【2025年 6月 15日 主日礼拝説教より】

説教「エルサレムのための嘆き」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第6章 6節-8節

       マタイによる福音書 第23章 34節-第24章2節


 

 今朝与えられた御言葉は、マタイによる福音書第23章の終わりから第24章の始め、その橋渡しとなるところです。第24、25章は終末に関する教えが並べられ、まとめられています。その始まりとして、第24章1,2節で、エルサレム神殿が崩壊することを預言されました。

 エルサレム神殿の崩壊は、当時のユダヤ人にとってはとても考えられない出来事でした。豪華絢爛な建物の神殿が、旧約のバビロン捕囚の時、紀元前587年に破壊され、崩壊しました。その後、約70年後に、捕囚で連れ去られた者たちが戻ってきて、神殿が再建されることになります。そもそも、神殿は神がご臨在されている場所なので、神が守ってくださる、と信じられていたのです。

 そのエルサレムに向かって主イエスは、「エルサレム、エルサレム」と二度繰り返して呼びかけられました。このままではエルサレムは滅びてしまう、そのことを何としてもわかってほしい、という思いがあふれた言葉です。ところが実際に、更にこのエルサレム神殿が崩壊するのは、紀元後70年、今度はローマとの戦争の結果、また崩壊することになります。

 主イエスは、神の民イスラエルに神が何をされたかを告げます。「めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか」。神の民を愛する神が、何度も繰り返し自分のもとに立ち返るように預言者を始め、神のみ心を伝える者たちを送られました。けれどもイスラエルは偶像を拝む方へと進みます。でも神の民は使わされてきた者たちを退け続けたのです。主イエスはローマによって再び滅ぼされることを知るがゆえに、「エルサレム、なぜわからないのだ」と嘆かれたのです。

 律法学者やファリサイ派の人々にとって、神殿は決して破壊されることなく未来永劫栄え続けるはずのものと考えていました。けれども、どんなに立派でも、未来永劫栄え続けることはあり得ず、未来永劫続くのは、十字架にかけられた主イエスの父なる神だけです。神殿に頼るのは、神の前に「自分は正しい」というところに立つのと根は同じ罪です。わたしたちは、主イエスが再び来てくださり世を完成してくださることを、信頼して待ち望みたいです。




2025年1月5日からの説教要旨はこのリンクからご覧いただけます(クリック)。 

仙台東一番丁教会(ホーム)