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【2024年 11月 3日 主日礼拝説教より】

説教「何度でも、赦しなさい」
      瀬谷 寛 牧師

       ネヘミヤ記 第9章 26節-31節

       マタイによる福音書 第18章 21節-35節


 

 ペトロが主イエスに質問をしました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。ここまで、主イエスは、罪を犯した者を、赦さなければならない、ということをお語りになっておられました。それを聞きながらペトロは、自分に対して罪を犯した者を、どこまで赦さなければならないか、と考え、率直に質問しました。

 主イエスの答えは、ペトロの思いを遥かに超えていました。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。計算すれば490回です。もしもこれが、具体的な回数のことを言っているのであれば、ある人が自分に犯した罪を1回、2回、と数えて、積もりに積もった恨みを490回まで耐えたそのあと、491回目には大変なことになるでしょう。恨みが爆発するからです。もちろん、主イエスはそのようなことを言おうとしているのではありません。

 そこで、主イエスはたとえを話されました。印象深い話です。

 ある王が、家来の一人に貸した一万タラントンの借金の決済をしようとしました。1万タラントンとは、6000億円という途方もない金額です。当然、この家来は返済できません。この家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。するとなんと王は憐れに思って彼を赦し、その借金を帳消しにしたというのです。問題はここからです。その後、この家来に100デナリオン、100万円ほどの借金をしている仲間に会うと、「借金を返せ」と言いました。その仲間は「どうか待ってくれ」しきりに頼みましたが、家来はそれを聞き入れず、仲間を牢に入れました。赦さなかったのです。

 王は神、一万タラントンの借金を帳消しにしてもらったのはわたしたち、100デナリオンの借金をしていたのがわたしたちに罪を犯した人です。主イエスは、あなたは一万タラントンの借金を帳消しにしていただいたのだから、100デナリオンの借金を帳消しにするのは当たり前ではないか、と教えてくださいました。わたしたちは、主イエスの十字架によって、途方もない罪の借金を帳消しにしていただきました。わたしたちは十字架の前に立ち、いつもそのことを思い起こしたい、そして、自分に罪を犯した人を何度でも赦す者とされたいと思います。





【2024年 10月 27日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスは今ここに」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第85篇 1節-14節

       マタイによる福音書 第18章 15節-20節


 

 信仰を持って生きようとするときに、おそらく誰もが一度は抱く問いは、「イエス・キリストは本当に生きておられるか」という問いではないかと思います。今ここに、主イエス・キリストが生きておられ、共にいてくださる、このことを信じられれば、どんな問題があってもそれでわたしたちの信仰が成り立ちます。

 今日のところで主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とお語りになられました。それは何よりも礼拝のことを指しています。主イエスの御名によって集まるところ、主イエスを信じ、その御言葉を聞き、従っていく思いを持って集まる、そこに主イエスがおられます。わたしたちはその礼拝の只中におられる主イエスにお会いするために、礼拝に集まるのです。

 けれどもそれは礼拝だけではなく、様々な集会、祈祷会とか、先週行われた教会修養会、子どもたちの礼拝、夏期キャンプも、そこはすべて主イエスの名によって集まるところであり、そこに主イエスが共にいてくださり、わたしたちはそこで主イエスにお会いすることができます。

 「二人または三人」というのは、「集まる」ことが成り立つ最小の人数です。つまりどんな少数でも、主イエスのみ名によって集まる人がいるところには、主イエスは共にいてくださいます。わたしたちの教会は70名ほどが集まって礼拝を献げます。けれども、礼拝において主イエスにお目にかかる恵みは、人数によって変わることはありません。2,3名の礼拝であっても、人が集まっているところに主イエスが共にいてくださる恵みは全く変わりません。

 人が集まる時、そこにはよいことと同時に、様々なトラブルが生じます。互いに傷つけ合うことが起こります。わたしたち一人ひとりは罪人だからです。それは主イエスの名によって集まる教会においても同じです。しかし教会には、その真ん中に主イエスが共におられ、十字架の死をもってわたしたちを赦してくださいました。この主イエスは、み名によって集まる者たちを、兄弟姉妹として結び合わせてくださるお方です。そのお方に、それぞれの罪と、それによって起こってくる問題を乗り越えられるように、神に祈り求めてまいりたいと思います。





【2024年 10月 20日 主日礼拝説教より】

説教「兄弟を得るために」
      瀬谷 寛 牧師

       レビ記 第19章 17節-18節

       マタイによる福音書 第18章 15節-20節


 

 今読んでいるマタイによる福音書第18章は、第16章と並んで、主イエスが教会について語っておられる数少ない、大切な箇所です。特に第18章は「教会憲章」と呼ばれ、その中心をなすのが、今日読んだ15~20節です。

 けれども、ここでの教会の姿は、何の問題もない、理想的な群れとして描かれていません。弟子たちの、偉くなりたい思い、仲間割れ、対立がその群れにあることが示されます。また主イエスが、「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ことがある、と語られます。更には、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と語られています。

 今日の15節でも「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と語られています。教会の中で、罪を犯すことが起こり、自分が被害者になることがある、というのです。その時に主イエスはまず、「行って二人だけのところで忠告しなさい」といいます。二人きりで率直に話し、反省を求めよ、というのです。これは難しいです。しかしここで聞き取るべきは、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」という言葉です。「言うことを聞き入れる」とは、罪を認め、悔い改めることです。それによって「兄弟を得る」ことが起こります。

 それがうまくいかなければ、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と教えられています。一対一では水掛論になってしまうところに、客観性を持つ意見が加わります。けれども、これも説得はなかなか難しいです。

 なお聞き入れないときには、「教会に申し出なさい」と言われます。ここにおいて大事なことは、兄弟姉妹の間での罪の問題は、個人的な問題にとどまらず、教会の問題なのだ、ということです。教会に申し出られたら、やはり同じように罪を犯したものを説得し、悔い改めを求めます。兄弟を得るための三度目の努力をします。それでもどうしても解決が得られず、悔い改めないならば、教会の仲間としての交わりから、外に出す、ということです。悔い改めを求める、最終的な措置です。そのようにして、罪によって兄弟の関係を失っている者たちの間に、真実な悔い改めと赦し合いが実現して、交わりが回復されることが、主イエスによって期待されているのです。





【2024年 10月 13日 主日礼拝説教より】

説教「キリスト者として死ぬ幸い」
      瀬谷 寛 牧師

       申命記 第34章 1節-8節

       ローマの信徒への手紙 第14章 7節-12節


 

 一年に一度の逝去者記念主日聖餐礼拝を献げています。この場所で一緒に礼拝を献げた仲間が、今度は礼拝の場所を天に移された、そのことを覚えています。この礼拝でわたしたちがなすことは、死者を覚え、交わりが与えられたことを神に感謝し、神をほめたたえること、そして、わたしたちも必ずこの地上の歩みを終える時が来たときに、わたしたちをみもとに迎え入れてくださる神との交わりを結ばせていただくことを確認することです。

 今日のローマの信徒への手紙の14:9にこうあります。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。主イエスは死に、そして生きた、それは十字架の死と三日目の復活を指しているでしょう。そのことが、わたしたち死んだ人も生きている人も関わりをもっている、と聖書は語ります。わたしたちは、2000年前のイエス・キリストという方と、今日のわたしたちの間に、何の関係もない、と考えがちです。けれども主イエスの到来の意味は、神がその独り子をこの地上に遣わしてくださって、わたしたちすべての人々と関わりを持とうとされた、ということです。その主イエスが死んだ、ということは、神に背き、罪を犯し、それによって裁かれ、神に見捨てられて死ぬべきわたしたちの死を、その身代わりとして主イエスが引き受けてくださった、ということです。そればかりでなく、わたしたちが支配されている死の力を、主イエスの復活によって打ち破ってくださったこと意味します。神はこのようにして、死んでいくわたしたちと徹底的に関わりを持ってくださいました。

 ですからわたしたちは、その神に応えて、自分のためにではなく、主のために生きるようにされるのだ、と聖書は語ります。それはわたしたちがどこを向いて生き、死ぬのか、主なる神が関わりを持ってくださるのだから、主なる神を向いて生き、死ぬ事ができるようになるだろう、ということです。

 そしてそのような生き方をするならば「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と言えるようになります。神がわたしたちと主イエスを通して徹底的に関わってくださり、わたしたちの死においてさえも、その御手をお離しにならない、キリスト者はそのように死ぬ幸いが与えられています。





【2024年 10月 6日 主日礼拝説教より】

説教「これらの小さな者が」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第23篇 1節-6節

       マタイによる福音書 第18章 10節-14節


 

 先ほど歌った『讃美歌21』200番の「ちいさいひつじが」は、もともと『こどもさんびか』に収められていました。かつて教会学校に通ったことのある人は、歌ったことがあるでしょう。ここには、迷子になって泣いている羊を、探し出して連れ帰ってくれる羊飼いの姿が描かれています。

 この「迷い出た羊」のたとえ話は、主イエスがお話しくださいましたが、今日のマタイによる福音書と、もう一つ、ルカによる福音書第15章に描かれており、そこには、「迷い出た羊」「なくした銀貨」「失われた息子(放蕩息子)」のたとえ話が3つ並べられています。いずれも、「失われたものが見出される喜び」を表しています。神のもとから失われ、迷子になって絶望しているわたしたちを、まことの羊飼いである主イエスが探し、見つけ出し、神のもとに帰って連れ帰ってくださることを、「神が」喜んでくださることを強調しています。

 今日のマタイの箇所では、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という主イエスの言葉から、全く違う文脈でこのたとえ話が語られています。「小さな者」とは、直前にあったように、子供のような、小さな、目立たない、無視されたり軽んじられてしまうものに対して、その小さな者一人を軽んじるな、と教えています。神が、この小さな者のことをいつも気にかけておられ、ご自分の大切な民として見ておられるのです。

 そのことを語るたとえとして、「迷い出た羊」のたとえ話が語られています。神が、失われた一匹の羊のことをいかに大切に思っておられるか、その一匹が失われてしまうことを神は良しとなさらず、群れへ回復されることを心から願い、喜ばれる方であることを語っています。ルカの記事と同じメッセージです。

 ただルカでは、迷子になった一匹の羊はわたしたちであり、主イエスがそのわたしたちを誠に羊飼いとして探し、連れ帰ってくださいます。けれどもマタイにおいて迷い出た羊は、わたしたちが軽んじ、つまずかせてしまう小さなものの一人です。そうすると、わたしたちは九九匹の側に属し、失われた一匹の羊の回復をどれだけ願い、喜ぼうとしているか、が問われます。主イエスは、そのために、十字架におかかりになり、ご自分の命さえも、お与えになられました。





【2024年 9月 29日 主日礼拝説教より】

説教「つまずかせないために」
      瀬谷 寛 牧師

       マタイによる福音書 第18章 1節-9節


 

 主イエスが子どもを巡って、弟子たちと語っておられます。ここで主イエスが語られている一つのことは、3節「子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」、つまり問題は、天の国に入るために「子供のようになる」ことです。しかし主イエスが言われている、もう一つ言われていることが、5節「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」ということです。ただ、子どものような心を示すだけではなく、主イエスの名のゆえに一人の子供を受け入れることが語られています。それは、どんなに力弱く、無価値に見えても受け入れること、一人の人間の存在の重みを、主イエスの名のゆえに受け入れることが問われています。

 6節からのところでは、主イエスとの関係において、この特に小さいもののことを考えることが、「つまずかせてはならない」という禁止の命令のような形で語られています。

 主イエスはこの「小さなものの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて海に沈められる方がまし」だ、と言われました。最も弱いところに、最も十分な配慮が注がれなければならない、ということは、この主イエスの言葉は教会の交わりの中こそ、聴くべき言葉ではないか、と思います。

 ここで主イエスは大胆にも「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい」、目も同様につまずかせるならえぐり出せ、といいます。「命にあずかる」とは「神の国に入る」と同じ言葉であり、すなわち、神の国に入るためには、神の主権に全く服し、その妨げとなるもの、つまずきとなるものは、切って捨てなければならない、そうしてでも、小さなものを受け入れることを、大切にしなさい、というのです。

