【2024年 11月 3日 主日礼拝説教より】
説教「何度でも、赦しなさい」 ネヘミヤ記 第9章 26節-31節 マタイによる福音書 第18章 21節-35節
ペトロが主イエスに質問をしました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。ここまで、主イエスは、罪を犯した者を、赦さなければならない、ということをお語りになっておられました。それを聞きながらペトロは、自分に対して罪を犯した者を、どこまで赦さなければならないか、と考え、率直に質問しました。 主イエスの答えは、ペトロの思いを遥かに超えていました。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。計算すれば490回です。もしもこれが、具体的な回数のことを言っているのであれば、ある人が自分に犯した罪を1回、2回、と数えて、積もりに積もった恨みを490回まで耐えたそのあと、491回目には大変なことになるでしょう。恨みが爆発するからです。もちろん、主イエスはそのようなことを言おうとしているのではありません。 そこで、主イエスはたとえを話されました。印象深い話です。 ある王が、家来の一人に貸した一万タラントンの借金の決済をしようとしました。1万タラントンとは、6000億円という途方もない金額です。当然、この家来は返済できません。この家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。するとなんと王は憐れに思って彼を赦し、その借金を帳消しにしたというのです。問題はここからです。その後、この家来に100デナリオン、100万円ほどの借金をしている仲間に会うと、「借金を返せ」と言いました。その仲間は「どうか待ってくれ」しきりに頼みましたが、家来はそれを聞き入れず、仲間を牢に入れました。赦さなかったのです。 王は神、一万タラントンの借金を帳消しにしてもらったのはわたしたち、100デナリオンの借金をしていたのがわたしたちに罪を犯した人です。主イエスは、あなたは一万タラントンの借金を帳消しにしていただいたのだから、100デナリオンの借金を帳消しにするのは当たり前ではないか、と教えてくださいました。わたしたちは、主イエスの十字架によって、途方もない罪の借金を帳消しにしていただきました。わたしたちは十字架の前に立ち、いつもそのことを思い起こしたい、そして、自分に罪を犯した人を何度でも赦す者とされたいと思います。 【2024年 10月 27日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスは今ここに」 詩編 第85篇 1節-14節 マタイによる福音書 第18章 15節-20節
信仰を持って生きようとするときに、おそらく誰もが一度は抱く問いは、「イエス・キリストは本当に生きておられるか」という問いではないかと思います。今ここに、主イエス・キリストが生きておられ、共にいてくださる、このことを信じられれば、どんな問題があってもそれでわたしたちの信仰が成り立ちます。 今日のところで主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とお語りになられました。それは何よりも礼拝のことを指しています。主イエスの御名によって集まるところ、主イエスを信じ、その御言葉を聞き、従っていく思いを持って集まる、そこに主イエスがおられます。わたしたちはその礼拝の只中におられる主イエスにお会いするために、礼拝に集まるのです。 けれどもそれは礼拝だけではなく、様々な集会、祈祷会とか、先週行われた教会修養会、子どもたちの礼拝、夏期キャンプも、そこはすべて主イエスの名によって集まるところであり、そこに主イエスが共にいてくださり、わたしたちはそこで主イエスにお会いすることができます。 「二人または三人」というのは、「集まる」ことが成り立つ最小の人数です。つまりどんな少数でも、主イエスのみ名によって集まる人がいるところには、主イエスは共にいてくださいます。わたしたちの教会は70名ほどが集まって礼拝を献げます。けれども、礼拝において主イエスにお目にかかる恵みは、人数によって変わることはありません。2,3名の礼拝であっても、人が集まっているところに主イエスが共にいてくださる恵みは全く変わりません。 人が集まる時、そこにはよいことと同時に、様々なトラブルが生じます。互いに傷つけ合うことが起こります。わたしたち一人ひとりは罪人だからです。それは主イエスの名によって集まる教会においても同じです。しかし教会には、その真ん中に主イエスが共におられ、十字架の死をもってわたしたちを赦してくださいました。この主イエスは、み名によって集まる者たちを、兄弟姉妹として結び合わせてくださるお方です。そのお方に、それぞれの罪と、それによって起こってくる問題を乗り越えられるように、神に祈り求めてまいりたいと思います。 【2024年 10月 20日 主日礼拝説教より】 説教「兄弟を得るために」 レビ記 第19章 17節-18節 マタイによる福音書 第18章 15節-20節
今読んでいるマタイによる福音書第18章は、第16章と並んで、主イエスが教会について語っておられる数少ない、大切な箇所です。特に第18章は「教会憲章」と呼ばれ、その中心をなすのが、今日読んだ15~20節です。 けれども、ここでの教会の姿は、何の問題もない、理想的な群れとして描かれていません。弟子たちの、偉くなりたい思い、仲間割れ、対立がその群れにあることが示されます。また主イエスが、「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ことがある、と語られます。更には、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と語られています。 今日の15節でも「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と語られています。教会の中で、罪を犯すことが起こり、自分が被害者になることがある、というのです。その時に主イエスはまず、「行って二人だけのところで忠告しなさい」といいます。二人きりで率直に話し、反省を求めよ、というのです。これは難しいです。しかしここで聞き取るべきは、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」という言葉です。「言うことを聞き入れる」とは、罪を認め、悔い改めることです。それによって「兄弟を得る」ことが起こります。 それがうまくいかなければ、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と教えられています。一対一では水掛論になってしまうところに、客観性を持つ意見が加わります。けれども、これも説得はなかなか難しいです。 なお聞き入れないときには、「教会に申し出なさい」と言われます。ここにおいて大事なことは、兄弟姉妹の間での罪の問題は、個人的な問題にとどまらず、教会の問題なのだ、ということです。教会に申し出られたら、やはり同じように罪を犯したものを説得し、悔い改めを求めます。兄弟を得るための三度目の努力をします。それでもどうしても解決が得られず、悔い改めないならば、教会の仲間としての交わりから、外に出す、ということです。悔い改めを求める、最終的な措置です。そのようにして、罪によって兄弟の関係を失っている者たちの間に、真実な悔い改めと赦し合いが実現して、交わりが回復されることが、主イエスによって期待されているのです。 【2024年 10月 13日 主日礼拝説教より】 説教「キリスト者として死ぬ幸い」 申命記 第34章 1節-8節 ローマの信徒への手紙 第14章 7節-12節
