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【2024年 5月 5日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスをくまなく触れ回る」
      瀬谷 寛 牧師

       民数記 第19章 11節-22節

       マタイによる福音書 第14章 34節-36節


 

 本日の礼拝は、教会創立143年の記念礼拝として、献げます。今から143年前の1881年5月1日に、最初の伝道者押川方義先生と吉田亀太郎先生の伝道によって、二人の受洗者が与えられた、その日を覚えて、毎年、この5月第一主日に記念礼拝を献げています。

 本日与えられたマタイによる福音書第14章の終わりのところでは、主イエスが多くの病人をいやされたことが記されています。主イエスが病気の人や体の不自由な人をお癒やしになられたことは、これまでのところでも、しばしば出てきました。ときに一対一の、個人的ないやしの業として、また別のときには多くの人々をいやされた業として、記されていました。いずれにしても福音書記者マタイは、主イエスがご自分のもとに集まってきた、病や障害を負って苦しんでいる人々を深く憐れみ、繰り返しいやしてくださったのです。それが主イエスにとっての大切な御業の一つでした。

 今から143年前の仙台での出来事を思い起こす時、この主イエスの様子と重なり合うように思いました。主イエス一行が湖を渡りゲネサレトという街につくと、主イエスが来た、と言って人々が触れ回り、そして、病人を連れてきて、癒やしてもらいました。当時はすでに、仙台はある程度の街になっていたようですが、まだ、主イエスを知らない人だらけの中で、押川先生、吉田先生たちが、一所懸命伝道をして、主イエスを宣べ伝えました。人々が集まってきます。集まってきた人は、そこで語られた言葉を聴いていやされ、力を与えられます。彼らは何よりもそこで、主イエスの、罪の赦しの言葉を聴いたに違いありません。そのようにして、主イエスご自身に触れたのです。この方は、神の独り子でありながら、自分たち人間の罪をすべてご自分の身に背負って赦すために、十字架で死んでくださいました。この主イエスの言葉を聴き、主イエスに触れた人は、この方の赦しといやしに与ることができました。赦しといやしは、元は同じ言葉です。

 わたしたちが、主イエスの言葉を聴き、この方に触れて、赦しといやしに与りたいと思います。そのいやしに与ったわたしたちが、主イエスの赦しといやしの言葉を携えて出ていくものとされます。この教会で繰り返されたことです。





【2024年 4月 28日 主日礼拝説教より】

説教「神の言葉に生きる、とは」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第29章 13節-24節

       マタイによる福音書 第15章 1節-11節


 

 本日与えられたマタイによる福音書15:1以下は、食事のときに、主イエスの弟子たちが手を洗わなかった、ということを、ファリサイ派の人々、律法学者たちに咎められた、ということが出発点となっています。主イエスもまた、手を洗わずに食事をしていた、と考えられます。それは、わたしたちから見ても食事の前に手を洗わないのは、流石に汚いだろう、と思うかもしれませんが、ファリサイ派の人々などが問題にしたのは、衛生の視点からではありません。宗教的な、信仰に関わる視点からでした。

 当時のユダヤ人にとって、異教徒、間違った信仰、あるいは、汚れた生活に生きている、と見られていた人々が周りにたくさんいる中で、ファリサイ派の人々は、聖なる生活がしたい、と一所懸命努めていました。特に食事は神性な、信仰的にも清められた時でなければならず、汚れていることは許されません。だからバイ菌を拭うことよりも、信仰を持たない人や汚れた世界と触れた汚れをどう清めるかがいつも問題となり、そのために手を洗わなければなりませんでした。

 これは「昔の人の言い伝えによる」とあります。「昔の人」とは「長老」と訳せる言葉です。だから「長老たちの言い伝えを破るのか」と訳す聖書もあります。当時、聖なる生活を保つために、例えば「食事のときには水を二度、手の上で往復させなければならない」など生活の定めを立てていたのが長老でした。主イエスと弟子たちは、それに沿わないふるまいをし、汚れた人間と決めつけられていたのです。主イエスは、「なぜあなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか」と答えられました。「自分の言い伝え」と言い換えています。それは、6「神の言葉を無にする」ことに通じる、というのです。

 わたしたちもまた、神の言葉を無視します。神は、主イエスは、そのような罪を裁かれます。しかしその罰は、主イエスご自身が十字架で受けてくださいました。だからわたしたちは主イエスに、「主よ、憐れみ給え」と祈ります。





【2024年 4月 21日 主日礼拝説教より】

説教「安心しなさい、わたしだ」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第29章 13節-24節

       マタイによる福音書 第14章 22節-36節


 

 今日の礼拝後、2024年度第二次定期教会総会を神のみ前に開きます。当初、この礼拝を総会の開会礼拝と位置づけることまでは考えていませんでしたが、このとても豊かな、慰めに満ちた御言葉は、実にふさわしい御言葉だと思います。

 ここに描かれているのは、主イエスがガリラヤ湖の水の上を歩いて、漕ぎ悩んでいる弟子たちの舟の所まで来られた、という出来事です。聖書の中の、こういう非科学的な記事は、荒唐無稽な話であり真実から程遠いので受け入れがたい、と思うかもしれません。一所懸命合理的に、「ここでイエスは浅瀬を歩いていたのだ」、と説明しようとしたりします。しかし、この言葉から信仰を得、さらには伝道者・牧師となった人がいます。人の人生を変えうる豊かな御言葉です。

