【2026年 3月 1日 主日礼拝説教より】
説教「わが神、なぜわたしをお見捨てに」 詩編 第22篇 1節-12節 マタイによる福音書 第27章 45節-56節 マタイによる福音書は、その始めから終わりまで「インマヌエル」、すなわち「神は私たちと共におられる」という核心的なメッセージを伝えます。主イエスの誕生は預言の成就として「インマヌエル」と呼ばれ、復活後の主イエスは「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。マタイは常に神がわたしたちと共にいてくださるという恵みの事実を忘れなかったのです。 しかし、わたしたちと共にいてくださるはずのイエスが、なぜ十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばなければならなかったのでしょうか。福音書は、イエスが十字架上で息を引き取る前、全地が3時間にわたる深い闇に覆われたと伝えます。この闇は、神に見捨てられる絶望を象徴しています。この絶望的な叫びと闇は、神の怒りが御子イエスに向けられ、その痛みを「あなたのため」に引き受けた結果である、と聖書は語ります。 主イエスが十字架につけられた背景には、祭司長たちの憎悪、ユダの裏切り、ペトロの否認など様々な人間的な要因がありましたが、その本質は「神がイエスを見捨てられた」という神学的意味にあります。この神の怒りの前で、主イエスは泣き叫び、苦しみもだえたのです。しかし、マタイによる福音書は、この極限の絶望の中で叫ぶイエスこそが「インマヌエル」、わたしたちと共にいてくださる神であると宣言し、人間の理解を超える出来事として提示します。 主イエスの最期の叫びは、旧約聖書の詩編第22篇からの引用でした。これは主イエスが常に詩編を通して祈っていたこと、この叫びが主イエス一人のものではなく、わたしたちが抱く「神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」という祈りでもあることを示唆します。主イエスはわたしたちよりも一歩先んじて、わたしたちには経験し得ないほどの深い絶望の中に足を踏み入れられました。 この事実を知るとき、わたしたちは本当の意味で絶望することなく生きられます。どんなに深い絶望に陥っても、主イエスがそこにいてくださる、いや、わたしたちよりも先に、主イエスがその絶望を経験してくださったのです。そして、神が主イエスを死の中から引き上げてくださったことを知る時、本当の絶望はもはやどこにも存在しないと、わたしたちは確信します。
瀬谷 寛 牧師