【2025年 3月 16日 主日礼拝説教より】

説教「後で考え直して」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第42章 14節-25節

       マタイによる福音書 第21章 28節-32節


 

 今日は、マタイによる福音書だけが伝える、あまり良く知られていないかもしれない、主イエスが祭司長、長老たちにお語りになられたたとえ話です。

 ある人に二人の息子がいた、この父親はまず兄のところに行って、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った、しかし兄は「いやです」と答え、父の求めを拒絶した、けれども彼は後で考え直して、結局はぶどう園へ行って働いた、兄に断られた父は今度は弟のところへ行って同じことを言うと弟は「お父さん、承知しました」とよい返事をしたが、結局はぶどう園へ行かなかった、こういうたとえです。主イエスは彼らに、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問われました。答えは当然、最初は拒否したけれども後で考え直して出かけた兄の方です。分かりやすすぎます。

 この話の向けられた祭司長や長老たちに対して主イエスは、「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入るだろう」と言っておられます。つまりこのたとえ話は、口では立派なことを言っても結局それを実行しなかった息子(一応祭司長や長老たち)と、口では反抗的なことをいいながら結局は父の願い通りにした息子(一応徴税人や娼婦)との対比になっています。けれどもこれは、「言葉と行動の一致が大事」ということを言おうとしているのではないと思います。なぜなら、祭司長や長老たちが言葉の上でだけ神に従っているのはそのとおりかもしれませんが、徴税人や娼婦たちは当時の罪人の代表であって、とても生活、行動において神の御心を行っていた、とは言えません。

 ではなぜ主イエスは、徴税人や娼婦たちが先に神の国に入る、と言われたのでしょう。それは彼らが正しいからではなく、彼らがヨハネの「義の道」を信じたからです。ヨハネは主イエスの登場に先駆けて、自分が神の前に罪人であることを認めて悔い改め、神のもとに立ち帰り、洗礼を授けることを宣べ伝え、徴税人や娼婦たちは、「後で考え直して」それに耳を傾けていました。けれども祭司長や長老たちはそうではなかった、自分たちが悔い改めなければならない罪人であることを認めませんでした。「後で考え直し」悔い改め、赦しを求めるかが問題です。主は祭司長にも「後で考え直す」ことを期待しています。




2025年1月5日からの説教要旨はこのリンクからご覧いただけます(クリック)。 

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