【2024年 12月 29日 主日礼拝説教より】
説教「我々の住みか、主イエスの住みか」 詩編 第84篇 1節-5節 マタイによる福音書 第8章 18節-22節
クリスマスを終え、本日は、日頃教会員を中心に配信している聖書日課ローズンゲンで与えられた聖書箇所から、みことばに聴きたいと思います。 クリスマス、わたしたちのところに来てくださった主イエスの到来をお祝いしました。けれどもわたしたちのいるこの地上は、争いがはびこり、死の恐れに皆がおびえるようなところです。この地上がどんなにひどい状態でも、そのただ中に、神が独り子主イエスを遣わしてくださいました。 今日与えられた、主イエスの御言葉は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」と始められました。わたしたち人間は、狐や空の小さな鳥のようなもので、神は、それらに穴や巣を用意してくださるように、わたしたちのことも住みかを用意して、養ってくださるお方だ、と言われています。 ところが、主イエスがその後に、少し謎めいているような言葉を続けられました。「だが、人の子には枕する所もない」。人の子、とは主イエスご自身のことです。狐や空の鳥や、わたしたちのは住み家が用意されている、けれども、主イエスには枕するところもない、と主イエスご自身が仰っておられるのです。この地上には主イエスが枕するところがないとは、なんと可愛そうなことだろう、という風に感じられる方もあるかもしれません。あるいは、「枕するところもない」というのは、主イエスに従って行くことが、主イエスと共に厳しい、つらい生活を送るということだ、あなたはその覚悟があるのか」と呼びかけている、とも読めるかもしれません。一体、この主イエスのお言葉は何を語っておられるのでしょうか。 人の子主イエスのお姿は、神が人間たちを養う用意があることを神が指し示しておられるにも関わらず、本当にはこの養いを受けようとはせず、さすらう者となっている、その人間たちの歩みにご自身の歩みを重ねているお姿ではないでしょうか。そして確かにその歩みは、飼い葉桶で生まれ、十字架にお架かりになられるに至るまで進まれることを通して、この地上に本当に安住する場所を持てないわたしたちの罪を赦し、本当に神が与えて養ってくださる天の国の住みか、我々の本当の安住の地を指し示しておられるお姿だと思います。 【2024年 12月 22日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスが与える平和」 イザヤ書 第54章 4節-10節 ヨハネによる福音書 第14章 25節-27節
4本目のろうそくの火が灯りました。正確には、待降節第4主日ですが、日曜日、主の日の礼拝としては、今日が、クリスマス礼拝です。洗礼式があり、聖餐が祝われ、また午後には愛餐会をして、主イエスの御降誕を喜びます。 ところでなぜ、クリスマスを喜び祝うのでしょうか。なぜなら主イエスの誕生は、この世界に決定的に必要な「平和」がもたらされた出来事だからです。心痛む世界の争いがやまない現状の中で、平和そのものとして来られたのが主イエスの誕生です。「実にキリストはわたしたちの平和であります」。 今日与えられた聖書の言葉は、主イエスの誕生の場面ではなく、むしろ主イエスが十字架で死ぬ直前の語られた、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」という言葉です。世が与える平和があります。およそ世界の為政者、権力を持ったものが、その権力のもとにいる民を守り、国を安定させるために何らかの平和を保つことが、権力者の義務です。 クリスマスの場面でも、権力者が力を振るう場面が出てきます。ヘロデ王です。東方から、占星術の学者たちが星に導かれて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を、すでにユダヤ人の王であるヘロデ王に尋ねました。ヘロデの内心は不安でした。自分の王座を奪い、取って代わろうとする新しい王が生まれたかもしれない、そんな知らせがもたらされたからです。ヘロデは、自分がいつまでも王であり続け、自分の力、権力をもって民を支配し、それによって平和を保とうとしました。その結果、逆らうものは幼児であっても殺して構わないと考え、実行しました。権力闘争によって勝ち取ってきた平和、しかしいつ誰に奪い取られるかもわからない不安の中での見せかけの平和でした。 けれども主イエスが与えようとする平和は、それとは違っていました。主イエスは、人を上から押さえつけて成り立つ見せかけの平和ではなく、神の身分でありながら、へりくだって人間の姿に降りてきて、自らを献げて十字架で死なれ、その罪を赦し、人を活かして立たせることによって与えられる平和です。この平和を与える方の誕生を喜び、拝み、平和を祈りたいと思います。 【2024年 12月 15日 主日礼拝説教より】 説教「平和のために来られた主」 イザヤ書 第60章 1節-5節 エフェソの信徒への手紙 第2章 14節-18節
今年のクリスマスは、長老会の話し合いによって、「平和」という一つのテーマを決めました。かえりみて、今年の一年も争いが消えることはありませんでした。ロシアのウクライナへの軍事侵攻からやがて3年、ガザでのハマスとイスラエルの争いも、すでに1年以上続いています。このクリスマス、この悲惨な戦いが一日も早く止むことを切に願いつつ、御言葉に聴きたいと思います。 かつて、神の民・北大国イスラエルが、アッシリアという巨大帝国と戦い、ついに自分たちの国が滅ぼされる、という平和が損なわれる重大な危機に陥ったことがありました。その絶望の中でしかし、預言者として立てられたイザヤが、自分たちを解放する救い主として、一人の男の子が生まれることを預言しました(第9章)。そしてその子は「平和の君」と呼ばれる存在となりました。 それから約700年後、ベツレヘム周辺の地方で、羊飼いたちが野宿をしながら羊の番をしていた時、突然主の天使が現れて、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」という、イザヤの預言がなしとげられる宣言と共に、「天に栄光、地に平和」との讃美が響き渡りました。平和の君が生まれ、この地上に平和がもたらされることが祈り、讃美されたのでした。主イエスがクリスマスに人間の姿を取って生まれてくださったのは、地上に本当の平和がもたらされるためでした。 さらにその後、キリストの使徒となったパウロと呼ばれる人が「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と、堂々と宣言します。わたしたちの心を打ちます。けれども厳しい言葉でもあります。この言葉を聞いていたはずのこの世界が争いをやめず、このメッセージを語り継いでいたはずの教会の中でさえも、敵意と争いに満ちています。教会は罪人の共同体にほかなりません。 そのただ中でなお、「キリストはわたしたちの平和」と手紙は語ります。主イエスは当時の教会にあった、ユダヤ人と異邦人という二つのものを一つにし、敵意という隔ての壁を取り壊すという、破壊行為をなさいました。それが、主イエスの十字架によって、成し遂げられたことでした。このようにしてもたらされる平和はまず、教会から、そして世界へと実現されようとしています。 【2024年 12月 8日 主日礼拝説教より】 説教「ただ注がれる祝福」 レビ記 第18章 1節-5節 マタイによる福音書 第19章 13節-22節
