【2023年 12月 31日 主日礼拝説教より】
説教「起きよ、光を放て」 イザヤ書 第60章 1節-7節 エフェソの信徒への手紙 第5章 6節-14節
今年もクリスマスを迎えることができました。クリスマスの諸集会も、無事に守られました。待降節、そしてクリスマスを通り過ぎたわたしたちですが、依然として、主イエスがすでに来てくださったことと、終わりの日にもう一度来てくださる、その間を生きていることに変わりはありません。クリスマスを、通り過ぎるイベントの一つ、と考えず、常にこのめぐみに立ち返ることが大切です。 イザヤ書を読み進めるようにして、クリスマスを過ごしました。イザヤ書は、全部で66章までありますが、第1~39章を第一イザヤ、第40~55章を第二イザヤ、第56~66章を第三イザヤと区分される、と多くの旧約学者たちがいいます。今日読む第60章は最も新しい時代、第三イザヤの言葉です。 1節「起きよ、光を放て」。このイザヤの預言が告げられているのは、まだ起きておらず、光が見えていない状況であることが分かります。人々は悲しみ、嘆き、希望を失い、疲れ果てています。とても自分たちからは、光を放てない。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」。これが、イザヤの言葉を聴いた人々の現実でした。しかしその時に預言者イザヤは2節「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と告げます。自分たちは光を放てなくていい、けれども、主なる神の栄光の光を受け、その光に照らされ、包まれ、反射させて光を放て、と告げます。それが、やがて訪れるまことの救い主の到来によってもたらされる光です。神の民はそれから何百年もこの光を待ち続け、ついに、神の御子主イエス・キリストが救い主としてやって来ました。 このイザヤの告げるキリスト預言は、光と闇とが対比されています。そのイメージが新約にも受け継がれています。主イエスは、「わたしは世の光」(ヨハネ8・12)とおっしゃり、さらに、わたしたちに「あなたがたは世の光」(マタイ5・14)とおっしゃいました。その間に何が起こったでしょう。エフェソ5・8「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」。主イエスがクリスマスに光としてきてくださり、世の光として愛のわざをなし、愛の極みである十字架の死を通し、この世の罪の闇を光に変えてくださいました。この光にわたしたちは、結び合わされています。 【2023年 12月 24日 主日礼拝説教より】 説教「闇の中に輝く平和の光」 イザヤ書 第9章 1節-6節 ヨハネによる福音書 第1章 1節-14節
ついに、主イエスのご降誕を祝う主日礼拝を迎えました。色々な悩み、苦しみ、痛みの中にあるにも関わらず、今日のために様々な事柄を整えて、この席に座っておられる方も多いことでしょう。 今日の聖書の中に、印象的な言葉があります。「闇の中を歩む民は/大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた」。今から約2700年前に起こった出来事です。イザヤ書8:23には、「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」とあります。神の民、北王国イスラエルが、巨大帝国アッシリアとの戦いに敗れて、滅ぼされてしまいました。自分たちは神に特別に守られている神の民だ、と信じていた彼らにとって、戦争に負け、国が敗れるという辱め、とんでもない危機的な、まさしく闇の中を歩み、死の陰の地に住むような状況でした。なぜ、そのようなことになってしまったのか、それは、北王国イスラエルが神に従順に従わなかったことによる過ちの故です。だから彼らは闇の中を歩まざるを得ませんでした。その彼らに、預言者イザヤは「栄光を受ける」「大いなる光を見る」「光が輝いた」と語りました。その喜びがどのようなものであるか、刈り入れのときの喜びのようであり、戦利品を分け合うときの喜びのようだ、というのです。あの、闇としか言えないような悲惨な戦い、憎しみ、悲しみ、不安を味わった民が、なぜ喜べるのでしょうか。その真相が5節で明らかにされます。 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。「みどりご」は赤ちゃんのこと、人間性が表されています。「男の子」というのは「独り子」と訳せる、つまり神の独り子の意味で、神としての性質が強調されています。闇の中に、この神であり、また同時に人間である救い主、メシアが、光として生まれ、与えられる、とイザヤは預言するのです。そしてそれはもちろん、イエス・キリストのことです。この方は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名で呼ばれる、と言います。闇を光に変える力ある方が、「平和の君」として来られるのは、注目すべきです。 今年は、世界で新たな争いが生じた年でした。平和から遠いように思える世界、わたしたちの人生に、主イエスこそ平和の君として来てくださいました。 【2023年 12月 17日 主日礼拝説教より】 説教「『神、我らと共に』と呼ばれる子」 イザヤ書 第7章 10節-17節 マタイによる福音書 第1章 18節-25節
待降節(アドベント)を迎え、この時期、教会でしていることは、教会の仲間でありながら、普段礼拝に出られない高齢の方、病の方への訪問です。条件が整うなら、訪問先で聖餐の礼拝をします。ここでの礼拝と同じことを、それぞれのところでするのです。そこに、主イエスが共におられることを味わいます。 マタイによる福音書が告げるクリスマスの場面は、救い主として生まれる子が「イエス」と名付けられること、その子は「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と呼ばれることが、主の天使から告げられます。 この「インマヌエル」は、この主イエスの誕生からさらに700年前に、預言者イザヤによって告げられた言葉です。当時の南王国ユダの王はアハズと言いますが、南王国ユダはこの時、近隣のアラムとエフライムの連合軍から攻撃を受けようとしていました。王アハズは「林の木々が風で揺れ動くように」かなり動揺していました。預言者イザヤを通して主なる神は、こういうときにこそ静かにして、恐れずに、神を信じなさい、そして、神のしるしを求めなさい、と王アハズに勧めました。なかなか神を信じることができないアハズのために、神は、しるしを求めてでも神を経験すれば、もっと神に信頼するようになるだろう、と神はアハズに配慮なさったのです。しかしアハズは、「わたしはしるしを求めない」と言い、神に従いませんでした。アハズは、神を求めても無駄だ、もっとわかりやすい助け、超大国アッシリアを頼りとしよう、と考えていました。 そこで主なる神はアハズに「わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」と、インマヌエルのしるしとしての、男の子誕生の預言を与えました。 このアハズに与えられた言葉が、主イエスの誕生によって実現しました。これら二つの出来事はどう関係するのでしょう。それはいずれも、本当の救いは神にこそある、ということではないでしょうか。この世の様々な問題の本当の解決は、インマヌエル、共におられる神、主イエスにこそあります。マタイによる福音書は「わたしは…いつもあなたがたと共にいる」との主イエスの約束の言葉で閉じられます。人間の知恵ではなく、神の約束に望みを置きたいと思います。 【2023年 12月 10日 主日礼拝説教より】 説教「無益な言葉を捨てる」 詩編 第51篇 1節-21節 マタイによる福音書 第12章 30節-37節
