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【2023年 12月 31日 主日礼拝説教より】

説教「起きよ、光を放て」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第60章 1節-7節

       エフェソの信徒への手紙 第5章 6節-14節


 

 今年もクリスマスを迎えることができました。クリスマスの諸集会も、無事に守られました。待降節、そしてクリスマスを通り過ぎたわたしたちですが、依然として、主イエスがすでに来てくださったことと、終わりの日にもう一度来てくださる、その間を生きていることに変わりはありません。クリスマスを、通り過ぎるイベントの一つ、と考えず、常にこのめぐみに立ち返ることが大切です。

 イザヤ書を読み進めるようにして、クリスマスを過ごしました。イザヤ書は、全部で66章までありますが、第1~39章を第一イザヤ、第40~55章を第二イザヤ、第56~66章を第三イザヤと区分される、と多くの旧約学者たちがいいます。今日読む第60章は最も新しい時代、第三イザヤの言葉です。

 1節「起きよ、光を放て」。このイザヤの預言が告げられているのは、まだ起きておらず、光が見えていない状況であることが分かります。人々は悲しみ、嘆き、希望を失い、疲れ果てています。とても自分たちからは、光を放てない。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」。これが、イザヤの言葉を聴いた人々の現実でした。しかしその時に預言者イザヤは2節「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と告げます。自分たちは光を放てなくていい、けれども、主なる神の栄光の光を受け、その光に照らされ、包まれ、反射させて光を放て、と告げます。それが、やがて訪れるまことの救い主の到来によってもたらされる光です。神の民はそれから何百年もこの光を待ち続け、ついに、神の御子主イエス・キリストが救い主としてやって来ました。

 このイザヤの告げるキリスト預言は、光と闇とが対比されています。そのイメージが新約にも受け継がれています。主イエスは、「わたしは世の光」(ヨハネ8・12)とおっしゃり、さらに、わたしたちに「あなたがたは世の光」(マタイ5・14)とおっしゃいました。その間に何が起こったでしょう。エフェソ5・8「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」。主イエスがクリスマスに光としてきてくださり、世の光として愛のわざをなし、愛の極みである十字架の死を通し、この世の罪の闇を光に変えてくださいました。この光にわたしたちは、結び合わされています。





【2023年 12月 24日 主日礼拝説教より】

説教「闇の中に輝く平和の光」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第9章 1節-6節

       ヨハネによる福音書 第1章 1節-14節


 

 ついに、主イエスのご降誕を祝う主日礼拝を迎えました。色々な悩み、苦しみ、痛みの中にあるにも関わらず、今日のために様々な事柄を整えて、この席に座っておられる方も多いことでしょう。

 今日の聖書の中に、印象的な言葉があります。「闇の中を歩む民は/大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた」。今から約2700年前に起こった出来事です。イザヤ書8:23には、「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」とあります。神の民、北王国イスラエルが、巨大帝国アッシリアとの戦いに敗れて、滅ぼされてしまいました。自分たちは神に特別に守られている神の民だ、と信じていた彼らにとって、戦争に負け、国が敗れるという辱め、とんでもない危機的な、まさしく闇の中を歩み、死の陰の地に住むような状況でした。なぜ、そのようなことになってしまったのか、それは、北王国イスラエルが神に従順に従わなかったことによる過ちの故です。だから彼らは闇の中を歩まざるを得ませんでした。その彼らに、預言者イザヤは「栄光を受ける」「大いなる光を見る」「光が輝いた」と語りました。その喜びがどのようなものであるか、刈り入れのときの喜びのようであり、戦利品を分け合うときの喜びのようだ、というのです。あの、闇としか言えないような悲惨な戦い、憎しみ、悲しみ、不安を味わった民が、なぜ喜べるのでしょうか。その真相が5節で明らかにされます。

 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。「みどりご」は赤ちゃんのこと、人間性が表されています。「男の子」というのは「独り子」と訳せる、つまり神の独り子の意味で、神としての性質が強調されています。闇の中に、この神であり、また同時に人間である救い主、メシアが、光として生まれ、与えられる、とイザヤは預言するのです。そしてそれはもちろん、イエス・キリストのことです。この方は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名で呼ばれる、と言います。闇を光に変える力ある方が、「平和の君」として来られるのは、注目すべきです。

 今年は、世界で新たな争いが生じた年でした。平和から遠いように思える世界、わたしたちの人生に、主イエスこそ平和の君として来てくださいました。





【2023年 12月 17日 主日礼拝説教より】

説教「『神、我らと共に』と呼ばれる子」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第7章 10節-17節

       マタイによる福音書 第1章 18節-25節


 

 待降節(アドベント)を迎え、この時期、教会でしていることは、教会の仲間でありながら、普段礼拝に出られない高齢の方、病の方への訪問です。条件が整うなら、訪問先で聖餐の礼拝をします。ここでの礼拝と同じことを、それぞれのところでするのです。そこに、主イエスが共におられることを味わいます。