先週読んだところは、主イエスのもとに子どもたちを連れてきた人々を遮った弟子たちに、主イエスが「子どもたちをこさせなさい…天の国はこのような者たちのものである」とおっしゃり、子どもたちを祝福された場面でした。けれども、今日の後半、「金持ちの青年」の物語は、主イエスに従えなかった人、の弟子になり損なった人の話です。この2つの話はまるで正反対のことを言っているような気もします。 この青年は、残念なことに、思い違いをしていました。「永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と主イエスに尋ねました。何か善いことをすることによって、永遠の命を得ることができる、という思い違いです。 主イエスはこの問いに「善い方はおひとりである」とお答えになられました。青年は「善いこと」を問い、主イエスは「善い方」を答えられたのです。青年は善いことをすることによって善い人になれると思っていました。それによって永遠の命を得られると思っていました。けれども主イエスは「善い方はおひとり」だけ、つまり神さましかおられない、と言われました。それは、人間は永遠の命に与れるほどよい人にはなれず、永遠の命を得るということは、ただ、神の憐れみによって与えられるものなのだ、ということでした。 主イエスは続けて「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」とおっしゃいました。どの掟か、と青年が問うと主イエスは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」と、青年にとっては聞いたことのあることばかりの当たり前のことでした。彼はこれまで真面目にそれらを守っていたことでしょう。主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい…それからわたしに従いなさい」と言われました。主イエスが求めておられたのは、自分の力で天の国の扉を開けようとすることではなく、ただ「主よ、憐れんでください」と神により頼み、神のみ前に額づく信仰でした。何も持たず、憐れみを請い、赦していただき、永遠の命の恵みに与らせていただきたいと思います。 【2024年 12月 1日 主日礼拝説教より】 説教「主が来るのを妨げないで」 詩編 第121篇 1節-8節 マタイによる福音書 第19章 13節-15節
救い主の到来を待ち望むアドベントを、今年も迎えることが赦されました。 今朝与えられている聖書のみ言葉は、「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た」と始まります。当時、偉い先生がいると子どもの頭に手をおいて祝福を祈ってもらう、という習慣があったようです。わが子が元気よく無事に育つように、主イエスに祈ってもらおうと、子どもたちの親が子どもたちを主イエスのもとにつれていく、これはごく自然なことでした。 ところが主イエスの弟子たちはこの人々を叱りました。弟子たちに悪気はなかったと思います。単純に、主イエスを煩わせたくなかったのでしょう。けれどもそれは主イエスのお心からは遠く離れていました。主イエスは子どもたちを祝福され、弟子たちに「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国は このような者たちのものである」と言われました。主イエスは「子供のような者」になることを期待しておられます。それは、「純真、無垢、これから成長の伸びしろがある」というようなことではなく、「何もできない、役に立つこともない」というニュアンスです。子どもたちは、主イエスの祝福にあずかる、救われる、天の国に入れる、それに値すると思われるものを何も持っていませんでした。ただ主イエスのところに祝福を受けに来た、それこそが神の国に、救われるのにふさわしい、主イエスはそう告げられたのです。 普通ならば、何も持たない者が、それを理由に招かれるということは、ありえないことです。招かれた者は、招きにふさわしいものを準備するものです。けれども主イエスの前では、そのような人間的なものを持ち合わせることが妨げになります。何も取り繕わずに、まっすぐに主イエスのもとに行くことを、主イエスは求めていました。それが、子供のような者ということでしょう。 この主イエスのもとへ行くことの背後には、先立つ主イエスの接近があり、到来があるのだと思います。主イエスの御降誕、到来を待ち望む待降節、真っ直ぐに主イエスのもとに近づく子どものような迎え方をしたいと思います。 【2024年 11月 24日 主日礼拝説教より】 説教「愛のきずなに生きる」 創世記 第2章 18節-25節 マタイによる福音書 第19章 1節-12節
マタイによる福音書第19章の冒頭には、主イエスが「ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」とあります。これまでの活動の場であるガリラヤを発ち、エルサレムの十字架の死に向けていよいよ旅立たれます。 そこに、ファリサイ派の人が「妻が夫を離縁することは律法に適っている…か」と主イエスを試そうとして質問しました。というのは、主イエスは同じマタイの5:31~32で、「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる」とおっしゃっておられます。旧約の申命記第24章で、離縁状を書けば離婚できる、と書いてあるのに、離婚は原則禁止、とはどういうことか、質問したのです。 主イエスは、どういう場合に離縁できるかを問う前に、結婚とは何か、知る必要がある、と言われました。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」という創世記2:24の言葉を引用なさりながら、主イエスは、神が人間を作る創造のみ業は、男と女がもう一度結ばれて一体となって完成する、結婚とはそのような神の大いなる恵みのみ業なのだ、と言われました。 ファリサイ派の人々は、この主イエスの答えを聞いて、それならなぜモーセは離縁状を渡して離縁するように命じたのかと問います。これに対しての主イエスの答えは、人間は皆、罪人であり、本来の結婚の姿がゆがめられ、どうしても離縁しなければならないような状況が生まれた、それでモーセは、妻と離縁することを許したのだと言われたのです。 神の前に立つ時、わたしたちは自分の欠けや罪や過ちに気付かされます。主イエスがわたしたちに求められる愛の交わりとは、互いに赦し合うしかない、受け入れ合うしかないのです。そして、それが出来るようにと、主イエスはわたしたちのために十字架にお架かりになってくださいました。主イエスは、御自分の十字架をもってわたしたちに告げておられます。結婚しない者も、結婚する者も、離婚しなければならない者も、罪を認めて悔い改め、いずれにせよ神の御前に立って歩むことを、主イエスは求めておられるのです。 【2024年 11月 17日 主日礼拝説教より】 説教「キリストの道に迷いなし」 出エジプト記 第14章 15節-18節 ヨハネによる福音書 第14章 1節-6節