 わたしたちにとって究極的なことは、命にあずかること、神の国に入ることです。その究極的なものを第一に求め、わきまえるためには、その光のもとで、相対的な、つまずきになるものをあえて切り捨てることも求められています。主イエスは切り捨てられる側に立って、つまずきを取り除いてくださいました。





【2024年 9月 22日 主日礼拝説教より】

説教「天国でいちばん偉い人」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第131篇 1節-3節

       マタイによる福音書 第18章 1節-5節


 

 今日から礼拝で読み始める第18章は、マタイによる福音書の中で、第16章と並んで、とても大切な箇所です。他の箇所が大切でないわけでは決してありませんが、主イエスがここでだけ「教会」という言葉を用いて語っておられる、という意味で、大切に耳を傾ける必要があります。

 この第18章は、弟子たちが主イエスに一つの質問をしたことから始められます。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。どうしてこの質問をしたのでしょう。ある人は、主イエスがいつもペトロだけを特別扱いしている、ひがみ、妬みの心が弟子たちを支配していたからだ、と説明しました。この妬みの問題は決して弟子だけではなく、わたしたちの教会でも、わたし自身の中にも起きている問題です。人間の意地汚い、罪がこういうところで現れます。

 その弟子たちに、主イエスは一人の子供を呼び寄せられ、「子供のようになる人が、天国でいちばん偉いのだ」とおっしゃいました。「子供のように」生きることを、わたしたちは誤解して、子供のように無邪気で純真に生きること、と考えますが、子供は決して純真ではなく、我がままで傍若無人です。

 では主イエスがおっしゃる「子供のように」とは何を意味するのでしょうか。それはむしろ、「自分では何も出来ない、役立たずな者」ということです。そういうものになれ、と主イエスは言われました。弟子たちは戸惑っただろうと思います。神さまの役に立つ、よく評価される人はどのような人かと問うたら、自分では何も出来ない、役に立たない子供のような者だ、と告げられたのです。天の国に入る、それはただただ恵みによる、憐れみによることです。わたしたちの中にどんなに良いところがあっても、天の国に入れる程の良いところはありません。ですから、天の国には、だれがいちばん偉いかという以前に、だれも入れないのです。にも関わらずわたしたちは、天の国に生きるものとされました。それはただ、神の独り子である主イエスがわたしたちのために十字架の裁きをお受けになったがゆえのことです。この主イエスに従うとは、自分が小さくなり、子供のように何も出来ない者として、ただ神さまの憐れみを受ける者としてみ前に立つこと、わたしたちも、受け入れられた者として受け入れていくことです。





【2024年 9月 15日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスの献金」
      瀬谷 寛 牧師

       出エジプト記 第30章 11節-16節

       マタイによる福音書 第17章 22節-27節


 

 今日の聖書箇所の最初の、22,23節で、主イエスはご自身が、これから人々の手に渡されて殺され、復活すると語っています。実はこのような主イエスの受難と復活の予告はこれが2回目でした。この言葉に対する弟子たちの反応について「弟子たちは非常に悲しんだ」と記されています。けれどもこの一言には、重いものがあります。弟子たちの心に、大きな不安と恐れを与えたことでしょう。

 その中で起こったのが、24節以下の出来事です。主イエス一行がカファルナウムというペトロの家があった町に滞在していた時、ペトロのところに神殿税を集める者たちがやって来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言いました。神殿税とは、出エジプト記30:11以下にある、20歳以上の男子はエルサレム神殿に必ず納めることになっているものでした。ユダヤ人たちの常識では、エルサレムに神殿を納めることは神の民イスラエルとして当然の義務でした。その中で、どのような態度をとるのかを問われたのです。

 ペトロは、「納めます」と答えました。世間といたずらに対立するのを避けたのです。けれども主イエスは、一つの問いを投げかけました。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」。税金を取られるのは、王に支配されている者で、王の子供たちが税金を納めることはありません。ペトロはそのように答えると主イエスは「では『子供たちは』納めなくてよいわけだ」と言われました。主イエスは、神の独り子であるから納めなくていいこと、そしてペトロを始め弟子たちも、神の子供たちとして税や貢物を納めなくていいことを示しました。この「納めなくていい」は「解放されている、自由である」という意味の言葉です。つまり主イエスは、神の子供とされるならば、ただ神殿税を払わなくていいだけでなく、根本的には、恐れ、不安、絶望から解放され、自由にされているのだ、我々は神の子供として、父である神の愛のもとにいるのだから、安心していいのだ、とおっしゃっているのです。

 その自由の中で、しかし、彼らをつまずかせないように、主イエスとペトロの二人が神殿税を納める手配を、ユーモアを持ってしてくださっています。





【2024年 9月 8日 主日礼拝説教より】

説教「からし種一粒ほどの信仰」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第49章 14節-21節

       マタイによる福音書 第17章 14節-20節


 

 「イエスは言われた。『信仰が薄いからだ』」。弟子たち、この言葉が向けられました。今日の少し前のところで、主イエスは3人の弟子だけを連れて山に登って行かれました。弟子の残りの9人が山の麓で主イエスたちの帰りを待っていると、一人の人が、てんかんで苦しむ息子を、その弟子たちのところに、きっと治してもらえるだろう、と思って連れてきました。弟子たちは祈りをし、悪霊を追い出そうとしましたが、症状は何も変わらず、9人は全く無力でした。

 わたしたちも信仰の弱さを思い知らされます。反省し、明日こそはやり直すぞ、と思って翌朝目を冷ましても、その確かな信仰の決意はたちまち崩れます。一人で主イエスの前に立つほかはありません。わたしたちの信仰が問われます。

 けれども、すでに今わたしたちは、教会の礼拝においてすでに、主イエスの前に立っています。わたしたちはどうしてあの姉妹の、この兄弟の悩みを、自分の信仰の力で解くことができないのですか、自分の家庭の災いを、取り除けないのですか。そう問うことが赦されるのが、この礼拝です。

 この「信仰が薄いからだ」という言葉の元の言葉は「信仰が小さい」という意味です。以前にも何度か出てきました。さらに主イエスは、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」とおっしゃいました。では、それを大きくすればいい、とわたしたちは考えるかもしれません。けれども主イエスは、信仰とは「からし種」のようなものだ、小さな信仰があれば問題はない、と言われました。なぜ、信仰をそんなにも小さなからし種一粒にたとえられたのでしょうか。大きい方が良いというのではなく、信仰とはそもそも小さいものだ、弟子たちの信仰は大きすぎる、もっと小さくなれ、と主イエスは仰っておられるのです。

 そこで、この福音書記者がひそかに「からし種一粒の信仰」、真実の信仰の姿を描いています。それは最初に登場する「ある人」が、「主よ、憐れんでください」と近づいたことです。「み心ならば、ここにいやしの奇跡を行ってください」といったのです。弟子たちは、自分の信仰でいやそうとしていました。

 信仰とは、自分たちの信仰を空洞にし、不信心な者を義とするために、十字架で死んでくださった主イエスの御業を全面的に受け入れ、委ねることです。





【2024年 9月 1日 主日礼拝説教より】

説教「あなたを捜す神」
      内田 幸四郎 神学生(東京神学大学)

       エゼキエル書 第34章 11節-16節

       マタイによる福音書 第18章 6節-14節


 

 マタイによる福音書18章1節で弟子たちはイエス様に問い掛けます。そして、イエス様は、3-5節でお答えになります。このポイントは、子供のようになること、つまり、偉くなることではなく、低くなることです。低いものが、子供です。小さな子供、特に赤ちゃんは、両親に全く依存して生きています。これと同じように、神様に全く依存して、一切をお委ねしなければ、神の国・天の国に入ることはできないのです。

 神様に全く依存して、一切をお委ねする人を、6節では「わたしを信じるこれらの小さな者」と表現します。この者を軽んじることには、鋭い警告が発せられます。私たち自身のことを振りかえってみると、自分が、教会で躓き、傷付いた経験があるでしょう。反対に、誰かを躓かせ、傷付けてしまった経験もあるのでしょう。そのとき、隣人を躓かせ、傷付けた自分に失望し、私は教会に来る資格などないと思ってしまいます。ですから、躓きを与えた側も、躓くのです。結局は、誰しもが、躓くのです。

 しかし、神様は、躓いた者を、そのままにはしておかれません。なぜなら、神様の御心とは、小さな者が一人も滅びないことだからです。私たちが一人も滅びずに、天の国へと招いてくださることだからです。そのために、神様は私たち一人一人を捜し続けてくださいます。イエス様は、そのことを「『迷い出た羊』のたとえ」を用いて、私たちに語ってくださいます。羊飼いが迷い出た一匹を諦めずに捜し抜いたように、神様は私たちを捜し続けてくださいます。神様にとって、私は百人のうちの一人ではないのです。神様にとって、私は、たった一人分の価値があるのです。神様は、私たち一人一人を愛してくださっています。

 その証拠が、私たちが礼拝をまもることです。私たちは、それぞれ一人一人が、迷い出た一匹の羊です。躓き、もう自分は教会に来る資格など無いのではないかと、迷っていた私たちです。しかし、神様は、迷い出た私たち一人一人を、捜し続けてくださいます。だからこそ、私たちは、礼拝に招かれたのです。この1週間、あるいはもっと長い間、神様は教会から離れていた私たち一人一人を捜し続けてくださいました。そして、今朝、神様は私たち一人一人を見つけたのです。そしてこの教会まで、この礼拝まで、一緒に歩いてきてくださったのです。





【2024年 8月 25日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスの招き」
      内田 幸四郎 神学生(東京神学大学)

       哀歌 第3章 31節-33節

       ルカによる福音書 第8章 42b節-48節


 

 まず見たいのは、この女性が置かれている状況です。彼女は「病気」と「孤独」という二重の苦しみの中にありました。この女性は、月経による出血が止まらない病気でした。これは身体的に負担の大きいことで、やがてベッドから起き上がる気力も体力も無くなります。また当時の律法 (レビ記15章)によれば、彼女はその病気の故に「汚れた」者です。すると、周囲の人間は、彼女から離れ、孤立します。彼女は、共同体の外に置かれた存在であったのです。

 この女性が苦しみの中にあるとき、病気を癒している「イエス」の噂を聞きます。これを聞いた彼女は、ここに唯一の可能性を感じたでしょう。「もうここしかない」と藁にもすがる思いです。彼女は、わずかな気力と体力とを振り絞って、イエス様のところに行きます。そして、イエス様の服の房に触れた後、イエス様は彼女を呼ばれました。イエス様は、藁にもすがる思いが信仰であることを認められました。その思いは信仰であると、イエス様は宣言くださるのです。

 この信仰は、私たちが思う信仰とは違うかもしれません。確かに、この女性は、イエス様が救い主であるとは、言葉で告白していません。彼女にとっては、イエス様である必要はなかったかもしれません。しかし、イエス様にとっては、彼女である必要があったのです。それがイエス様の招きです。実は、彼女がイエス様のところに来たのではないのではなく、イエス様が彼女を招かれたのです。

 私たちもそうです。私たちは、礼拝へと招かれたのです。誰しも最初は、「私は教会へ自分の意志で来たのだ」と思います。しかし、そこでイエス様に出会い、信仰の宣言を聞くとき、「私は教会へ招かれたのだ」と知らされます。彼女への信仰の宣言こそが「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」です。これを聞いたとき、彼女は「私は主イエスのもとへ招かれた」と知らされ、自分には信仰が与えられていると、気が付いたのです。この出来事は、私たちにも起こっています。イエス様は、私たちを礼拝に招かれました。そして、私たちに、信仰を与えてくださいます。私たちのうちに、気力と体力がないとき、信仰があるかどうか分からなくなるときこそ、イエス様は私たちを招いて、私たちに信仰を与えてくださいます。私には信仰があると、気が付かせてくださいます。

 ですから、イエス様は、私たちを招き、言われます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」





【2024年 8月 18日 主日礼拝説教より】

説教「神の企て」
      瀬谷 寛 牧師

       マラキ書 第3章 19節-24節

       マタイによる福音書 第17章 1節-13節


 

