世界の崩壊ではない、わたしたちが克服できないような大きな苦しみの中で、主イエスが大きな力を帯びて天から来られることです。わたしたちは、その救いを信じて、そこに希望を置くことを許されています。 【2025年 6月 29日 主日礼拝説教より】 説教「前のものに全身を」 フィリピの信徒への手紙 第3章 12節-16節
フィリピ、という今のギリシャに位置していた町で礼拝をしていた人々に、手紙を書いた人物は、パウロという人でした。彼は保守派のユダヤ教徒で、キリスト教の人々を、脅し、捕まえ、手をかけていた、殺していた人物でしたが、パウロは衝撃的な仕方でイエス・キリストに出会い、ユダヤ教徒ではなく、正真正銘、キリスト教徒として歩み始めた人でした。 パウロはすでにキリスト教徒になっているのに、「私は、すでにそれ(キリストと共に生きる命)を得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。」と語ります。「なんとかして捕えようと努めているんだ」と言っているのです。その理由は、「自分がキリスト・イエスによってすでに捕らえられているからです」。日本語になっていないような気がします。 フィリピの教会の人々のなかには、「わたしたちはすでにキリストのものとなっている。救われている。だから気を張って生きなくて大丈夫。罪を犯すのも、人間だから仕方ないよね」そう言っている人がいたらしい。だからパウロはいてもたってもいられず、筆をとったわけです。わたしたちは改めて、キリストに捕えられている、キリストのものになっている、と言いながらも、それをとらえようとしているパウロの姿に注目をしたいのです。 すでに十字架にかかられ、復活されたあのイエス・キリストを信じたときから、私たちの手はキリストによって、握りしめられている。その手は、離されることはない。問題は、その手を私たちは、果たして日常生活を送るにあたって、握り返すことができているか、ということ。それをパウロは問いかけるのです。私たちがなすべきことの一つに、握られたその手を、ほかの誰かに伝えることがあります。手を握り返す、というレースの最中に、なぜこのようなことが、ということも起こるかもしれません。どれだけ過酷なレースであったとしても、イエス・キリストはゴールで待っていてくださいます。へこたれても、癒し、起こしてくださる聖霊が併走してくださっています。そのレースを走り終えたとき、ともに泣いて喜んでくれるチームメイト、信じる群れ、教会という共同体があります。なにより、つらかったね、よく頑張ったね、手を握り返してくれてありがとう、そう言って温かく抱いてくださるイエス・キリストがいらっしゃいます。だからわたしたちはパウロのように、走り続けることができるのです。 【2025年 6月 22日 主日礼拝説教より】 説教「世の終わりに備える」 イザヤ書 第44章 1節-8節 マタイによる福音書 第24章 1節-14節
マタイによる福音書第24章は、主イエスがこの世の終わりについて教えられた御言葉が記されています。ここで主イエスが世の終わりの前兆して起こる、と言われている不安な出来事や恐るべき出来事は、あまりにも今日の状況と重なり合います。6節に「戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが」とあるのは、今日のロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとイスラム組織ハマスの紛争などと重なり合います。7節の、争いによって「飢饉や地震が起こる」というのも、貧困や地震が今でも世界のあちこちで起こっています。12節の「不法がはびこるので多くの人の愛が冷える」というのも、政治家や芸能人がその立場を利用して私腹を肥やし、欲望を満たす事が起こり、不法が一向に減らない現代社会の様子を示していると思います。世界の破局への不安を感じます。 このようなときにわたしたちは、確固たる滅びないものを探します。主イエスの時代には、弟子たちがエルサレムの神殿を指さして、この素晴らしい神殿は破壊されたり、崩れたりすることはないでしょう、と言いました。けれども主イエスが言われたのは、この神殿ですらも崩壊する、ということでした。そして実際、紀元70年に、ローマとの戦いによって、エルサレム神殿は崩壊したのです。永遠に倒れないように見えても、必ず滅びることを示されたのです。 それを聞いた弟子たちは、神殿崩壊はこの世の終わりの到来だ、と考えて、第一にそのことはいつ起こるのか、第二にその時にはどんな徴があるのか、と尋ねました。第一の問いに対して主イエスは、神殿が崩壊し、あるいは様々な災いが起こるけれども、それはまだ世の終わりではない、と言われました。