一年に一度の逝去者記念主日聖餐礼拝を献げています。この場所で一緒に礼拝を献げた仲間が、今度は礼拝の場所を天に移された、そのことを覚えています。この礼拝でわたしたちがなすことは、死者を覚え、交わりが与えられたことを神に感謝し、神をほめたたえること、そして、わたしたちも必ずこの地上の歩みを終える時が来たときに、わたしたちをみもとに迎え入れてくださる神との交わりを結ばせていただくことを確認することです。 今日のローマの信徒への手紙の14:9にこうあります。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。主イエスは死に、そして生きた、それは十字架の死と三日目の復活を指しているでしょう。そのことが、わたしたち死んだ人も生きている人も関わりをもっている、と聖書は語ります。わたしたちは、2000年前のイエス・キリストという方と、今日のわたしたちの間に、何の関係もない、と考えがちです。けれども主イエスの到来の意味は、神がその独り子をこの地上に遣わしてくださって、わたしたちすべての人々と関わりを持とうとされた、ということです。その主イエスが死んだ、ということは、神に背き、罪を犯し、それによって裁かれ、神に見捨てられて死ぬべきわたしたちの死を、その身代わりとして主イエスが引き受けてくださった、ということです。そればかりでなく、わたしたちが支配されている死の力を、主イエスの復活によって打ち破ってくださったこと意味します。神はこのようにして、死んでいくわたしたちと徹底的に関わりを持ってくださいました。 ですからわたしたちは、その神に応えて、自分のためにではなく、主のために生きるようにされるのだ、と聖書は語ります。それはわたしたちがどこを向いて生き、死ぬのか、主なる神が関わりを持ってくださるのだから、主なる神を向いて生き、死ぬ事ができるようになるだろう、ということです。 そしてそのような生き方をするならば「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と言えるようになります。神がわたしたちと主イエスを通して徹底的に関わってくださり、わたしたちの死においてさえも、その御手をお離しにならない、キリスト者はそのように死ぬ幸いが与えられています。 【2024年 10月 6日 主日礼拝説教より】 説教「これらの小さな者が」 詩編 第23篇 1節-6節 マタイによる福音書 第18章 10節-14節
先ほど歌った『讃美歌21』200番の「ちいさいひつじが」は、もともと『こどもさんびか』に収められていました。かつて教会学校に通ったことのある人は、歌ったことがあるでしょう。ここには、迷子になって泣いている羊を、探し出して連れ帰ってくれる羊飼いの姿が描かれています。 この「迷い出た羊」のたとえ話は、主イエスがお話しくださいましたが、今日のマタイによる福音書と、もう一つ、ルカによる福音書第15章に描かれており、そこには、「迷い出た羊」「なくした銀貨」「失われた息子(放蕩息子)」のたとえ話が3つ並べられています。いずれも、「失われたものが見出される喜び」を表しています。神のもとから失われ、迷子になって絶望しているわたしたちを、まことの羊飼いである主イエスが探し、見つけ出し、神のもとに帰って連れ帰ってくださることを、「神が」喜んでくださることを強調しています。 今日のマタイの箇所では、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という主イエスの言葉から、全く違う文脈でこのたとえ話が語られています。「小さな者」とは、直前にあったように、子供のような、小さな、目立たない、無視されたり軽んじられてしまうものに対して、その小さな者一人を軽んじるな、と教えています。神が、この小さな者のことをいつも気にかけておられ、ご自分の大切な民として見ておられるのです。 そのことを語るたとえとして、「迷い出た羊」のたとえ話が語られています。神が、失われた一匹の羊のことをいかに大切に思っておられるか、その一匹が失われてしまうことを神は良しとなさらず、群れへ回復されることを心から願い、喜ばれる方であることを語っています。ルカの記事と同じメッセージです。 ただルカでは、迷子になった一匹の羊はわたしたちであり、主イエスがそのわたしたちを誠に羊飼いとして探し、連れ帰ってくださいます。けれどもマタイにおいて迷い出た羊は、わたしたちが軽んじ、つまずかせてしまう小さなものの一人です。そうすると、わたしたちは九九匹の側に属し、失われた一匹の羊の回復をどれだけ願い、喜ぼうとしているか、が問われます。主イエスは、そのために、十字架におかかりになり、ご自分の命さえも、お与えになられました。 【2024年 9月 29日 主日礼拝説教より】 説教「つまずかせないために」 マタイによる福音書 第18章 1節-9節
主イエスが子どもを巡って、弟子たちと語っておられます。ここで主イエスが語られている一つのことは、3節「子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」、つまり問題は、天の国に入るために「子供のようになる」ことです。しかし主イエスが言われている、もう一つ言われていることが、5節「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」ということです。ただ、子どものような心を示すだけではなく、主イエスの名のゆえに一人の子供を受け入れることが語られています。それは、どんなに力弱く、無価値に見えても受け入れること、一人の人間の存在の重みを、主イエスの名のゆえに受け入れることが問われています。 6節からのところでは、主イエスとの関係において、この特に小さいもののことを考えることが、「つまずかせてはならない」という禁止の命令のような形で語られています。 主イエスはこの「小さなものの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて海に沈められる方がまし」だ、と言われました。