 ここで弟子たちは、小舟に乗ってガリラヤ湖へ漕ぎ出しています。しかし一晩中、逆風に悩まされ、漕ぎ悩んでいました。夜明け頃、主イエスが水の上を歩いて彼らの舟へと近づいてこられました。ここでは、主イエスが水の上を歩く、という手段が問題なのではありません。どんな方法であったとしても、主イエスが神の御子としてのみ力によって、共にいてくださるご自身を示し、苦しみ悩んでいる弟子たちに救いのみ手を差し伸べておられる、それが大切なことです。

 ところがその主イエスを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げました。人間の常識に捕らえられた自分の思いの中でしか主イエスを見ていないと、わたしたちも恐れ、叫び声を上げてしまいます。

 そのような弟子たち、わたしたちに主イエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださいます。この「わたしだ」は、「エゴー・エイミ」という言葉で、神がモーセにご自身の名前を示された、そのギリシア語の言葉です。つまり、主イエスはここで「わたしは神だ」と宣言しておられます。だから「恐れるな」と続くのです。どんなに逆風が行く手を阻もうとも、まことの神である主イエスが共にいてくださる、だから安心なのです。

 その後、ペトロが湖上の主イエスから「来なさい」と促され、主イエスを信じて水の上を歩きますが、風に気づくとペトロは怖くなり溺れかけました。が、主イエスはペトロの手を伸ばしてつかみます。わたしたちの手もつかんでいます。





【2024年 4月 14日 主日礼拝説教より】

説教「五つのパンで五千人」
      瀬谷 寛 牧師

       出エジプト記 第16章 1節-5節

       マタイによる福音書 第14章 13節-21節


 

 わたしたちは、神のみ前に、まことに小さな者ですが、神が、主イエスが、わたしたちを選び、わたしたちの歩みに深く関わり、御業をなされます。主イエスは、あえて言えば、聖書の中ではなく、わたしたちと共におられます。

 主イエスが、五つのパンと二匹の魚を五千人に分け与えられた箇所を読みました。どの福音書にも記されており、それだけ愛された物語だったのでしょう。

 主イエスと弟子の一行は、人里離れた所に退かれたのですが、しかし多くの群衆がその後を追いかけました。皆それぞれ、苦しみや悩みをもって主イエスの後を追って来ていたのです。主イエスは自分のもとに集まってきた人々を、「深く憐れんで」救いのみ手を差し伸べてくださいました。食事も忘れるほどに時間が過ぎ、ついに夕暮れになりました。人里離れたところなので、食べ物をすぐに手に入れることはできません。弟子たちは心配して、群衆を解散させ、最寄りの村に行けるように、と考えました。しかし主イエスは、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」と言われました。けれどもそこには、男だけで五千人いた、というのです。食料の調達は、極めて難しいことです。パン五つと魚二匹、それが弟子たちの持っている食料のすべてでした。

 普通ならば、「とても出来ない」と諦めてしまうところです。けれどもそこから、神の御業が始まります。わたしたちができると思っているところでなすことは、結局自分の業に過ぎません。

 主イエスは弟子たちに、「それをここに持ってきなさい」とおっしゃり、そのパンと魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、神に感謝しました。ここで、パンと魚の意味が変わりました。弟子たちが自分の力で用意した食べ物から、神が祝福し、養ってくださる食べ物に変わりました。それに気づく時、わたしたちは神の国に生き始めます。

 弟子たちが配っても配っても、そのパンはなくなりませんでした。それは、このパンは神の憐れみ、神の愛そのものだったからです。弱く小さな弟子、わたしたちは、神の憐れみ、神の愛を配っていくだけです。配るものは神が与えてくださいます。ここに神の大きな御業にお仕えすることのできる喜びがあります。





【2024年 4月 7日 主日礼拝説教より】

説教「宴席の主は誰か」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第23篇 1節-6節

       マタイによる福音書 第14章 1節-12節


 

 今日の箇所で光があたっているのは、洗礼者ヨハネです。主イエスが登場する直前に、その準備、道備えをした人です。そして主イエスが活動を始められたのと入れ替わるように、獄に入れられて首を切られたのがヨハネでした。

 ヨハネを監禁して殺したのは、「領主ヘロデ」でした。ヨハネが捉えられたのは、ヘロデが自分の兄弟であるフィリポからその妻ヘロディアを奪って、自分の妻にしてしまったことを、ヨハネが批判したからです。そしてヘロデは結果として、ヨハネを殺すことになりました。それはヘロデの誕生日の祝いの宴席でのことでした。ヘロディアの娘、「サロメ」と伝えられている少女が、宴席で踊りを踊りました。踊りに気を良くしたヘロデが、「願うものは何でもやろう」と誓って約束しました。すると娘は、母ヘロディアと相談して、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言いました。ヘロデはそれを断ることができずに、あるいはそれを口実に、ヨハネの首をはね、娘に渡しました。