 高い山の上で、主イエスのお姿が光り輝く栄光のお姿に変わったのを、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちが見、そこに旧約を代表するモーセとエリヤが現れて主イエスと語り合っていた、という物語です。この出来事は主イエスの「山上の変貌」としばしば呼ばれています。この出来事は、多くの苦しみを受け、十字架につけられ殺される道を歩んでおられる主イエスが、実は本来は神の子としての栄光に光り輝くべき方なのだ、ということを示しています。

 主イエスは、この出来事の後、弟子たちと一緒に山を下ります。山の上での体験は、驚くべき、ありえないような、聖なる体験とでも言うべきものでした。そしてそれは、わたしたちが週ごとに主イエスの栄光のお姿を見させていただいている、この礼拝を献げている、ということと重なり合います。

 けれども、弟子たちはずっとそこにとどまることは許されず、山を下りなくてはなりませんでした。わたしたちも、この礼拝という山の上から、日常の世界へと歩みだしていきます。山の下にある世界は、悪霊が力を保ち、人々の悲しみと嘆き、悪と不正義、不信仰と絶望を味わう、神の愛のご支配が見えなくなるような世界でした。わたしたちが生かされている場所も同じことです。

 この山を下りていく時、主イエスは弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と言われました。どういうことでしょうか。それは、主イエスの栄光を、自分たちの所有物とするような、間違った仕方で受け止められてしまうことを防ぐためです。しかしこの沈黙の命令は、主イエスが復活するまでの限定付きの命令でした。復活においてこそ、その栄光は正しく、躊躇なく受け止められうるからです。

 ところで、旧約の最後のマラキ書の最後に、救い主が現れる前に、エリヤが遣わされることが預言されています。律法学者は、まだエリヤは来ていないから、主イエスはメシアではない、と言いたいようです。しかし、救い主到来のしるしであるエリヤは、洗礼者ヨハネにおいて、実はすでに示されています。山を下りた弟子たち、そしてわたしたちは、日常の生活の中で、神の恵みのしるしがどこにあるのか捜しつつ、恵みを数えて歩むように、と招かれています。





【2024年 8月 11日 主日礼拝説教より】

説教「イエスは誰か?」
      内田 幸四郎 神学生(東京神学大学)

       ダニエル書 第7章 13節-14節

       マルコによる福音書 第2章 1節-12節


 

 イエス様が、ある家で御言葉を語っておられるとき、4人の男が中風の人を運んできます。家は人で一杯でしたから、彼らは、屋根に穴を開け、中風の人を吊り下ろしました。彼らは、イエス様という1点に猪突猛進したのです。この人たちの姿を見て、イエス様は中風の人に罪の赦しを宣言なさいました。

 この家にいた律法学者たちは、イエス様は神を冒涜していると思いました。罪の赦しを宣言することができるのは、ただ主なる神様だけであるからです。つまり、ここで問われていることは、「イエスは誰か?」です。罪の赦しを宣言するということは、イエスは神であるのか。それとも、神を冒涜するただの人間であるのか。しかし、律法学者たちは、大切なことを見ていません。それは、イエス様に猪突猛進した信仰者の姿と罪が赦されるという喜びです。しかし実は、この律法学者の姿は、我々の姿です。我々は、罪が赦されるという喜び、我々が見倣うべき信仰者の姿を見続けることはできません。つまり、それは神様の愛が見えていないのです。

 このような私たちに対して、イエス様は10節で「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われ、中風の人の身体を癒されます。身体が癒やされたということは、聖書の文脈では、罪が赦されたということです。罪の赦しを宣言できるということは、イエスは神であるのです。律法学者が思ったように、神を冒涜するただの人間ではないのです。イエスは、「人の子」であると同時に神なのです。

 神であるイエス様は11節で「起き上がりなさい」と言われます。目を瞑り、光が見えず、暗闇の中で小さく丸まっていた私たちです。その私たちに「起き上がりなさい」とイエス様は言われるのです。これこそ、罪の赦しの宣言です。しかし、ただ命じるだけではありません。イエス様が、私たちの手を取り、握り、引っ張り、起こしてくださるのです。私たちの目を開かせ、暗闇を光で見たし、見るべきものを見せてくださるのです。見るべきものとは、罪の赦しです。私と隣人を愛してくださる神様の愛です。私たちは、これだけを見つめていたいと願います。





【2024年 8月 4日 主日礼拝説教より】

説教「光り輝く主イエス」
      瀬谷 寛 牧師

       申命記 第34章 1節-12節

       マタイによる福音書 第17章 1節-9節


 

 主イエスはペトロとヤコブ、それからヨハネという三人の弟子とともに、高い山に登られました。わざわざ三人の弟子を選んで立ち会わさなければならないほど大事な、主イエスの一番深い秘密の物語がここに始まります。主イエスの顔が輝き、その服が白く変わったのです。「主イエスの山上の変貌」と呼ばれます。

 不思議な出来事です。その意味は何でしょう。要するに、主イエスの神の子としての栄光のお姿を、三人の弟子たちは見た、ということです。それは、本来の主イエスのお姿でした。

 ところでわたしたちは、本当の姿を表すことに恐れを抱いていないでしょうか。妻が夫に、夫が妻に、全てをさらけ出しているでしょうか。会社でも、政治の世界でも、本当の姿があらわになることを皆恐れています。けれども、本当の姿がわからない間は、そこに本当の信頼関係が成り立っていない、と言えます。

 主イエスは、ご自身の本当のお姿を現されました。それは栄光に輝くお姿でした。信頼の証し、と言えるのかもしれません。そこに、モーセとエリヤが現れました。どちらも旧約を代表する人物です。神のイスラエルの民への救いの歴史が、主イエスに引き継がれることを示しています。神が約束してくださり、預言者たちが語ってきた救い主である、ということが、このようにして示されています。そしてそこに、神のみ声が響きます。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。これに聞け」。父なる神ご自身が、この主イエスこそわたしの子、と宣言され、神のみ心を行う者だと語られました。三人の弟子たちは、主イエスの光り輝く栄光のお姿を見、神の子の宣言を聴いたのです。

 彼らは、主イエスの神の子としての栄光を垣間見る時を与えられました。とても不思議な出来事です。けれどもそれは後に、聖霊によって、すべての弟子たち、そして、信仰者たちにも示される栄光です。わたしたちも、この三人の弟子たちが体験したのと同じことを体験し、目撃します。この礼拝においてです。礼拝において、聖霊なる神がわたしたちの心に、主イエスのお姿を表してくださり、神の独り子、救い主のその栄光を悟らせてくださいます。「わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」、それは礼拝に集うわたしたちの思いです。





【2024年 7月 28日 主日礼拝説教より】

説教「いのちを見出す」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第65章 1節-7節

       マタイによる福音書 第16章 21節-28節


 

 弟子たちの代表であったペトロは、物わかりの悪い人間の代表でもありました。主イエスが、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」、それが神の計画、定めであると弟子たちに打ち明け始められた時に、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言いました。神の子、救い主であるお方が、苦しみを受けて死なれる、そんなことわからない、考えられないと思ったのです。わたしたちも、主イエスを神の子、メシア、救い主であると信じ、その後に従っていきたいと願います。物分かりよく従うことができるでしょうか。

 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。これが、主イエスの後に従っていく弟子、信仰者のあるべき姿です。自分を捨てよ、とは、自分の望みや願い、自分が得をし、楽をしようとするなどの一切の思いを捨てる「自己否定」のことだと考えてしまいます。そしてそれは「他者のために」ということと重ね、「自分よりも他人のことを優先させる」、と考えてしまいます。

 けれども主イエスがおっしゃることは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」ということです。ここでの問題は、自分の命を本当に得るにはどうしたらよいか、ということです。「自分の命を救いたい」と思っている者はかえってそれを失い、主イエスのためにいのちを失うように見える生き方をする者こそが、本当に命を得ることができる、というのです。そのことは次でもっとはっきりします。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。自分を本当に大切にするとは、このような生き方をすることだ、と教えられています。

 わたしたちの命は、自分の努力、何をもっているか、で支えられるのではありません。すべてを超えて神が、わたしたちのいのちを導いておられます。わたしたちが本当に命を得ることは、神が独り子主イエスを十字架においてわたしたちのいのちの代価として支払ってくださった、それほどに値高いものだ、と受け止めるところでなされます。その主イエスの十字架にくっついて生きる、それが、自分の十字架を背負って、主イエスに従う生き方となります。





【2024年 7月 21日 主日礼拝説教より】

説教「神の定めた救いの道」
      瀬谷 寛 牧師

       列王記上 第8章 41節-45節

       マタイによる福音書 第16章 13節-23節


 

 マタイによる福音書第16章13節以下を何度も読んでいます。シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白し、主イエスが「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた場面を聴き続けてきました。今日新しく聴き取るのは、「このとき」から、初めて主イエスが、ご自分が十字架につけられ、殺され、そして復活する、という予告を語り始めておられることです。この予告はこの後もさらに二度、繰り返され、予告されていくことになります。

 まず、主イエスご自身が受難を予告されたということは、十字架の苦しみと死は、主イエスの予定外のことではなかった、ということが言えます。「苦しみを受けて殺され、三日目に復活することに『なっている』」というこの言い方は、神のご計画によってそのように定められている、だからそのとおりに従わなければならない、ということを意味する非常に強い言葉です。

 21節のところで「このときから」とはっきり言われているのはまさに、シモン・ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白と、主イエスが「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた「このとき」です。「このとき」こそ、いよいよ主イエスの受難について語られはじめられるときだ、と言うのです。主イエスが救い主であられることは、十字架の苦しみと死、そして復活によって成し遂げられます。主イエスの苦しみと死は、わたしたちの救いのために、まことの神、救い主として引き受けられたことです。主イエスが救い主であることと、主イエスが苦しみを受けられることは一つのことです。

 ところが、この受難予告を聞いたペトロは、主イエスを脇へ連れ出して「主よ、…そんなことがあってはなりません」といさめ始めます。主イエスが救い主と信じるゆえに、主イエスの受難予告を受け入れることができませんでした。これに対し主イエスは「サタン、引き下がれ」と厳しく言われました。ペトロは自分の理想の救い主のイメージを主イエスに押し付けてしまったゆえに、サタン、神の救いを妨害する者、と呼ばれてしまいました。わたしたちも、自分の思いを神に、主イエスに、押し付けてしまうペトロになることがしばしばあります。神が、主イエスを通して与えてくださる救いを、そのまま受け取りたく思います。





【2024年 7月 14日 主日礼拝説教より】

説教「罪と死に勝つところ」
      瀬谷 寛 牧師

       出エジプト記 第19章 1節-6節

       マタイによる福音書 第16章 13節-20節(3)


 

 先週の一週間、わたしたちの教会は、仲間の二人の方の葬りを行いました。二人の方の葬りが重なるのは、珍しいことかもしれません。けれども、動じることはありません。教会は、陰府の力、死の力と対抗し、勝利しているからです。

 主イエスが弟子たちに、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と問い、さらに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と改めて問いました。この問いに答える形で、弟子たちの代表としてペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えることができました。この告白した弟子の信仰の上に、「わたしの教会を建てる」と主イエスは宣言し、今日の教会に至っています。

 「自分にとって主イエスとは何者か」と考えることはとても大事です。けれどもそれだけでは信仰による本当の幸いに与ることはできません。その自分の信仰が、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われた、その教会の土台となる信仰告白と重なり合い、一つとなっているか、ということが大事です。

 主イエスはさらにペトロに、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われました。この天の国の鍵とは、天の国、神のご支配、その救いの恵みの扉を開けたり閉めたりする鍵です。それも、ペトロ個人にと言うよりも、弟子たちを代表して告白したあの信仰を共に告白している教会に授けられた、と考えるべきでしょう。何か教会がとてつもない権力を握っているように聞こえるかもしれません。しかし教会は主イエスをメシア、生ける神の子と信じる信仰によって結び合わされる群れであり、その信仰とは、神の子である主イエスがわたしたちのために十字架にかかって死んで、わたしたちの罪を赦して永遠の命に与らせてくださることを信じる信仰です。つまり主イエスによって天の国の扉が大きく開かれていることを信じるのが教会の信仰です。