最も弱いところに、最も十分な配慮が注がれなければならない、ということは、この主イエスの言葉は教会の交わりの中こそ、聴くべき言葉ではないか、と思います。 ここで主イエスは大胆にも「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい」、目も同様につまずかせるならえぐり出せ、といいます。「命にあずかる」とは「神の国に入る」と同じ言葉であり、すなわち、神の国に入るためには、神の主権に全く服し、その妨げとなるもの、つまずきとなるものは、切って捨てなければならない、そうしてでも、小さなものを受け入れることを、大切にしなさい、というのです。 わたしたちにとって究極的なことは、命にあずかること、神の国に入ることです。その究極的なものを第一に求め、わきまえるためには、その光のもとで、相対的な、つまずきになるものをあえて切り捨てることも求められています。主イエスは切り捨てられる側に立って、つまずきを取り除いてくださいました。 【2024年 9月 22日 主日礼拝説教より】 説教「天国でいちばん偉い人」 詩編 第131篇 1節-3節 マタイによる福音書 第18章 1節-5節
今日から礼拝で読み始める第18章は、マタイによる福音書の中で、第16章と並んで、とても大切な箇所です。他の箇所が大切でないわけでは決してありませんが、主イエスがここでだけ「教会」という言葉を用いて語っておられる、という意味で、大切に耳を傾ける必要があります。 この第18章は、弟子たちが主イエスに一つの質問をしたことから始められます。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。どうしてこの質問をしたのでしょう。ある人は、主イエスがいつもペトロだけを特別扱いしている、ひがみ、妬みの心が弟子たちを支配していたからだ、と説明しました。この妬みの問題は決して弟子だけではなく、わたしたちの教会でも、わたし自身の中にも起きている問題です。人間の意地汚い、罪がこういうところで現れます。 その弟子たちに、主イエスは一人の子供を呼び寄せられ、「子供のようになる人が、天国でいちばん偉いのだ」とおっしゃいました。「子供のように」生きることを、わたしたちは誤解して、子供のように無邪気で純真に生きること、と考えますが、子供は決して純真ではなく、我がままで傍若無人です。 では主イエスがおっしゃる「子供のように」とは何を意味するのでしょうか。それはむしろ、「自分では何も出来ない、役立たずな者」ということです。そういうものになれ、と主イエスは言われました。弟子たちは戸惑っただろうと思います。神さまの役に立つ、よく評価される人はどのような人かと問うたら、自分では何も出来ない、役に立たない子供のような者だ、と告げられたのです。天の国に入る、それはただただ恵みによる、憐れみによることです。わたしたちの中にどんなに良いところがあっても、天の国に入れる程の良いところはありません。ですから、天の国には、だれがいちばん偉いかという以前に、だれも入れないのです。にも関わらずわたしたちは、天の国に生きるものとされました。それはただ、神の独り子である主イエスがわたしたちのために十字架の裁きをお受けになったがゆえのことです。この主イエスに従うとは、自分が小さくなり、子供のように何も出来ない者として、ただ神さまの憐れみを受ける者としてみ前に立つこと、わたしたちも、受け入れられた者として受け入れていくことです。 【2024年 9月 15日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスの献金」 出エジプト記 第30章 11節-16節 マタイによる福音書 第17章 22節-27節
今日の聖書箇所の最初の、22,23節で、主イエスはご自身が、これから人々の手に渡されて殺され、復活すると語っています。実はこのような主イエスの受難と復活の予告はこれが2回目でした。この言葉に対する弟子たちの反応について「弟子たちは非常に悲しんだ」と記されています。けれどもこの一言には、重いものがあります。弟子たちの心に、大きな不安と恐れを与えたことでしょう。 その中で起こったのが、24節以下の出来事です。主イエス一行がカファルナウムというペトロの家があった町に滞在していた時、ペトロのところに神殿税を集める者たちがやって来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言いました。神殿税とは、出エジプト記30:11以下にある、20歳以上の男子はエルサレム神殿に必ず納めることになっているものでした。ユダヤ人たちの常識では、エルサレムに神殿を納めることは神の民イスラエルとして当然の義務でした。その中で、どのような態度をとるのかを問われたのです。 ペトロは、「納めます」と答えました。世間といたずらに対立するのを避けたのです。けれども主イエスは、一つの問いを投げかけました。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」。税金を取られるのは、王に支配されている者で、王の子供たちが税金を納めることはありません。ペトロはそのように答えると主イエスは「では『子供たちは』納めなくてよいわけだ」と言われました。主イエスは、神の独り子であるから納めなくていいこと、そしてペトロを始め弟子たちも、神の子供たちとして税や貢物を納めなくていいことを示しました。この「納めなくていい」は「解放されている、自由である」という意味の言葉です。つまり主イエスは、神の子供とされるならば、ただ神殿税を払わなくていいだけでなく、根本的には、恐れ、不安、絶望から解放され、自由にされているのだ、我々は神の子供として、父である神の愛のもとにいるのだから、安心していいのだ、とおっしゃっているのです。 その自由の中で、しかし、彼らをつまずかせないように、主イエスとペトロの二人が神殿税を納める手配を、ユーモアを持ってしてくださっています。 【2024年 9月 8日 主日礼拝説教より】 説教「からし種一粒ほどの信仰」 イザヤ書 第49章 14節-21節 マタイによる福音書 第17章 14節-20節