 見落としてならないことは、この話は、もうずいぶん前に起こったことの回想として語られていることです。ヘロデにとっては、記憶から消し去ってしまいたい嫌な思い出だったに違いありません。そのことを思い起こさせたのは、ヘロデが主イエスの評判を聞いたからです。主イエスがあちこちを巡って教え、あるいはいやしをなさった噂を聞いて、あの嫌なヨハネの首を取った場面を思い出し、ヘロデはもう一度、不安と怖れの中に投げ出されました。その思いは、主イエスをもヨハネと同じように抹殺しようとする思いを生みました。それは主イエスの十字架の死への道を暗示しています。

 これが、誕生日の祝宴で起こったことに注目します。多くの参列者の中で、ヘロデは自分こそこの国の支配者、何でも思い通りにできる、と確認したことでしょう。けれどもその権力に有頂天になるヘロデの祝宴は、洗礼者ヨハネの首を切ることで、血に染まります。わたしたちもしばしば、このヘロデの心を持つことがあります。けれども、まことの神と出会う時、わたしたちの人生の主人が、自分ではなく神にあることに気付かされます。教会が、礼拝が、聖餐が、神がわたしたちの宴席の、人生のまことの主であることを示しています。





【2024年 3月 31日 主日礼拝説教より】

説教「主と共に死に、復活するわたしたち」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第110篇 1節-7節

       コロサイの信徒への手紙 第3章 1節-4節


 

 イースター、おめでとうございます。主イエスは、闇のような、神に逆らう罪に満ちたこの世界に来てくださり、その世界の罪をすべてご自身の身に引き受け、十字架で死んでくださり、罪の闇を滅ぼしてくださいました。そして闇が完全に滅びたことが明らかになるために、光として主イエスが十字架の死から復活してくださいました。そして、世界のこの喜ばしい日に、一人の人が洗礼をお受けになり、わたしたちの教会の仲間に加えられることとなりました。

 今日与えられました聖書の言葉の中に「あなたがたはキリストと共に復活させられた」とあります。まるでわたしたちの復活が、過去のある時点において起こったことであるかのように語ります。教会員のある方が、「イエスさまがご復活なさったことはわかります。けれども、わたしたち人間も復活するのですか」と素朴に質問してくださいました。もしかすると、多くの人が抱いたことのある問いではないか、と思います。

 今日の聖書では、そのわたしたちの復活、しかもわたしたちがやがて死んだ後に復活する、ということでなく、すでに過去のある時点において復活させられた、とはっきり記します。この言葉の伏線として、その前のところで、「あなたがたはキリストとともに死んだ」と、これも過去のある時点で起こった事実として記されています。コロサイの信徒への手紙の著者とされるパウロは、そのことで何を言おうとしているのかと言えば、洗礼のことを言おうとしています。キリスト者とは、洗礼を受けた時に、キリストとともに十字架に死に、キリストとともに復活させられた者、というのです。こんなに欠けに満ちた、罪深いわたしたちであるにもかかわらずです。本当にありがたいことです。

 だからもう、地上のものを求めるではなく、上にあるものを求めて生きよう、とさらに御言葉は語ります。わたしたちの本来の生活は、この地上にあるように見えますけれども、実は、キリストと共に神のうちに隠されている、つまり、わたしが生きているのではなく、十字架で死に復活されたキリストに包まれるようにして、すでに主イエスがわたしを生きてくださっているのです。今日の受洗者と共に、上を目指す歩みを続けさせていただきたいと思います。





【2024年 3月 24日 主日礼拝説教より】

説教「あなたは何を見るか」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第8章 5節-15節

       マタイによる福音書 第13章 53節-58節


 

 主イエスは、ガリラヤ湖畔の北岸、カファルナウムという町をその活動の拠点としていたようです。主イエスが生まれ育った町、ナザレは、湖の南西に当たります。ここで主イエスは故郷に帰られた様子が記されています。主イエスは、他の町でしているのと同じように、会堂・集会所で、一人の律法の教師として語っておられました。

 この主イエスが語る言葉を聞いたナザレの村の人々は、「驚いた」といいます。それは、権威ある者としてお語りになったからです。

 彼らはイエスという人物を子どもの頃から知っていました。家族のこともよく知っていました。彼は30才ころに突然、家を出てあちこちを放浪して回るようになっていました。知っていたけれども、知っていたゆえに、主イエスを信じることができませんでした。その故郷の人々を見て、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言われました。

 ナザレの人々は、イエスという人物について、よく知っている、と思っています。しかしそれは、人間としての、目に見える部分におけることです。自分たちが知っている範囲の中で、イエスという人を捉えようとしています。けれどもこの方は、彼らの思いを遥かに超えた方でした。一人の人間であると同時に、まことの神であられるお方、神の独り子であり、神の全能の力と、御言葉を語る権威とを授けられて、この世に遣わされた方だったのです。主イエスを信じるとは、このことを信じることです。

 もう少し言い方を変えれば、主イエスが故郷に帰られたということは、そのナザレで出会った人々にとっても、その場所は故郷でした。自分が主人であることができる場所です。そこで、イエスという方を捉えようとする、すると彼らは、この方につまずくことになります。

