【2025年 8月 10日 主日礼拝説教より】
説教「失われたものを捜し出す主」 エゼキエル書 第34章 11節-13節 ルカによる福音書 第19章 1節-10節
徴税人は、ローマ帝国の手先のようになってユダヤの同胞から高い税金を集めローマ帝国におさめていました。なかでも、その頭であるザアカイは貧しい人々から不当に高い税金を搾取し、私腹を肥やしていたために忌み嫌われる存在でした。搾取は明らかに神への背きです。神に対しても人に対しても「愛」を手放してしまったザアカイは、神の目からも人からも「失われた者」となってしまっていました。 そんなある日、主イエスがザアカイのいるエリコの町に来られ、ザアカイに向かって「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と突然、宣言なさいました。主イエスが言われた「宿泊」とはもちろん余暇を楽しむことではありません。泊まるという字は、原典のギリシャ語で「つながる」という意味をもちます。ばらばらになっていたものがひとつに繋がる、本来の姿を回復するという内容です。さらに「絶対に泊まらなければならない」という強い義務の形をとっており、神の固い決意が感じられる言葉です。主イエスは、心も魂もザアカイとひとつになる必要がありました。罪に罪を重ね続ける「失われた」ザアカイだったからこそ、主はザアカイとひとつにつながらなければならなかったのです。主の訪れ、それは救いと赦しの宣言です。罪赦され救い出されたザアカイは、自らの罪を悔い改め、神に立ち帰る者となりました。 わたしたちも同じです。神を知らされる前のわたしたちは神の目から見れば「失われた罪人」でした。主イエスがこの地上にお生まれくださり、十字架の死においてわたしたちの罪を贖い、わたしたちが再び神に立ち帰って神と共に歩むことができるよう主はわたしたちを捜し救い出してくださいました。主に捜し出される前のわたしたちは人との愛を見失い、しばしば神を無性に遠く感じる虚しさに囚われていました。でももう「失われた者」ではありません。このわたしたちもまた主イエスに捜し出され、救い出された者として今、こうして教会の礼拝へと招かれています。今、ここに救いが訪れています。御子を十字架におかけになってまで罪人であるわたしたちを赦し義としてくださっている神に感謝し、共に祈り礼拝を捧げてまいりましょう。
原 妃弥子 神学生