【2026年 1月 18日 主日礼拝説教より】
説教「どちらを取るのか」 ヨシュア記 第24章 14節-15節 マタイによる福音書 第27章 11節-26節 群集心理とは、個々の判断を超えて大きな感情の渦が生まれる現象です。SNS時代の今日もその危険は続いています。主イエスの裁判でも、ユダヤの最高法院とローマ総督ピラトの双方が関わり、群衆の叫びが決定を左右しました。 ユダヤ人たちの最高法院は、主イエスを「神への冒涜」として死刑と断定し、死刑権のないためピラトに引き渡しました。しかしピラトが問うたのは、「お前がユダヤ人の王なのか」ということであり、主イエスが「政治的反逆者かどうか」が焦点でした。主イエスは「それはあなたが言っていることです」と答え、以後沈黙を貫かれました。この沈黙は、裁く者に身を委ねる主の姿を示します。 ピラトは、主イエスが死刑に値しないと感じ、釈放を望みましたが、群衆の叫びに押されて、十字架刑を決めました。自分の立場を守るために正しい判断を曲げるピラトの弱さは、わたしたち自身の姿でもあります。 祭司長や長老たちはねたみによって主イエスを陥れ、群衆を扇動したのでした。この群衆は数日前には「ホサナ」と迎えたのに、この時は「十字架につけろ」と叫び続けた人々でした。期待が裏切られたと感じた時、人は容易に憎しみに転じ、理性を失います。これが罪に支配された群集心理の恐ろしさであり、私たちも巻き込まれる危険があります。 釈放候補として示されたのは「バラバ・イエス」という囚人で、暴動や殺人を犯した人物でした。彼はローマへの反乱を試みた革命家とも考えられ、目に見える力と解放を求める人々には魅力的に映りました。一方、主イエスが示すのは神の国と愛でした。人というものはしばしば目に見える幸いを選ぶものです。 群衆がバラバを選んだのは、人間の罪の姿そのものでした。しかしその結果、死ぬはずだったバラバは主イエスの身代わりとして解放されることとなりました。これは、罪深いわたしたちが何もしていないのに、ただ主イエスのおかげで、罪が赦されるという十字架の恵みを象徴しています。 群集心理に逆らうことは難しいことです。けれども真の救いは群集のもとにあるのではなく、十字架の主にのみあります。わたしたちは目先の利益に惑わされずに、ただ、十字架の主イエスを見つめて歩むように、と招かれています。
瀬谷 寛 牧師