 わたしたちは、自分の故郷で、自分の手の内で、自分が主人であろうとするところで、主イエスを捉えようとすると、この方は敬われません。けれどもその故郷を出て旅立つなら、わたしたちの罪をすべて背負って十字架で死なれた、という人間の常識を遥かに超えた恵みを受け取ることることができます。





【2024年 3月 17日 主日礼拝説教より】

説教「物を売り払っても買うべきもの」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第119篇 9節-16節

       マタイによる福音書 第13章 44節-52節


 

 3月11日、それぞれの場所で、今から13年前の東日本大震災のことを思い起こしたのではないかと思います。

 わたしたちは今礼拝で、マタイによる福音書第13章を読み進めていますが、ここは主イエスが、天の国のことを、たとえを用いながら、群衆に、そして後半には弟子たちに、語り伝えてくださっています。ここでの天の国とは、神のご支配のことです。そして、神のご支配は主イエスの到来においてすでにこの世界に来始めており、わたしたちもその神のご支配の中を生きていることを聴いています。しかし、東日本大震災のような大惨事が引き起こされてもなお、神がこの世界をご支配しておられると言えるのでしょうか。聖書の答えは、やはりそれでも、神のご支配はあり、続いている、ということだと思います。

 今日のたとえは、天の国は、宝が隠されている畑を見つけたら、持ち物すっかり売り払ってその畑を買う、そのようなものだ、といいます。第一に、天の国は「隠された宝」だということです。誰にでもわかるわけではないのです。それが明らかになるのは、主イエスの再臨の時、世界の完成のときです。

 第二に、隠された宝としての天の国、その宝を見つけた人がいる、ということです。隠されていて人々が気づかない、その宝を見つけた人がいます。それが、この礼拝に集うわたしたち、神を信じている人、あるいは信じようとしている人です。信仰とは、隠された宝を見出すことです。しかしそれは自分で努力して発見するのではなく、たまたま見つけるものです。おそらくこの人は、普通の畑仕事をしていたら、偶然宝を見つけたのでしょう。

 第三に、しかし見出したからと行って、すぐそれがわたしたちのものになるわけではない、ということです。畑に隠された宝を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買い、宝を自分のものにします。そのために、全財産を売り払って買う覚悟が必要です。天の国という隠された宝を、何者にも代えがたい宝として、本当に真剣に、全力を尽くして求めていくことが大切です。

 この宝、それは神がわたしたちを愛してくださることですが、それを手に入れるため、全力を注ぐ主イエスの弟子として、歩みたいと思います。





【2024年 3月 10日 主日礼拝説教より】

説教「神の畑としての世界」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第34篇 1節-23節

       マタイによる福音書 第13章 36節-43節


 

 マタイによる福音書第13章は、主イエスがお語りになられた例え話が集められています。本日の第36節から、後半に入ります。というのは36節「それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると弟子たちがそばに寄って来て」とあります。同じ第13章の1,2節では、主イエスが湖のほとりにおられ、そこに群衆が集まってきて、お話になっておられました。語られた相手が、群衆と、弟子たちという違いがあることが示されています。群衆にはたとえ、弟子たちにはたとえの説明がなされていて、弟子はたとえ話に語られている天の国の秘密を悟り、理解していくのです。

 さて、今日は「毒麦のたとえ」を弟子たちに説明しているところですが、毒麦のたとえとは、ある人が自分の畑に良い麦の種を蒔いたが、夜中に敵が毒麦の種を蒔いたので、両方が一緒に芽を出した、僕(しもべ)たちは「毒麦を抜き集めましょうか」といったが、主人は「毒麦を抜こうとして良い麦まで一緒に抜いてしまってはいけないから、収穫までそのままにしておけ」と言った、という話です。その説明を求められた主イエスが、一つひとつの言葉が何を意味しているのかをお語りになられました。良い種を蒔く者は人の子(=主イエス、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子ら。御国の子らは正しい人々、悪い者の子らは不法を行う者ども、と言い換えられています。さらに毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちであると言って、この世の終わりの神による裁きのことを語っています。裁きとは、良い麦と毒麦をはっきり区別すること、救われる者と滅びる者が神によって分けられる、ということです。わたしたちがすることではない。

 今日の箇所で目に止まるのは「畑は世界」という小さな一言です。もともとこの世界全体が、神の畑であり、神は良い麦の種を蒔いてくださったのです。世界は基本的に良いところです。しかし悪魔によって毒麦の種が蒔かれ、それによって世界は良い麦と毒麦が混在するところとなっています。けれども世の終わりには良い麦と毒麦の区別がはっきりつけられます。教会も世界という神の畑の一部ですが、教会だけが、世界が神のものであることを知っています。





【2024年 3月 3日 主日礼拝説教より】

説教「からし種とパン種に似た天の国」
      瀬谷 寛 牧師

       エゼキエル書 第17章 22節-24節

       マタイによる福音書 第13章 31節-35節


 