誰もが不安を抱いて生きています。道が見えないからです。どんなに順風満帆な歩みをしている人であってもそうです。少し先までの道は見えているかもしれません。少しだけなら自分の力で道を切り拓けるかもしれません。しかしその先が見えなくなり、切り拓くことができなくなる。それが私たちの歩みです。 弟子の一人のトマスが「道が分からない」と言いました。主イエスの十字架が近づいていました。弟子たちもその空気を肌で感じていました。その恐れ、不安から道が見えなくなっていました。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)とトマスの不安に答えてくださいました。主イエスは不安や疑問にとことん付き合ってくださるお方です。 最近、私が仕えている教会の教会員の葬儀を行いました。生前、何度も訪問しました。時にはこんな質問も受けました。「先生、この先どうなるのでしょうか? どうしてこうなってしまったのでしょうか?」。私にとって厳しい問いかけでした。道が見えない不安です。その問いかけを黙って聞き、祈りをして、訪問の時を過ごしました。召される直前の言葉は「ありがとう」だったそうです。いろいろな問いを抱えながらの歩みだったけれども、人生まるごと主イエスが背負ってくださった。道が見えなくなったこともあったけれども、主イエスが背負ってくださった。「ありがとう」。そのような人生だったと私たちは受けとめて、葬儀をいたしました。 主イエスが「わたしは道であり…」と言われたのと同時に、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」とも言われました。ある人が「父の家とはマンションのようなところ」と言っています。「父の家」は単数形、「住む所」は複数形だからです。主イエスが私たちのための場所を用意してくださいました。皆が同じところに、主イエスの道を通して導かれていきます。「父の家」がいったいどんなところなのか、具体的にはっきりとしていないかもしれません。しかし必ず主イエスはよき道を備え、よき場所へと導いてくださいます。私たちはその信頼のもとで、地上の歩みを送ることができますし、その安心感の中で死を迎えることができます。キリストの道に迷いはないからです。 【2024年 11月 10日 主日礼拝説教より】 説教「赦しの共同体として」 詩編 第113篇 1節-9節 マタイによる福音書 第18章 21節-35節
マタイによる福音書第18章には、大切なことが盛られています。 1節以下には、弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いか、ということをめぐって疑問、争いが起こりました。この問いに対する主イエスのお答えは、「自分を低くして子どものようになる人こそ、一番偉い」ということと、「一人の子供を受け入れる者だというものでした。 6節以下には、この「一人の子供」が「小さな者の一人」と言い換えられ、その一人を信仰の仲間の中でつまずかせることへの警告が語られていました。一人の小さな者をつまずかせてしまうことがないように、気をつけなさい、というのです。なぜならば、10節以下にあるように、天の父なる神が、彼ら小さな者の一人のことをいつも気にかけ、見守っているほどに大切に思っておられるからです。 どのくらい大切に思っているか、それが「迷い出た一匹の羊のたとえ」で語られています。この羊飼いは、百匹の羊の中の一匹が群れから迷いでてしまった時に、残りの九九匹を山に残したままその一匹を探しに行くほど、信仰者たちの小さな一人を大切に思っているので、軽んじず、つまずかせないように気をつけよ、と教えます。その教えは15節以下、「あなたに対して罪を犯す兄弟」に繋がります。小さな者とは、わたしたちに対して罪を犯し傷つける人、と言い換えられています。群れの中で仲間に対する罪を犯した者に、その人を兄弟として再び得るために、罪を赦しなさいと言います。それを受けて21節以下、「罪を何回赦すべきか」という問いがおこり、「七の七十倍」、つまり何回でも際限なく赦せ、と言われ、それを示すため「仲間を赦さない家来のたとえ」が語られました。 ここに語られていることの全ては、自分が神によって一万タラントンという莫大な借金、罪を赦していただいたものだ、ということにかかっています。それは、理解したり納得したりすることではなく、信じて受け入れることです。これまでは、自分に罪を犯す兄弟を赦すことが求められていましたが、わたしたちは、根本的には赦されている者「小さな者」なのです。神は、この小さな自分のことを本当にかけがえのない大切なものとして見守ってくださいます。それを知る時に、わたしたちも赦される者から赦す者となることができます。 【2024年 11月 3日 主日礼拝説教より】 説教「何度でも、赦しなさい」 ネヘミヤ記 第9章 26節-31節 マタイによる福音書 第18章 21節-35節
ペトロが主イエスに質問をしました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。ここまで、主イエスは、罪を犯した者を、赦さなければならない、ということをお語りになっておられました。それを聞きながらペトロは、自分に対して罪を犯した者を、どこまで赦さなければならないか、と考え、率直に質問しました。 主イエスの答えは、ペトロの思いを遥かに超えていました。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。計算すれば490回です。もしもこれが、具体的な回数のことを言っているのであれば、ある人が自分に犯した罪を1回、2回、と数えて、積もりに積もった恨みを490回まで耐えたそのあと、491回目には大変なことになるでしょう。恨みが爆発するからです。もちろん、主イエスはそのようなことを言おうとしているのではありません。 そこで、主イエスはたとえを話されました。印象深い話です。 ある王が、家来の一人に貸した一万タラントンの借金の決済をしようとしました。