 マタイによる福音書が告げるクリスマスの場面は、救い主として生まれる子が「イエス」と名付けられること、その子は「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と呼ばれることが、主の天使から告げられます。

 この「インマヌエル」は、この主イエスの誕生からさらに700年前に、預言者イザヤによって告げられた言葉です。当時の南王国ユダの王はアハズと言いますが、南王国ユダはこの時、近隣のアラムとエフライムの連合軍から攻撃を受けようとしていました。王アハズは「林の木々が風で揺れ動くように」かなり動揺していました。預言者イザヤを通して主なる神は、こういうときにこそ静かにして、恐れずに、神を信じなさい、そして、神のしるしを求めなさい、と王アハズに勧めました。なかなか神を信じることができないアハズのために、神は、しるしを求めてでも神を経験すれば、もっと神に信頼するようになるだろう、と神はアハズに配慮なさったのです。しかしアハズは、「わたしはしるしを求めない」と言い、神に従いませんでした。アハズは、神を求めても無駄だ、もっとわかりやすい助け、超大国アッシリアを頼りとしよう、と考えていました。

 そこで主なる神はアハズに「わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」と、インマヌエルのしるしとしての、男の子誕生の預言を与えました。

 このアハズに与えられた言葉が、主イエスの誕生によって実現しました。これら二つの出来事はどう関係するのでしょう。それはいずれも、本当の救いは神にこそある、ということではないでしょうか。この世の様々な問題の本当の解決は、インマヌエル、共におられる神、主イエスにこそあります。マタイによる福音書は「わたしは…いつもあなたがたと共にいる」との主イエスの約束の言葉で閉じられます。人間の知恵ではなく、神の約束に望みを置きたいと思います。





【2023年 12月 10日 主日礼拝説教より】

説教「無益な言葉を捨てる」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第51篇 1節-21節

       マタイによる福音書 第12章 30節-37節


 

 主イエスはこの世界に到来されて、教えといやしのみわざをなさいました。それは神が、この世の人々を、罪と悪の支配から、神の霊、聖霊の力によって解放してくださることを示されるためです。主イエスの到来は、罪の暗さが覆う世界に光が差し込んだことを意味します。その光を、光として受け止めるのは、わたしたちです。わたしたちの信仰です。

 主イエスの光を見ても聞いても信じない、そこに人の心の暗さ、世界の暗さがあります。それがいかに深いか、福音書は隠さず語っています。ファリサイ派の人々が、主イエスの行ったいやしの御業を見て、それが悪魔の仕業だ、とみなしました。嫉妬や憎しみの心が、その人を、世界を、闇にします。

 このファリサイ派の人々の発言をきっかけとして、主イエスは今日の箇所で、心と言葉が、木と実のたとえとして示しています。33「木が良ければその実もよいとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しはその結ぶ実でわかる」。人は目に見える実によって、良い木か悪い木かを判断します。主イエスはファリサイ派の人々を悪い実を結ぶ悪い心の人間だ、と断じているようです。似たようなことで倉のたとえを用いても語っています。倉には良いものも悪いものも蓄えることができるが、良い人の倉には良いものがあり、悪い人の倉には悪いものでいっぱいになっている、と言います。一見、一般的にもわかりやすいように見えますが、この倉、とは、宝、富とも訳すことができ、特に天の富、天の宝を指しています。つまり、良い人の心というのは、天の神のもとにあって、そこからいくらでも良いものを持ち出すことができる、そういうことを意味しています。天の宝、富とは主イエスが天の神のもとから来てくださることによって表されますから、結局は主イエスの言葉を蓄えるのが良いことになります。

 36に出てくる「つまらない言葉」は、「無益な言葉」の意味で、つまり人の口から出る悪い言葉は、神の御心、神の働きに対して無益な言葉となる、と言います。反対に良い言葉は、神の御心に沿った愛の業を生み出す言葉、となります。

 わたしたちは、悪い言葉、実を結ぶ木でした。しかし切り倒されずに生かされているのは、主イエスが十字架によって自ら切り倒されてくださったからです。





【2023年 12月 3日 主日礼拝説教より】

説教「ダビデの子の到来」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第23章 23節-32節

       マタイによる福音書 第12章 22節-32節


 

 今年も待降節、アドベントを迎えました。今朝与えられている御言葉には、聖霊と悪霊が出てきます。聖霊は、父・子・聖霊の三位一体の神のことです。今生きてわたしたちに信仰を与え、主イエスを愛し、従っていく歩みへと導いてくださる霊です。一方悪霊は、神に敵対する霊、神からわたしたちを引き離そうとする霊のことです。わたしたちの中にある罪に働きかけ、神など関係ない、自分の思いや欲望のままに歩め、とわたしたちに仕向けます。しかも悪霊は賢く、知らないうちにその手に落ちてしまいます。