 今日与えられたみ言葉は、主イエスがお語りになられた、天の国についての2つのたとえです。ここでの「天の国」は、わたしたちが考える、死んでから行くいわゆる天国とは少し違います。「天の国」は、神の国、神のご支配、という意味です。それは主イエスの到来とともにすでに始まっており、わたしたちは今すでにそこに生き始めています。わたしたちも、あの人もみな、今神のご支配の中にあることをわきまえることは、大切です。けれどもそれはまだ完成してはいない、完成は、主イエスの再臨の時、終末のときです。

 主イエスは天の国について、「からし種に似ている」「パン種に似ている」と言われました。からし種とは、1ミリにも満たない小さなものです。けれどもそれが成長すると、3~4メートルもの木になり、鳥が巣を作るほどになる、天の国はそれと似ている、と言われます。また、パン種とは、小麦粉を発酵させ、ふっくらしたパンにするパン酵母、イースト菌です。粉全体の量と比べれば、ほんの一握りです。それがパン生地に混ぜ合わせられ、こねられ、寝かされるうちに、生地全体が膨らむ、それが天の国に似ている、というのです。

 共通しているのは、からし種もパン種も、ごく小さなものだ、ということです。神のご支配の、その始まりは小さいものです。見えないほどのもの、人々が無視するほどのものです。けれどもそれが急速に大きく育っていきます。それは直接には一体何を指すかというと、主イエスご自身のお働きです。主イエスは実に素晴らしいお働きをなさいました。けれども世界を救う働き、という視点からすれば、小さなものです。実際に活躍なさった時間は3年間、活動場所はパレスティナの一部分、主イエスに影響を受けた人々の人数は、ごく僅かです。けれどもやがて、多くの人々が宿るほどに成長していきます。全世界にキリストの教会が建てられていきます。

 ところでわたしは伝道者として、すぐに不安や恐れにとらわれる小さな存在です。しかし、その不安や恐れにとらわれることは、神さまのご支配を忘れている罪です。みなさんも当てはまるでしょう。大切なのは自分や教会の小ささではなく、主イエスの十字架の死による神の恵みの大きさを見ることです。





【2024年 2月 25日 主日礼拝説教より】

説教「インマヌエル」
      柳沼 大輝 伝道師(千歳船橋教会)

       ルツ記 第1章 7節b-19節a

       マタイによる福音書 第1章 21節-23節


 

 私たちの人生には、いままで自分がしてきたことがまるで無駄であったと、激しい空しさに襲われるときがあります。

 ルツ記に登場するナオミもまた空しさを抱えていました。ナオミたち一家は食糧を求めて、故郷ベツレヘムから異国の地モアブまで、過酷な旅をします。しかし、そこで夫エリメレクと二人の息子が亡くなります。家の後を継ぐ孫も与えられず、ナオミはたった一人になりました。

 失意のもと、ナオミは一人故郷ベツレヘムに帰ることを決意します。しかし夫の嫁であるオルパとルツはナオミに同伴しようとしました。ナオミは、彼女らに自分の里に帰るように諭しますが、ルツだけは、最後までナオミにすがりついて離れようとしません。そこで、ナオミはルツと二人で故郷ベツレヘムへと帰っていきました。けれども、ナオミの心は一向に晴れることがありませんでした。久しぶりのナオミの帰国に沸き立つ町の人々に向かって、ナオミは「主がわたしを悩ませ 全能者がわたしを不幸に落とされたのに」と神への怒りと不満を口にします。

 しかし、その後、ナオミの人生は大きく揺れ動いていきました。ルツが落ち穂を拾いに行った畑が偶然にも夫の親戚ボアズの畑であり、最後には、ルツとボアズは結婚し、二人の間に諦めていた家の後を継ぐ孫が与えられました。町の人々は、ナオミに言います。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。」その後、その孫であるオベドからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれ、そこから救い主イエス・キリストが誕生します。

 主イエスは、預言者の言葉を通して次のように言われました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。主イエスは、ルツがナオミに最後まですがりついたように、あなたにすがりつく。絶対にあなたを一人にはさせない。見捨てない。あなたと共にいる。主が救いのご計画のなかで空しく思えるようなあなたの一歩を喜びと希望に満ちた一歩に変えてくださいます。





【2024年 2月 18日 主日礼拝説教より】

説教「良い麦と毒麦」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第126章 1節-6節

       マタイによる福音書 第13章 24節-30節


 

 今朝与えられている御言葉は、主イエスがお語りになられた「毒麦のたとえ」という小見出しがついている箇所です。こういうたとえ話です。種を畑に蒔いた人がいる、その種は良い麦の種、ところが人々が眠っている夜の間に、敵が来て同じ畑に毒麦の種をも蒔いてしまい、一つの畑に良い麦と毒麦とが共に生え育つことになってしまった、というのです。ここは前回までの「種を蒔く人のたとえ」と同様に、種が蒔かれ、育ち、やがて収穫することに、天の国、神のご支配の完成を見ています。このたとえにおいて並べられ、比べられているのは善い麦と毒麦です。神がご自分の畑に種を蒔き、芽生え育っていく、わたしたちはその神の畑で育つ麦です。

 この神の畑は、教会のこと、と見ることができます。わたしたちが信仰者となり、洗礼を受けて教会の群れに加えられるのは、この神の畑に植えられることです。ところがその神の畑である教会に敵が来て、毒麦の種を蒔いて行き、良い麦と毒麦が一緒に芽を出し、生え育っています。