「イエスは言われた。『信仰が薄いからだ』」。弟子たち、この言葉が向けられました。今日の少し前のところで、主イエスは3人の弟子だけを連れて山に登って行かれました。弟子の残りの9人が山の麓で主イエスたちの帰りを待っていると、一人の人が、てんかんで苦しむ息子を、その弟子たちのところに、きっと治してもらえるだろう、と思って連れてきました。弟子たちは祈りをし、悪霊を追い出そうとしましたが、症状は何も変わらず、9人は全く無力でした。 わたしたちも信仰の弱さを思い知らされます。反省し、明日こそはやり直すぞ、と思って翌朝目を冷ましても、その確かな信仰の決意はたちまち崩れます。一人で主イエスの前に立つほかはありません。わたしたちの信仰が問われます。 けれども、すでに今わたしたちは、教会の礼拝においてすでに、主イエスの前に立っています。わたしたちはどうしてあの姉妹の、この兄弟の悩みを、自分の信仰の力で解くことができないのですか、自分の家庭の災いを、取り除けないのですか。そう問うことが赦されるのが、この礼拝です。 この「信仰が薄いからだ」という言葉の元の言葉は「信仰が小さい」という意味です。以前にも何度か出てきました。さらに主イエスは、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」とおっしゃいました。では、それを大きくすればいい、とわたしたちは考えるかもしれません。けれども主イエスは、信仰とは「からし種」のようなものだ、小さな信仰があれば問題はない、と言われました。なぜ、信仰をそんなにも小さなからし種一粒にたとえられたのでしょうか。大きい方が良いというのではなく、信仰とはそもそも小さいものだ、弟子たちの信仰は大きすぎる、もっと小さくなれ、と主イエスは仰っておられるのです。 そこで、この福音書記者がひそかに「からし種一粒の信仰」、真実の信仰の姿を描いています。それは最初に登場する「ある人」が、「主よ、憐れんでください」と近づいたことです。「み心ならば、ここにいやしの奇跡を行ってください」といったのです。弟子たちは、自分の信仰でいやそうとしていました。 信仰とは、自分たちの信仰を空洞にし、不信心な者を義とするために、十字架で死んでくださった主イエスの御業を全面的に受け入れ、委ねることです。 【2024年 9月 1日 主日礼拝説教より】 説教「あなたを捜す神」 エゼキエル書 第34章 11節-16節 マタイによる福音書 第18章 6節-14節
マタイによる福音書18章1節で弟子たちはイエス様に問い掛けます。そして、イエス様は、3-5節でお答えになります。このポイントは、子供のようになること、つまり、偉くなることではなく、低くなることです。低いものが、子供です。小さな子供、特に赤ちゃんは、両親に全く依存して生きています。これと同じように、神様に全く依存して、一切をお委ねしなければ、神の国・天の国に入ることはできないのです。 神様に全く依存して、一切をお委ねする人を、6節では「わたしを信じるこれらの小さな者」と表現します。この者を軽んじることには、鋭い警告が発せられます。私たち自身のことを振りかえってみると、自分が、教会で躓き、傷付いた経験があるでしょう。反対に、誰かを躓かせ、傷付けてしまった経験もあるのでしょう。そのとき、隣人を躓かせ、傷付けた自分に失望し、私は教会に来る資格などないと思ってしまいます。ですから、躓きを与えた側も、躓くのです。結局は、誰しもが、躓くのです。 しかし、神様は、躓いた者を、そのままにはしておかれません。なぜなら、神様の御心とは、小さな者が一人も滅びないことだからです。私たちが一人も滅びずに、天の国へと招いてくださることだからです。そのために、神様は私たち一人一人を捜し続けてくださいます。イエス様は、そのことを「『迷い出た羊』のたとえ」を用いて、私たちに語ってくださいます。羊飼いが迷い出た一匹を諦めずに捜し抜いたように、神様は私たちを捜し続けてくださいます。神様にとって、私は百人のうちの一人ではないのです。神様にとって、私は、たった一人分の価値があるのです。神様は、私たち一人一人を愛してくださっています。 その証拠が、私たちが礼拝をまもることです。私たちは、それぞれ一人一人が、迷い出た一匹の羊です。躓き、もう自分は教会に来る資格など無いのではないかと、迷っていた私たちです。しかし、神様は、迷い出た私たち一人一人を、捜し続けてくださいます。だからこそ、私たちは、礼拝に招かれたのです。この1週間、あるいはもっと長い間、神様は教会から離れていた私たち一人一人を捜し続けてくださいました。そして、今朝、神様は私たち一人一人を見つけたのです。そしてこの教会まで、この礼拝まで、一緒に歩いてきてくださったのです。 【2024年 8月 25日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスの招き」 哀歌 第3章 31節-33節 ルカによる福音書 第8章 42b節-48節
まず見たいのは、この女性が置かれている状況です。彼女は「病気」と「孤独」という二重の苦しみの中にありました。この女性は、月経による出血が止まらない病気でした。これは身体的に負担の大きいことで、やがてベッドから起き上がる気力も体力も無くなります。また当時の律法 (レビ記15章)によれば、彼女はその病気の故に「汚れた」者です。すると、周囲の人間は、彼女から離れ、孤立します。彼女は、共同体の外に置かれた存在であったのです。 この女性が苦しみの中にあるとき、病気を癒している「イエス」の噂を聞きます。これを聞いた彼女は、ここに唯一の可能性を感じたでしょう。「もうここしかない」と藁にもすがる思いです。彼女は、わずかな気力と体力とを振り絞って、イエス様のところに行きます。そして、イエス様の服の房に触れた後、イエス様は彼女を呼ばれました。イエス様は、藁にもすがる思いが信仰であることを認められました。その思いは信仰であると、イエス様は宣言くださるのです。 この信仰は、私たちが思う信仰とは違うかもしれません。確かに、この女性は、イエス様が救い主であるとは、言葉で告白していません。彼女にとっては、イエス様である必要はなかったかもしれません。しかし、イエス様にとっては、彼女である必要があったのです。それがイエス様の招きです。実は、彼女がイエス様のところに来たのではないのではなく、イエス様が彼女を招かれたのです。 私たちもそうです。私たちは、礼拝へと招かれたのです。誰しも最初は、「私は教会へ自分の意志で来たのだ」と思います。しかし、そこでイエス様に出会い、信仰の宣言を聞くとき、「私は教会へ招かれたのだ」と知らされます。彼女への信仰の宣言こそが「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」です。これを聞いたとき、彼女は「私は主イエスのもとへ招かれた」と知らされ、自分には信仰が与えられていると、気が付いたのです。この出来事は、私たちにも起こっています。イエス様は、私たちを礼拝に招かれました。そして、私たちに、信仰を与えてくださいます。私たちのうちに、気力と体力がないとき、信仰があるかどうか分からなくなるときこそ、イエス様は私たちを招いて、私たちに信仰を与えてくださいます。私には信仰があると、気が付かせてくださいます。 ですから、イエス様は、私たちを招き、言われます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」 【2024年 8月 18日 主日礼拝説教より】 説教「神の企て」 マラキ書 第3章 19節-24節 マタイによる福音書 第17章 1節-13節