 今朝の箇所は、主イエスが、悪霊に取り憑かれて、目が見えず、口の利けない人をいやされた、という出来事から始まっています。神の御子のみ業ですから、医学的に何が起きたかを詮索することは意味がありません。ただ、悪霊は、人間の本来の姿を失わせるものであり、主イエスはその悪霊を追い出して、自由に見、話す本来の人間の姿を取り戻してくださった、ということです。

 これに対して2つの反応があった、と聖書は記します。一つは群衆が「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったこと、もう一つはファリサイ派の人々が、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言ったことです。

 確かに、ファリサイ派の人々が指摘した、目の前で不思議な奇跡的なことをされれば、「超能力だ」と信じてしまうところがわたしたちにもあります。けれどもわたしたちは、奇跡だけでイエス・キリストを神の子、救い主と信じるのではありません。主イエスが語り、行ったすべて、特に主イエスがわたしたちに代わって十字架におかかりになって罪の裁きをご自身の身にお受けになり、わたしたちを罪、悪霊の支配から解き放ってくださったことで、救い主と信じ告白します。しかし、ファリサイ派の人々はそれをすることができませんでした。けれども、彼らにも、救いの道は残されています。主イエスがはっきりと、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」とおっしゃっておられます。だから主イエスを認めず、逆らうわたしたちも、その十字架のゆえに赦されます。聖霊によって、悪霊から解き放たれて歩みたいと思います。主イエスが共におられます。





【2023年 11月 26日 主日礼拝説教より】

説教「傷ついた葦を折らない主」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第42章 1節-4節

       マタイによる福音書 第12章 15節-21節


 

 日曜日、主日礼拝ごとに、皆さんは、それぞれが様々な生活、働きをなし、そこでいろいろを考えながらも、教会の頭であられる主イエスがわたしたちを招いて、結び合わせてくださいます。特に悲しみ・苦しみを覚える仲間があることを覚えます。主イエスは、その一人ひとりに目を注ぎ、心を砕いておられます。それがはっきり打ち出されているのが、この主の日の礼拝です。

 主イエスは安息日、会堂で、片手の萎えた人に向かって「手を伸ばしなさい」と呼びかけました。このいやしの御業が、ここでは旧約の預言者イザヤの言葉(イザヤ書42:1~4)の成就として描かれています。そこではやがて来るであろう救い主を苦難の僕として証しし、どのように救いをもたらすかを語ります。

 引用されたイザヤの言葉で、急所となるのが「正義」という言葉です。「裁き」ともなっています。白黒はっきりさせる、ということです。その意味でファリサイ派も正義に生きていたと言えるかもしれませんが、彼らは敵意を剥き出しにし、力づくで殺すことも辞さない正義でした。今、ガザで、ウクライナで起きていることは、そのような正義と正義のぶつかり合いかもしれません。けれども、この主の僕、主イエスの正義はそのようなものではなく、ファリサイ派に、自分を殺そうとする思いがあると知った時、立ち向かうのではなく、そこを立ち去られました。十字架を前にした裁判で黙っておられたこと、十字架の上で罵られても罵り返さない主イエスのお姿を思い起こすことができます。つまり、主イエスの本当の正義は、徹底的にへりくだり、苦しむところに見える正義です。

 この正義を勝利に導くまで、救い主である主イエスは、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と言います。葦は水際の細い草のような植物です。でも傷つき、すぐにも折れそうです。また、灯心もくすぶってすぐに消えそうです。それは交わりからはみ出ている人、手の萎えた人、そして弱いわたしたちのことです。わたしたちは今にも折れ、消えそうな命をなんとか生きているところかもしれません。けれども主イエスは、傷ついた葦を折り、くすぶる灯心を決して消すことはなさらず、むしろもう一度生かそうとなさます。そのために主イエスは十字架で苦しみ、わたしたちに代わって折れ、消え、復活されました。





【2023年 11月 19日 主日礼拝説教より】

説教「生きるにしても、死ぬにしても」
      須田 拓 教師(東京神学大学)

       申命記 第6章 4節-5節

       ローマの信徒への手紙 第14章 1節-9節


 

 私たちは人生に意味や目的を求めます。その私たちに、聖書は、「主のために生きる」人生があると語りかけています。

 パウロがまず語るのは、異教の神々に捧げられた肉を食べてよいのかという問題です。もちろん信仰が変えられてはなりませんが、教会の歩みや信仰生活には、どちらでもあり得ることがあり、この問題もその一つでした。パウロはそこで、「神はこのような人をも受け入れられた」(3節)ことこそがもっと重大だと言います。私たちが今、神の子とされているのは、肉を食べたり食べなかったりしたからではなく、ただキリストを信じた故です。そして、そこにはキリストの命がかけられています。それなら、私たちは何をするにも、その主への思いのうちにしているかどうかが重要だというのです。