 ところで、この話に登場する「僕たち」は、敵の蒔いた毒麦を「では行って抜き集めておきましょうか」と言います。この僕たちは教会の牧師、長老、執事を指す、と考えられてきましたが、そう限定することもないでしょう。信仰者ならもっとこうすべきだ、と人を批判し裁くすべての教会員のことです。

 それに対して畑の主人、神は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言いました。第一のポイントは、神は、ご自分の畑に毒麦が育っておくことをお許しになられました。第二のポイントは、刈入れまでは、共存が許されますが、刈入れのときには毒麦は全て集められ、火で焼かれ、良い麦の束は倉に入れられます。すると、いま教会に連なっている者も、自分が本当に良い麦かわからない、ということになるでしょうか。しかし、第三のポイントは、両方とも刈入れまで育つままにしておくのは、毒麦を抜こうとして、間違えて良い麦を抜くことが絶対に起こらないためです。神はわたしたちを良い麦として、一本一本を大切に思い、生かし、救いにあずからせようとしていてくださいます。





【2024年 2月 11日 主日礼拝説教より】

説教「神の言葉が聴こえるか」
      瀬谷 寛 牧師

       創世記 第26章 12節-14節

       マタイによる福音書 第13章 1節-23節


 

 主イエスが語られた「種を蒔く人のたとえ」を読んでいます。主イエスはたとえ話を、天の国・神の国のことを伝えるためになさっておられます。天の国・神の国とは、わたしたちが死んでから行く美しい永遠の世界、というのではありません。「神がご支配なさる」ということです。主イエスがこの世で活躍される始まりに、「神の国は近づいた」と宣言されました。それは、「ここに神が生きておられる」ということです。世に様々なことが起こり、本当に神が生きておられるならどうしてこんなことが起こるか、と思われる中で、それでも「神は生きておられる」と信じる、それが神の国、ご支配を信じることです。

 ではその神の国、神のご支配をどこで知るのでしょう。19節に「御国の言葉」と出てきます。わたしたちがその神の国、神の支配のことを知るのは、わたしたちの毎日毎日の生活で起こる目もくらむような大事業、というようなことではなく、主イエスが語ってくださった言葉を聞くことによります。つまり、日曜日ごとに教会に集まって、主イエスから静かなみ言葉を、自分の中に注ぎ込まれる、それによってのみ神の国を知り、生きることができます。

 そこで一つの問題は、わたしたちは御言葉よりも力強い、神の力の証が欲しくなる、ということです。誘惑との戦いを呼び起こします。主イエスがたとえ話で語っておられる第一は、道端に蒔かれたもののように、聞き取ったはずの御国についての言葉を、ぼんやりしていて取られてしまうこと、第二は、石地に蒔かれたもののように、最初はみ言葉を聞いて受け入れるけれども、この世の艱難や迫害にぶつかると崩れてしまうこと、第三に、茨に蒔かれたもののように、み言葉を聞き取っているが、思い煩いに負けてしまうこと、これらの誘惑によって、み言葉を聞きそびれてしまうのです。しかし主イエスは、良い土地に落ちたものは、みことばを聴いて悟り、豊かな実を結ぶ人生を作ることができる、とお語りになられます。

 わたしたちの聞き方は、良い土地で実を結ぶように、と願いつつ、誘惑に負けてしまうものです。しかし、主イエスが十字架で死んでくださったので、主イエスと共にみ言葉をよく聴き、実を結ぶことができる者とされます。





【2024年 2月 4日 主日礼拝説教より】

説教「神の国の秘密を悟るため」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第42章 18節-21節

       マタイによる福音書 第13章 1節-17節


 

 主イエスが、「種を蒔く人が、良い土地だけでなく、いろいろな所に種を蒔いておられるたとえ話」をお語りになられました。ところで主イエスは、どうしてこの「種を蒔く人のたとえ」を、たとえで語られたのでしょう。おそらく最初にこの話を主イエスから聞いた人は、当時の種を蒔く人の情景を語っているだけで、何を意図した話なのか、よく分からなかったと思います。そこで主イエスの弟子たちは主イエスに問いました。「なぜ、あの人達には、たとえを持ちてお話になるのですか」。もっとストレートに、わかりやすく、神の国についてお話になればいいのに」という批判も含まれていたかもしれません。これに対して主イエスは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」とお答えになられました。この言葉も、わかりにくいものです。まるで主イエスが、この人は救われ、この人は救われない、と人を分けているように思えます。すべての人を救うために来られたはずの主イエスにふさわしくない言葉のように感じます。

 ここでわたしたちは「天の国の秘密」という言葉に注目しなければなりません。この秘密の指す中心ポイントは、「主イエスは真の神、真の人」「主イエスは神の独り子、救い主」、ほかにもいい方はありますが、結局「イエス・キリストとは誰か」ということです。このポイントを、群衆は受け入れず、弟子たちは受け入れていた、ということです。