主イエスはこの世界に到来されて、教えといやしのみわざをなさいました。それは神が、この世の人々を、罪と悪の支配から、神の霊、聖霊の力によって解放してくださることを示されるためです。主イエスの到来は、罪の暗さが覆う世界に光が差し込んだことを意味します。その光を、光として受け止めるのは、わたしたちです。わたしたちの信仰です。 主イエスの光を見ても聞いても信じない、そこに人の心の暗さ、世界の暗さがあります。それがいかに深いか、福音書は隠さず語っています。ファリサイ派の人々が、主イエスの行ったいやしの御業を見て、それが悪魔の仕業だ、とみなしました。嫉妬や憎しみの心が、その人を、世界を、闇にします。 このファリサイ派の人々の発言をきっかけとして、主イエスは今日の箇所で、心と言葉が、木と実のたとえとして示しています。33「木が良ければその実もよいとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しはその結ぶ実でわかる」。人は目に見える実によって、良い木か悪い木かを判断します。主イエスはファリサイ派の人々を悪い実を結ぶ悪い心の人間だ、と断じているようです。似たようなことで倉のたとえを用いても語っています。倉には良いものも悪いものも蓄えることができるが、良い人の倉には良いものがあり、悪い人の倉には悪いものでいっぱいになっている、と言います。一見、一般的にもわかりやすいように見えますが、この倉、とは、宝、富とも訳すことができ、特に天の富、天の宝を指しています。つまり、良い人の心というのは、天の神のもとにあって、そこからいくらでも良いものを持ち出すことができる、そういうことを意味しています。天の宝、富とは主イエスが天の神のもとから来てくださることによって表されますから、結局は主イエスの言葉を蓄えるのが良いことになります。 36に出てくる「つまらない言葉」は、「無益な言葉」の意味で、つまり人の口から出る悪い言葉は、神の御心、神の働きに対して無益な言葉となる、と言います。反対に良い言葉は、神の御心に沿った愛の業を生み出す言葉、となります。 わたしたちは、悪い言葉、実を結ぶ木でした。しかし切り倒されずに生かされているのは、主イエスが十字架によって自ら切り倒されてくださったからです。 【2023年 12月 3日 主日礼拝説教より】 説教「ダビデの子の到来」 エレミヤ書 第23章 23節-32節 マタイによる福音書 第12章 22節-32節
今年も待降節、アドベントを迎えました。今朝与えられている御言葉には、聖霊と悪霊が出てきます。聖霊は、父・子・聖霊の三位一体の神のことです。今生きてわたしたちに信仰を与え、主イエスを愛し、従っていく歩みへと導いてくださる霊です。一方悪霊は、神に敵対する霊、神からわたしたちを引き離そうとする霊のことです。わたしたちの中にある罪に働きかけ、神など関係ない、自分の思いや欲望のままに歩め、とわたしたちに仕向けます。しかも悪霊は賢く、知らないうちにその手に落ちてしまいます。 今朝の箇所は、主イエスが、悪霊に取り憑かれて、目が見えず、口の利けない人をいやされた、という出来事から始まっています。神の御子のみ業ですから、医学的に何が起きたかを詮索することは意味がありません。ただ、悪霊は、人間の本来の姿を失わせるものであり、主イエスはその悪霊を追い出して、自由に見、話す本来の人間の姿を取り戻してくださった、ということです。 これに対して2つの反応があった、と聖書は記します。一つは群衆が「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったこと、もう一つはファリサイ派の人々が、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言ったことです。 確かに、ファリサイ派の人々が指摘した、目の前で不思議な奇跡的なことをされれば、「超能力だ」と信じてしまうところがわたしたちにもあります。けれどもわたしたちは、奇跡だけでイエス・キリストを神の子、救い主と信じるのではありません。主イエスが語り、行ったすべて、特に主イエスがわたしたちに代わって十字架におかかりになって罪の裁きをご自身の身にお受けになり、わたしたちを罪、悪霊の支配から解き放ってくださったことで、救い主と信じ告白します。しかし、ファリサイ派の人々はそれをすることができませんでした。けれども、彼らにも、救いの道は残されています。主イエスがはっきりと、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」とおっしゃっておられます。だから主イエスを認めず、逆らうわたしたちも、その十字架のゆえに赦されます。聖霊によって、悪霊から解き放たれて歩みたいと思います。主イエスが共におられます。 【2023年 11月 26日 主日礼拝説教より】 説教「傷ついた葦を折らない主」 イザヤ書 第42章 1節-4節 マタイによる福音書 第12章 15節-21節
日曜日、主日礼拝ごとに、皆さんは、それぞれが様々な生活、働きをなし、そこでいろいろを考えながらも、教会の頭であられる主イエスがわたしたちを招いて、結び合わせてくださいます。特に悲しみ・苦しみを覚える仲間があることを覚えます。主イエスは、その一人ひとりに目を注ぎ、心を砕いておられます。それがはっきり打ち出されているのが、この主の日の礼拝です。 主イエスは安息日、会堂で、片手の萎えた人に向かって「手を伸ばしなさい」と呼びかけました。このいやしの御業が、ここでは旧約の預言者イザヤの言葉(イザヤ書42:1~4)の成就として描かれています。そこではやがて来るであろう救い主を苦難の僕として証しし、どのように救いをもたらすかを語ります。 引用されたイザヤの言葉で、急所となるのが「正義」という言葉です。「裁き」ともなっています。白黒はっきりさせる、ということです。その意味でファリサイ派も正義に生きていたと言えるかもしれませんが、彼らは敵意を剥き出しにし、力づくで殺すことも辞さない正義でした。今、ガザで、ウクライナで起きていることは、そのような正義と正義のぶつかり合いかもしれません。けれども、この主の僕、主イエスの正義はそのようなものではなく、ファリサイ派に、自分を殺そうとする思いがあると知った時、立ち向かうのではなく、そこを立ち去られました。十字架を前にした裁判で黙っておられたこと、十字架の上で罵られても罵り返さない主イエスのお姿を思い起こすことができます。つまり、主イエスの本当の正義は、徹底的にへりくだり、苦しむところに見える正義です。 この正義を勝利に導くまで、救い主である主イエスは、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と言います。葦は水際の細い草のような植物です。でも傷つき、すぐにも折れそうです。また、灯心もくすぶってすぐに消えそうです。それは交わりからはみ出ている人、手の萎えた人、そして弱いわたしたちのことです。わたしたちは今にも折れ、消えそうな命をなんとか生きているところかもしれません。けれども主イエスは、傷ついた葦を折り、くすぶる灯心を決して消すことはなさらず、むしろもう一度生かそうとなさます。そのために主イエスは十字架で苦しみ、わたしたちに代わって折れ、消え、復活されました。 【2023年 11月 19日 主日礼拝説教より】 説教「生きるにしても、死ぬにしても」 申命記 第6章 4節-5節 ローマの信徒への手紙 第14章 1節-9節