高い山の上で、主イエスのお姿が光り輝く栄光のお姿に変わったのを、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちが見、そこに旧約を代表するモーセとエリヤが現れて主イエスと語り合っていた、という物語です。この出来事は主イエスの「山上の変貌」としばしば呼ばれています。この出来事は、多くの苦しみを受け、十字架につけられ殺される道を歩んでおられる主イエスが、実は本来は神の子としての栄光に光り輝くべき方なのだ、ということを示しています。 主イエスは、この出来事の後、弟子たちと一緒に山を下ります。山の上での体験は、驚くべき、ありえないような、聖なる体験とでも言うべきものでした。そしてそれは、わたしたちが週ごとに主イエスの栄光のお姿を見させていただいている、この礼拝を献げている、ということと重なり合います。 けれども、弟子たちはずっとそこにとどまることは許されず、山を下りなくてはなりませんでした。わたしたちも、この礼拝という山の上から、日常の世界へと歩みだしていきます。山の下にある世界は、悪霊が力を保ち、人々の悲しみと嘆き、悪と不正義、不信仰と絶望を味わう、神の愛のご支配が見えなくなるような世界でした。わたしたちが生かされている場所も同じことです。 この山を下りていく時、主イエスは弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と言われました。どういうことでしょうか。それは、主イエスの栄光を、自分たちの所有物とするような、間違った仕方で受け止められてしまうことを防ぐためです。しかしこの沈黙の命令は、主イエスが復活するまでの限定付きの命令でした。復活においてこそ、その栄光は正しく、躊躇なく受け止められうるからです。 ところで、旧約の最後のマラキ書の最後に、救い主が現れる前に、エリヤが遣わされることが預言されています。律法学者は、まだエリヤは来ていないから、主イエスはメシアではない、と言いたいようです。しかし、救い主到来のしるしであるエリヤは、洗礼者ヨハネにおいて、実はすでに示されています。山を下りた弟子たち、そしてわたしたちは、日常の生活の中で、神の恵みのしるしがどこにあるのか捜しつつ、恵みを数えて歩むように、と招かれています。 【2024年 8月 11日 主日礼拝説教より】 説教「イエスは誰か?」 ダニエル書 第7章 13節-14節 マルコによる福音書 第2章 1節-12節
イエス様が、ある家で御言葉を語っておられるとき、4人の男が中風の人を運んできます。家は人で一杯でしたから、彼らは、屋根に穴を開け、中風の人を吊り下ろしました。彼らは、イエス様という1点に猪突猛進したのです。この人たちの姿を見て、イエス様は中風の人に罪の赦しを宣言なさいました。 この家にいた律法学者たちは、イエス様は神を冒涜していると思いました。罪の赦しを宣言することができるのは、ただ主なる神様だけであるからです。つまり、ここで問われていることは、「イエスは誰か?」です。罪の赦しを宣言するということは、イエスは神であるのか。それとも、神を冒涜するただの人間であるのか。しかし、律法学者たちは、大切なことを見ていません。それは、イエス様に猪突猛進した信仰者の姿と罪が赦されるという喜びです。しかし実は、この律法学者の姿は、我々の姿です。我々は、罪が赦されるという喜び、我々が見倣うべき信仰者の姿を見続けることはできません。つまり、それは神様の愛が見えていないのです。 このような私たちに対して、イエス様は10節で「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われ、中風の人の身体を癒されます。身体が癒やされたということは、聖書の文脈では、罪が赦されたということです。罪の赦しを宣言できるということは、イエスは神であるのです。律法学者が思ったように、神を冒涜するただの人間ではないのです。イエスは、「人の子」であると同時に神なのです。 神であるイエス様は11節で「起き上がりなさい」と言われます。目を瞑り、光が見えず、暗闇の中で小さく丸まっていた私たちです。その私たちに「起き上がりなさい」とイエス様は言われるのです。これこそ、罪の赦しの宣言です。しかし、ただ命じるだけではありません。イエス様が、私たちの手を取り、握り、引っ張り、起こしてくださるのです。私たちの目を開かせ、暗闇を光で見たし、見るべきものを見せてくださるのです。見るべきものとは、罪の赦しです。私と隣人を愛してくださる神様の愛です。私たちは、これだけを見つめていたいと願います。 【2024年 8月 4日 主日礼拝説教より】 説教「光り輝く主イエス」 申命記 第34章 1節-12節 マタイによる福音書 第17章 1節-9節
主イエスはペトロとヤコブ、それからヨハネという三人の弟子とともに、高い山に登られました。わざわざ三人の弟子を選んで立ち会わさなければならないほど大事な、主イエスの一番深い秘密の物語がここに始まります。主イエスの顔が輝き、その服が白く変わったのです。「主イエスの山上の変貌」と呼ばれます。 不思議な出来事です。その意味は何でしょう。要するに、主イエスの神の子としての栄光のお姿を、三人の弟子たちは見た、ということです。それは、本来の主イエスのお姿でした。 ところでわたしたちは、本当の姿を表すことに恐れを抱いていないでしょうか。妻が夫に、夫が妻に、全てをさらけ出しているでしょうか。会社でも、政治の世界でも、本当の姿があらわになることを皆恐れています。けれども、本当の姿がわからない間は、そこに本当の信頼関係が成り立っていない、と言えます。 主イエスは、ご自身の本当のお姿を現されました。それは栄光に輝くお姿でした。信頼の証し、と言えるのかもしれません。そこに、モーセとエリヤが現れました。どちらも旧約を代表する人物です。神のイスラエルの民への救いの歴史が、主イエスに引き継がれることを示しています。神が約束してくださり、預言者たちが語ってきた救い主である、ということが、このようにして示されています。そしてそこに、神のみ声が響きます。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。これに聞け」。父なる神ご自身が、この主イエスこそわたしの子、と宣言され、神のみ心を行う者だと語られました。三人の弟子たちは、主イエスの光り輝く栄光のお姿を見、神の子の宣言を聴いたのです。 彼らは、主イエスの神の子としての栄光を垣間見る時を与えられました。とても不思議な出来事です。けれどもそれは後に、聖霊によって、すべての弟子たち、そして、信仰者たちにも示される栄光です。わたしたちも、この三人の弟子たちが体験したのと同じことを体験し、目撃します。この礼拝においてです。礼拝において、聖霊なる神がわたしたちの心に、主イエスのお姿を表してくださり、神の独り子、救い主のその栄光を悟らせてくださいます。「わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」、それは礼拝に集うわたしたちの思いです。 【2024年 7月 28日 主日礼拝説教より】 説教「いのちを見出す」 イザヤ書 第65章 1節-7節 マタイによる福音書 第16章 21節-28節
