【2025年 11月 30日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスはメシアなのか」
      瀬谷 寛 牧師

       マタイによる福音書 第26章 57節-68節


 

 待降節が始まり、毎週一本ずつろうそくの光が増え、今年は12月21日に主日のクリスマス礼拝を献げます。今年は一人の洗礼志願者が与えられ、今度の12月7日の定期長老会で面接・試問が行われます。長老会で、洗礼の決議がなされれば、12月21日のクリスマス礼拝で、洗礼式が行われることになります。

 その洗礼式が行われるために大切な、長老会における試問ですが、その試問の核心は何でしょうか。それは、「イエスとは誰か」という問いに答えることです。マタイによる福音書第16章でペトロが12弟子を代表するように告白した「あなたこそ神の子、メシアです」が答えの指針となります。ここで洗礼志願者に対して本当に問うのは、牧師でも長老でもなく、主イエスご自身であり、「あなたは、わたしを何者だと言うのか」という主の問いの前に立つのです。ですから長老会での試問は緊張するところですが、同時に喜びでもあります。

 このことと同じ核心がマタイによる福音書第26章の裁判記事にも貫かれています。大祭司の「お前は神の子、メシアなのか」という問いは、歴史を通じて全人類が発してきた決定的な問いを代表する問いです。しかし当時の人々は救いを切実に待ちながら、主イエスの救いが自分たちの期待しているものとは食い違っていました。そのために失望し、絶望して神を裁き、侮辱し、神の独り子であられたはずの主イエスを十字架へと追いやったのでした。まさにここに、人間の罪と絶望が極まったのですが、主イエスは沈黙を守られました。

 信仰は、わたしたちが主イエスに問い続けるところではなく、主イエスから「あなたは、私を何者だと言うのか」と問われていることに気づき、自分の救いに関わる答えを自ら語るときに生まれます。主イエスは世界の裁き手であり、わたしたちが神を裁くのではなく、主イエスに裁かれることを受け入れるのです。

 今年の6月と7月にもわたしたちの教会では受洗者が与えられました。それぞれの試問で、これらの方々が、唯一無二の歩みが結局主イエスとの出会いへと導かれてきたことを聴きました。来週の試問会でも、主の問いに向き合い、「あなたこそ救い主」と応答します。そこに、絶望に終わらない希望と幸いがあります。




2025年1月5日からの説教要旨はこのリンクからご覧いただけます(クリック)。 

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