私たちは人生に意味や目的を求めます。その私たちに、聖書は、「主のために生きる」人生があると語りかけています。 パウロがまず語るのは、異教の神々に捧げられた肉を食べてよいのかという問題です。もちろん信仰が変えられてはなりませんが、教会の歩みや信仰生活には、どちらでもあり得ることがあり、この問題もその一つでした。パウロはそこで、「神はこのような人をも受け入れられた」(3節)ことこそがもっと重大だと言います。私たちが今、神の子とされているのは、肉を食べたり食べなかったりしたからではなく、ただキリストを信じた故です。そして、そこにはキリストの命がかけられています。それなら、私たちは何をするにも、その主への思いのうちにしているかどうかが重要だというのです。 パウロはそこから、「主のために生きる」「主のために死ぬ」と、人生全体が主のためのものであるべきだと話を拡げます。それは幸いな生き方です。子どもや友人のために生きるのも貴いことですが、それは裏切られ、崩れることがあります。しかし、主のために生きるなら、それが裏切られることはありません。主は決して変わることも裏切ることもないお方だからです。しかも、パウロは、あなたの人生をそのように変えなさいと言うのではなく、あなたの人生は既に、主のためという、決して崩れない意味を持ったものになっていると語るのです。 確かに、私たちは、「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」(8節)という事実を背負って生きています。どこで何をしている時にも、人は知らず知らずのうちに、私たちの中に、私たちをとらえご自分のものとしてくださっている神の御業を見ているはずです。そして、そこにこそあなたの人生の究極的な意味があるというのです。 決して崩れない意味のある人生とされているからこそ、私たちは人間的希望が潰えたように思われても、最期までできることがあることに気づかされます。様々なことができなくなっても、祈れます。それどころか、生きているだけで、主のものとしてあなたを生かしておられる神の御業を証ししています。 しかも「主のために死ぬ」というように、キリスト者として死を迎えること自体意味あることだといいます。確かに、主のものとされた者として最後まで生かされ召されてゆくことは、まして復活の希望を抱きつつ召されることができたなら、そして葬儀などの機会に主の復活による永遠の命の希望が語られるなら、どれほどの証しとなることでしょうか。 キリスト者の生涯は、死までもが用いられる、どこまでも意味ある生涯です。共に主のために生きよう、と私たちはその幸いな生へとこの朝招かれているのです。 【2023年 11月 12日 主日礼拝説教より】 説教「かけがえのない命に対して」 コヘレトの言葉 第3章 18節-22節 マタイによる福音書 第12章 9節-14節
主イエスのなさる、最もよく知られたたとえ話に、失われた一匹の羊のたとえ話があります。百匹の羊の中から一匹が迷いでてしまった、その一匹をどこまでも探し求めた羊飼いの話です。こどもさんびかでこの場面が歌われている曲は、大好きだという方も多いでしょう。 ところで、今日のところでも主イエスは、11節で一匹の羊の話をしています。その発端は、安息日に、主イエスが会堂で礼拝をしておられると、片手の萎えた人がいて、主イエスを陥れようとする人々が「安息日に病気を治すのは律法で許されていますか」と訪ねました。そこで主イエスは「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらないものがいるだろうか」と問い返されました。この人は百匹の羊を持っていた人よりももっと貧しかったようで、たった一匹しかいないかけがえのない羊のようです。その羊が穴に落ちて命の危険にさらされたら、安息日であろうがなかろうが、それを助け出すのは当然です。そうとすれば、この手が萎えてしまっている一人の人をいやすことこそ、安息日にふさわしいことではないか、と問い、安息日に良いことをするのは許されている、とはっきり仰っておられます。一人一人の命はかけがえのない命だからです。 インドのマザー・テレサは、貧しい大衆の一人が死のうとする時、その傍らに駆け寄り、「あなたはかけがえのない命を持っている」、というのだそうです。マザー・テレサからこの言葉を聴いた人は平安に死んでいきます。 主イエスが教えようとしておられるのも、このことです。この片手の萎えた人は、誰からもかえりみられずはみ出していました。その人のために主イエスはいやし、また結果として命をおかけになりました。このことをきっかけに、どのようにしてイエスを殺そうか、とファリサイ派の人々が相談し始めたのです。 自分のことを殺そうと殺意を抱いた人に対し、主イエスは一方では抵抗しませんでした。あえてその挑戦をまともに受け、いやしをなさいました。安息日にいやさないことを問うサマリア人は、滑稽に見えますが、わたしたちの姿でもあります。主イエスは新しい正義をわたしたちに示しておられます。 【2023年 11月 5日 主日礼拝説教より】 説教「まことの平安に生きる」 ホセア書 第6章 1節-6節 マタイによる福音書 第12章 1節-8節
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。主イエスは、わたしたちが、休みが必要な存在であることをご存知です。だから「わたしのところにおいで、わたしが休ませてあげよう」とおっしゃっておられます。主イエスがこの地上でお働きをはじめられるときに、最初に語られたのは「悔い改めよ、天の国は近づいた」ということでした。この「悔い改め」というのが、「帰る」という言葉です。主イエスはいつでも、「わたしのもとに帰りなさい、ここにこそ、休みがあるよ」と人々を招いていたことでしょう。 今日の「人の子は安息日の主なのである」という言葉も、わたしたちを迎える主イエスのお姿が見えるようです。そもそも安息日とは、旧約の十戒の第四の戒めに「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジ20・8~11)とあります。神は天地創造の時に六日間ですべてを造られ、七日目に休まれました。この神の言葉は、かなり徹底されていたことがわかります。息子・娘、男女の奴隷など、人間たちはすべて休みます。そして、家畜も休みます。休んで、神を礼拝する、それが週に一度の安息日の考え方であり、本来の過ごし方でした。 その安息日を巡って、主イエスとファリサイ派の人々が論争しているのが今日の場面です。