 パウロはそこから、「主のために生きる」「主のために死ぬ」と、人生全体が主のためのものであるべきだと話を拡げます。それは幸いな生き方です。子どもや友人のために生きるのも貴いことですが、それは裏切られ、崩れることがあります。しかし、主のために生きるなら、それが裏切られることはありません。主は決して変わることも裏切ることもないお方だからです。しかも、パウロは、あなたの人生をそのように変えなさいと言うのではなく、あなたの人生は既に、主のためという、決して崩れない意味を持ったものになっていると語るのです。

 確かに、私たちは、「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」(8節)という事実を背負って生きています。どこで何をしている時にも、人は知らず知らずのうちに、私たちの中に、私たちをとらえご自分のものとしてくださっている神の御業を見ているはずです。そして、そこにこそあなたの人生の究極的な意味があるというのです。

 決して崩れない意味のある人生とされているからこそ、私たちは人間的希望が潰えたように思われても、最期までできることがあることに気づかされます。様々なことができなくなっても、祈れます。それどころか、生きているだけで、主のものとしてあなたを生かしておられる神の御業を証ししています。

 しかも「主のために死ぬ」というように、キリスト者として死を迎えること自体意味あることだといいます。確かに、主のものとされた者として最後まで生かされ召されてゆくことは、まして復活の希望を抱きつつ召されることができたなら、そして葬儀などの機会に主の復活による永遠の命の希望が語られるなら、どれほどの証しとなることでしょうか。

 キリスト者の生涯は、死までもが用いられる、どこまでも意味ある生涯です。共に主のために生きよう、と私たちはその幸いな生へとこの朝招かれているのです。





【2023年 11月 12日 主日礼拝説教より】

説教「かけがえのない命に対して」
      瀬谷 寛 牧師

       コヘレトの言葉 第3章 18節-22節

       マタイによる福音書 第12章 9節-14節


 

 主イエスのなさる、最もよく知られたたとえ話に、失われた一匹の羊のたとえ話があります。百匹の羊の中から一匹が迷いでてしまった、その一匹をどこまでも探し求めた羊飼いの話です。こどもさんびかでこの場面が歌われている曲は、大好きだという方も多いでしょう。

 ところで、今日のところでも主イエスは、11節で一匹の羊の話をしています。その発端は、安息日に、主イエスが会堂で礼拝をしておられると、片手の萎えた人がいて、主イエスを陥れようとする人々が「安息日に病気を治すのは律法で許されていますか」と訪ねました。そこで主イエスは「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらないものがいるだろうか」と問い返されました。この人は百匹の羊を持っていた人よりももっと貧しかったようで、たった一匹しかいないかけがえのない羊のようです。その羊が穴に落ちて命の危険にさらされたら、安息日であろうがなかろうが、それを助け出すのは当然です。そうとすれば、この手が萎えてしまっている一人の人をいやすことこそ、安息日にふさわしいことではないか、と問い、安息日に良いことをするのは許されている、とはっきり仰っておられます。一人一人の命はかけがえのない命だからです。

 インドのマザー・テレサは、貧しい大衆の一人が死のうとする時、その傍らに駆け寄り、「あなたはかけがえのない命を持っている」、というのだそうです。マザー・テレサからこの言葉を聴いた人は平安に死んでいきます。

 主イエスが教えようとしておられるのも、このことです。この片手の萎えた人は、誰からもかえりみられずはみ出していました。その人のために主イエスはいやし、また結果として命をおかけになりました。このことをきっかけに、どのようにしてイエスを殺そうか、とファリサイ派の人々が相談し始めたのです。

 自分のことを殺そうと殺意を抱いた人に対し、主イエスは一方では抵抗しませんでした。あえてその挑戦をまともに受け、いやしをなさいました。安息日にいやさないことを問うサマリア人は、滑稽に見えますが、わたしたちの姿でもあります。主イエスは新しい正義をわたしたちに示しておられます。





【2023年 11月 5日 主日礼拝説教より】

説教「まことの平安に生きる」
      瀬谷 寛 牧師

       ホセア書 第6章 1節-6節

       マタイによる福音書 第12章 1節-8節


 

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。主イエスは、わたしたちが、休みが必要な存在であることをご存知です。だから「わたしのところにおいで、わたしが休ませてあげよう」とおっしゃっておられます。主イエスがこの地上でお働きをはじめられるときに、最初に語られたのは「悔い改めよ、天の国は近づいた」ということでした。この「悔い改め」というのが、「帰る」という言葉です。主イエスはいつでも、「わたしのもとに帰りなさい、ここにこそ、休みがあるよ」と人々を招いていたことでしょう。