弟子たちの代表であったペトロは、物わかりの悪い人間の代表でもありました。主イエスが、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」、それが神の計画、定めであると弟子たちに打ち明け始められた時に、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言いました。神の子、救い主であるお方が、苦しみを受けて死なれる、そんなことわからない、考えられないと思ったのです。わたしたちも、主イエスを神の子、メシア、救い主であると信じ、その後に従っていきたいと願います。物分かりよく従うことができるでしょうか。 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。これが、主イエスの後に従っていく弟子、信仰者のあるべき姿です。自分を捨てよ、とは、自分の望みや願い、自分が得をし、楽をしようとするなどの一切の思いを捨てる「自己否定」のことだと考えてしまいます。そしてそれは「他者のために」ということと重ね、「自分よりも他人のことを優先させる」、と考えてしまいます。 けれども主イエスがおっしゃることは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」ということです。ここでの問題は、自分の命を本当に得るにはどうしたらよいか、ということです。「自分の命を救いたい」と思っている者はかえってそれを失い、主イエスのためにいのちを失うように見える生き方をする者こそが、本当に命を得ることができる、というのです。そのことは次でもっとはっきりします。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。自分を本当に大切にするとは、このような生き方をすることだ、と教えられています。 わたしたちの命は、自分の努力、何をもっているか、で支えられるのではありません。すべてを超えて神が、わたしたちのいのちを導いておられます。わたしたちが本当に命を得ることは、神が独り子主イエスを十字架においてわたしたちのいのちの代価として支払ってくださった、それほどに値高いものだ、と受け止めるところでなされます。その主イエスの十字架にくっついて生きる、それが、自分の十字架を背負って、主イエスに従う生き方となります。 【2024年 7月 21日 主日礼拝説教より】 説教「神の定めた救いの道」 列王記上 第8章 41節-45節 マタイによる福音書 第16章 13節-23節
マタイによる福音書第16章13節以下を何度も読んでいます。シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白し、主イエスが「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた場面を聴き続けてきました。今日新しく聴き取るのは、「このとき」から、初めて主イエスが、ご自分が十字架につけられ、殺され、そして復活する、という予告を語り始めておられることです。この予告はこの後もさらに二度、繰り返され、予告されていくことになります。 まず、主イエスご自身が受難を予告されたということは、十字架の苦しみと死は、主イエスの予定外のことではなかった、ということが言えます。「苦しみを受けて殺され、三日目に復活することに『なっている』」というこの言い方は、神のご計画によってそのように定められている、だからそのとおりに従わなければならない、ということを意味する非常に強い言葉です。 21節のところで「このときから」とはっきり言われているのはまさに、シモン・ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白と、主イエスが「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた「このとき」です。「このとき」こそ、いよいよ主イエスの受難について語られはじめられるときだ、と言うのです。主イエスが救い主であられることは、十字架の苦しみと死、そして復活によって成し遂げられます。主イエスの苦しみと死は、わたしたちの救いのために、まことの神、救い主として引き受けられたことです。主イエスが救い主であることと、主イエスが苦しみを受けられることは一つのことです。 ところが、この受難予告を聞いたペトロは、主イエスを脇へ連れ出して「主よ、…そんなことがあってはなりません」といさめ始めます。主イエスが救い主と信じるゆえに、主イエスの受難予告を受け入れることができませんでした。これに対し主イエスは「サタン、引き下がれ」と厳しく言われました。ペトロは自分の理想の救い主のイメージを主イエスに押し付けてしまったゆえに、サタン、神の救いを妨害する者、と呼ばれてしまいました。わたしたちも、自分の思いを神に、主イエスに、押し付けてしまうペトロになることがしばしばあります。神が、主イエスを通して与えてくださる救いを、そのまま受け取りたく思います。 【2024年 7月 14日 主日礼拝説教より】 説教「罪と死に勝つところ」 出エジプト記 第19章 1節-6節 マタイによる福音書 第16章 13節-20節(3)
先週の一週間、わたしたちの教会は、仲間の二人の方の葬りを行いました。二人の方の葬りが重なるのは、珍しいことかもしれません。けれども、動じることはありません。教会は、陰府の力、死の力と対抗し、勝利しているからです。 主イエスが弟子たちに、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と問い、さらに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と改めて問いました。この問いに答える形で、弟子たちの代表としてペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えることができました。この告白した弟子の信仰の上に、「わたしの教会を建てる」と主イエスは宣言し、今日の教会に至っています。 「自分にとって主イエスとは何者か」と考えることはとても大事です。けれどもそれだけでは信仰による本当の幸いに与ることはできません。その自分の信仰が、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われた、その教会の土台となる信仰告白と重なり合い、一つとなっているか、ということが大事です。 主イエスはさらにペトロに、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われました。この天の国の鍵とは、天の国、神のご支配、その救いの恵みの扉を開けたり閉めたりする鍵です。それも、ペトロ個人にと言うよりも、弟子たちを代表して告白したあの信仰を共に告白している教会に授けられた、と考えるべきでしょう。何か教会がとてつもない権力を握っているように聞こえるかもしれません。しかし教会は主イエスをメシア、生ける神の子と信じる信仰によって結び合わされる群れであり、その信仰とは、神の子である主イエスがわたしたちのために十字架にかかって死んで、わたしたちの罪を赦して永遠の命に与らせてくださることを信じる信仰です。つまり主イエスによって天の国の扉が大きく開かれていることを信じるのが教会の信仰です。 先週わたしたちがお送りした二人もまた、主イエスをまことの生ける神の子、救い主と信じる信仰によって、死の力、陰府の力に打ち勝つ教会の一員とされた方々です。わたしたちも、この信仰に生き、生かされています。 【2024年 7月 7日 主日礼拝説教より】 説教「岩の上に教会が建つ」 詩編 第27篇 1節-6節 マタイによる福音書 第16章 13節-20節(2)