 先週わたしたちがお送りした二人もまた、主イエスをまことの生ける神の子、救い主と信じる信仰によって、死の力、陰府の力に打ち勝つ教会の一員とされた方々です。わたしたちも、この信仰に生き、生かされています。





【2024年 7月 7日 主日礼拝説教より】

説教「岩の上に教会が建つ」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第27篇 1節-6節

       マタイによる福音書 第16章 13節-20節(2)


 

 本日読んでいるマタイによる福音書第16章の言葉は、聖書の中でも重要な言葉だと言えます。この箇所が重要である、と言われる第一の理由は、16節にある言葉にあります。「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」。主イエスは弟子たちに、「人々は人の子のことを何者だと言っているか」「わたしをどういう人間だと言っているか」とお尋ねになりました。いろいろな態度、理解がありました。そこでさらに、それでは、あなたがたはわたしをどういう存在だと見るのか、主イエスは問いを改められました。そこでペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。ここに、ペトロのキリスト告白、と呼ばれる言葉が記されました。ここで初めて、人間の言葉、人間の口をもって、ナザレに育ったこのイエスという存在が神の子である、と明確に語られました。そしてわたしたちにとっても、このイエスという方を、神の子、キリスト、と言えることが、信仰の中心です。

 この箇所が重要である第二の理由は、それに続いて18節以下に、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われていることです。この言葉について、教会の歴史において、たくさんのことが言われました。特に、ローマ・カトリック教会では「この岩」をペトロ自身であると理解しました。そのペトロの後継者がローマ法王と呼ばれる人です。けれども主イエスは、「あなたはペトロ、あなたの上に」とは言わず、「この岩(ペトラ)の上に」と言われました。言葉遊びをしていることは確かですが、わたしたち、プロテスタント教会では、「この岩」は、ペトロが言い表した「あなたはメシア、生ける神の子です」という「信仰告白」、と受け止めます。イエスというお方をどのように見、何者とするのか、そのことこそが、教会の土台を形作ります。

 しかし、ここでもっと注目したいのは、「『わたしは』この岩の上に『わたしの』教会を建てる」と言われたことです。「イエスこそメシア」と告白したペトロ、その告白の岩の上に「わたし(=主イエス・キリスト)」が「わたしの教会」を建てる、とおっしゃいました。教会はイエス・キリストのものです。





【2024年 6月 30日 主日礼拝説教より】

説教「神は愛なり」
      佐藤 由子 牧師(仙台南伝道所)

       詩編 第37篇

       ヨハネの手紙一 第4章 7節-12節


 

 聖書は「神を愛し、人を愛する(申6:4-5/マタイ22:34-40)」ことが記された書物です。しかし先日、東北学院大学の梅村平太さんと話をする中で、主に「愛される」ことの大切さを思い起こさせられました。御言葉をとりつぐ使命を託されていながら、「愛すること」ばかりを語り、「愛されること」の喜びを語りきれなかったのではないかと、クリスチャン学生との交わりを通して、主が私を悔い改めへと導いて下さいました。

 日々の生活の中で、何よりも大切なことは、主の足下に座り、主に愛される喜びの時を過すことです。それは、マルタとマリアの話にあるように(ルカ10:38-42)、イエス様ご自身が願っておられるのです。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。(ヨハネ15:11-17)」とありますように、朝ごとに、主は、私たちの名を呼び、私たちを愛して下さっています。聖書は、神がどれほど深く私たちを愛しているかを語る書物です(エフェソ3:14-21)。確かに、私たちの人生には、多くの試練や困難があります。しかしそれは、主が、私たちを愛しておられるからです(ロマ書5:1-11)。私たちは主に愛され、主への信仰が強められる中で、主に委ねることができるようになります。讃美歌「よろずをしらす(あなたの道を主にまかせて)」は、苦難の時代を生きたパウル・ゲルハルトが、詩編37編に導かれて作詞した歌です。私たちが主の愛に生きるならば、嘆きは希望へ、悲しみは讃美へと変えられていきます。

 まことの平和は、見えるものではなく、主への信仰と主の約束の言葉へと向かう中で造り出されていきます(ヘブライ書11:1-3)。主の十字架は、神が愛であることを、今も、高らかに語り続けています。しかし世界は、主を信じる人々でさえも、主の十字架を忘れてしまったかのように、愛する道を見失っています。だからこそ私たちは、愛することに忙しくなる前に、主に愛される喜びに生かされてまいりましょう。朝ごとに新たになる、主の慈しみと主の憐れみを溢れるほどに受けて(哀歌3章)、礼拝から礼拝へと、共に信仰の歩みを歩んでまいりましょう。





【2024年 6月 23日 主日礼拝説教より】

説教「イエスとは何者か」
      瀬谷 寛 牧師

       出エジプト記 第3章 13節-14節

       マタイによる福音書 第16章 13節-20節


 

 ただいま、転入会式をもって、他の教会から当教会に三名の仲間を加えることができました。本当に幸いなことです。しかし改めて、何をすれば、わたしたちの教会の仲間となることができるのでしょうか。それは、同じ信仰告白を告白できるか、そのことが確かめられるなら、仲間となっていただけるのです。今日の三名の方は、すでに長老会での面接において確かめさせていただきました。

 今朝与えられている御言葉は、弟子のペトロが主イエスに対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と初めて言い表した場面です。このペトロの告白は、先ほどわたしたちが共に告白した信仰告白の源流といえるものです。

 この場面、まず主イエスが弟子たちに、「人々は人の子のことを何者だと言っているか」と問いかけます。「人の子」とは主イエスご自身のことです。つまり、「世間の人はわたしをだれだと言っているか」と問われたのです。これは、ご自分の評判を気にしていた、ということではありません。次の二つ目の問いへの準備としての質問をしているのです。

 弟子たちは即座に、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と、いろいろ答えました。

 主イエスは、その弟子たちの答えを聞いたうえで、肝心な第二の問いを投げかけます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。世間の人たちがいろいろ言っているのはわかった、では、あなたがたは、わたし、イエスのことを何者と思っているのか、これこそ主イエスがわたしたち一人ひとりに問うておられる肝心な問いです。この問いに答えることこそが、わたしたちの信仰です。それは、わたしたちが普通に描く信仰のイメージ、つまり主イエスの教えに従うこと、共におられる主イエスの慰めを得ること、などとは違うかもしれません。信仰の中心は、主イエスが何者であるかがわかること、それなしには、教えや慰めを得ても、本当の支えや慰めにはならないのです。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子」と答えました。主イエスこそ生ける神の子としてわたしたちに働きかける救い主、わたしたちもそう答える幸いを教会で与えられています。





【2024年 6月 16日 主日礼拝説教より】

説教「思い起こす信仰」
      瀬谷 寛 牧師

       申命記 第8章 2節-20節

       マタイによる福音書 第16章 5節-12節


 

 わたしたちは皆、主イエスを信じる信仰、父なる神を信じる信仰において、確かさを得たい、と願います。その時に、証拠を求め、それによって納得しようとする、これがしるしを求める信仰です。4節までに出て来ていたファリサイ派とサドカイ派の人々は主イエスに、天からのしるしを見せてほしいと願いました。

 主イエスは、夕方の夕焼けを見て明日は晴れだと、空模様を見分けるように、具体的な毎日の生活の中で、いろいろなしるしを見て歩んでいるではないか、と言われました。主イエスについて、あるいは天の国、神のご支配、救いについても、同じようにあなたがたの身近なところに見るべきしるしがあるから、それを見落とさないようにしなさい、と言っておられます。

 5節以降弟子たちが登場します。彼らは主イエスのところに後から慌てて追いついて来たのですが、パンを持ってくるのを忘れたようです。しまった、と思いつつ到着した弟子たちに主イエスは、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言われました。それは4節までの話を前提とした言葉です。主イエスが「パン種」と言われたのを聞いて、「自分たちがパンを忘れたことを叱られたのだ」と思ってしまったのです。

 主イエスはその弟子たちに「信仰の薄い者たちよ」と言われました。「信仰が小さい」ということです。なぜそれが、信仰の小ささの現れなのでしょう。9節以下に「覚えていないのか、忘れてしまったのか」と主イエスは言われました。主イエスが五つのパンで五千人を満腹にさせ、七つのパンで四千人を満腹にさせた、あの出来事です。主イエスはそのように、ご自分のもとに集まる人々の空腹を満たしてくださいました。それを覚えているなら、パンを忘れてどうしよう、という思いにとらわれることはないはずで、そこに不信仰があります。

 弟子たちは、あの奇跡を忘れてしまったはずはないでしょう。けれどもそれを「覚えている」ことができませんでした。それは積極的に「思い起こす」という意味です。それが現在の自分の生活において生きた働きをする、ということです。信仰とは、神の恵みの体験を「思い起こすこと」です。わたしたちは、主イエスの救いの恵みを、思い起こしつつ生きる者とされ続けたいと思います。





【2024年 6月 9日 主日礼拝説教より】

説教「愛のしるし」
      瀬谷 寛 牧師

       ヨナ書 第2章 1節-3節、11節

       マタイによる福音書 第16章 1節-4節


 

 今日から読み始めるマタイによる福音書第16章は、この福音書における分水嶺、あるいは峠の頂、と言われます。これまで、登ってきた道がその半ばに達して、ペトロの主イエスへの信仰告白、主イエスの十字架の死と復活に向かって一気に下っていく、その転換点だからです。今日はその直前の場面となります。

 ここでファリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスに、天からのしるしを求めたことが語られています。しかし人間は、しるしを求めるものかもしれません。

 わたし自身も何度も、伝道者として、ここで手を置いて祈って、神が力を発揮されるしるしとしてのいやしの奇跡が起きれば、どんなにいいか、と思うことが病院で教会員の方を見舞うたびにしばしばありました。

 主イエスはしるしを求めるファリサイ派とサドカイ派の人々に対して、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われました。二つのことが言われています。一つは「しるしは与えられない」ということ、もう一つは「ヨナのしるしは与えられる」ということです。ヨナのしるしとは、ヨナが大きな魚の腹の中に三日いた後に陸に吐き出された出来事を指しながら、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活された出来事を意味しています。

 主イエスの復活、これ以上大きなしるしはありません。けれども、それを見聞きしたはずの人々も、皆が信じたわけではありませんでした。信じて受け止めれば、大きなしるしとなりますが、信じなければしるしになりません。

 ここでファリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスに天からのしるしを求めたのは、主イエスを信じたいためではなく、「主イエスを試そうと」するためでした。しるしによって、不思議な力を見たい、という欲を満たすためでした。

 主イエスが求める信仰の姿は、主イエスを愛する、愛の交わりとしての信仰の姿です。力ある神を信じることに加えて、使徒信条に告白されるような「父なる神」、神が父の愛で愛してくださる愛の交わりの中に、わたしたちが入れられていることを信じるのです。その神の愛が示されたのが、「ヨナのしるし」、つまり主イエスの十字架と復活です。このしるしは全ての者に与えられています。





【2024年 6月 2日 主日礼拝説教より】

説教「感謝に生きる」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第85篇 1節-14節

       マタイによる福音書 第15章 32節-39節


 

 先週に引き続いて、マタイによる福音書第15章の最後の場面、特に四千人にパンを与えた奇跡にもう少し集中して、耳を傾けたいと思います。

 主イエスが四千人もの大勢の人にパンを分け与える話は、語るものも聞くものも、大変印象的な話であったことでしょう。すでに第14章13節以下で同じような、五千人にパンを分け与えてくださったことが記録されています。しかしあまりに似たような話で、実際に主イエスがなさったのは1回だけで、それをマルコとマタイの両福音書が、2度に分けて繰り返しているだけである、と説明されることがあります。しかしここを読む時の問題は、読む側のわたしたちが、単なる繰り返し、ということで処理するのではなくて、ここから新しいことを読み取ることができるかどうか、ということです。