それは、終わりの始まりに過ぎないのです。第二の問いに対しては、「主イエスがもう一度来られて、この世が終わる」そうお答えになられました。この世は、戦争や災害などの破局、崩壊によって終わるのではなく、主イエスが再び到来する、そのことによって終わります。主イエスの到来とは、わたしたちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださり、復活して天に昇られた主イエスが、救い主としての力をもって、もう一度到来し、神のご支配が完成する、ということです。わたしたちは、この主イエスを指さすものでありたいと思います。 【2025年 6月 15日 主日礼拝説教より】 説教「エルサレムのための嘆き」 エレミヤ書 第6章 6節-8節 マタイによる福音書 第23章 34節-第24章2節
今朝与えられた御言葉は、マタイによる福音書第23章の終わりから第24章の始め、その橋渡しとなるところです。第24、25章は終末に関する教えが並べられ、まとめられています。その始まりとして、第24章1,2節で、エルサレム神殿が崩壊することを預言されました。 エルサレム神殿の崩壊は、当時のユダヤ人にとってはとても考えられない出来事でした。豪華絢爛な建物の神殿が、旧約のバビロン捕囚の時、紀元前587年に破壊され、崩壊しました。その後、約70年後に、捕囚で連れ去られた者たちが戻ってきて、神殿が再建されることになります。そもそも、神殿は神がご臨在されている場所なので、神が守ってくださる、と信じられていたのです。 そのエルサレムに向かって主イエスは、「エルサレム、エルサレム」と二度繰り返して呼びかけられました。このままではエルサレムは滅びてしまう、そのことを何としてもわかってほしい、という思いがあふれた言葉です。ところが実際に、更にこのエルサレム神殿が崩壊するのは、紀元後70年、今度はローマとの戦争の結果、また崩壊することになります。 主イエスは、神の民イスラエルに神が何をされたかを告げます。「めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか」。神の民を愛する神が、何度も繰り返し自分のもとに立ち返るように預言者を始め、神のみ心を伝える者たちを送られました。けれどもイスラエルは偶像を拝む方へと進みます。でも神の民は使わされてきた者たちを退け続けたのです。主イエスはローマによって再び滅ぼされることを知るがゆえに、「エルサレム、なぜわからないのだ」と嘆かれたのです。 律法学者やファリサイ派の人々にとって、神殿は決して破壊されることなく未来永劫栄え続けるはずのものと考えていました。けれども、どんなに立派でも、未来永劫栄え続けることはあり得ず、未来永劫続くのは、十字架にかけられた主イエスの父なる神だけです。神殿に頼るのは、神の前に「自分は正しい」というところに立つのと根は同じ罪です。わたしたちは、主イエスが再び来てくださり世を完成してくださることを、信頼して待ち望みたいです。 【2025年 6月 8日 主日礼拝説教より】 説教「神の言葉が広がる出来事」 詩編 第119篇 105節-112節 使徒言行録 第2章 1節-13節
たった今、洗礼式を行い、その流れの中で、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を思い起こしつつ、御言葉に聴くことのできる幸いを思います。「ペンテコステ」とは、ギリシア語で第50番目という意味で、数字がそのまま、教会の祝いの日の呼び名になりました。そこで聖霊が注がれ、教会が生まれました。 2「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした」。聖霊とは何でしょう。この使徒言行録の理解によれば、「教会の言葉」を生み出す神の力のことです。そしてその聖霊は弟子たちに降り、エルサレムにたくさんの国の人たちが集まる、そのそれぞれの国の言葉で、神の偉大な業が語られた出来事となりました。そこから、教会の歴史は始まりました。聖霊が、教会に新しい言葉を与えてくださいました。聖霊なる神が、教会を通して、一人ひとりに語りかけてくださったのです。もちろん、その言葉の内容の中心は、イエス・キリストを証言する言葉です。 弟子たちに聖霊の降る出来事が起こった後、ペトロが、36「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と説教を語りますが、その説教の中で、興味深いことは、14「私の言葉に耳を傾けてください」といって語り始めたことです。この「私の『言葉』」というのは、「レーマ」という言葉が使われていて、それは言葉と存在・出来事を合わせたような広い、特別な重みのある言葉です。