1万タラントンとは、6000億円という途方もない金額です。当然、この家来は返済できません。この家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。するとなんと王は憐れに思って彼を赦し、その借金を帳消しにしたというのです。問題はここからです。その後、この家来に100デナリオン、100万円ほどの借金をしている仲間に会うと、「借金を返せ」と言いました。その仲間は「どうか待ってくれ」しきりに頼みましたが、家来はそれを聞き入れず、仲間を牢に入れました。赦さなかったのです。 王は神、一万タラントンの借金を帳消しにしてもらったのはわたしたち、100デナリオンの借金をしていたのがわたしたちに罪を犯した人です。主イエスは、あなたは一万タラントンの借金を帳消しにしていただいたのだから、100デナリオンの借金を帳消しにするのは当たり前ではないか、と教えてくださいました。わたしたちは、主イエスの十字架によって、途方もない罪の借金を帳消しにしていただきました。わたしたちは十字架の前に立ち、いつもそのことを思い起こしたい、そして、自分に罪を犯した人を何度でも赦す者とされたいと思います。 【2024年 10月 27日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスは今ここに」 詩編 第85篇 1節-14節 マタイによる福音書 第18章 15節-20節
信仰を持って生きようとするときに、おそらく誰もが一度は抱く問いは、「イエス・キリストは本当に生きておられるか」という問いではないかと思います。今ここに、主イエス・キリストが生きておられ、共にいてくださる、このことを信じられれば、どんな問題があってもそれでわたしたちの信仰が成り立ちます。 今日のところで主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とお語りになられました。それは何よりも礼拝のことを指しています。主イエスの御名によって集まるところ、主イエスを信じ、その御言葉を聞き、従っていく思いを持って集まる、そこに主イエスがおられます。わたしたちはその礼拝の只中におられる主イエスにお会いするために、礼拝に集まるのです。 けれどもそれは礼拝だけではなく、様々な集会、祈祷会とか、先週行われた教会修養会、子どもたちの礼拝、夏期キャンプも、そこはすべて主イエスの名によって集まるところであり、そこに主イエスが共にいてくださり、わたしたちはそこで主イエスにお会いすることができます。 「二人または三人」というのは、「集まる」ことが成り立つ最小の人数です。つまりどんな少数でも、主イエスのみ名によって集まる人がいるところには、主イエスは共にいてくださいます。わたしたちの教会は70名ほどが集まって礼拝を献げます。けれども、礼拝において主イエスにお目にかかる恵みは、人数によって変わることはありません。2,3名の礼拝であっても、人が集まっているところに主イエスが共にいてくださる恵みは全く変わりません。 人が集まる時、そこにはよいことと同時に、様々なトラブルが生じます。互いに傷つけ合うことが起こります。わたしたち一人ひとりは罪人だからです。それは主イエスの名によって集まる教会においても同じです。しかし教会には、その真ん中に主イエスが共におられ、十字架の死をもってわたしたちを赦してくださいました。この主イエスは、み名によって集まる者たちを、兄弟姉妹として結び合わせてくださるお方です。そのお方に、それぞれの罪と、それによって起こってくる問題を乗り越えられるように、神に祈り求めてまいりたいと思います。 【2024年 10月 20日 主日礼拝説教より】 説教「兄弟を得るために」 レビ記 第19章 17節-18節 マタイによる福音書 第18章 15節-20節
今読んでいるマタイによる福音書第18章は、第16章と並んで、主イエスが教会について語っておられる数少ない、大切な箇所です。特に第18章は「教会憲章」と呼ばれ、その中心をなすのが、今日読んだ15~20節です。 けれども、ここでの教会の姿は、何の問題もない、理想的な群れとして描かれていません。弟子たちの、偉くなりたい思い、仲間割れ、対立がその群れにあることが示されます。また主イエスが、「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ことがある、と語られます。更には、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と語られています。 今日の15節でも「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と語られています。教会の中で、罪を犯すことが起こり、自分が被害者になることがある、というのです。その時に主イエスはまず、「行って二人だけのところで忠告しなさい」といいます。二人きりで率直に話し、反省を求めよ、というのです。これは難しいです。しかしここで聞き取るべきは、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」という言葉です。「言うことを聞き入れる」とは、罪を認め、悔い改めることです。それによって「兄弟を得る」ことが起こります。 それがうまくいかなければ、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と教えられています。一対一では水掛論になってしまうところに、客観性を持つ意見が加わります。けれども、これも説得はなかなか難しいです。 なお聞き入れないときには、「教会に申し出なさい」と言われます。ここにおいて大事なことは、兄弟姉妹の間での罪の問題は、個人的な問題にとどまらず、教会の問題なのだ、ということです。教会に申し出られたら、やはり同じように罪を犯したものを説得し、悔い改めを求めます。兄弟を得るための三度目の努力をします。それでもどうしても解決が得られず、悔い改めないならば、教会の仲間としての交わりから、外に出す、ということです。悔い改めを求める、最終的な措置です。そのようにして、罪によって兄弟の関係を失っている者たちの間に、真実な悔い改めと赦し合いが実現して、交わりが回復されることが、主イエスによって期待されているのです。 【2024年 10月 13日 主日礼拝説教より】 説教「キリスト者として死ぬ幸い」 申命記 第34章 1節-8節 ローマの信徒への手紙 第14章 7節-12節