ある安息日に、主イエスは弟子たちとともに麦畑を歩いておられました。空腹の弟子たちが、歩きながら麦の穂を摘んで食べた、というのです。ファリサイ派の人々はこれを見て、「あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている」と言い、主イエスを非難しました。ファリサイ派の人々は、弟子が泥棒だと避難したのではなく、安息日には、「いかなる仕事もしてはならない」と言われている、そのことをしている、と律法違反を攻めたのです。 けれどもこの安息日を定められた神の御心は、憐れみの御心でした。だから安息日に休むのは人間だけでなく「家畜も奴隷も寄留する人も」です。神がわたしたちを憐れんで、なすべき仕事から週に一度解放され神の御手の中に安息するのです。ところがファリサイ派の人々は「何もしない」という善い行いを頑張ってする日にしてしまいました。主イエスは、安息日が神の憐れみの現れであり、わたしたちが礼拝し、互いに憐れみの業に仕えることをこそ、求めておられます。 【2023年 10月 29日 主日礼拝説教より】 説教「重荷を負う者、我に来たれ」 マタイによる福音書 第11章 28節-30節
長い旅を、重荷を負いながら続けている人がいます。オアシスを見つけ、ほとりに腰を下ろして一休みしながら、一杯の水で喉を潤します。「ああ、これで生き返った」、その人はそう叫ばずにはいられないでしょう。 今日は主イエスの語られた「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、この言葉に耳を傾けます。今はこの言葉を、わたしたちは「聖餐」の招きの言葉として聞いています。毎週聖餐をしているわけではありませんが、主イエスの招きは、毎日曜日ごとの礼拝で引き起こされています。ここで、休むことができる。「ああ、生き返った」と言える、そのことを願って、礼拝にわたしたちは集まっているのではないでしょうか。 今日の主イエスのお言葉の中の、「疲れた者、重荷を負う者」を、信仰をもって、これは自分のこと、自分の人生そのものだ、と皆考えるかもしれません。しかしわたしたちは、本当に主イエスがくださる慰めを、自分が必要としていることをわきまえているでしょうか。この言葉を主イエスがおっしゃっておられることが、どうして慰めなのでしょうか。 続くところに「安らぎを得られる」とあります。この言葉は、休みを見つけ出す、ということです。ここでの休みとは、探して見つけるものです。それをどこで見出すのか、それが、「軛を負うこと」「主イエスに学ぶこと」だと29節に記されています。軛とは、牛や馬が働かされる時に、体につけさせられるものです。牛飼いたちは軛を外して休ませます。けれども主イエスの軛を負う時、そこで休みを見出す、と主イエスは仰っておられます。軛を負う中ですでに憩い、常に新鮮な命に生きる道があることを、示しておられます。「わたしに学びなさい」とは、弟子として主イエスの教えに生きる、ということです。随分重く厳しい言葉を教えられたようですが、主イエスは重くない、とおっしゃいます。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」。わたしたちの人生、命は重いものです。その重荷を軽やかに生きることができる、その道があります。それは、生きる重みをすべて、主イエスに委ねることが許されているからです。主イエスは十字架で、わたしたちの重荷を背負ってくださいました。 【2023年 10月 22日 主日礼拝説教より】 説教「神を知る者に」 エレミヤ書 第31章 31節-34節 マタイによる福音書 第11章 25節-27節
今日の新約の最初の25節、「その時、イエスはこう言われた。天地の主である神よ、あなたをほめたたえます」。主イエスが神をほめたたえる喜びを表しています。この讃美の御言葉に続いて、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とあります。この「休ませてあげよう」とは、原文では「わたしがあなたがたを休ませてあげよう」と主イエスが語る言葉です。どんなに疲れ、悩み、苦しみの中に立ちすくんでいる者も、主イエスが来てくださる喜びの中で憩うことができます。その憩いは、主イエスご自身が歌う、讃美の中に見出されます。この讃美の中にあなたも入り込みなさい、そうしたらその疲れをいやすことができるよ、との、主イエスの招きの言葉です。 しかし、この主イエスの讃美への招きの言葉は、それに応えるよりも、それに逆らう人間の姿が描かれている中に置かれています。今日のところの少し前の21節ではコラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウムという、主イエスが最も多くの言葉を語り、御業をなしたガリラヤの町々が、主イエスを受け入れなかったことが示されています。その悲しみ、うめきが続いているそのただ中で、主イエスは神に讃美の歌を歌うのです。 主イエスは、父なる神の御業を「御心にかなうこと」だとして、ここでも神の讃美の声を上げました。どのような御業かというと、知恵ある者や賢い者に神の真理が示されず、幼子のようなものにお示しになられた、ということでした。当時の律法の専門家、ファリサイ派の人々、そしてガリラヤの町々の人々も人間の知恵を誇り、主イエスを退けました。しかし主イエスは、神のみを頼りにする者に、天の国の真理を示されたのです。 また主イエスは、「父のほかに子を知るものはなく」と語り、自分の事をよく知るのは父なる神以外にない、とおっしゃいました。人々は、主イエスの御業が、神の御業と同じことを知りませんでした。それに続いて、「子と、子が示そうと思うもののほかには、父を知るものはいません」とおっしゃいました。今度は、「父なる神を知っているのはわたしだけです」とはおっしゃいませんでした。主イエスがお選びになられたわたしたちが、父を知る者とされます。 【2023年 10月 15日 主日礼拝説教より】 説教「思い煩いのすべてを神の手に委ねる」 詩編 第23篇 1節-6節 ペトロの手紙一 第5章 1節-11節
「ペトロの手紙一」は、キリスト教に入信して間もない人々に向けて、神を信じるとは何を意味するのか、また、信仰を基として、いかに生きるべきかを教える内容である。5章7節「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」とある。この箇所をギリシア語から直訳すると「あなたがたの思い煩いのすべてを神に投げなさい」、もう少しはっきりと訳せば、「自分の思い煩い、悩みなどを全部、神に放り投げなさい」である。この後、「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」とあるように、神はそれをしっかりと受けとめて下さるという文が続く。この箇所の背後には、「(悩みを)投げ」、それを「受け止める」という神と人との関係性がある。 この言葉は、私たちにとって慰めに満ちたものである。自分の力では解決できない悩みがこの世界にはある。どうにもならない悩みと分かっていながらも、私たちはそれにとらわれ続け、そのことばかり考えてしまう。しかし、このような状態を冷静になって眺めてみると、あることに気がつく。