ペトロはここで、存在・出来事が伴うような新しい言葉を、語らせていただいた、ということなのです。 かつてわたしは、教会の説教とは「イエス・キリストの十字架と復活」の出来事こそ大切で、それを指差す指への注目は必要ないと考えていました。けれども神の霊を受けて「私の言葉に耳を傾けてください」と叫ぶペトロは、その存在自体が丸ごと神の霊の出来事だ、と思い直しました。そしてまさに今日わたしたちは、言葉が出来事となったことを、洗礼式を通して味わったのです。 【2025年 6月 1日 主日礼拝説教より】 説教「神の言葉を殺すのはなぜか」 エレミヤ書 第13章 15節-17節 マタイによる福音書 第23章 25節-36節
今日与えられた箇所の中の25,27,29節に「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ」という言葉が重ねられています。すでに13節から始まって、15,23節と続いていました。「偽善」です。わかりにくくはないと思います。特に25節以下「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている」、だから杯の内側を清めるように、そうすれば、外側も清くなる、といいます。 けれども誰でも困ると思います。本当は醜い心をなんとか外側で取り繕おうとしている自分の生活を、悲しみ、諦め、あるいは開き直っているわたしたちです。けれども、主イエスが「偽善者よ、あなたに災いあれ」とおっしゃったら、腹を立てるだけでなく、別の出来事も起こされるでしょう。 偽善、という言葉を別の言い方で言い直すと、「本音と建前」となるかもしれません。本音ではこのヤロウ、と思いながら、建前ではきれいに装うのです。 ある教会の牧師が「教会には本音と建前の区別はありません」という話をしました。それを聞いて教会こそ本音と建前の区別が激しいだろう、牧師の説教はキレイ事ばかりではないか、と感じた方がいたそうです。けれども確かに、わたしたちが神によって救われるということは、この本音と建前の問題は離れられないでしょう。建前だけ救われる、というわけにはいかないからです。 けれども主イエスがわたしたちに、「あなたは災いあれ」と言われた時、建前をやめなさい、とおっしゃったのではありません。そうではなく、自分でも気づかない本音を、根本的に、丸ごといやさなければならない、あなたは救われなければならない、何としてでも。そこに主イエスの深い決意がありました。
主イエスは、その救いを成し遂げるために、十字架で死んでくださいました。主イエスの父なる神は、預言者を殺し続けて神に背き続けたような人間に、旧約以来、「あなたは顔をあげよ」「あなたはどこにいるのか」と呼びかけ続け、招き続けました。「災いあれ」と呼びかける主イエスのお姿は、偽善、建前に生きるわたしたちを訪ね、招いてくださっておられる、その現れです。 【2025年 5月 25日 主日礼拝説教より】 説教「見える目を求めて」 エゼキエル書 第20章 32節-38節 マタイによる福音書 第23章 13節-24節
マタイによる福音書第23章以下が、第5章以下の「山上の説教」と響き合っていることは、先日もお話しました。「山上の説教」は、「~幸いである」という言葉が8回語られ、「8福」などと呼ばれることがあります。
今日の第23章では、幸いとは正反対の「災いあれ」という言葉が、7回もしく8回出てきます。この点においても、第5章と第23章は対比されます。幸いを語ろうと、この世にやってきたのに、「災い」しか語ることのできないこの世の状況が、主イエスの悲しんでおられる状況を表しているようです。
ところで主イエスは、律法学者、ファリサイ派の人々に繰り返し「あなたがた偽善者に災いあれ」と語り、彼らを厳しく批判されました。13節では、律法学者、ファリサイ派の人たちが天の国を閉ざしている、と言われています。これは主イエスが、天の国、すなわち神のご支配のもとで生きようせず、「人に見せるため」、神の眼差しよりも人の目を気にして生きる、律法学者たちの偽善の姿を見ていた言葉です。15節の、「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪いゲヘナの子にしてしまう」というのも、もともとユダヤ人でない異邦人が、神を信じて生きる時に、神の眼差しの中で生きることではなく、正しく立派な生活をして人に評価される生き方をすることを求める人々が生まれていくことを指しています。
もちろん、よい業が無意味だ、ということではありません。けれども、神の眼差しのもとでなされるのでない良い業は、人に見せるためのものとなることが起こってしまうと、それが偽善となります。