 主イエスは「だから彼らにはたとえを用いて話すので、見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」と言われました。彼らは主イエスのお姿を見、奇跡も見、そのお言葉も聞いています。けれどもそれを神の御業として見ず、聞いていない。だから理解できないのです。それは、悔い改めないからです。主イエスを神の子、救い主と受け入れることは、自分のこれまでの自分が主人であった生き方から、主イエスを主人にする生き方へ変わらなければ、悔い改めなければなりません。彼らは、自分は分かっていると思いこんで、何も変わらないので、結局わからないのです。わたしたちは主イエスこそ神の子、救い主と受け入れ、この方における神の国の到来を理解する者でありたいと思います。





【2024年 1月 28日 主日礼拝説教より】

説教「種を蒔く人」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第6章 5節-10節

       マタイによる福音書 第13章 1節-23節


 

 この朝与えられた「種を蒔く人」のたとえは、とても有名な話です。

 ある人が種を蒔く。ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ある種は、石だらけで土の少ないところに落ちて、目は出したけれど、根がないので枯れてしまった。ある種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。他の種は、良い土地に落ち、百倍、六十倍、三十倍の実を結んだ。それだけの話。

 ちなみに、当時の種蒔きの方法は、こんにちのわたしたちが考えるのと少し違っているようです。種の入ったかごを脇に抱えて、種を一握りつかんで、それをバーっと、ばら蒔く、そんな感じです。なんとも大雑把、いい加減な感じです。だから中には風に乗って畑の外に出て行ってしまう種もあったでしょう。そしてそれは、極めて日常的な、種を蒔く情景を語っているだけだ、と考えて、主イエスはどうしてそんな話をなさっているか、聞いていた人たちは分からなかったかもしれません。

 後半の18節で、主イエスご自身が、このたとえ話の説明をしておられます。これがなかったら、何をたとえているのか、わたしたちもよく分からなかったかもしれません。大切なのは、この種が「御国の言葉」「御言葉である」ということです。つまりこのたとえは、天の国、神の国、神のご支配は、御言葉が語られ、その御言葉が大きな実をつけることによってなっていく、と言っています。

 ところで、このたとえ話で気になるのは、「種を蒔く人」のたとえとなっていることです。わたしは「種蒔き」のたとえ、だと思っていました。種がどんな土地に落ちてどうなったか、を語っているだけだと思っていたのです。けれどもこのたとえの中心は、色々な土地に種を蒔く人そのものだ、と気付かされました。

 主イエスがこのたとえを語られた時、道端、石地、茨の地の順に語られました。どれも実がならず4番目にやっとよい土地に落ちた種が実を結び大収穫となります。もったいないと思われますが、この種を蒔く人、すなわち神は、良い土地だけでなくいろいろな土地に御言葉の種を蒔かれます。実らなくても、どんな人にでも、御言葉を与えるのです。あいつはだめだ、と思えるところにも、神は種を蒔かれます。その結果、わたしのところにも神は種を蒔いてくださいました。





【2024年 1月 21日 主日礼拝説教より】

説教「主の憐れみは決して尽きない」
      望月 修 牧師(仙台広瀬河畔教会)

       哀歌 第3章 21節-32節

       ペトロの手紙一 第1章 18節-21節


 

 旧約の「哀歌」は、今日の箇所で「再び心を励まし、なお待ち望む」(3:21)と固い決意を言い表しています。「再び」というのですから、襲いかかる苦しみの中で、何度か望みを見出そうと試みたのでしょう。この歌を歌っている者が被っている苦しみは、並大抵のものではありませんでした。

 苦しみの原因は、どこにあったのでしょう。「哀歌」を歌っている者は、その原因をハッキリと自覚していました。それは自分が神に背いたためだ、というのであります。自分の罪が、このような現実を招いた、と受け止めているのです。

 これらのことには、かつて、イスラエルの民が神に背いたために被ることとなったバビロニア帝国への捕囚によって祖国の崩壊と民族としての滅亡を招いた時の体験が反映されています。彼らは神に選ばれ、神の民とされ、神の祝福のもとに歩むことで、イスラエルであり続けることができるのに、神との契約を破り、滅びの道を辿りました。国を追われ、彼らの拠り所とした神殿は焼き払われ、愛する人々、肉親、そして幼い子どもたちの命が、戦禍によって、失われて行きました。ただ苦しいだけではなく、どのようにしても、自分たちは立ち直ることができない深い哀しみも、そこにありました。しかし、それでも、彼は、ここに至って、「再び心を励まし、なお待ち望む」というのです。

 契約に示されている神の側の真実に賭けることは、私たちもできることです。神はその契約に基づいて、私たちのもとに救い主イエス・キリストを遣わしてくださっているからです。私たちの不実、神に背き逆らい続ける罪の故に、何度も失敗する私たちです。しかし「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられ」(Ⅱテモテ2:13)ます。キリストは、神との契約に基づいて、この私たちの罪を赦し救ってくださいます。「哀歌」は、その恵みを先取りして、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(22)と歌い、「それは朝ごとに新たになる」(23)と歌っています。