悩みが私たちはとらえているのではなく、実は私たちが悩みをとらえ続けているのではないだろうか。別な言い方をすれば、私たちが悩みごとを意識し続けているのではないだろうか。悩みや思い煩いを意識すればするほど、悩みが深まっていってしまう。 悩み、思い煩いは、自らの手から神の手に放り投げてしまいなさい、という言葉は、実は悩みや思い煩いが私たちを捉えているのではなく、私たちが悩みや思い煩いにとらわれ過ぎていることを気づかせてくれる。自身の力ではどうすることもできない事柄こそ、私たちの力を超えた存在にすべてお任せするしかない。いや、むしろ、積極的に任せなさい、神の手にお渡ししない、とこの手紙の送り手は命じている。この命令は私たちを縛るものではなく、むしろ、解放する。この言葉を聞くか聞かないかで、私たちの日々の生き方が少し変わっていくのではないかと思えてならない。 悩み、思い煩いのすべてを神の手に委ねること、そのためにはまず、神を全幅に信頼することが前提になる。キリスト者にとって、もっとも求められることのひとつは、この神への信頼である。 【2023年 10月 8日 主日礼拝説教より】 説教「死を永久に滅ぼしてくださる神」 イザヤ書 第25章 1節-10節a ヨハネの黙示録 第21章 1節-4節
本日の礼拝は一年に一度行われる「逝去者記念主日聖餐礼拝」です。いつも頭を悩ますのは、どの聖書のみ言葉に聞くか、ということです。今年は特に、祈祷会でも読んでいるイザヤ書第25章に耳を傾けたいと思います。その中に、こういう言葉があります。「主はこの山で…死を永久に滅ぼしてくださる」(7,8節)。わたしたちは「死=滅び」と考え、この滅びとしての死は誰も逃れることはできない、死も滅びも必ず経験しなければならない、と考えます。しかし、死そのものが滅びるのだ、と旧約で語られていることに、驚きを覚えます。 この死を考えるために、命について聖書は何を語っているでしょう。創世記2:7に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった」とあります。人間の肉体は、土の塵に過ぎず、それだけでは生きられないのです。神によって命の息を吹き入れられることで初めて生きる者となります。わたしたちは神から生命力をいただいて本当の意味で生きることができます。逆に言えば、死とは、この神の命の息を失う、ということです。わたしたちの地上の命が終わる時、命の息は神の元へ帰っていきます。そしてわたしたちの肉体は塵となり、土に帰ります。 問題は、死が、人としてのあらゆる関係を断絶していくことです。そのような死は、人間の罪に対する報酬、罰と考えられました。人とのつながりが断たれ、神からも永久に切り離されることは、暗闇の中に捨て置かれるような、何よりも恐ろしい罰です。このような死は、恐怖と苦痛を伴う嫌なものです。 けれどもそのようなときこそ、神は、「弱い者の砦、苦痛に会う貧しい者の砦」(4節)となられました。神のご支配を受け入れるならば、死からも必ず神が守ってくださる、と神の民は聴きました。そして、その死を滅ぼした神は、すべての人々と共に盛大な祝宴を開かれることを約束してくださいました(6~8節)。 死は、この世の生涯の終わりであり、別れの時です。しかし死は、神とわたしたちを引き離すものではありません。地上の生涯を終えた時、わたしたちは神から預かった命の息をお返しし、主なる神のもとに赴きます。このことは、主イエスの十字架の死と復活によって、すでに決定的な事実となりました。 【2023年 10月 1日 主日礼拝説教より】 説教「今や、神の義が示された」 詩編 第14篇 1節-3節 ローマの信徒への手紙 第3章 9節-24節
罪の自覚、それは闇の中にいたのでは、それが闇だと自覚できないように、罪の中に埋もれている状態では、罪を罪と自覚することもできません。闇の中でいくら一生懸命、律法という神に近づく梯子を上ろうとしても、私たちはその暗さの中で、神を見失い、梯子から落ちてしまう事態となってしまうからです。 しかし今や神の義が、御子イエス・キリストによって私たちのところにくだって来てくださいました。イエスさまは十字架によって神の義を私たち人間に貫いてくださいました。神はご自分の義を御子イエス・キリストの十字架のゆるしの愛によって貫いてくださいました。罪なき神の御子が私たち罪人の身代わりとなって十字架上で私たち一人ひとりの罪を裁かれ、死んでくださる献身により、神の義を貫き、赦しの愛を貫いてくださいました。まさにイエスさまの十字架こそ「神の義と愛の あえるところ」(讃美歌Ⅰ262)。イエスさまの十字架は、私たちの罪そのものへの神の裁きです。イエスさまは私たち罪人に代わって裁かれ、イエスさまが私たちの罪と共に死んでくださるという献身によって、私たちの罪を取り除き、イエスさまが死者の中から復活されたと同じ命、神と共にある、新しい命へのよみがえりを約束してくださいました。このイエスさまの十字架を自らのこととして受け止め、神の義に打ち砕かれる経験なしに、罪の自覚もありません。 私たちはイエスさまの十字架にあらわされた神の義なる愛の光に照らされて、初めて自らの行いでは神に近づけない罪人の一人であることに気付かされます。 今や私たち人間の罪と死に勝利された復活のイエスさまは天に昇り、父なる神の右に座し、聖霊によって天と地を結ぶ教会の主となってくださいました。私たちはこの方を信仰告白する教会につながることによって義とされます。それが洗礼の出来事です。誰でも洗礼によってイエスを救い主、キリストと信じる者は、その信仰によって、主に結ばれたものとして義とされ、神の国の食卓である聖餐に迎えられます。ゆえに私たちは主に結ばれて、日々新たに御言葉に立ち帰り、無償で祈ることがゆるされています。「我信ず、主よ御手をもて我を引き上げたまえ!」と。願わくはすべての人の舌が「イエス・キリストは主である」と公けに宣べて、父・子・聖霊なる神の御名が崇められますように。御国が来ますように。 【2023年 9月 24日 主日礼拝説教より】 説教「悟りなき罪」 イザヤ書 第55章 6節-13節 マタイによる福音書 第11章 20節-24節
わたしたちが主イエスのことを思い浮かべる時、主イエスのお顔を思い浮かべるでしょうか。青年で、長髪で、たいてい髭を蓄えている感じでしょうか。 今日の主イエスは、叱りつけているお顔で登場しています。叱った顔の向いている先は悔い改めない町々でした。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」(20節)。具体的な町の名前まで記されています。コラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウム、主イエスが中心的に伝道をされたガリラヤ地方の町々です。この町々が、ティルス、シドン、そしてソドムという異教の町々、間違った神を信じているとみなされていた町々、この2つに分けられます。悔い改めないガリラヤの町々は、異教の間違った町よりも厳しい裁きを受ける、と主イエスは言われました。主イエスのお言葉の中で、最も厳しい言葉の一つです。 「お前は不幸だ」は、元々は「ああ」という神のうめき声を表す感嘆詞です。ガリラヤの町々が神に裁かれ滅ぼされる、この町々の定めを、主イエスが見ざるを得ず、うめいておられるのです。