一年に一度の逝去者記念主日聖餐礼拝を献げています。この場所で一緒に礼拝を献げた仲間が、今度は礼拝の場所を天に移された、そのことを覚えています。この礼拝でわたしたちがなすことは、死者を覚え、交わりが与えられたことを神に感謝し、神をほめたたえること、そして、わたしたちも必ずこの地上の歩みを終える時が来たときに、わたしたちをみもとに迎え入れてくださる神との交わりを結ばせていただくことを確認することです。 今日のローマの信徒への手紙の14:9にこうあります。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。主イエスは死に、そして生きた、それは十字架の死と三日目の復活を指しているでしょう。そのことが、わたしたち死んだ人も生きている人も関わりをもっている、と聖書は語ります。わたしたちは、2000年前のイエス・キリストという方と、今日のわたしたちの間に、何の関係もない、と考えがちです。けれども主イエスの到来の意味は、神がその独り子をこの地上に遣わしてくださって、わたしたちすべての人々と関わりを持とうとされた、ということです。その主イエスが死んだ、ということは、神に背き、罪を犯し、それによって裁かれ、神に見捨てられて死ぬべきわたしたちの死を、その身代わりとして主イエスが引き受けてくださった、ということです。そればかりでなく、わたしたちが支配されている死の力を、主イエスの復活によって打ち破ってくださったこと意味します。神はこのようにして、死んでいくわたしたちと徹底的に関わりを持ってくださいました。 ですからわたしたちは、その神に応えて、自分のためにではなく、主のために生きるようにされるのだ、と聖書は語ります。それはわたしたちがどこを向いて生き、死ぬのか、主なる神が関わりを持ってくださるのだから、主なる神を向いて生き、死ぬ事ができるようになるだろう、ということです。 そしてそのような生き方をするならば「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と言えるようになります。神がわたしたちと主イエスを通して徹底的に関わってくださり、わたしたちの死においてさえも、その御手をお離しにならない、キリスト者はそのように死ぬ幸いが与えられています。 【2024年 10月 6日 主日礼拝説教より】 説教「これらの小さな者が」 詩編 第23篇 1節-6節 マタイによる福音書 第18章 10節-14節
先ほど歌った『讃美歌21』200番の「ちいさいひつじが」は、もともと『こどもさんびか』に収められていました。かつて教会学校に通ったことのある人は、歌ったことがあるでしょう。ここには、迷子になって泣いている羊を、探し出して連れ帰ってくれる羊飼いの姿が描かれています。 この「迷い出た羊」のたとえ話は、主イエスがお話しくださいましたが、今日のマタイによる福音書と、もう一つ、ルカによる福音書第15章に描かれており、そこには、「迷い出た羊」「なくした銀貨」「失われた息子(放蕩息子)」のたとえ話が3つ並べられています。いずれも、「失われたものが見出される喜び」を表しています。神のもとから失われ、迷子になって絶望しているわたしたちを、まことの羊飼いである主イエスが探し、見つけ出し、神のもとに帰って連れ帰ってくださることを、「神が」喜んでくださることを強調しています。 今日のマタイの箇所では、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という主イエスの言葉から、全く違う文脈でこのたとえ話が語られています。「小さな者」とは、直前にあったように、子供のような、小さな、目立たない、無視されたり軽んじられてしまうものに対して、その小さな者一人を軽んじるな、と教えています。神が、この小さな者のことをいつも気にかけておられ、ご自分の大切な民として見ておられるのです。 そのことを語るたとえとして、「迷い出た羊」のたとえ話が語られています。神が、失われた一匹の羊のことをいかに大切に思っておられるか、その一匹が失われてしまうことを神は良しとなさらず、群れへ回復されることを心から願い、喜ばれる方であることを語っています。ルカの記事と同じメッセージです。 ただルカでは、迷子になった一匹の羊はわたしたちであり、主イエスがそのわたしたちを誠に羊飼いとして探し、連れ帰ってくださいます。けれどもマタイにおいて迷い出た羊は、わたしたちが軽んじ、つまずかせてしまう小さなものの一人です。そうすると、わたしたちは九九匹の側に属し、失われた一匹の羊の回復をどれだけ願い、喜ぼうとしているか、が問われます。主イエスは、そのために、十字架におかかりになり、ご自分の命さえも、お与えになられました。 【2024年 9月 29日 主日礼拝説教より】 説教「つまずかせないために」 マタイによる福音書 第18章 1節-9節
主イエスが子どもを巡って、弟子たちと語っておられます。ここで主イエスが語られている一つのことは、3節「子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」、つまり問題は、天の国に入るために「子供のようになる」ことです。しかし主イエスが言われている、もう一つ言われていることが、5節「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」ということです。ただ、子どものような心を示すだけではなく、主イエスの名のゆえに一人の子供を受け入れることが語られています。それは、どんなに力弱く、無価値に見えても受け入れること、一人の人間の存在の重みを、主イエスの名のゆえに受け入れることが問われています。 6節からのところでは、主イエスとの関係において、この特に小さいもののことを考えることが、「つまずかせてはならない」という禁止の命令のような形で語られています。 主イエスはこの「小さなものの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて海に沈められる方がまし」だ、と言われました。最も弱いところに、最も十分な配慮が注がれなければならない、ということは、この主イエスの言葉は教会の交わりの中こそ、聴くべき言葉ではないか、と思います。 ここで主イエスは大胆にも「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい」、目も同様につまずかせるならえぐり出せ、といいます。「命にあずかる」とは「神の国に入る」と同じ言葉であり、すなわち、神の国に入るためには、神の主権に全く服し、その妨げとなるもの、つまずきとなるものは、切って捨てなければならない、そうしてでも、小さなものを受け入れることを、大切にしなさい、というのです。 わたしたちにとって究極的なことは、命にあずかること、神の国に入ることです。その究極的なものを第一に求め、わきまえるためには、その光のもとで、相対的な、つまずきになるものをあえて切り捨てることも求められています。主イエスは切り捨てられる側に立って、つまずきを取り除いてくださいました。 【2024年 9月 22日 主日礼拝説教より】 説教「天国でいちばん偉い人」 詩編 第131篇 1節-3節 マタイによる福音書 第18章 1節-5節