 私たちは、神との関わりを断ち切るなら、今ある私そのものが、その存在が、足元から崩れて行きます。そこに、神を見捨てた者たちの行く末があります。

 しかし、そのような中で、信仰者は「主を待ち望」(24)みます。本当の解決、本当の再建は、私たちの側にはもはやなく、かつて結んでくださった契約に基づいて、神が、今、ここに介入してくださるほかないことを知っている者の姿勢です。私たちの神は、御子において、あらゆる苦しみと哀しみに耐え抜く力を注いでくださいます。





【2024年 1月 14日 主日礼拝説教より】

説教「あなたも主イエスの家族になれる」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第133篇 1節-3節

       マタイによる福音書 第12章 46節-50節


 

 先週、東京での牧師たちの研修会に出席してきました。主題は、「今、改めて教会を問う」というものでした。コロナは教会を弱くさせました。けれどもその中で改めて教会を見つめながら、やっぱり教会はなくてならない大切な存在だ、そのことを様々な角度から考えさせられました。

 主イエスが群衆に話しておられた時、その母と弟たちが、話したいことがある、と外に立っていた、と言います。主イエスが話をしている群衆の中に入ろうとせず、外から主イエスに話しかけようとします。主イエスは神の御子として、神のご支配がもう始まっているのだ、ここに来ているのだ、という神の国、神の御業について話をしていました。けれども家族は、身内だから、特別の話ができるのが当たり前だ、と考えていて、外に立ったまま中に入りませんでした。

 主イエスはそこで、「わたしの母…兄弟とはだれか」と驚くべき言葉でこたえられました。はっきりと断絶、拒絶の言葉が語られています。そしてその後、集まっている弟子たちを指さしながら、「ここに、わたしの母、兄弟、姉妹がいる」とおっしゃいました。新しい、家族の設定の宣言がなされています。最後の晩餐で主イエスが「これはわたしの体、わたしの血」とおっしゃったように、「これがわたしの家族」と言われました。血筋によらない、新しい家族の歴史の始まりです。それは、わたしたち教会のことでもあります。主イエスがここにおられて、わたしたちを指さしながら、「ここにわたしの母、父、弟、妹がいる」そうおっしゃって、ここに教会が生まれます。

 もちろん、血の繋がりを重んじることを主イエスは否定しません。しかし、家族であればこそ、愛が問われ、愛が破れる現実があります。そこで主イエスが新しい家族の姿として示されたのが、弟子です。弟子を指さしながら、「わたしの天の父のみ心を行う人」がわたしの家族だ、とおっしゃいました。わたしたちは、主の祈りで主イエスから、神を父と呼ぶことを知りましたが、わたしたちはすぐに父である神を見失い、神を父と呼べる資格はありません。けれども主イエスは、命をかけて、ご自分の父である神のみ心を問い、十字架にまで赴かれました。わたしたちはこの方によって、父なる神の御心に生きる家族とされます。





【2024年 1月 7日 主日礼拝説教より】

説教「御言葉に聴き、悔い改めて生きる」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第4章 1節-8節

       マタイによる福音書 第12章 38節-45節


 

 新しい主の年2024年を、神の恵みの中で迎えました。その始まりの1月1日、能登半島で大きな地震が発生してしまいました。約13年前の東日本大震災を経験している方は、他人事のように思えなかったのではないでしょうか。被災された方に、慰めを祈りたいと思います。

 久しぶりにマタイによる福音書を読み進めます。今日与えられた聖書には、律法学者とファリサイ派の人々が主イエスに、「先生、しるしを見せてください」と言いました。「しるし」とは、証拠ということで、ここでは、主イエスが本当のメシア(救い主)である証拠を見せろ、と要求しているのです。ここまで、マタイによる福音書第12章では、主イエスがすでにいくつかのいやしの奇跡をなさっておられました。もうイエス・キリストこそ救い主、まことの神、と信じられる十分な「しるし」、証拠が与えられているようにも見えます。けれども律法学者とファリサイ派の人々はさらに「しるし」を求めて主イエスに迫りました。

 一体、彼らにとっては、何が「しるし」となるのでしょうか。結局のところ、彼らが願う通りのことをしないと、救い主であるしるしにはならないことになってしまいます。これは言ってみれば、神に対して自分たちの要求を突きつけるようなものです。こうしてほしい、こうなりたい、それを実現してくれることを求めているのです。結局は、神を神ではなく、自分の僕にしています。これは、わたしたちもしていること、注意すべきことです。

 それに対し主イエスは、旧約の預言者ヨナが三日三晩大魚の中にいたしるしの他にはしるしは与えられない、と語りました。ヨナがニネベの町に悔い改めを呼びかけると、ニネベの人々は悔い改めて、滅びを免れました。また、旧約の列王記に、遠く南のアフリカから、イスラエルの王、ソロモンの知恵の言葉を求めてやって来た女王の話が出てきます。この話が出てくるポイントは、主イエスが「ここにヨナにまさるものがある」「ここに、ソロモンにまさるものがある」ということです。つまり主イエスは十字架で死に、三日目に甦ってヨナよりも確かな悔い改めのしるしとなり、またソロモンにまさる神の言葉を語るしるしとなっています。この年も主イエスを仰ぎ、み言葉に聴き、悔い改めて歩みたいです。




2023年1月1日から12月31日までの説教要旨はこのリンクからご覧いただけます(クリック)。 

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