 ところで、今日の主イエスによって養われた四千人の人たち、というのは、どういう人達だったのでしょう。この箇所自体に特定する言葉は発見しにくいですが、おそらく、前のところからの流れで考えられるのは、異邦人であった、と言えると思われます。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいる」というのはおそらく、異邦人の町から三日の旅を主イエスと共にしてきたことが伺われますし、さらに、直前の31節で「イスラエルの神を賛美した」とわざわざ語っていることも、彼らが異邦人であることを示している、と思われます。

 そう考えると、五千人の奇跡と四千人の奇跡には違い、区別を見いだせます。最初の五千人はおそらく神の民イスラエルの人々が多く、それに対して四千人は異邦人たちであった、ということです。主イエスはこの異邦人にまでも食べ物を与え、恵みを分け与えられたのです。また四千人の奇跡は、より主イエスの十字架の受難が近づいている後の時期の出来事で、主イエスにとってより深い思いで行われた奇跡ではないでしょうか。

 教会の人々はここに、聖餐の原型を見ました。もちろん直接は最後の晩餐が原型ですが、主イエスがご自身の体と血を流した愛が注がれ、しかもイスラエルから異邦人に至るまで注がれたことを、思い起こすことは間違っていません。それによって、日本人という異邦人のわたしたちも、その恵みに与れるのです。





【2024年 5月 26日 主日礼拝説教より】

説教「主イエス、憐れに思う」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第35章 1節-10節

       マタイによる福音書 第15章 29節-39節


 

 先日逝去された、長く鎌倉雪ノ下教会の牧師であった加藤常昭先生の先生に、ルードルフ・ボーレンという方がいます。この先生は「愛は反芻する」という言葉を語られたそうです。牛が反芻して何度でも同じものを噛み、味わうように、愛は何度でも同じことをして飽きることはない、ということです。

 今日与えられたマタイによる福音書第15章の終わりの部分の29節には、主イエスが多くの病人や体の不自由な人をいやされたことが記されています。これはイザヤ書第35章の、救いが実現するときには、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる、との預言の言葉を主イエスの御業によって繰り返して語り、実現しています。

 それに続くのが、主イエスが四千人の人々に食べ物を与えた奇跡です。これは既に読んだマタイ14:13以下に、五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々を満腹にさせた話がありました。とても良く似た話が続いています。福音書記者マタイが、意味あることとして収めたのでしょう。まさに、「愛は反芻」します。

 本日の29節以下の、大勢の病人のいやしの話は、実はマタイによる福音書に置いて大事な位置と役割を果たしています。それを示しているのが29節前半の主イエスが「山に登って座っておられた」という言葉です。これまでにも似たようなお姿があったことを思い起こします。それは5:1「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」、そこから、山上の説教が始まっていました。つまり、山上の説教と多くの人々のいやしの御業を結びつけています。主イエスの教えと御業は切り離せないのです。

 そして四千人の人々に食べ物を与えた話ですが、先の五千人の話では、主イエスのもとに群衆が集まって夕暮れになってしまったことを弟子たちが心配していました。けれども、ここでの四千人の話では、主イエスが「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない」とおっしゃっています。「かわいそう」というのは、「憐れむ」という言葉です。内臓が痛むような憐れみを、主イエスが覚えておられます。実際、この後主イエスは十字架の死によって、わたしたちを憐れんでくださいました。





【2024年 5月 19日 主日礼拝説教より】

説教「大きな信仰」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第56章 1節-8節

       マタイによる福音書 第15章 21節-28節


 

 本日の礼拝は、聖霊降臨主日(ペンテコステ)として献げています。神のご支配がこの地上に継続されるために、主イエスの昇天後、聖霊が降り、そこに教会が誕生しました。今日の聖書は、その基礎となる、主イエスを信じる信仰がどのようなものか、その一つの側面を示します。

 主イエスは地中海に面した異邦人の地域、フェニキアのティルスとシドンに退かれました。そこで一人の女性と出会いました。彼女も異邦人でしたが、主イエスがおられることを伝え聞いて、救いを求めてやって来ました。そして「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と言いました。わたしたちは、主イエスはすぐに癒やしてくださるだろうと考えますが、しかしこのときはそうではなく、三度、拒否をされました。

 一度目は無視、二度目は、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃいました。この言葉は、「今は」という言葉を補って読むと意味がはっきりします。それでも、彼女はこの言葉にひるまず主イエスの前にひれ伏して助けを求めます。25「主よ、どうかお助けください」。

 これに対して三度目に主イエスは26「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とおっしゃいました。「子供たち」とはイスラエルの民、「小犬」とは異邦人、「パン」は神の救いの恵みのことです。彼女はそれでもひるまず、主イエスの言葉を逆手に取って27「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」と切り返しました。なんという機転でしょう。それ以上になんともしぶとい主イエスに対する態度です。

 しかしわたしたちがここで見るべきは、彼女のしぶとさではなく、彼女の信仰の姿勢です。それはつまり、自分は主イエスの救いに当然与れるものではない、救いの権利を主張できない、と言っています。自分が本当に主イエスの救いにふさわしくないことを知り、その上で彼女は主イエスに救いを求めました。

 主イエスはこの彼女の言葉を聴いて、「あなたの信仰は立派だ」と言われました。「大きな信仰だ」と言われたのです。救いに全く値しない自分になお手を差し伸べてくださる主イエスを信じて疑わないことが、「大きな信仰」です。





【2024年 5月 12日 主日礼拝説教より】

説教「神の言葉を聴く道」
      瀬谷 寛 牧師

       箴言 第12章 17節-22節

       マタイによる福音書 第15章 10節-20節


 

 主イエスとその弟子たちが手を洗わないで食事をしているのを見たファリサイ派の人々と律法学者たちが文句を言った事が、今日の場面のきっかけです。

 このファリサイ派と主イエスとの間にかわされた言葉で、心に留まるのが13節の「イエスはお答えになった。『わたしの天の父がお植えにならなかった木は、全て抜き取られてしまう』」という言葉です。これは、主イエスがファリサイ派の人々に対して、お前たちは、全て抜き取られてしまうぞ、という手厳しい言葉です。ファリサイ派の人々の信仰は、決していい加減だったのではありません。聖書を大切にし、その言葉通りに生きようとしました。その意味で、この人々も神が選び、お植えになったと言えます。けれどもいつの間にか今の生き方が似ても似つかないものに変質している、と主イエスは指摘しています。わたしたちの教会、わたしたち自身にも当てはまる可能性があると思います。

 では一体、ファリサイ派の人々は何が問題だったのでしょう。主イエスは11節で「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである」とおっしゃいました。これは、生活の隅々まで律法を守ることによって汚れから身を守り、神のみ心にかなったものとなって救いに与ろうとするファリサイ派の人々と律法学者たちに真っ向から対抗する言葉です。つまり、外にある汚れから身を守ることによって、自分を清く保ち、救いに与るというファリサイ派の考え方に、主イエスが「違う」とおっしゃっています。

 主イエスが問題にされたのは、外からくる汚れではなく、わたしたちのうちにある罪です。汚れたものは食べない、食事の前に手を洗う、そんなことをいくらしてもわたしたちの心の中は清くならない、その証拠に心からいろいろな悪いもの、神のみ心に叶わないものが出てくるではないか、というわけです。主イエスは心を問題にされました。何よりもファリサイ派は「自分が正しい」と考えていた、その心が問題でした。それもわたしたちに無縁とは言えないものです。

 主イエスはわたしたちに、心のなかにある罪を認め、罪人として神の前に立ち帰りなさい、そうすれば清められる、と言われました。主イエスご自身が十字架におかかりになって、その罪を洗い流し、清めてくださるからです。





【2024年 5月 5日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスをくまなく触れ回る」
      瀬谷 寛 牧師

       民数記 第19章 11節-22節

       マタイによる福音書 第14章 34節-36節


 

 本日の礼拝は、教会創立143年の記念礼拝として、献げます。今から143年前の1881年5月1日に、最初の伝道者押川方義先生と吉田亀太郎先生の伝道によって、二人の受洗者が与えられた、その日を覚えて、毎年、この5月第一主日に記念礼拝を献げています。

 本日与えられたマタイによる福音書第14章の終わりのところでは、主イエスが多くの病人をいやされたことが記されています。主イエスが病気の人や体の不自由な人をお癒やしになられたことは、これまでのところでも、しばしば出てきました。ときに一対一の、個人的ないやしの業として、また別のときには多くの人々をいやされた業として、記されていました。いずれにしても福音書記者マタイは、主イエスがご自分のもとに集まってきた、病や障害を負って苦しんでいる人々を深く憐れみ、繰り返しいやしてくださったのです。それが主イエスにとっての大切な御業の一つでした。

 今から143年前の仙台での出来事を思い起こす時、この主イエスの様子と重なり合うように思いました。主イエス一行が湖を渡りゲネサレトという街につくと、主イエスが来た、と言って人々が触れ回り、そして、病人を連れてきて、癒やしてもらいました。当時はすでに、仙台はある程度の街になっていたようですが、まだ、主イエスを知らない人だらけの中で、押川先生、吉田先生たちが、一所懸命伝道をして、主イエスを宣べ伝えました。人々が集まってきます。集まってきた人は、そこで語られた言葉を聴いていやされ、力を与えられます。彼らは何よりもそこで、主イエスの、罪の赦しの言葉を聴いたに違いありません。そのようにして、主イエスご自身に触れたのです。この方は、神の独り子でありながら、自分たち人間の罪をすべてご自分の身に背負って赦すために、十字架で死んでくださいました。この主イエスの言葉を聴き、主イエスに触れた人は、この方の赦しといやしに与ることができました。赦しといやしは、元は同じ言葉です。

 わたしたちが、主イエスの言葉を聴き、この方に触れて、赦しといやしに与りたいと思います。そのいやしに与ったわたしたちが、主イエスの赦しといやしの言葉を携えて出ていくものとされます。この教会で繰り返されたことです。





【2024年 4月 28日 主日礼拝説教より】

説教「神の言葉に生きる、とは」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第29章 13節-24節

       マタイによる福音書 第15章 1節-11節


 

 本日与えられたマタイによる福音書15:1以下は、食事のときに、主イエスの弟子たちが手を洗わなかった、ということを、ファリサイ派の人々、律法学者たちに咎められた、ということが出発点となっています。主イエスもまた、手を洗わずに食事をしていた、と考えられます。それは、わたしたちから見ても食事の前に手を洗わないのは、流石に汚いだろう、と思うかもしれませんが、ファリサイ派の人々などが問題にしたのは、衛生の視点からではありません。宗教的な、信仰に関わる視点からでした。

 当時のユダヤ人にとって、異教徒、間違った信仰、あるいは、汚れた生活に生きている、と見られていた人々が周りにたくさんいる中で、ファリサイ派の人々は、聖なる生活がしたい、と一所懸命努めていました。特に食事は神性な、信仰的にも清められた時でなければならず、汚れていることは許されません。だからバイ菌を拭うことよりも、信仰を持たない人や汚れた世界と触れた汚れをどう清めるかがいつも問題となり、そのために手を洗わなければなりませんでした。

 これは「昔の人の言い伝えによる」とあります。「昔の人」とは「長老」と訳せる言葉です。だから「長老たちの言い伝えを破るのか」と訳す聖書もあります。当時、聖なる生活を保つために、例えば「食事のときには水を二度、手の上で往復させなければならない」など生活の定めを立てていたのが長老でした。主イエスと弟子たちは、それに沿わないふるまいをし、汚れた人間と決めつけられていたのです。主イエスは、「なぜあなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか」と答えられました。「自分の言い伝え」と言い換えています。それは、6「神の言葉を無にする」ことに通じる、というのです。

 わたしたちもまた、神の言葉を無視します。神は、主イエスは、そのような罪を裁かれます。しかしその罰は、主イエスご自身が十字架で受けてくださいました。だからわたしたちは主イエスに、「主よ、憐れみ給え」と祈ります。