本日読んでいるマタイによる福音書第16章の言葉は、聖書の中でも重要な言葉だと言えます。この箇所が重要である、と言われる第一の理由は、16節にある言葉にあります。「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」。主イエスは弟子たちに、「人々は人の子のことを何者だと言っているか」「わたしをどういう人間だと言っているか」とお尋ねになりました。いろいろな態度、理解がありました。そこでさらに、それでは、あなたがたはわたしをどういう存在だと見るのか、主イエスは問いを改められました。そこでペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。ここに、ペトロのキリスト告白、と呼ばれる言葉が記されました。ここで初めて、人間の言葉、人間の口をもって、ナザレに育ったこのイエスという存在が神の子である、と明確に語られました。そしてわたしたちにとっても、このイエスという方を、神の子、キリスト、と言えることが、信仰の中心です。 この箇所が重要である第二の理由は、それに続いて18節以下に、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われていることです。この言葉について、教会の歴史において、たくさんのことが言われました。特に、ローマ・カトリック教会では「この岩」をペトロ自身であると理解しました。そのペトロの後継者がローマ法王と呼ばれる人です。けれども主イエスは、「あなたはペトロ、あなたの上に」とは言わず、「この岩(ペトラ)の上に」と言われました。言葉遊びをしていることは確かですが、わたしたち、プロテスタント教会では、「この岩」は、ペトロが言い表した「あなたはメシア、生ける神の子です」という「信仰告白」、と受け止めます。イエスというお方をどのように見、何者とするのか、そのことこそが、教会の土台を形作ります。 しかし、ここでもっと注目したいのは、「『わたしは』この岩の上に『わたしの』教会を建てる」と言われたことです。「イエスこそメシア」と告白したペトロ、その告白の岩の上に「わたし(=主イエス・キリスト)」が「わたしの教会」を建てる、とおっしゃいました。教会はイエス・キリストのものです。 【2024年 6月 30日 主日礼拝説教より】 説教「神は愛なり」 詩編 第37篇 ヨハネの手紙一 第4章 7節-12節
聖書は「神を愛し、人を愛する(申6:4-5/マタイ22:34-40)」ことが記された書物です。しかし先日、東北学院大学の梅村平太さんと話をする中で、主に「愛される」ことの大切さを思い起こさせられました。御言葉をとりつぐ使命を託されていながら、「愛すること」ばかりを語り、「愛されること」の喜びを語りきれなかったのではないかと、クリスチャン学生との交わりを通して、主が私を悔い改めへと導いて下さいました。 日々の生活の中で、何よりも大切なことは、主の足下に座り、主に愛される喜びの時を過すことです。それは、マルタとマリアの話にあるように(ルカ10:38-42)、イエス様ご自身が願っておられるのです。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。(ヨハネ15:11-17)」とありますように、朝ごとに、主は、私たちの名を呼び、私たちを愛して下さっています。聖書は、神がどれほど深く私たちを愛しているかを語る書物です(エフェソ3:14-21)。確かに、私たちの人生には、多くの試練や困難があります。しかしそれは、主が、私たちを愛しておられるからです(ロマ書5:1-11)。私たちは主に愛され、主への信仰が強められる中で、主に委ねることができるようになります。讃美歌「よろずをしらす(あなたの道を主にまかせて)」は、苦難の時代を生きたパウル・ゲルハルトが、詩編37編に導かれて作詞した歌です。私たちが主の愛に生きるならば、嘆きは希望へ、悲しみは讃美へと変えられていきます。 まことの平和は、見えるものではなく、主への信仰と主の約束の言葉へと向かう中で造り出されていきます(ヘブライ書11:1-3)。主の十字架は、神が愛であることを、今も、高らかに語り続けています。しかし世界は、主を信じる人々でさえも、主の十字架を忘れてしまったかのように、愛する道を見失っています。だからこそ私たちは、愛することに忙しくなる前に、主に愛される喜びに生かされてまいりましょう。朝ごとに新たになる、主の慈しみと主の憐れみを溢れるほどに受けて(哀歌3章)、礼拝から礼拝へと、共に信仰の歩みを歩んでまいりましょう。 【2024年 6月 23日 主日礼拝説教より】 説教「イエスとは何者か」 出エジプト記 第3章 13節-14節 マタイによる福音書 第16章 13節-20節
ただいま、転入会式をもって、他の教会から当教会に三名の仲間を加えることができました。本当に幸いなことです。しかし改めて、何をすれば、わたしたちの教会の仲間となることができるのでしょうか。それは、同じ信仰告白を告白できるか、そのことが確かめられるなら、仲間となっていただけるのです。今日の三名の方は、すでに長老会での面接において確かめさせていただきました。 今朝与えられている御言葉は、弟子のペトロが主イエスに対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と初めて言い表した場面です。このペトロの告白は、先ほどわたしたちが共に告白した信仰告白の源流といえるものです。 この場面、まず主イエスが弟子たちに、「人々は人の子のことを何者だと言っているか」と問いかけます。「人の子」とは主イエスご自身のことです。つまり、「世間の人はわたしをだれだと言っているか」と問われたのです。これは、ご自分の評判を気にしていた、ということではありません。次の二つ目の問いへの準備としての質問をしているのです。 弟子たちは即座に、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と、いろいろ答えました。 