今日から礼拝で読み始める第18章は、マタイによる福音書の中で、第16章と並んで、とても大切な箇所です。他の箇所が大切でないわけでは決してありませんが、主イエスがここでだけ「教会」という言葉を用いて語っておられる、という意味で、大切に耳を傾ける必要があります。 この第18章は、弟子たちが主イエスに一つの質問をしたことから始められます。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。どうしてこの質問をしたのでしょう。ある人は、主イエスがいつもペトロだけを特別扱いしている、ひがみ、妬みの心が弟子たちを支配していたからだ、と説明しました。この妬みの問題は決して弟子だけではなく、わたしたちの教会でも、わたし自身の中にも起きている問題です。人間の意地汚い、罪がこういうところで現れます。 その弟子たちに、主イエスは一人の子供を呼び寄せられ、「子供のようになる人が、天国でいちばん偉いのだ」とおっしゃいました。「子供のように」生きることを、わたしたちは誤解して、子供のように無邪気で純真に生きること、と考えますが、子供は決して純真ではなく、我がままで傍若無人です。 では主イエスがおっしゃる「子供のように」とは何を意味するのでしょうか。それはむしろ、「自分では何も出来ない、役立たずな者」ということです。そういうものになれ、と主イエスは言われました。弟子たちは戸惑っただろうと思います。神さまの役に立つ、よく評価される人はどのような人かと問うたら、自分では何も出来ない、役に立たない子供のような者だ、と告げられたのです。天の国に入る、それはただただ恵みによる、憐れみによることです。わたしたちの中にどんなに良いところがあっても、天の国に入れる程の良いところはありません。ですから、天の国には、だれがいちばん偉いかという以前に、だれも入れないのです。にも関わらずわたしたちは、天の国に生きるものとされました。それはただ、神の独り子である主イエスがわたしたちのために十字架の裁きをお受けになったがゆえのことです。この主イエスに従うとは、自分が小さくなり、子供のように何も出来ない者として、ただ神さまの憐れみを受ける者としてみ前に立つこと、わたしたちも、受け入れられた者として受け入れていくことです。 【2024年 9月 15日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスの献金」 出エジプト記 第30章 11節-16節 マタイによる福音書 第17章 22節-27節
今日の聖書箇所の最初の、22,23節で、主イエスはご自身が、これから人々の手に渡されて殺され、復活すると語っています。実はこのような主イエスの受難と復活の予告はこれが2回目でした。この言葉に対する弟子たちの反応について「弟子たちは非常に悲しんだ」と記されています。けれどもこの一言には、重いものがあります。弟子たちの心に、大きな不安と恐れを与えたことでしょう。 その中で起こったのが、24節以下の出来事です。主イエス一行がカファルナウムというペトロの家があった町に滞在していた時、ペトロのところに神殿税を集める者たちがやって来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言いました。神殿税とは、出エジプト記30:11以下にある、20歳以上の男子はエルサレム神殿に必ず納めることになっているものでした。ユダヤ人たちの常識では、エルサレムに神殿を納めることは神の民イスラエルとして当然の義務でした。その中で、どのような態度をとるのかを問われたのです。 ペトロは、「納めます」と答えました。世間といたずらに対立するのを避けたのです。けれども主イエスは、一つの問いを投げかけました。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」。税金を取られるのは、王に支配されている者で、王の子供たちが税金を納めることはありません。ペトロはそのように答えると主イエスは「では『子供たちは』納めなくてよいわけだ」と言われました。主イエスは、神の独り子であるから納めなくていいこと、そしてペトロを始め弟子たちも、神の子供たちとして税や貢物を納めなくていいことを示しました。この「納めなくていい」は「解放されている、自由である」という意味の言葉です。つまり主イエスは、神の子供とされるならば、ただ神殿税を払わなくていいだけでなく、根本的には、恐れ、不安、絶望から解放され、自由にされているのだ、我々は神の子供として、父である神の愛のもとにいるのだから、安心していいのだ、とおっしゃっているのです。 その自由の中で、しかし、彼らをつまずかせないように、主イエスとペトロの二人が神殿税を納める手配を、ユーモアを持ってしてくださっています。 【2024年 9月 8日 主日礼拝説教より】 説教「からし種一粒ほどの信仰」 イザヤ書 第49章 14節-21節 マタイによる福音書 第17章 14節-20節
「イエスは言われた。『信仰が薄いからだ』」。弟子たち、この言葉が向けられました。今日の少し前のところで、主イエスは3人の弟子だけを連れて山に登って行かれました。弟子の残りの9人が山の麓で主イエスたちの帰りを待っていると、一人の人が、てんかんで苦しむ息子を、その弟子たちのところに、きっと治してもらえるだろう、と思って連れてきました。弟子たちは祈りをし、悪霊を追い出そうとしましたが、症状は何も変わらず、9人は全く無力でした。 わたしたちも信仰の弱さを思い知らされます。反省し、明日こそはやり直すぞ、と思って翌朝目を冷ましても、その確かな信仰の決意はたちまち崩れます。一人で主イエスの前に立つほかはありません。わたしたちの信仰が問われます。 けれども、すでに今わたしたちは、教会の礼拝においてすでに、主イエスの前に立っています。わたしたちはどうしてあの姉妹の、この兄弟の悩みを、自分の信仰の力で解くことができないのですか、自分の家庭の災いを、取り除けないのですか。そう問うことが赦されるのが、この礼拝です。 この「信仰が薄いからだ」という言葉の元の言葉は「信仰が小さい」という意味です。以前にも何度か出てきました。さらに主イエスは、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」とおっしゃいました。では、それを大きくすればいい、とわたしたちは考えるかもしれません。けれども主イエスは、信仰とは「からし種」のようなものだ、小さな信仰があれば問題はない、と言われました。なぜ、信仰をそんなにも小さなからし種一粒にたとえられたのでしょうか。大きい方が良いというのではなく、信仰とはそもそも小さいものだ、弟子たちの信仰は大きすぎる、もっと小さくなれ、と主イエスは仰っておられるのです。 そこで、この福音書記者がひそかに「からし種一粒の信仰」、真実の信仰の姿を描いています。それは最初に登場する「ある人」が、「主よ、憐れんでください」と近づいたことです。「み心ならば、ここにいやしの奇跡を行ってください」といったのです。弟子たちは、自分の信仰でいやそうとしていました。 信仰とは、自分たちの信仰を空洞にし、不信心な者を義とするために、十字架で死んでくださった主イエスの御業を全面的に受け入れ、委ねることです。 【2024年 9月 1日 主日礼拝説教より】 説教「あなたを捜す神」 エゼキエル書 第34章 11節-16節 マタイによる福音書 第18章 6節-14節