 今日の「人の子は安息日の主なのである」という言葉も、わたしたちを迎える主イエスのお姿が見えるようです。そもそも安息日とは、旧約の十戒の第四の戒めに「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジ20・8~11)とあります。神は天地創造の時に六日間ですべてを造られ、七日目に休まれました。この神の言葉は、かなり徹底されていたことがわかります。息子・娘、男女の奴隷など、人間たちはすべて休みます。そして、家畜も休みます。休んで、神を礼拝する、それが週に一度の安息日の考え方であり、本来の過ごし方でした。

 その安息日を巡って、主イエスとファリサイ派の人々が論争しているのが今日の場面です。ある安息日に、主イエスは弟子たちとともに麦畑を歩いておられました。空腹の弟子たちが、歩きながら麦の穂を摘んで食べた、というのです。ファリサイ派の人々はこれを見て、「あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている」と言い、主イエスを非難しました。ファリサイ派の人々は、弟子が泥棒だと避難したのではなく、安息日には、「いかなる仕事もしてはならない」と言われている、そのことをしている、と律法違反を攻めたのです。

 けれどもこの安息日を定められた神の御心は、憐れみの御心でした。だから安息日に休むのは人間だけでなく「家畜も奴隷も寄留する人も」です。神がわたしたちを憐れんで、なすべき仕事から週に一度解放され神の御手の中に安息するのです。ところがファリサイ派の人々は「何もしない」という善い行いを頑張ってする日にしてしまいました。主イエスは、安息日が神の憐れみの現れであり、わたしたちが礼拝し、互いに憐れみの業に仕えることをこそ、求めておられます。





【2023年 10月 29日 主日礼拝説教より】

説教「重荷を負う者、我に来たれ」
      瀬谷 寛 牧師

       マタイによる福音書 第11章 28節-30節


 

 長い旅を、重荷を負いながら続けている人がいます。オアシスを見つけ、ほとりに腰を下ろして一休みしながら、一杯の水で喉を潤します。「ああ、これで生き返った」、その人はそう叫ばずにはいられないでしょう。

 今日は主イエスの語られた「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、この言葉に耳を傾けます。今はこの言葉を、わたしたちは「聖餐」の招きの言葉として聞いています。毎週聖餐をしているわけではありませんが、主イエスの招きは、毎日曜日ごとの礼拝で引き起こされています。ここで、休むことができる。「ああ、生き返った」と言える、そのことを願って、礼拝にわたしたちは集まっているのではないでしょうか。

 今日の主イエスのお言葉の中の、「疲れた者、重荷を負う者」を、信仰をもって、これは自分のこと、自分の人生そのものだ、と皆考えるかもしれません。しかしわたしたちは、本当に主イエスがくださる慰めを、自分が必要としていることをわきまえているでしょうか。この言葉を主イエスがおっしゃっておられることが、どうして慰めなのでしょうか。

 続くところに「安らぎを得られる」とあります。この言葉は、休みを見つけ出す、ということです。ここでの休みとは、探して見つけるものです。それをどこで見出すのか、それが、「軛を負うこと」「主イエスに学ぶこと」だと29節に記されています。軛とは、牛や馬が働かされる時に、体につけさせられるものです。牛飼いたちは軛を外して休ませます。けれども主イエスの軛を負う時、そこで休みを見出す、と主イエスは仰っておられます。軛を負う中ですでに憩い、常に新鮮な命に生きる道があることを、示しておられます。「わたしに学びなさい」とは、弟子として主イエスの教えに生きる、ということです。随分重く厳しい言葉を教えられたようですが、主イエスは重くない、とおっしゃいます。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」。わたしたちの人生、命は重いものです。その重荷を軽やかに生きることができる、その道があります。それは、生きる重みをすべて、主イエスに委ねることが許されているからです。主イエスは十字架で、わたしたちの重荷を背負ってくださいました。





【2023年 10月 22日 主日礼拝説教より】

説教「神を知る者に」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第31章 31節-34節

       マタイによる福音書 第11章 25節-27節


 

 今日の新約の最初の25節、「その時、イエスはこう言われた。天地の主である神よ、あなたをほめたたえます」。主イエスが神をほめたたえる喜びを表しています。この讃美の御言葉に続いて、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とあります。この「休ませてあげよう」とは、原文では「わたしがあなたがたを休ませてあげよう」と主イエスが語る言葉です。どんなに疲れ、悩み、苦しみの中に立ちすくんでいる者も、主イエスが来てくださる喜びの中で憩うことができます。その憩いは、主イエスご自身が歌う、讃美の中に見出されます。この讃美の中にあなたも入り込みなさい、そうしたらその疲れをいやすことができるよ、との、主イエスの招きの言葉です。