主イエスは、その弟子たちの答えを聞いたうえで、肝心な第二の問いを投げかけます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。世間の人たちがいろいろ言っているのはわかった、では、あなたがたは、わたし、イエスのことを何者と思っているのか、これこそ主イエスがわたしたち一人ひとりに問うておられる肝心な問いです。この問いに答えることこそが、わたしたちの信仰です。それは、わたしたちが普通に描く信仰のイメージ、つまり主イエスの教えに従うこと、共におられる主イエスの慰めを得ること、などとは違うかもしれません。信仰の中心は、主イエスが何者であるかがわかること、それなしには、教えや慰めを得ても、本当の支えや慰めにはならないのです。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子」と答えました。主イエスこそ生ける神の子としてわたしたちに働きかける救い主、わたしたちもそう答える幸いを教会で与えられています。 【2024年 6月 16日 主日礼拝説教より】 説教「思い起こす信仰」 申命記 第8章 2節-20節 マタイによる福音書 第16章 5節-12節
わたしたちは皆、主イエスを信じる信仰、父なる神を信じる信仰において、確かさを得たい、と願います。その時に、証拠を求め、それによって納得しようとする、これがしるしを求める信仰です。4節までに出て来ていたファリサイ派とサドカイ派の人々は主イエスに、天からのしるしを見せてほしいと願いました。 主イエスは、夕方の夕焼けを見て明日は晴れだと、空模様を見分けるように、具体的な毎日の生活の中で、いろいろなしるしを見て歩んでいるではないか、と言われました。主イエスについて、あるいは天の国、神のご支配、救いについても、同じようにあなたがたの身近なところに見るべきしるしがあるから、それを見落とさないようにしなさい、と言っておられます。 5節以降弟子たちが登場します。彼らは主イエスのところに後から慌てて追いついて来たのですが、パンを持ってくるのを忘れたようです。しまった、と思いつつ到着した弟子たちに主イエスは、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言われました。それは4節までの話を前提とした言葉です。主イエスが「パン種」と言われたのを聞いて、「自分たちがパンを忘れたことを叱られたのだ」と思ってしまったのです。 主イエスはその弟子たちに「信仰の薄い者たちよ」と言われました。「信仰が小さい」ということです。なぜそれが、信仰の小ささの現れなのでしょう。9節以下に「覚えていないのか、忘れてしまったのか」と主イエスは言われました。主イエスが五つのパンで五千人を満腹にさせ、七つのパンで四千人を満腹にさせた、あの出来事です。主イエスはそのように、ご自分のもとに集まる人々の空腹を満たしてくださいました。それを覚えているなら、パンを忘れてどうしよう、という思いにとらわれることはないはずで、そこに不信仰があります。 弟子たちは、あの奇跡を忘れてしまったはずはないでしょう。けれどもそれを「覚えている」ことができませんでした。それは積極的に「思い起こす」という意味です。それが現在の自分の生活において生きた働きをする、ということです。信仰とは、神の恵みの体験を「思い起こすこと」です。わたしたちは、主イエスの救いの恵みを、思い起こしつつ生きる者とされ続けたいと思います。 【2024年 6月 9日 主日礼拝説教より】 説教「愛のしるし」 ヨナ書 第2章 1節-3節、11節 マタイによる福音書 第16章 1節-4節
今日から読み始めるマタイによる福音書第16章は、この福音書における分水嶺、あるいは峠の頂、と言われます。これまで、登ってきた道がその半ばに達して、ペトロの主イエスへの信仰告白、主イエスの十字架の死と復活に向かって一気に下っていく、その転換点だからです。今日はその直前の場面となります。 ここでファリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスに、天からのしるしを求めたことが語られています。しかし人間は、しるしを求めるものかもしれません。 わたし自身も何度も、伝道者として、ここで手を置いて祈って、神が力を発揮されるしるしとしてのいやしの奇跡が起きれば、どんなにいいか、と思うことが病院で教会員の方を見舞うたびにしばしばありました。 主イエスはしるしを求めるファリサイ派とサドカイ派の人々に対して、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われました。二つのことが言われています。一つは「しるしは与えられない」ということ、もう一つは「ヨナのしるしは与えられる」ということです。ヨナのしるしとは、ヨナが大きな魚の腹の中に三日いた後に陸に吐き出された出来事を指しながら、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活された出来事を意味しています。 主イエスの復活、これ以上大きなしるしはありません。けれども、それを見聞きしたはずの人々も、皆が信じたわけではありませんでした。信じて受け止めれば、大きなしるしとなりますが、信じなければしるしになりません。 ここでファリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスに天からのしるしを求めたのは、主イエスを信じたいためではなく、「主イエスを試そうと」するためでした。しるしによって、不思議な力を見たい、という欲を満たすためでした。 主イエスが求める信仰の姿は、主イエスを愛する、愛の交わりとしての信仰の姿です。力ある神を信じることに加えて、使徒信条に告白されるような「父なる神」、神が父の愛で愛してくださる愛の交わりの中に、わたしたちが入れられていることを信じるのです。その神の愛が示されたのが、「ヨナのしるし」、つまり主イエスの十字架と復活です。このしるしは全ての者に与えられています。 【2024年 6月 2日 主日礼拝説教より】 説教「感謝に生きる」 詩編 第85篇 1節-14節 マタイによる福音書 第15章 32節-39節
先週に引き続いて、マタイによる福音書第15章の最後の場面、特に四千人にパンを与えた奇跡にもう少し集中して、耳を傾けたいと思います。
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
内田 幸四郎 神学生(東京神学大学)
内田 幸四郎 神学生(東京神学大学)
瀬谷 寛 牧師
内田 幸四郎 神学生(東京神学大学)
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
佐藤 由子 牧師(仙台南伝道所)
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師