【2024年 4月 21日 主日礼拝説教より】

説教「安心しなさい、わたしだ」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第29章 13節-24節

       マタイによる福音書 第14章 22節-36節


 

 今日の礼拝後、2024年度第二次定期教会総会を神のみ前に開きます。当初、この礼拝を総会の開会礼拝と位置づけることまでは考えていませんでしたが、このとても豊かな、慰めに満ちた御言葉は、実にふさわしい御言葉だと思います。

 ここに描かれているのは、主イエスがガリラヤ湖の水の上を歩いて、漕ぎ悩んでいる弟子たちの舟の所まで来られた、という出来事です。聖書の中の、こういう非科学的な記事は、荒唐無稽な話であり真実から程遠いので受け入れがたい、と思うかもしれません。一所懸命合理的に、「ここでイエスは浅瀬を歩いていたのだ」、と説明しようとしたりします。しかし、この言葉から信仰を得、さらには伝道者・牧師となった人がいます。人の人生を変えうる豊かな御言葉です。

 ここで弟子たちは、小舟に乗ってガリラヤ湖へ漕ぎ出しています。しかし一晩中、逆風に悩まされ、漕ぎ悩んでいました。夜明け頃、主イエスが水の上を歩いて彼らの舟へと近づいてこられました。ここでは、主イエスが水の上を歩く、という手段が問題なのではありません。どんな方法であったとしても、主イエスが神の御子としてのみ力によって、共にいてくださるご自身を示し、苦しみ悩んでいる弟子たちに救いのみ手を差し伸べておられる、それが大切なことです。

 ところがその主イエスを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げました。人間の常識に捕らえられた自分の思いの中でしか主イエスを見ていないと、わたしたちも恐れ、叫び声を上げてしまいます。

 そのような弟子たち、わたしたちに主イエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださいます。この「わたしだ」は、「エゴー・エイミ」という言葉で、神がモーセにご自身の名前を示された、そのギリシア語の言葉です。つまり、主イエスはここで「わたしは神だ」と宣言しておられます。だから「恐れるな」と続くのです。どんなに逆風が行く手を阻もうとも、まことの神である主イエスが共にいてくださる、だから安心なのです。

 その後、ペトロが湖上の主イエスから「来なさい」と促され、主イエスを信じて水の上を歩きますが、風に気づくとペトロは怖くなり溺れかけました。が、主イエスはペトロの手を伸ばしてつかみます。わたしたちの手もつかんでいます。





【2024年 4月 14日 主日礼拝説教より】

説教「五つのパンで五千人」
      瀬谷 寛 牧師

       出エジプト記 第16章 1節-5節

       マタイによる福音書 第14章 13節-21節


 

 わたしたちは、神のみ前に、まことに小さな者ですが、神が、主イエスが、わたしたちを選び、わたしたちの歩みに深く関わり、御業をなされます。主イエスは、あえて言えば、聖書の中ではなく、わたしたちと共におられます。

 主イエスが、五つのパンと二匹の魚を五千人に分け与えられた箇所を読みました。どの福音書にも記されており、それだけ愛された物語だったのでしょう。

 主イエスと弟子の一行は、人里離れた所に退かれたのですが、しかし多くの群衆がその後を追いかけました。皆それぞれ、苦しみや悩みをもって主イエスの後を追って来ていたのです。主イエスは自分のもとに集まってきた人々を、「深く憐れんで」救いのみ手を差し伸べてくださいました。食事も忘れるほどに時間が過ぎ、ついに夕暮れになりました。人里離れたところなので、食べ物をすぐに手に入れることはできません。弟子たちは心配して、群衆を解散させ、最寄りの村に行けるように、と考えました。しかし主イエスは、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」と言われました。けれどもそこには、男だけで五千人いた、というのです。食料の調達は、極めて難しいことです。パン五つと魚二匹、それが弟子たちの持っている食料のすべてでした。

 普通ならば、「とても出来ない」と諦めてしまうところです。けれどもそこから、神の御業が始まります。わたしたちができると思っているところでなすことは、結局自分の業に過ぎません。

 主イエスは弟子たちに、「それをここに持ってきなさい」とおっしゃり、そのパンと魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、神に感謝しました。ここで、パンと魚の意味が変わりました。弟子たちが自分の力で用意した食べ物から、神が祝福し、養ってくださる食べ物に変わりました。それに気づく時、わたしたちは神の国に生き始めます。

 弟子たちが配っても配っても、そのパンはなくなりませんでした。それは、このパンは神の憐れみ、神の愛そのものだったからです。弱く小さな弟子、わたしたちは、神の憐れみ、神の愛を配っていくだけです。配るものは神が与えてくださいます。ここに神の大きな御業にお仕えすることのできる喜びがあります。





【2024年 4月 7日 主日礼拝説教より】

説教「宴席の主は誰か」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第23篇 1節-6節

       マタイによる福音書 第14章 1節-12節


 

 今日の箇所で光があたっているのは、洗礼者ヨハネです。主イエスが登場する直前に、その準備、道備えをした人です。そして主イエスが活動を始められたのと入れ替わるように、獄に入れられて首を切られたのがヨハネでした。

 ヨハネを監禁して殺したのは、「領主ヘロデ」でした。ヨハネが捉えられたのは、ヘロデが自分の兄弟であるフィリポからその妻ヘロディアを奪って、自分の妻にしてしまったことを、ヨハネが批判したからです。そしてヘロデは結果として、ヨハネを殺すことになりました。それはヘロデの誕生日の祝いの宴席でのことでした。ヘロディアの娘、「サロメ」と伝えられている少女が、宴席で踊りを踊りました。踊りに気を良くしたヘロデが、「願うものは何でもやろう」と誓って約束しました。すると娘は、母ヘロディアと相談して、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言いました。ヘロデはそれを断ることができずに、あるいはそれを口実に、ヨハネの首をはね、娘に渡しました。

 見落としてならないことは、この話は、もうずいぶん前に起こったことの回想として語られていることです。ヘロデにとっては、記憶から消し去ってしまいたい嫌な思い出だったに違いありません。そのことを思い起こさせたのは、ヘロデが主イエスの評判を聞いたからです。主イエスがあちこちを巡って教え、あるいはいやしをなさった噂を聞いて、あの嫌なヨハネの首を取った場面を思い出し、ヘロデはもう一度、不安と怖れの中に投げ出されました。その思いは、主イエスをもヨハネと同じように抹殺しようとする思いを生みました。それは主イエスの十字架の死への道を暗示しています。

 これが、誕生日の祝宴で起こったことに注目します。多くの参列者の中で、ヘロデは自分こそこの国の支配者、何でも思い通りにできる、と確認したことでしょう。けれどもその権力に有頂天になるヘロデの祝宴は、洗礼者ヨハネの首を切ることで、血に染まります。わたしたちもしばしば、このヘロデの心を持つことがあります。けれども、まことの神と出会う時、わたしたちの人生の主人が、自分ではなく神にあることに気付かされます。教会が、礼拝が、聖餐が、神がわたしたちの宴席の、人生のまことの主であることを示しています。





【2024年 3月 31日 主日礼拝説教より】

説教「主と共に死に、復活するわたしたち」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第110篇 1節-7節

       コロサイの信徒への手紙 第3章 1節-4節


 

 イースター、おめでとうございます。主イエスは、闇のような、神に逆らう罪に満ちたこの世界に来てくださり、その世界の罪をすべてご自身の身に引き受け、十字架で死んでくださり、罪の闇を滅ぼしてくださいました。そして闇が完全に滅びたことが明らかになるために、光として主イエスが十字架の死から復活してくださいました。そして、世界のこの喜ばしい日に、一人の人が洗礼をお受けになり、わたしたちの教会の仲間に加えられることとなりました。

 今日与えられました聖書の言葉の中に「あなたがたはキリストと共に復活させられた」とあります。まるでわたしたちの復活が、過去のある時点において起こったことであるかのように語ります。教会員のある方が、「イエスさまがご復活なさったことはわかります。けれども、わたしたち人間も復活するのですか」と素朴に質問してくださいました。もしかすると、多くの人が抱いたことのある問いではないか、と思います。

 今日の聖書では、そのわたしたちの復活、しかもわたしたちがやがて死んだ後に復活する、ということでなく、すでに過去のある時点において復活させられた、とはっきり記します。この言葉の伏線として、その前のところで、「あなたがたはキリストとともに死んだ」と、これも過去のある時点で起こった事実として記されています。コロサイの信徒への手紙の著者とされるパウロは、そのことで何を言おうとしているのかと言えば、洗礼のことを言おうとしています。キリスト者とは、洗礼を受けた時に、キリストとともに十字架に死に、キリストとともに復活させられた者、というのです。こんなに欠けに満ちた、罪深いわたしたちであるにもかかわらずです。本当にありがたいことです。

 だからもう、地上のものを求めるではなく、上にあるものを求めて生きよう、とさらに御言葉は語ります。わたしたちの本来の生活は、この地上にあるように見えますけれども、実は、キリストと共に神のうちに隠されている、つまり、わたしが生きているのではなく、十字架で死に復活されたキリストに包まれるようにして、すでに主イエスがわたしを生きてくださっているのです。今日の受洗者と共に、上を目指す歩みを続けさせていただきたいと思います。





【2024年 3月 24日 主日礼拝説教より】

説教「あなたは何を見るか」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第8章 5節-15節

       マタイによる福音書 第13章 53節-58節


 

 主イエスは、ガリラヤ湖畔の北岸、カファルナウムという町をその活動の拠点としていたようです。主イエスが生まれ育った町、ナザレは、湖の南西に当たります。ここで主イエスは故郷に帰られた様子が記されています。主イエスは、他の町でしているのと同じように、会堂・集会所で、一人の律法の教師として語っておられました。

 この主イエスが語る言葉を聞いたナザレの村の人々は、「驚いた」といいます。それは、権威ある者としてお語りになったからです。

 彼らはイエスという人物を子どもの頃から知っていました。家族のこともよく知っていました。彼は30才ころに突然、家を出てあちこちを放浪して回るようになっていました。知っていたけれども、知っていたゆえに、主イエスを信じることができませんでした。その故郷の人々を見て、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言われました。

 ナザレの人々は、イエスという人物について、よく知っている、と思っています。しかしそれは、人間としての、目に見える部分におけることです。自分たちが知っている範囲の中で、イエスという人を捉えようとしています。けれどもこの方は、彼らの思いを遥かに超えた方でした。一人の人間であると同時に、まことの神であられるお方、神の独り子であり、神の全能の力と、御言葉を語る権威とを授けられて、この世に遣わされた方だったのです。主イエスを信じるとは、このことを信じることです。

 もう少し言い方を変えれば、主イエスが故郷に帰られたということは、そのナザレで出会った人々にとっても、その場所は故郷でした。自分が主人であることができる場所です。そこで、イエスという方を捉えようとする、すると彼らは、この方につまずくことになります。

 わたしたちは、自分の故郷で、自分の手の内で、自分が主人であろうとするところで、主イエスを捉えようとすると、この方は敬われません。けれどもその故郷を出て旅立つなら、わたしたちの罪をすべて背負って十字架で死なれた、という人間の常識を遥かに超えた恵みを受け取ることることができます。





【2024年 3月 17日 主日礼拝説教より】

説教「物を売り払っても買うべきもの」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第119篇 9節-16節

       マタイによる福音書 第13章 44節-52節


 

 3月11日、それぞれの場所で、今から13年前の東日本大震災のことを思い起こしたのではないかと思います。

 わたしたちは今礼拝で、マタイによる福音書第13章を読み進めていますが、ここは主イエスが、天の国のことを、たとえを用いながら、群衆に、そして後半には弟子たちに、語り伝えてくださっています。ここでの天の国とは、神のご支配のことです。そして、神のご支配は主イエスの到来においてすでにこの世界に来始めており、わたしたちもその神のご支配の中を生きていることを聴いています。しかし、東日本大震災のような大惨事が引き起こされてもなお、神がこの世界をご支配しておられると言えるのでしょうか。聖書の答えは、やはりそれでも、神のご支配はあり、続いている、ということだと思います。