これまですべてを注いでガリラヤの町々を愛し、滅びから守ろうとしたのに、町々は滅びねばならない、深い悲しみです。 そもそも主イエスが奇跡、力ある業をなさりながら、人々にお求めになったのは、愛のわざ、慈善事業ではなく、悔い改めでした。神から離れて罪を犯し続け、神のもとに帰って行かず、悔い改めないことがどんなに恥ずかしく悲しいことか、ガリラヤの人々に知らせました。けれども、心から悲しむことは、主イエスでも強制できません。自らうめき、嘆きつつ、呼びかけるだけです。 わたしたちは、主イエスと同じように、自分の地域、自分の国、自分の世界が、神を礼拝する神の道に生きていないか、深く嘆くことができるでしょうか。神から断ち切られた町々は必ず滅びる。ガリラヤも、仙台も。日本も。そこで主イエスの呻きが聴こえるでしょうか。けれども主イエスは、ただ呻くためだけに来られたのではなく、この世を救うために来られました。主イエスの御業は十字架上での呻きに極まります。あえて、神の御子としてそのうめきを貫いてくださり、悔い改め、神に立ち帰らないわたしたちを赦し、救ってくださったのです。 【2023年 9月 17日 主日礼拝説教より】 説教「笛吹けど、踊らず」 イザヤ書 第30章 27節-33節 マタイによる福音書 第11章 16節-19節
主イエスは今日の箇所で、「今の時代を何にたとえたらよいか」とおっしゃっておられます。主イエスは一体、時代をどうご覧になっておられるのでしょう。広場で座って「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」と歌う子どものようだ、と主イエスはおっしゃいました。 そもそも主イエスはこの地上に神の国、神のご支配をもたらすためにおいでになられました。それに先立つ洗礼者ヨハネもまた、同じように、「あなたはもう、神のご支配を迎える準備ができているか」と問いかけていました。その意味では、主イエスとヨハネの共同作業で神のご支配の始まりを告げたと言えます。 そのところで人々がしていたのが「笛吹けど、踊らず…」でした。これは当時の子どもたちがゴッコ遊びするあそび歌のようではないか、と考えられます。「結婚式ごっこしよう。お葬式ごっこしよう」と誰かが言い出しても、「そんなのつまらない、僕はやらないよ」という子どもがすぐ出てくるようなものです。ここには、誰が誰にこの歌を歌っているかをめぐり、二つの読み方があります。一つは、子どもが、神に嘆きの歌を歌っている、という読み方です。子どもがこれをして遊ぼう、と神さまに呼びかけても、調子を合わせてくださらない、と文句を言っている、というのです。自分の願いをちっとも神さまは聞いてくださらない、と嘆く。結局神さまを自分の欲望のために利用する、そのわがままな人間の様子を主イエスは深く嘆いている、というものです。 もう一つは、子どもたちに遊んでくれと呼びかけているのは、洗礼者ヨハネであり、主イエスである、という理解です。その呼びかけを聞きながら、一緒に遊ぼうとしない人こそ、今の時代の人々、この世の人々だ、と考える、この読み方をする方が多いと思います。ヨハネが食べも飲みもしないで禁欲的な生活をしていると、あんな生活は無理だ、悪霊に取り憑かれている、と言い、主イエスが徴税人や罪人と自由に食事をしていると、堕落した人間だ、と言い拒絶する。ヨハネの示した、人々の罪による神が味わう悲しみも、主イエスの示した、その罪を主イエスの命によって赦された者の神の喜びも見ることができず、踏みにじる時代にあって、神に寄り添って悲しみ、踊るようにわたしたちは招かれています。 【2023年 9月 10日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスの偉大さのゆえに」 イザヤ書 第40章 1節-5節 マタイによる福音書 第11章 7節-15節
マタイによる福音書は、主イエスと洗礼者ヨハネの関係について、明らかにしようとしています。ヨハネは、主イエスこそ来るべき、人々の待ち望んでいた救い主であることを認めつつ、つまずきかけていたのかもしれません。そのヨハネに主イエスが「わたしにつまずかない人は幸いである」と招いておられます。 その後主イエスは、ヨハネの弟子たちが去ったあとで、その場にいた群衆に向かって、ヨハネについて話されました。ヨハネがヨルダン川のほとりの荒れ野に姿を表した時、ユダヤ人たちはこぞって、ヨハネの元を訪れました。そこでヨハネのことをどう見ていたのか、と主イエスは問いかけました。ヨルダン川にそよぐ葦を思い浮かべつつ、その葦のように世の潮流に乗っかっている人物と見るのか、しなやかな服、すなわち贅沢な暮らしをしている人物と見るのか。ヨハネはそのいずれでもないことは明らかでした。 それならば、預言者と見るか、そのことは否定せず、むしろ「預言者以上の者である」と主イエスはおっしゃいました。ヨハネの働きは、一面では旧約以来の預言者の系譜に連なり、悔い改めを訴えつつ来るべきメシア・救い主を指し示していました。それでは一体、どういう意味で、ヨハネは「預言者以上の者」なのでしょうか。それは、ヨハネが直接、メシアとしての主イエス・キリストの道備えをしたからであり、直接主イエスを指し示したからにほかなりません。 これは、聖書の持つ偉大さに似ているかもしれません。聖書は、古今東西のベストセラーであり、深い教養、知恵が盛り込まれ、また、貴重な歴史資料としても存在の価値はあります。しかし、本当に聖書に価値があるのは、ただ神の御子であられる主イエス・キリストについて語っているからです。その主イエスの偉大さのゆえに、それについて記した聖書は偉大な書物、といえます。 ヨハネは主イエス以前の、最後の、最大の預言者ですが、今や、救い主当人である主イエスが登場されました。それ以降、この主イエスに捉えられ、教会に連なるわたしたちは、主イエスを指し示すだけでなく、証しする者となりました。「天の国で最も小さな者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大」、この小さな者とは、ヨハネたちよりもっと強く主イエスと結びついているわたしたちのことです。 【2023年 9月 3日 主日礼拝説教より】 説教「わたしたちは誰を待つべきか」 イザヤ書 第35章 3節-6節 マタイによる福音書 第11章 1節-6節