マタイによる福音書18章1節で弟子たちはイエス様に問い掛けます。そして、イエス様は、3-5節でお答えになります。このポイントは、子供のようになること、つまり、偉くなることではなく、低くなることです。低いものが、子供です。小さな子供、特に赤ちゃんは、両親に全く依存して生きています。これと同じように、神様に全く依存して、一切をお委ねしなければ、神の国・天の国に入ることはできないのです。 神様に全く依存して、一切をお委ねする人を、6節では「わたしを信じるこれらの小さな者」と表現します。この者を軽んじることには、鋭い警告が発せられます。私たち自身のことを振りかえってみると、自分が、教会で躓き、傷付いた経験があるでしょう。反対に、誰かを躓かせ、傷付けてしまった経験もあるのでしょう。そのとき、隣人を躓かせ、傷付けた自分に失望し、私は教会に来る資格などないと思ってしまいます。ですから、躓きを与えた側も、躓くのです。結局は、誰しもが、躓くのです。 しかし、神様は、躓いた者を、そのままにはしておかれません。なぜなら、神様の御心とは、小さな者が一人も滅びないことだからです。私たちが一人も滅びずに、天の国へと招いてくださることだからです。そのために、神様は私たち一人一人を捜し続けてくださいます。イエス様は、そのことを「『迷い出た羊』のたとえ」を用いて、私たちに語ってくださいます。羊飼いが迷い出た一匹を諦めずに捜し抜いたように、神様は私たちを捜し続けてくださいます。神様にとって、私は百人のうちの一人ではないのです。神様にとって、私は、たった一人分の価値があるのです。神様は、私たち一人一人を愛してくださっています。 その証拠が、私たちが礼拝をまもることです。私たちは、それぞれ一人一人が、迷い出た一匹の羊です。躓き、もう自分は教会に来る資格など無いのではないかと、迷っていた私たちです。しかし、神様は、迷い出た私たち一人一人を、捜し続けてくださいます。だからこそ、私たちは、礼拝に招かれたのです。この1週間、あるいはもっと長い間、神様は教会から離れていた私たち一人一人を捜し続けてくださいました。そして、今朝、神様は私たち一人一人を見つけたのです。そしてこの教会まで、この礼拝まで、一緒に歩いてきてくださったのです。 【2024年 8月 25日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスの招き」 哀歌 第3章 31節-33節 ルカによる福音書 第8章 42b節-48節
まず見たいのは、この女性が置かれている状況です。彼女は「病気」と「孤独」という二重の苦しみの中にありました。この女性は、月経による出血が止まらない病気でした。これは身体的に負担の大きいことで、やがてベッドから起き上がる気力も体力も無くなります。また当時の律法 (レビ記15章)によれば、彼女はその病気の故に「汚れた」者です。すると、周囲の人間は、彼女から離れ、孤立します。彼女は、共同体の外に置かれた存在であったのです。 この女性が苦しみの中にあるとき、病気を癒している「イエス」の噂を聞きます。これを聞いた彼女は、ここに唯一の可能性を感じたでしょう。「もうここしかない」と藁にもすがる思いです。彼女は、わずかな気力と体力とを振り絞って、イエス様のところに行きます。そして、イエス様の服の房に触れた後、イエス様は彼女を呼ばれました。イエス様は、藁にもすがる思いが信仰であることを認められました。その思いは信仰であると、イエス様は宣言くださるのです。 この信仰は、私たちが思う信仰とは違うかもしれません。確かに、この女性は、イエス様が救い主であるとは、言葉で告白していません。彼女にとっては、イエス様である必要はなかったかもしれません。しかし、イエス様にとっては、彼女である必要があったのです。それがイエス様の招きです。実は、彼女がイエス様のところに来たのではないのではなく、イエス様が彼女を招かれたのです。 私たちもそうです。私たちは、礼拝へと招かれたのです。誰しも最初は、「私は教会へ自分の意志で来たのだ」と思います。しかし、そこでイエス様に出会い、信仰の宣言を聞くとき、「私は教会へ招かれたのだ」と知らされます。彼女への信仰の宣言こそが「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」です。これを聞いたとき、彼女は「私は主イエスのもとへ招かれた」と知らされ、自分には信仰が与えられていると、気が付いたのです。この出来事は、私たちにも起こっています。イエス様は、私たちを礼拝に招かれました。そして、私たちに、信仰を与えてくださいます。私たちのうちに、気力と体力がないとき、信仰があるかどうか分からなくなるときこそ、イエス様は私たちを招いて、私たちに信仰を与えてくださいます。私には信仰があると、気が付かせてくださいます。 ですから、イエス様は、私たちを招き、言われます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」 【2024年 8月 18日 主日礼拝説教より】 説教「神の企て」 マラキ書 第3章 19節-24節 マタイによる福音書 第17章 1節-13節
高い山の上で、主イエスのお姿が光り輝く栄光のお姿に変わったのを、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちが見、そこに旧約を代表するモーセとエリヤが現れて主イエスと語り合っていた、という物語です。この出来事は主イエスの「山上の変貌」としばしば呼ばれています。この出来事は、多くの苦しみを受け、十字架につけられ殺される道を歩んでおられる主イエスが、実は本来は神の子としての栄光に光り輝くべき方なのだ、ということを示しています。 主イエスは、この出来事の後、弟子たちと一緒に山を下ります。山の上での体験は、驚くべき、ありえないような、聖なる体験とでも言うべきものでした。そしてそれは、わたしたちが週ごとに主イエスの栄光のお姿を見させていただいている、この礼拝を献げている、ということと重なり合います。 けれども、弟子たちはずっとそこにとどまることは許されず、山を下りなくてはなりませんでした。わたしたちも、この礼拝という山の上から、日常の世界へと歩みだしていきます。山の下にある世界は、悪霊が力を保ち、人々の悲しみと嘆き、悪と不正義、不信仰と絶望を味わう、神の愛のご支配が見えなくなるような世界でした。