 今日のたとえは、天の国は、宝が隠されている畑を見つけたら、持ち物すっかり売り払ってその畑を買う、そのようなものだ、といいます。第一に、天の国は「隠された宝」だということです。誰にでもわかるわけではないのです。それが明らかになるのは、主イエスの再臨の時、世界の完成のときです。

 第二に、隠された宝としての天の国、その宝を見つけた人がいる、ということです。隠されていて人々が気づかない、その宝を見つけた人がいます。それが、この礼拝に集うわたしたち、神を信じている人、あるいは信じようとしている人です。信仰とは、隠された宝を見出すことです。しかしそれは自分で努力して発見するのではなく、たまたま見つけるものです。おそらくこの人は、普通の畑仕事をしていたら、偶然宝を見つけたのでしょう。

 第三に、しかし見出したからと行って、すぐそれがわたしたちのものになるわけではない、ということです。畑に隠された宝を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買い、宝を自分のものにします。そのために、全財産を売り払って買う覚悟が必要です。天の国という隠された宝を、何者にも代えがたい宝として、本当に真剣に、全力を尽くして求めていくことが大切です。

 この宝、それは神がわたしたちを愛してくださることですが、それを手に入れるため、全力を注ぐ主イエスの弟子として、歩みたいと思います。





【2024年 3月 10日 主日礼拝説教より】

説教「神の畑としての世界」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第34篇 1節-23節

       マタイによる福音書 第13章 36節-43節


 

 マタイによる福音書第13章は、主イエスがお語りになられた例え話が集められています。本日の第36節から、後半に入ります。というのは36節「それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると弟子たちがそばに寄って来て」とあります。同じ第13章の1,2節では、主イエスが湖のほとりにおられ、そこに群衆が集まってきて、お話になっておられました。語られた相手が、群衆と、弟子たちという違いがあることが示されています。群衆にはたとえ、弟子たちにはたとえの説明がなされていて、弟子はたとえ話に語られている天の国の秘密を悟り、理解していくのです。

 さて、今日は「毒麦のたとえ」を弟子たちに説明しているところですが、毒麦のたとえとは、ある人が自分の畑に良い麦の種を蒔いたが、夜中に敵が毒麦の種を蒔いたので、両方が一緒に芽を出した、僕(しもべ)たちは「毒麦を抜き集めましょうか」といったが、主人は「毒麦を抜こうとして良い麦まで一緒に抜いてしまってはいけないから、収穫までそのままにしておけ」と言った、という話です。その説明を求められた主イエスが、一つひとつの言葉が何を意味しているのかをお語りになられました。良い種を蒔く者は人の子(=主イエス、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子ら。御国の子らは正しい人々、悪い者の子らは不法を行う者ども、と言い換えられています。さらに毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちであると言って、この世の終わりの神による裁きのことを語っています。裁きとは、良い麦と毒麦をはっきり区別すること、救われる者と滅びる者が神によって分けられる、ということです。わたしたちがすることではない。

 今日の箇所で目に止まるのは「畑は世界」という小さな一言です。もともとこの世界全体が、神の畑であり、神は良い麦の種を蒔いてくださったのです。世界は基本的に良いところです。しかし悪魔によって毒麦の種が蒔かれ、それによって世界は良い麦と毒麦が混在するところとなっています。けれども世の終わりには良い麦と毒麦の区別がはっきりつけられます。教会も世界という神の畑の一部ですが、教会だけが、世界が神のものであることを知っています。





【2024年 3月 3日 主日礼拝説教より】

説教「からし種とパン種に似た天の国」
      瀬谷 寛 牧師

       エゼキエル書 第17章 22節-24節

       マタイによる福音書 第13章 31節-35節


 

 今日与えられたみ言葉は、主イエスがお語りになられた、天の国についての2つのたとえです。ここでの「天の国」は、わたしたちが考える、死んでから行くいわゆる天国とは少し違います。「天の国」は、神の国、神のご支配、という意味です。それは主イエスの到来とともにすでに始まっており、わたしたちは今すでにそこに生き始めています。わたしたちも、あの人もみな、今神のご支配の中にあることをわきまえることは、大切です。けれどもそれはまだ完成してはいない、完成は、主イエスの再臨の時、終末のときです。

 主イエスは天の国について、「からし種に似ている」「パン種に似ている」と言われました。からし種とは、1ミリにも満たない小さなものです。けれどもそれが成長すると、3~4メートルもの木になり、鳥が巣を作るほどになる、天の国はそれと似ている、と言われます。また、パン種とは、小麦粉を発酵させ、ふっくらしたパンにするパン酵母、イースト菌です。粉全体の量と比べれば、ほんの一握りです。それがパン生地に混ぜ合わせられ、こねられ、寝かされるうちに、生地全体が膨らむ、それが天の国に似ている、というのです。

 共通しているのは、からし種もパン種も、ごく小さなものだ、ということです。神のご支配の、その始まりは小さいものです。見えないほどのもの、人々が無視するほどのものです。けれどもそれが急速に大きく育っていきます。それは直接には一体何を指すかというと、主イエスご自身のお働きです。主イエスは実に素晴らしいお働きをなさいました。けれども世界を救う働き、という視点からすれば、小さなものです。実際に活躍なさった時間は3年間、活動場所はパレスティナの一部分、主イエスに影響を受けた人々の人数は、ごく僅かです。けれどもやがて、多くの人々が宿るほどに成長していきます。全世界にキリストの教会が建てられていきます。

 ところでわたしは伝道者として、すぐに不安や恐れにとらわれる小さな存在です。しかし、その不安や恐れにとらわれることは、神さまのご支配を忘れている罪です。みなさんも当てはまるでしょう。大切なのは自分や教会の小ささではなく、主イエスの十字架の死による神の恵みの大きさを見ることです。





【2024年 2月 25日 主日礼拝説教より】

説教「インマヌエル」
      柳沼 大輝 伝道師(千歳船橋教会)

       ルツ記 第1章 7節b-19節a

       マタイによる福音書 第1章 21節-23節


 

 私たちの人生には、いままで自分がしてきたことがまるで無駄であったと、激しい空しさに襲われるときがあります。

 ルツ記に登場するナオミもまた空しさを抱えていました。ナオミたち一家は食糧を求めて、故郷ベツレヘムから異国の地モアブまで、過酷な旅をします。しかし、そこで夫エリメレクと二人の息子が亡くなります。家の後を継ぐ孫も与えられず、ナオミはたった一人になりました。

 失意のもと、ナオミは一人故郷ベツレヘムに帰ることを決意します。しかし夫の嫁であるオルパとルツはナオミに同伴しようとしました。ナオミは、彼女らに自分の里に帰るように諭しますが、ルツだけは、最後までナオミにすがりついて離れようとしません。そこで、ナオミはルツと二人で故郷ベツレヘムへと帰っていきました。けれども、ナオミの心は一向に晴れることがありませんでした。久しぶりのナオミの帰国に沸き立つ町の人々に向かって、ナオミは「主がわたしを悩ませ 全能者がわたしを不幸に落とされたのに」と神への怒りと不満を口にします。

 しかし、その後、ナオミの人生は大きく揺れ動いていきました。ルツが落ち穂を拾いに行った畑が偶然にも夫の親戚ボアズの畑であり、最後には、ルツとボアズは結婚し、二人の間に諦めていた家の後を継ぐ孫が与えられました。町の人々は、ナオミに言います。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。」その後、その孫であるオベドからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれ、そこから救い主イエス・キリストが誕生します。

 主イエスは、預言者の言葉を通して次のように言われました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。主イエスは、ルツがナオミに最後まですがりついたように、あなたにすがりつく。絶対にあなたを一人にはさせない。見捨てない。あなたと共にいる。主が救いのご計画のなかで空しく思えるようなあなたの一歩を喜びと希望に満ちた一歩に変えてくださいます。





【2024年 2月 18日 主日礼拝説教より】

説教「良い麦と毒麦」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第126章 1節-6節

       マタイによる福音書 第13章 24節-30節


 

 今朝与えられている御言葉は、主イエスがお語りになられた「毒麦のたとえ」という小見出しがついている箇所です。こういうたとえ話です。種を畑に蒔いた人がいる、その種は良い麦の種、ところが人々が眠っている夜の間に、敵が来て同じ畑に毒麦の種をも蒔いてしまい、一つの畑に良い麦と毒麦とが共に生え育つことになってしまった、というのです。ここは前回までの「種を蒔く人のたとえ」と同様に、種が蒔かれ、育ち、やがて収穫することに、天の国、神のご支配の完成を見ています。このたとえにおいて並べられ、比べられているのは善い麦と毒麦です。神がご自分の畑に種を蒔き、芽生え育っていく、わたしたちはその神の畑で育つ麦です。

 この神の畑は、教会のこと、と見ることができます。わたしたちが信仰者となり、洗礼を受けて教会の群れに加えられるのは、この神の畑に植えられることです。ところがその神の畑である教会に敵が来て、毒麦の種を蒔いて行き、良い麦と毒麦が一緒に芽を出し、生え育っています。

 ところで、この話に登場する「僕たち」は、敵の蒔いた毒麦を「では行って抜き集めておきましょうか」と言います。この僕たちは教会の牧師、長老、執事を指す、と考えられてきましたが、そう限定することもないでしょう。信仰者ならもっとこうすべきだ、と人を批判し裁くすべての教会員のことです。

 それに対して畑の主人、神は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言いました。第一のポイントは、神は、ご自分の畑に毒麦が育っておくことをお許しになられました。第二のポイントは、刈入れまでは、共存が許されますが、刈入れのときには毒麦は全て集められ、火で焼かれ、良い麦の束は倉に入れられます。すると、いま教会に連なっている者も、自分が本当に良い麦かわからない、ということになるでしょうか。しかし、第三のポイントは、両方とも刈入れまで育つままにしておくのは、毒麦を抜こうとして、間違えて良い麦を抜くことが絶対に起こらないためです。神はわたしたちを良い麦として、一本一本を大切に思い、生かし、救いにあずからせようとしていてくださいます。





【2024年 2月 11日 主日礼拝説教より】

説教「神の言葉が聴こえるか」
      瀬谷 寛 牧師

       創世記 第26章 12節-14節

       マタイによる福音書 第13章 1節-23節


 

 主イエスが語られた「種を蒔く人のたとえ」を読んでいます。主イエスはたとえ話を、天の国・神の国のことを伝えるためになさっておられます。天の国・神の国とは、わたしたちが死んでから行く美しい永遠の世界、というのではありません。「神がご支配なさる」ということです。主イエスがこの世で活躍される始まりに、「神の国は近づいた」と宣言されました。それは、「ここに神が生きておられる」ということです。世に様々なことが起こり、本当に神が生きておられるならどうしてこんなことが起こるか、と思われる中で、それでも「神は生きておられる」と信じる、それが神の国、ご支配を信じることです。

 ではその神の国、神のご支配をどこで知るのでしょう。19節に「御国の言葉」と出てきます。わたしたちがその神の国、神の支配のことを知るのは、わたしたちの毎日毎日の生活で起こる目もくらむような大事業、というようなことではなく、主イエスが語ってくださった言葉を聞くことによります。つまり、日曜日ごとに教会に集まって、主イエスから静かなみ言葉を、自分の中に注ぎ込まれる、それによってのみ神の国を知り、生きることができます。

 そこで一つの問題は、わたしたちは御言葉よりも力強い、神の力の証が欲しくなる、ということです。誘惑との戦いを呼び起こします。主イエスがたとえ話で語っておられる第一は、道端に蒔かれたもののように、聞き取ったはずの御国についての言葉を、ぼんやりしていて取られてしまうこと、第二は、石地に蒔かれたもののように、最初はみ言葉を聞いて受け入れるけれども、この世の艱難や迫害にぶつかると崩れてしまうこと、第三に、茨に蒔かれたもののように、み言葉を聞き取っているが、思い煩いに負けてしまうこと、これらの誘惑によって、み言葉を聞きそびれてしまうのです。しかし主イエスは、良い土地に落ちたものは、みことばを聴いて悟り、豊かな実を結ぶ人生を作ることができる、とお語りになられます。