 しかし、この主イエスの讃美への招きの言葉は、それに応えるよりも、それに逆らう人間の姿が描かれている中に置かれています。今日のところの少し前の21節ではコラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウムという、主イエスが最も多くの言葉を語り、御業をなしたガリラヤの町々が、主イエスを受け入れなかったことが示されています。その悲しみ、うめきが続いているそのただ中で、主イエスは神に讃美の歌を歌うのです。

 主イエスは、父なる神の御業を「御心にかなうこと」だとして、ここでも神の讃美の声を上げました。どのような御業かというと、知恵ある者や賢い者に神の真理が示されず、幼子のようなものにお示しになられた、ということでした。当時の律法の専門家、ファリサイ派の人々、そしてガリラヤの町々の人々も人間の知恵を誇り、主イエスを退けました。しかし主イエスは、神のみを頼りにする者に、天の国の真理を示されたのです。

 また主イエスは、「父のほかに子を知るものはなく」と語り、自分の事をよく知るのは父なる神以外にない、とおっしゃいました。人々は、主イエスの御業が、神の御業と同じことを知りませんでした。それに続いて、「子と、子が示そうと思うもののほかには、父を知るものはいません」とおっしゃいました。今度は、「父なる神を知っているのはわたしだけです」とはおっしゃいませんでした。主イエスがお選びになられたわたしたちが、父を知る者とされます。





【2023年 10月 15日 主日礼拝説教より】

説教「思い煩いのすべてを神の手に委ねる」
      吉田 新 教師(東北学院大学)

       詩編 第23篇 1節-6節

       ペトロの手紙一 第5章 1節-11節


 

 「ペトロの手紙一」は、キリスト教に入信して間もない人々に向けて、神を信じるとは何を意味するのか、また、信仰を基として、いかに生きるべきかを教える内容である。5章7節「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」とある。この箇所をギリシア語から直訳すると「あなたがたの思い煩いのすべてを神に投げなさい」、もう少しはっきりと訳せば、「自分の思い煩い、悩みなどを全部、神に放り投げなさい」である。この後、「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」とあるように、神はそれをしっかりと受けとめて下さるという文が続く。この箇所の背後には、「(悩みを)投げ」、それを「受け止める」という神と人との関係性がある。

 この言葉は、私たちにとって慰めに満ちたものである。自分の力では解決できない悩みがこの世界にはある。どうにもならない悩みと分かっていながらも、私たちはそれにとらわれ続け、そのことばかり考えてしまう。しかし、このような状態を冷静になって眺めてみると、あることに気がつく。悩みが私たちはとらえているのではなく、実は私たちが悩みをとらえ続けているのではないだろうか。別な言い方をすれば、私たちが悩みごとを意識し続けているのではないだろうか。悩みや思い煩いを意識すればするほど、悩みが深まっていってしまう。

 悩み、思い煩いは、自らの手から神の手に放り投げてしまいなさい、という言葉は、実は悩みや思い煩いが私たちを捉えているのではなく、私たちが悩みや思い煩いにとらわれ過ぎていることを気づかせてくれる。自身の力ではどうすることもできない事柄こそ、私たちの力を超えた存在にすべてお任せするしかない。いや、むしろ、積極的に任せなさい、神の手にお渡ししない、とこの手紙の送り手は命じている。この命令は私たちを縛るものではなく、むしろ、解放する。この言葉を聞くか聞かないかで、私たちの日々の生き方が少し変わっていくのではないかと思えてならない。

 悩み、思い煩いのすべてを神の手に委ねること、そのためにはまず、神を全幅に信頼することが前提になる。キリスト者にとって、もっとも求められることのひとつは、この神への信頼である。





【2023年 10月 8日 主日礼拝説教より】

説教「死を永久に滅ぼしてくださる神」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第25章 1節-10節a

       ヨハネの黙示録 第21章 1節-4節


 

 本日の礼拝は一年に一度行われる「逝去者記念主日聖餐礼拝」です。いつも頭を悩ますのは、どの聖書のみ言葉に聞くか、ということです。今年は特に、祈祷会でも読んでいるイザヤ書第25章に耳を傾けたいと思います。その中に、こういう言葉があります。「主はこの山で…死を永久に滅ぼしてくださる」(7,8節)。わたしたちは「死=滅び」と考え、この滅びとしての死は誰も逃れることはできない、死も滅びも必ず経験しなければならない、と考えます。しかし、死そのものが滅びるのだ、と旧約で語られていることに、驚きを覚えます。

 この死を考えるために、命について聖書は何を語っているでしょう。創世記2:7に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった」とあります。人間の肉体は、土の塵に過ぎず、それだけでは生きられないのです。神によって命の息を吹き入れられることで初めて生きる者となります。わたしたちは神から生命力をいただいて本当の意味で生きることができます。逆に言えば、死とは、この神の命の息を失う、ということです。わたしたちの地上の命が終わる時、命の息は神の元へ帰っていきます。そしてわたしたちの肉体は塵となり、土に帰ります。