先週の礼拝の中で、二人の方をこの教会にお迎えしました。洗礼式、転入会式には志願者が、まっすぐな言葉で信仰を告白し、誓約いたしました。 今日のところには、洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは荒れ野で預言を繰り返し、人々の罪を責め、悔い改めを求めました。そのヨハネが、ここでは牢の中にいた、というのです。権力者に逆らったからです。 このヨハネは、牢の中から弟子たちを主イエスのもとに送って、こう訪ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」。この世界を救う救い主は、本当にあなた、主イエスなのですか、と尋ねました。この問いを投げかけたヨハネは、疑い深い、不信仰な人間だ、と感じるでしょうか。けれどもこのヨハネは、主イエスの先駆者となった人です。主イエスが公の活動を始めようとする時、ヨハネのところに来ました。ヨハネは明らかにすでに、主イエスが救い主であることを悟っていたように思われます。また、2節でヨハネは「キリストのなさったことを聞いた」と記されています。「キリスト」(=救い主)と記すのは、意図があったことでしょう。 けれども、ヨハネの側は、主イエスを救い主、キリストと信じながら、主イエスは自分が語ってきた救い主のやり方とは違って厳しさが足りない、とその見方がぐらついて、「本当に待っている方なのか」と問い直したのかもしれません。本当にこの人に自分のすべてを掛けて良いのか、ヨハネは真剣に問うたのです。 わたしたちも、2000年前の、遠くパレスティナの一人の男に、自分の一生の望み、全人類の望みをかけて本当によいか、ヨハネと同じ問いを問います。 そこで主イエスは、弟子を通してヨハネに、旧約の預言者、イザヤの言葉を用いながらお答えになりました。神が到来して、目の見えない人、足の不自由な人が見え、歩けるようになるのだ、と。神が到来されると、救いと解放が始まる、それが今始まっているのだ、というわけです。そして主イエスは、「わたしにつまずかないものは幸い」と言われました。主イエスを疑い、つまずくのがわたしたちですが、主イエスはわたしたちのつまずきで十字架に死なれ、つまずいていたわたしたちが、まっすぐに神への信仰を告白し、誓約できる者とされました。 【2023年 8月 27日 主日礼拝説教より】 説教「教会に根ざす強さ」 出エジプト記 第4章 10節-17節 マタイによる福音書 第10章 40節-第11章1節
ただ今、洗礼式と転入会式をもって、新しくお二人の方を、この教会に迎え入れることができました。その喜びの中で本日与えられました、マタイ10:42で主イエスは「わたしの弟子だという理由で」とおっしゃっています。これは当然12人の弟子のことですけれども、主イエスに従い、そして遣わされる者と考えれば、この世に遣わされるすべての信仰者のことをも指します。今日洗礼を受けた方も、主イエスの弟子となったのです。 今日の言葉を愛唱聖句にしている人は少ないかもしれません。読み過ごしてしまいそうな言葉ですが、すごいことが言われています。例えば40節には、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れる」、主イエスに伝道する者として使わされた弟子、そして同じ弟子であるわたしたちを、受け入れる人は、主イエスを受け入れ、それはまた、神さまご自身を受け入れることになるのだ、というのです。わたしたちが主イエスと一つとなり、それによって神と一つとなる、だからわたしたちに水を一杯でも与える人は、永遠の報い、永遠の命を持つのだ、というのです。不思議な言葉、驚くべき言葉、そしてもったいない言葉です。 水一杯を与える、ということで思い起こすことは、同じマタイによる福音書25:40の主イエスの言葉、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という言葉でしょう。小さな値打ちのないと思われる人のためにした小さな親切は、皆主イエスにして差し上げたことだ、というのです。このみ言葉は、心に留めたい愛唱聖句としている方もあるかもしれません。ところが今日の、第10章では、何かどこかにいる助けを必要としている人、というのではなく、わたしたちのことだ、と言われています。この主イエスの弟子であるわたしたちに、誰かが一杯でも水を飲ませてくれたなら、永遠の命を得る、と言われているのです。驚くべき言葉です。しかしこれは、わたしたち一人ひとりが多くの値打ちを持っている、ということなのです。小さな、ちっぽけなわたしたちが、主イエスの弟子であるゆえに、主イエスの十字架の死と復活によって、永遠の命を宿しているのだ、というのです。新しい愛唱聖句としたい言葉です。 【2023年 8月 20日 主日礼拝説教より】 説教「無垢になろうとする」 詩編 第37篇 37節 ガラテヤの信徒への手紙 第5章 22節-23節
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」イエス様は逮捕される前にゲツセマネの園で祈られました。そして十字架に磔にされたとき、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。激しく揺れ動くイエス様のお心がよくわかります。それだけ私たち人間の持つ、悩み苦しみ悲しみ、痛みを知っていてくださる。しかもご自分は何の罪もなく、十字架という最も悲惨な殺され方を通して知ってくださる。ご自分が神の独り子であるということ、神の身分であるということを打ち捨ててまでです。詩編の言葉をご存知でありつつ、ご自分の経験や知識や思いから一旦離れて無垢になり、神につながり、神の御心を尋ねて生きようとなさっていたに違いありません。ですから平和を求めるわたしたちに第一に必要なことは祈ること。その祈りは、心が激しく動く中での祈りであってもよいのです。この祈りを通して私たちは自分を無垢にするように導かれ神さまのみ旨、御心によって自分の言葉や行いが導かれるのです。 ガラテヤの信徒への手紙の言葉に「これらを禁じる掟はありません。」とあるにも関わらず、わたしたち人間はその掟を作り、争いの絶えない現実を生み出しています。ここでもわたしたちはイエス様の掟に立ち返るべきです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ福音書15:12)そして、「霊の結ぶ実は愛」とパウロが言っている通り、わたしたちは霊によって愛に導かれます。イエス様は復活の日の夕方、弟子たちにおっしゃいました。「あなたがたに平和があるように。…聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。…」愛の根底には赦しがある。赦すことから、パウロの言う、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制に繋がっていくのです。 平和が尊いものであり、目指すべきものであることを知りつつも、平和に生きることができないことの多い私たち。まずはイエス様に倣って祈り、無垢になろうとしたいです。そして互いに愛し合いなさいというイエス様の掟に生きるため、聖霊に導かれて、神に愛され、赦されている者として、霊の結ぶ実りを一つずつ、少しずつ、共に作っていくことのできる私たちでありたいと願います。 【2023年 8月 13日 主日礼拝説教より】 説教「十字架に根ざす強さ」 エレミヤ書 第20章 7節-12節 マタイによる福音書 第10章 34節-39節