わたしたちは皆、日々、このような偽善に生きていないでしょうか。神のご支配のもとで生きることを求めず、人の目の前で右往左往する生活を送っていないでしょうか。「災いあれ」とはわたしたちに向けられていないでしょうか。
主イエスは、この偽善に生きるわたしたちの罪をすべて背負って十字架で死なれました。ご自身の身に、呪いを引き受け、憐れみと同情をもってわたしたちを見守ってくださいます。この主イエスの眼差しの中で生きることがわたしたちの信仰です。その時、人の目の囚われから起こる偽善から解放されます。
【2025年 5月 18日 主日礼拝説教より】 説教「わたしたちはどこにいるか」 イザヤ書 第26章 7節-15節 マタイによる福音書 第23章 1節-12節
今日の礼拝から読み始めるマタイによる福音書第23章から第25章の3章にわたって、ほとんど一方的に主イエスがお語りになられた言葉が記されています。それは同じ福音書の第5章から第7章にかけて記されている「山上の説教」と対応している、と言えます。 この第23章で語られているのは、律法学者やファリサイ派の人々への主イエスの厳しい批判の言葉です。ファリサイ派は、聖書では主イエスの敵の代表としてでてくるので、とんでもない悪人だと思ってしまいますが、彼らは真面目に、熱心に神の掟に従って生きようとしていた人々でした。彼らがそれほど悪人ではないことは、主イエスが彼らのことを「モーセの座についている」と語っていることからわかります。ファリサイ派はモーセの権威を受け継いでいる、「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」、主イエスは決して、頭ごなしに否定しておられるわけではないのです。 しかし主イエスはそれに続いて「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」と言われました。この実行していない、というのは、ファリサイ派の人々の教えと実際の行動が分裂している、という意味ではないでしょう。ファリサイ派の人々は真面目に生きようとしていました。「言うだけで実行しない」というのは、律法を教え、それに従う道を教えてその人の肩に大きな重荷を乗せるけれども、その人がそれを背負って歩いていけるようにはしてくれない、という意味です。 彼らの教えが何故こうなっているか、というと、「そのすることは、すべて人に見せるためである」からだ、といいます。彼らは、いかに自分が神の掟を大事にして信仰深いか、を他人に見せようとしていたからです。だからファリサイ派の人の言葉は、その人に重荷を負わせるだけで生かさないのです。 主イエスはファリサイ派の、自分を偉い者、立派な者と思い込む高ぶりを批判し、戒めています。人の評価を気にすることをやめるために、神の評価を求めるしかありません。神はわたしたちを、主イエスによる罪の赦しの恵みの眼差しで見ておられます。そのことを覚え、神を見つめて生きていきたいです。 【2025年 5月 11日 主日礼拝説教より】 説教「誰がわたしたちを救うか」 詩編 第110篇 1節-7節 マタイによる福音書 第22章 41節-46節
今日は、マタイによる福音書第22章の最後のところをご一緒に読みました。ここは、主イエスがファリサイ派の人々に一つの問いを投げかけ、それを巡ったやり取りの後で、「これには誰一人、言葉を返すことができず、その日からは、もはや、あえて質問する者はなかった」というほど、主イエスが論争に完全な勝利を得た物語です。主イエスが問われたのは、「あなたがたはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか」ということでした。メシアとは、「油注がれた者」という意味で、神から特別な任務を与えられた人のことを指していましたが、やがて、神から遣わされる救い主のことを指すようになりました。 メシアは誰の子か、と問われたら、どう答えるでしょうか。当時のユダヤ人にとっては「メシアはダビデの子である」というのが唯一の答えでした。神がダビデ王に「あなたの子孫にイスラエルを救うまことの王を建てる」と約束してくださったことに基づいています。マタイによる福音書や聖書全体も、これが前提となっています。ファリサイ派の人が答えたのは、全くの正解でした。 ところが主イエスが、問いを重ねます。詩編の第110篇を引用しながら、どうして、ダビデがメシアを「私の子」、ではなく、「私の主」と呼んでいるのか、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。主イエスはこの問いによって、ファリサイ派の人々のメシア、救い主に対する基本的な姿勢を問題にしておられます。