 問題は、死が、人としてのあらゆる関係を断絶していくことです。そのような死は、人間の罪に対する報酬、罰と考えられました。人とのつながりが断たれ、神からも永久に切り離されることは、暗闇の中に捨て置かれるような、何よりも恐ろしい罰です。このような死は、恐怖と苦痛を伴う嫌なものです。

 けれどもそのようなときこそ、神は、「弱い者の砦、苦痛に会う貧しい者の砦」(4節)となられました。神のご支配を受け入れるならば、死からも必ず神が守ってくださる、と神の民は聴きました。そして、その死を滅ぼした神は、すべての人々と共に盛大な祝宴を開かれることを約束してくださいました(6~8節)。

 死は、この世の生涯の終わりであり、別れの時です。しかし死は、神とわたしたちを引き離すものではありません。地上の生涯を終えた時、わたしたちは神から預かった命の息をお返しし、主なる神のもとに赴きます。このことは、主イエスの十字架の死と復活によって、すでに決定的な事実となりました。





【2023年 10月 1日 主日礼拝説教より】

説教「今や、神の義が示された」
      松本 のぞみ 教師(東北教区巡回教師)

       詩編 第14篇 1節-3節

       ローマの信徒への手紙 第3章 9節-24節


 

 罪の自覚、それは闇の中にいたのでは、それが闇だと自覚できないように、罪の中に埋もれている状態では、罪を罪と自覚することもできません。闇の中でいくら一生懸命、律法という神に近づく梯子を上ろうとしても、私たちはその暗さの中で、神を見失い、梯子から落ちてしまう事態となってしまうからです。

 しかし今や神の義が、御子イエス・キリストによって私たちのところにくだって来てくださいました。イエスさまは十字架によって神の義を私たち人間に貫いてくださいました。神はご自分の義を御子イエス・キリストの十字架のゆるしの愛によって貫いてくださいました。罪なき神の御子が私たち罪人の身代わりとなって十字架上で私たち一人ひとりの罪を裁かれ、死んでくださる献身により、神の義を貫き、赦しの愛を貫いてくださいました。まさにイエスさまの十字架こそ「神の義と愛の あえるところ」(讃美歌Ⅰ262)。イエスさまの十字架は、私たちの罪そのものへの神の裁きです。イエスさまは私たち罪人に代わって裁かれ、イエスさまが私たちの罪と共に死んでくださるという献身によって、私たちの罪を取り除き、イエスさまが死者の中から復活されたと同じ命、神と共にある、新しい命へのよみがえりを約束してくださいました。このイエスさまの十字架を自らのこととして受け止め、神の義に打ち砕かれる経験なしに、罪の自覚もありません。

 私たちはイエスさまの十字架にあらわされた神の義なる愛の光に照らされて、初めて自らの行いでは神に近づけない罪人の一人であることに気付かされます。

 今や私たち人間の罪と死に勝利された復活のイエスさまは天に昇り、父なる神の右に座し、聖霊によって天と地を結ぶ教会の主となってくださいました。私たちはこの方を信仰告白する教会につながることによって義とされます。それが洗礼の出来事です。誰でも洗礼によってイエスを救い主、キリストと信じる者は、その信仰によって、主に結ばれたものとして義とされ、神の国の食卓である聖餐に迎えられます。ゆえに私たちは主に結ばれて、日々新たに御言葉に立ち帰り、無償で祈ることがゆるされています。「我信ず、主よ御手をもて我を引き上げたまえ!」と。願わくはすべての人の舌が「イエス・キリストは主である」と公けに宣べて、父・子・聖霊なる神の御名が崇められますように。御国が来ますように。





【2023年 9月 24日 主日礼拝説教より】

説教「悟りなき罪」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第55章 6節-13節

       マタイによる福音書 第11章 20節-24節


 

 わたしたちが主イエスのことを思い浮かべる時、主イエスのお顔を思い浮かべるでしょうか。青年で、長髪で、たいてい髭を蓄えている感じでしょうか。

 今日の主イエスは、叱りつけているお顔で登場しています。叱った顔の向いている先は悔い改めない町々でした。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」(20節)。具体的な町の名前まで記されています。コラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウム、主イエスが中心的に伝道をされたガリラヤ地方の町々です。この町々が、ティルス、シドン、そしてソドムという異教の町々、間違った神を信じているとみなされていた町々、この2つに分けられます。悔い改めないガリラヤの町々は、異教の間違った町よりも厳しい裁きを受ける、と主イエスは言われました。主イエスのお言葉の中で、最も厳しい言葉の一つです。