わたしたちが生かされている場所も同じことです。 この山を下りていく時、主イエスは弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と言われました。どういうことでしょうか。それは、主イエスの栄光を、自分たちの所有物とするような、間違った仕方で受け止められてしまうことを防ぐためです。しかしこの沈黙の命令は、主イエスが復活するまでの限定付きの命令でした。復活においてこそ、その栄光は正しく、躊躇なく受け止められうるからです。 ところで、旧約の最後のマラキ書の最後に、救い主が現れる前に、エリヤが遣わされることが預言されています。律法学者は、まだエリヤは来ていないから、主イエスはメシアではない、と言いたいようです。しかし、救い主到来のしるしであるエリヤは、洗礼者ヨハネにおいて、実はすでに示されています。山を下りた弟子たち、そしてわたしたちは、日常の生活の中で、神の恵みのしるしがどこにあるのか捜しつつ、恵みを数えて歩むように、と招かれています。 【2024年 8月 11日 主日礼拝説教より】 説教「イエスは誰か?」 ダニエル書 第7章 13節-14節 マルコによる福音書 第2章 1節-12節
イエス様が、ある家で御言葉を語っておられるとき、4人の男が中風の人を運んできます。家は人で一杯でしたから、彼らは、屋根に穴を開け、中風の人を吊り下ろしました。彼らは、イエス様という1点に猪突猛進したのです。この人たちの姿を見て、イエス様は中風の人に罪の赦しを宣言なさいました。 この家にいた律法学者たちは、イエス様は神を冒涜していると思いました。罪の赦しを宣言することができるのは、ただ主なる神様だけであるからです。つまり、ここで問われていることは、「イエスは誰か?」です。罪の赦しを宣言するということは、イエスは神であるのか。それとも、神を冒涜するただの人間であるのか。しかし、律法学者たちは、大切なことを見ていません。それは、イエス様に猪突猛進した信仰者の姿と罪が赦されるという喜びです。しかし実は、この律法学者の姿は、我々の姿です。我々は、罪が赦されるという喜び、我々が見倣うべき信仰者の姿を見続けることはできません。つまり、それは神様の愛が見えていないのです。 このような私たちに対して、イエス様は10節で「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われ、中風の人の身体を癒されます。身体が癒やされたということは、聖書の文脈では、罪が赦されたということです。罪の赦しを宣言できるということは、イエスは神であるのです。律法学者が思ったように、神を冒涜するただの人間ではないのです。イエスは、「人の子」であると同時に神なのです。 神であるイエス様は11節で「起き上がりなさい」と言われます。目を瞑り、光が見えず、暗闇の中で小さく丸まっていた私たちです。その私たちに「起き上がりなさい」とイエス様は言われるのです。これこそ、罪の赦しの宣言です。しかし、ただ命じるだけではありません。イエス様が、私たちの手を取り、握り、引っ張り、起こしてくださるのです。私たちの目を開かせ、暗闇を光で見たし、見るべきものを見せてくださるのです。見るべきものとは、罪の赦しです。私と隣人を愛してくださる神様の愛です。私たちは、これだけを見つめていたいと願います。 【2024年 8月 4日 主日礼拝説教より】 説教「光り輝く主イエス」 申命記 第34章 1節-12節 マタイによる福音書 第17章 1節-9節
主イエスはペトロとヤコブ、それからヨハネという三人の弟子とともに、高い山に登られました。わざわざ三人の弟子を選んで立ち会わさなければならないほど大事な、主イエスの一番深い秘密の物語がここに始まります。主イエスの顔が輝き、その服が白く変わったのです。「主イエスの山上の変貌」と呼ばれます。 不思議な出来事です。その意味は何でしょう。要するに、主イエスの神の子としての栄光のお姿を、三人の弟子たちは見た、ということです。それは、本来の主イエスのお姿でした。 ところでわたしたちは、本当の姿を表すことに恐れを抱いていないでしょうか。妻が夫に、夫が妻に、全てをさらけ出しているでしょうか。会社でも、政治の世界でも、本当の姿があらわになることを皆恐れています。けれども、本当の姿がわからない間は、そこに本当の信頼関係が成り立っていない、と言えます。 主イエスは、ご自身の本当のお姿を現されました。それは栄光に輝くお姿でした。信頼の証し、と言えるのかもしれません。そこに、モーセとエリヤが現れました。どちらも旧約を代表する人物です。神のイスラエルの民への救いの歴史が、主イエスに引き継がれることを示しています。神が約束してくださり、預言者たちが語ってきた救い主である、ということが、このようにして示されています。そしてそこに、神のみ声が響きます。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。これに聞け」。父なる神ご自身が、この主イエスこそわたしの子、と宣言され、神のみ心を行う者だと語られました。三人の弟子たちは、主イエスの光り輝く栄光のお姿を見、神の子の宣言を聴いたのです。 彼らは、主イエスの神の子としての栄光を垣間見る時を与えられました。とても不思議な出来事です。けれどもそれは後に、聖霊によって、すべての弟子たち、そして、信仰者たちにも示される栄光です。わたしたちも、この三人の弟子たちが体験したのと同じことを体験し、目撃します。この礼拝においてです。礼拝において、聖霊なる神がわたしたちの心に、主イエスのお姿を表してくださり、神の独り子、救い主のその栄光を悟らせてくださいます。「わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」、それは礼拝に集うわたしたちの思いです。 【2024年 7月 28日 主日礼拝説教より】 説教「いのちを見出す」
瀬谷 寛 牧師
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瀬谷 寛 牧師
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東京神学大学 本城 仰太 教師
瀬谷 寛 牧師
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瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
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内田 幸四郎 神学生(東京神学大学)
内田 幸四郎 神学生(東京神学大学)
瀬谷 寛 牧師
内田 幸四郎 神学生(東京神学大学)
瀬谷 寛 牧師
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