マタイによる福音書の第21章から、ファリサイ派の人々は主イエスの権威を問うていました。そして、3つのたとえ話が続きますが、21:28以下の「二人の息子のたとえ」、21:33以下の「ぶどう園と農夫のたとえ」、22:1以下の「婚宴のたとえ」いずれも神の権威によって遣わされた者を認めず、従おうとしない者たちの姿を描き出していました。主イエスは、ご自分が神の独り子として、神の権威を持って振る舞っておられたことをはっきりと示されたのです。けれどもファリサイ派の人々は、その主イエスの父なる神からの、ダビデの子、メシアとしての権威を認めようとしませんでした。わたしたちもメシアである主イエスを自分で裁くのではなく、「わたしの主」と信じ受け入れ、従う者とされたいと思います。 【2025年 5月 4日 主日礼拝説教より】 説教「伝道の始まり、その陰で」 詩編 第121篇 7節-8節 使徒言行録 第4章 1節-22節
本日の礼拝は、わたしたちの仙台東一番丁教会が、教会創立144年を迎えることを覚えての特別な礼拝です。わたしたちの教会が、いわば誕生日を迎えた、そう考えてよいと思います。誕生日は、その記念の日を迎えたことを喜ぶだけではなく、そこまで刻まれた神の恵みを思い起こすときであると思います。先週行われた定期教会総会で、6年後に控えた教会創立150年を見据えながら、いくつかの事業の中で、150年史の編纂をなし、そのために献金を献げていくことが決議されました。まさしく、この教会において示された神の恵みを整理して、目に見える形で表そうとするものです。 この教会の始まりに、どのようなことが起こったのでしょうか。1880年10月10日に押川方義と吉田亀太郎が仙台で伝道を始めた、と言われます。基督教講義所を建てましたが、最初は「基督教に耳を傾ける者甚だ少なく」、語るメッセージが受け止められず、あまり人が集まらなかったようです。そこで押川と吉田は町内を一軒一軒巡って歩いて聖書を売りながら伝道をし、講義所にも少しずつ聴衆が集まるようになったと言います。しかし、押川夫妻は経済的困窮によるところもあり、健康を害し、特に方義は3ヶ月も床に伏さねばなりませんでした。その間、吉田が孤軍奮闘の働きをなし、押川方義が回復すると、1881年5月1日に、横山覚、伊藤悌三の二名が、押川から洗礼を授けられることとなりました。そしてこの日が、わたしたち仙台東一番丁教会の創立に記念日として覚えられ、今日の礼拝も献げられていることになります。 しかし、注目をしたいのは、この日から二週間も経たない5月13日に、押川の次女、克子が神のみもとに召されることとなった、ということです。苦労しながらも華々しく伝道が始まり、受洗者が与えられる教会としての大きな喜びの中で、我が娘を天に送る悲しみを味わわされたのでした。けれどもこれこそが、今にまで続く教会の営みなのだと思わされています。 使徒言行録第4章の、弟子たちの最初期の伝道も、きわめて似たところがあります。おそらく死をちらつかせる脅しに屈せずに、死を超える復活の主イエスの福音を、これからも語り続けて行く教会でありたいと願います。 【2025年 4月 27日 主日礼拝説教より】 説教「最も重要な言葉」 申命記 第10章 12節-22節 マタイによる福音書 第22章 34節-40節
今日の聖書には、神がその民イスラエルにお与えになった戒めの中で、最も重要なものは何かについての、主イエスの教えが語られています。最も重要な戒めは2つある、と主イエスはお語りになられました。第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、第二は、「隣人を自分のように愛しなさい」です。いずれも旧約の申命記6:5、レビ記19:18の言葉です。内容的には、第一は神を愛すること、第二は自分のように隣人を愛すること、とまとめられます。旧約の全体が、この2つの戒めに基づいている、といいます。
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
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原 妃弥子 神学生(東京神学大学)
原 妃弥子 神学生(東京神学大学)
瀬谷 寛 牧師
原 妃弥子 神学生
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
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成 智圭 教師(東北学院中高)
瀬谷 寛 牧師
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