8月という月は、わたしたちの国では戦争のことに思いを重ね、同時に平和への願いに思いを寄せることの多い時となっています。特に近年、その平和を打ち破る出来事が起こっており、平和を願う思いが厚くなっているかもしれません。 そのようなわたしたちにとって、今日の主イエスのお言葉には、驚きを隠すことができないのではないでしょうか。34節「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」。主イエスがこの世においでになられたのは、平和のないこの世界に、平和を実現するためだ、誰もがそう考えているのではないでしょうか。しかもそれに続く35節も、最も平和が望まれる最小の単位である家族の間ですら、敵対させる、と主イエスはおっしゃいます。ますます悩ましい言葉です。わたしたちにとって、痛みを生じさせる言葉です。 わたしたちは平和を願っており、主イエスこそ、平和そのものであるようなお方であるのに、どうしてこんなに厳しい言葉をお語りになられるのでしょう。主イエスは、平和を願うわたしたちに「剣」を投げ込まれる、とおっしゃいます。その「剣」とは何か、それがどこを向いているのか、それが、この問を解く鍵になると思います。わたしたちは、主イエスが「剣」を投げ込む先は私たち人間のいるこの地上だ、と考えるかもしれません。けれどもある人は、この「剣」は確かに、地上に投げ込まれるかもしれないが、その投げ込まれた先は地上に来られた主イエスご自身だ、と言いました。主イエスはこの「剣」で人々を殺そうとしたのではありません。むしろ逆に、主イエスご自身が、人々の振りかざす「剣」のもとで死なれました。あの十字架の死は、人々が主イエスに対して「剣」を刺し貫いた死でした。また、主イエスはこの剣を、悪魔や人々の罪悪を叩き切るために用いる、と言われたわけでもありませんでした。それは、主イエスの深い悲しみの中から出た言葉でした。「平和をもたらすために来たのではない」と言わなければならない、地上の罪の深刻さを、主イエスは受け止めていたのでした。 この十字架の主イエスを見つめる者は、主イエスの痛みと悲しみを自分のものにし始めます。主イエスと共に、主イエスの十字架を背負う者へと招かれます。 【2023年 8月 6日 主日礼拝説教より】 説教「主イエスの仲間、と言い表す」 詩編 第26篇 1節-12節 マタイによる福音書 第10章 32節-33節
本日のみ言葉は、わたしたちが人々の前で、自分を主イエスの仲間であると言い表せば、主イエスの側が神のみ前で、わたしたちを主イエスの仲間、と言い表してくださる、けれども逆に、わたしたちが人々の前で、主イエスを知らないといえば、主イエスもわたしたちを知らないという、というのです。 もちろんわたしたちは、主イエスの仲間として生きたいので、「わたしは主イエスの仲間です」と人々の前で言い表したい、と考えます。ところが実は、それはそんなに簡単な話ではありません。ここで主イエスは、ご自分が天の国の福音を宣べ伝えるために遣わす弟子たちに教えておられるのですが、弟子たちは、人々からの激しい迫害で、命の危険に身をさらしながら、しかし、恐れないように励ましを受けながら、歩んでいたのです。主イエスの仲間であることを言い表す難しさがありました。 この「仲間と言い表す」という言葉は、前の聖書では「受け入れる」、さらに元の言葉は「信仰を告白する」「賛美する」という意味の言葉です。わたしたちが主イエスを信じる、ということは、主イエスを救い主と信じ、仲間と信じ、そのことを「受け入れる」ということにつきます。それは、主イエスだけを恐れ、この方以外のものを恐れない生き方へと踏み出していくことです。 わたしが今日のみ言葉から思い浮かべた聖書に登場する人物がいます。それは主イエスの弟子のペトロです。元は漁師であったペトロは、「わたしについて来なさい」という主イエスの呼びかけに応えて、すぐに網を捨てて主イエスに従いました。主イエスの仲間、弟子として歩むことになりました。そしてやがて、「あなたはメシア、生ける神の子です」という、信仰の告白の言葉で、主イエスの仲間であることを見事に言い表したのです。 ところが同じベトロが、主イエスを三度も「知らない」と言ってしまいました。ペトロにはまだ人々への恐れ、死への恐れがあったのです。けれども主イエスはそのペトロをなお仲間として赦し、そのために、十字架の道を歩まれ、死なれました。そしてこのペトロを用いてくださって、全世界に教会が建ち、福音が宣べ伝えられることとなりました。この赦しの恵みに目を注ぎたいと思います。 【2023年 7月 30日 主日礼拝説教より】 説教「恐れに根ざす強さ」 マタイによる福音書 第10章 26節-31節
主イエスはご自分の業、そして父なる神の業として、人々に神の国を宣べ伝える、伝道の使命を果たす時に、12人の弟子を呼び集め、ご自信の力と権能を与えて、まるでご自身の分身を遣わすように、遣わされました。それはまるで、「狼の中に羊を送り込む」ように、苦しみ、迫害を伴うものでした。 主イエスは、弟子たちに託した使命が、どんなに重いものであるか、よく知っておられ、もしかすると人々から殺されるかもしれない、大きな恐れが伴うことを知っておられました。 そこで主イエスは、「恐れるな」という言葉を3度繰り返し、励ましておられます。第一は、26「人々を恐れてはならない」、なぜなら「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに住むものはないから」というものです。神の福音は、どんなに周りから抑圧されても、触れる人間に語り続けます。かつての社会主義国でもキリスト教信仰は生き続けていました。 第二は、28「魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」、「体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れ」るべきだから、と言います。わたしたちは確かに、体の生活にこだわり、自分の体としての命が、奪われることを恐れています。けれども主イエスは、人間が奪えるのはせいぜいからだだけなのに、なぜそれを恐れるのか、わたしたちの存在のすべてを滅ぼすことがおできになられるのは神のみではないか、その神のみが、わたしたちに永遠の命を与えてくださっておられるではないか、というのです。 そして第三に、31「恐れるな。あなたがたはたくさんの雀よりもはるかに勝っている」、すべてのものを滅ぼす力を持った唯一の恐るべきお方は同時に、小さな雀をも心に留め、わたしたちの髪の毛までも数える細やかさをもって、配慮してくださるから、と言います。 これらは、結局のところ、わたしたちが本当に恐れなくていい、と言えるのは、本当に恐れるべきお方を知っているときだ、と言おうとしていると思います。神を恐れない人ほど、様々な恐れや不安を抱きます。しかし主イエスは、ご自身が恐れと立ち向かって死に、甦られました。この恐れの勝利を頂いたわたしたちは、「恐れるな」を、禁止命令でなく、励ましとして受け止めます。 【2023年 7月 23日 主日礼拝説教より】 説教「言うべき言葉は神が与える」
瀬谷 寛 牧師
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須田 拓 教師(東京神学大学)
瀬谷 寛 牧師
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吉田 新 教師(東北学院大学)
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松本 のぞみ 教師(東北教区巡回教師)
瀬谷 寛 牧師
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大久保 直樹 教師(宮城学院中高)
瀬谷 寛 牧師
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