 わたしたちの聞き方は、良い土地で実を結ぶように、と願いつつ、誘惑に負けてしまうものです。しかし、主イエスが十字架で死んでくださったので、主イエスと共にみ言葉をよく聴き、実を結ぶことができる者とされます。





【2024年 2月 4日 主日礼拝説教より】

説教「神の国の秘密を悟るため」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第42章 18節-21節

       マタイによる福音書 第13章 1節-17節


 

 主イエスが、「種を蒔く人が、良い土地だけでなく、いろいろな所に種を蒔いておられるたとえ話」をお語りになられました。ところで主イエスは、どうしてこの「種を蒔く人のたとえ」を、たとえで語られたのでしょう。おそらく最初にこの話を主イエスから聞いた人は、当時の種を蒔く人の情景を語っているだけで、何を意図した話なのか、よく分からなかったと思います。そこで主イエスの弟子たちは主イエスに問いました。「なぜ、あの人達には、たとえを持ちてお話になるのですか」。もっとストレートに、わかりやすく、神の国についてお話になればいいのに」という批判も含まれていたかもしれません。これに対して主イエスは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」とお答えになられました。この言葉も、わかりにくいものです。まるで主イエスが、この人は救われ、この人は救われない、と人を分けているように思えます。すべての人を救うために来られたはずの主イエスにふさわしくない言葉のように感じます。

 ここでわたしたちは「天の国の秘密」という言葉に注目しなければなりません。この秘密の指す中心ポイントは、「主イエスは真の神、真の人」「主イエスは神の独り子、救い主」、ほかにもいい方はありますが、結局「イエス・キリストとは誰か」ということです。このポイントを、群衆は受け入れず、弟子たちは受け入れていた、ということです。

 主イエスは「だから彼らにはたとえを用いて話すので、見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」と言われました。彼らは主イエスのお姿を見、奇跡も見、そのお言葉も聞いています。けれどもそれを神の御業として見ず、聞いていない。だから理解できないのです。それは、悔い改めないからです。主イエスを神の子、救い主と受け入れることは、自分のこれまでの自分が主人であった生き方から、主イエスを主人にする生き方へ変わらなければ、悔い改めなければなりません。彼らは、自分は分かっていると思いこんで、何も変わらないので、結局わからないのです。わたしたちは主イエスこそ神の子、救い主と受け入れ、この方における神の国の到来を理解する者でありたいと思います。





【2024年 1月 28日 主日礼拝説教より】

説教「種を蒔く人」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第6章 5節-10節

       マタイによる福音書 第13章 1節-23節


 

 この朝与えられた「種を蒔く人」のたとえは、とても有名な話です。

 ある人が種を蒔く。ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ある種は、石だらけで土の少ないところに落ちて、目は出したけれど、根がないので枯れてしまった。ある種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。他の種は、良い土地に落ち、百倍、六十倍、三十倍の実を結んだ。それだけの話。

 ちなみに、当時の種蒔きの方法は、こんにちのわたしたちが考えるのと少し違っているようです。種の入ったかごを脇に抱えて、種を一握りつかんで、それをバーっと、ばら蒔く、そんな感じです。なんとも大雑把、いい加減な感じです。だから中には風に乗って畑の外に出て行ってしまう種もあったでしょう。そしてそれは、極めて日常的な、種を蒔く情景を語っているだけだ、と考えて、主イエスはどうしてそんな話をなさっているか、聞いていた人たちは分からなかったかもしれません。

 後半の18節で、主イエスご自身が、このたとえ話の説明をしておられます。これがなかったら、何をたとえているのか、わたしたちもよく分からなかったかもしれません。大切なのは、この種が「御国の言葉」「御言葉である」ということです。つまりこのたとえは、天の国、神の国、神のご支配は、御言葉が語られ、その御言葉が大きな実をつけることによってなっていく、と言っています。

 ところで、このたとえ話で気になるのは、「種を蒔く人」のたとえとなっていることです。わたしは「種蒔き」のたとえ、だと思っていました。種がどんな土地に落ちてどうなったか、を語っているだけだと思っていたのです。けれどもこのたとえの中心は、色々な土地に種を蒔く人そのものだ、と気付かされました。

 主イエスがこのたとえを語られた時、道端、石地、茨の地の順に語られました。どれも実がならず4番目にやっとよい土地に落ちた種が実を結び大収穫となります。もったいないと思われますが、この種を蒔く人、すなわち神は、良い土地だけでなくいろいろな土地に御言葉の種を蒔かれます。実らなくても、どんな人にでも、御言葉を与えるのです。あいつはだめだ、と思えるところにも、神は種を蒔かれます。その結果、わたしのところにも神は種を蒔いてくださいました。





【2024年 1月 21日 主日礼拝説教より】

説教「主の憐れみは決して尽きない」
      望月 修 牧師(仙台広瀬河畔教会)

       哀歌 第3章 21節-32節

       ペトロの手紙一 第1章 18節-21節


 

 旧約の「哀歌」は、今日の箇所で「再び心を励まし、なお待ち望む」(3:21)と固い決意を言い表しています。「再び」というのですから、襲いかかる苦しみの中で、何度か望みを見出そうと試みたのでしょう。この歌を歌っている者が被っている苦しみは、並大抵のものではありませんでした。

 苦しみの原因は、どこにあったのでしょう。「哀歌」を歌っている者は、その原因をハッキリと自覚していました。それは自分が神に背いたためだ、というのであります。自分の罪が、このような現実を招いた、と受け止めているのです。

 これらのことには、かつて、イスラエルの民が神に背いたために被ることとなったバビロニア帝国への捕囚によって祖国の崩壊と民族としての滅亡を招いた時の体験が反映されています。彼らは神に選ばれ、神の民とされ、神の祝福のもとに歩むことで、イスラエルであり続けることができるのに、神との契約を破り、滅びの道を辿りました。国を追われ、彼らの拠り所とした神殿は焼き払われ、愛する人々、肉親、そして幼い子どもたちの命が、戦禍によって、失われて行きました。ただ苦しいだけではなく、どのようにしても、自分たちは立ち直ることができない深い哀しみも、そこにありました。しかし、それでも、彼は、ここに至って、「再び心を励まし、なお待ち望む」というのです。

 契約に示されている神の側の真実に賭けることは、私たちもできることです。神はその契約に基づいて、私たちのもとに救い主イエス・キリストを遣わしてくださっているからです。私たちの不実、神に背き逆らい続ける罪の故に、何度も失敗する私たちです。しかし「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられ」(Ⅱテモテ2:13)ます。キリストは、神との契約に基づいて、この私たちの罪を赦し救ってくださいます。「哀歌」は、その恵みを先取りして、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(22)と歌い、「それは朝ごとに新たになる」(23)と歌っています。

 私たちは、神との関わりを断ち切るなら、今ある私そのものが、その存在が、足元から崩れて行きます。そこに、神を見捨てた者たちの行く末があります。

 しかし、そのような中で、信仰者は「主を待ち望」(24)みます。本当の解決、本当の再建は、私たちの側にはもはやなく、かつて結んでくださった契約に基づいて、神が、今、ここに介入してくださるほかないことを知っている者の姿勢です。私たちの神は、御子において、あらゆる苦しみと哀しみに耐え抜く力を注いでくださいます。





【2024年 1月 14日 主日礼拝説教より】

説教「あなたも主イエスの家族になれる」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第133篇 1節-3節

       マタイによる福音書 第12章 46節-50節


 

 先週、東京での牧師たちの研修会に出席してきました。主題は、「今、改めて教会を問う」というものでした。コロナは教会を弱くさせました。けれどもその中で改めて教会を見つめながら、やっぱり教会はなくてならない大切な存在だ、そのことを様々な角度から考えさせられました。

 主イエスが群衆に話しておられた時、その母と弟たちが、話したいことがある、と外に立っていた、と言います。主イエスが話をしている群衆の中に入ろうとせず、外から主イエスに話しかけようとします。主イエスは神の御子として、神のご支配がもう始まっているのだ、ここに来ているのだ、という神の国、神の御業について話をしていました。けれども家族は、身内だから、特別の話ができるのが当たり前だ、と考えていて、外に立ったまま中に入りませんでした。

 主イエスはそこで、「わたしの母…兄弟とはだれか」と驚くべき言葉でこたえられました。はっきりと断絶、拒絶の言葉が語られています。そしてその後、集まっている弟子たちを指さしながら、「ここに、わたしの母、兄弟、姉妹がいる」とおっしゃいました。新しい、家族の設定の宣言がなされています。最後の晩餐で主イエスが「これはわたしの体、わたしの血」とおっしゃったように、「これがわたしの家族」と言われました。血筋によらない、新しい家族の歴史の始まりです。それは、わたしたち教会のことでもあります。主イエスがここにおられて、わたしたちを指さしながら、「ここにわたしの母、父、弟、妹がいる」そうおっしゃって、ここに教会が生まれます。

 もちろん、血の繋がりを重んじることを主イエスは否定しません。しかし、家族であればこそ、愛が問われ、愛が破れる現実があります。そこで主イエスが新しい家族の姿として示されたのが、弟子です。弟子を指さしながら、「わたしの天の父のみ心を行う人」がわたしの家族だ、とおっしゃいました。わたしたちは、主の祈りで主イエスから、神を父と呼ぶことを知りましたが、わたしたちはすぐに父である神を見失い、神を父と呼べる資格はありません。けれども主イエスは、命をかけて、ご自分の父である神のみ心を問い、十字架にまで赴かれました。わたしたちはこの方によって、父なる神の御心に生きる家族とされます。





【2024年 1月 7日 主日礼拝説教より】

説教「御言葉に聴き、悔い改めて生きる」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第4章 1節-8節

       マタイによる福音書 第12章 38節-45節


 

 新しい主の年2024年を、神の恵みの中で迎えました。その始まりの1月1日、能登半島で大きな地震が発生してしまいました。約13年前の東日本大震災を経験している方は、他人事のように思えなかったのではないでしょうか。被災された方に、慰めを祈りたいと思います。

 久しぶりにマタイによる福音書を読み進めます。今日与えられた聖書には、律法学者とファリサイ派の人々が主イエスに、「先生、しるしを見せてください」と言いました。「しるし」とは、証拠ということで、ここでは、主イエスが本当のメシア(救い主)である証拠を見せろ、と要求しているのです。ここまで、マタイによる福音書第12章では、主イエスがすでにいくつかのいやしの奇跡をなさっておられました。もうイエス・キリストこそ救い主、まことの神、と信じられる十分な「しるし」、証拠が与えられているようにも見えます。けれども律法学者とファリサイ派の人々はさらに「しるし」を求めて主イエスに迫りました。

 一体、彼らにとっては、何が「しるし」となるのでしょうか。結局のところ、彼らが願う通りのことをしないと、救い主であるしるしにはならないことになってしまいます。これは言ってみれば、神に対して自分たちの要求を突きつけるようなものです。こうしてほしい、こうなりたい、それを実現してくれることを求めているのです。結局は、神を神ではなく、自分の僕にしています。これは、わたしたちもしていること、注意すべきことです。

 それに対し主イエスは、旧約の預言者ヨナが三日三晩大魚の中にいたしるしの他にはしるしは与えられない、と語りました。ヨナがニネベの町に悔い改めを呼びかけると、ニネベの人々は悔い改めて、滅びを免れました。また、旧約の列王記に、遠く南のアフリカから、イスラエルの王、ソロモンの知恵の言葉を求めてやって来た女王の話が出てきます。この話が出てくるポイントは、主イエスが「ここにヨナにまさるものがある」「ここに、ソロモンにまさるものがある」ということです。つまり主イエスは十字架で死に、三日目に甦ってヨナよりも確かな悔い改めのしるしとなり、またソロモンにまさる神の言葉を語るしるしとなっています。この年も主イエスを仰ぎ、み言葉に聴き、悔い改めて歩みたいです。




2023年1月1日から12月31日までの説教要旨はこのリンクからご覧いただけます(クリック)。 

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