 「お前は不幸だ」は、元々は「ああ」という神のうめき声を表す感嘆詞です。ガリラヤの町々が神に裁かれ滅ぼされる、この町々の定めを、主イエスが見ざるを得ず、うめいておられるのです。これまですべてを注いでガリラヤの町々を愛し、滅びから守ろうとしたのに、町々は滅びねばならない、深い悲しみです。

 そもそも主イエスが奇跡、力ある業をなさりながら、人々にお求めになったのは、愛のわざ、慈善事業ではなく、悔い改めでした。神から離れて罪を犯し続け、神のもとに帰って行かず、悔い改めないことがどんなに恥ずかしく悲しいことか、ガリラヤの人々に知らせました。けれども、心から悲しむことは、主イエスでも強制できません。自らうめき、嘆きつつ、呼びかけるだけです。

 わたしたちは、主イエスと同じように、自分の地域、自分の国、自分の世界が、神を礼拝する神の道に生きていないか、深く嘆くことができるでしょうか。神から断ち切られた町々は必ず滅びる。ガリラヤも、仙台も。日本も。そこで主イエスの呻きが聴こえるでしょうか。けれども主イエスは、ただ呻くためだけに来られたのではなく、この世を救うために来られました。主イエスの御業は十字架上での呻きに極まります。あえて、神の御子としてそのうめきを貫いてくださり、悔い改め、神に立ち帰らないわたしたちを赦し、救ってくださったのです。





【2023年 9月 17日 主日礼拝説教より】

説教「笛吹けど、踊らず」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第30章 27節-33節

       マタイによる福音書 第11章 16節-19節


 

 主イエスは今日の箇所で、「今の時代を何にたとえたらよいか」とおっしゃっておられます。主イエスは一体、時代をどうご覧になっておられるのでしょう。広場で座って「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」と歌う子どものようだ、と主イエスはおっしゃいました。

 そもそも主イエスはこの地上に神の国、神のご支配をもたらすためにおいでになられました。それに先立つ洗礼者ヨハネもまた、同じように、「あなたはもう、神のご支配を迎える準備ができているか」と問いかけていました。その意味では、主イエスとヨハネの共同作業で神のご支配の始まりを告げたと言えます。

 そのところで人々がしていたのが「笛吹けど、踊らず…」でした。これは当時の子どもたちがゴッコ遊びするあそび歌のようではないか、と考えられます。「結婚式ごっこしよう。お葬式ごっこしよう」と誰かが言い出しても、「そんなのつまらない、僕はやらないよ」という子どもがすぐ出てくるようなものです。ここには、誰が誰にこの歌を歌っているかをめぐり、二つの読み方があります。一つは、子どもが、神に嘆きの歌を歌っている、という読み方です。子どもがこれをして遊ぼう、と神さまに呼びかけても、調子を合わせてくださらない、と文句を言っている、というのです。自分の願いをちっとも神さまは聞いてくださらない、と嘆く。結局神さまを自分の欲望のために利用する、そのわがままな人間の様子を主イエスは深く嘆いている、というものです。

 もう一つは、子どもたちに遊んでくれと呼びかけているのは、洗礼者ヨハネであり、主イエスである、という理解です。その呼びかけを聞きながら、一緒に遊ぼうとしない人こそ、今の時代の人々、この世の人々だ、と考える、この読み方をする方が多いと思います。ヨハネが食べも飲みもしないで禁欲的な生活をしていると、あんな生活は無理だ、悪霊に取り憑かれている、と言い、主イエスが徴税人や罪人と自由に食事をしていると、堕落した人間だ、と言い拒絶する。ヨハネの示した、人々の罪による神が味わう悲しみも、主イエスの示した、その罪を主イエスの命によって赦された者の神の喜びも見ることができず、踏みにじる時代にあって、神に寄り添って悲しみ、踊るようにわたしたちは招かれています。





【2023年 9月 10日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスの偉大さのゆえに」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第40章 1節-5節

       マタイによる福音書 第11章 7節-15節


 

 マタイによる福音書は、主イエスと洗礼者ヨハネの関係について、明らかにしようとしています。ヨハネは、主イエスこそ来るべき、人々の待ち望んでいた救い主であることを認めつつ、つまずきかけていたのかもしれません。そのヨハネに主イエスが「わたしにつまずかない人は幸いである」と招いておられます。

 その後主イエスは、ヨハネの弟子たちが去ったあとで、その場にいた群衆に向かって、ヨハネについて話されました。ヨハネがヨルダン川のほとりの荒れ野に姿を表した時、ユダヤ人たちはこぞって、ヨハネの元を訪れました。そこでヨハネのことをどう見ていたのか、と主イエスは問いかけました。ヨルダン川にそよぐ葦を思い浮かべつつ、その葦のように世の潮流に乗っかっている人物と見るのか、しなやかな服、すなわち贅沢な暮らしをしている人物と見るのか。ヨハネはそのいずれでもないことは明らかでした。

 それならば、預言者と見るか、そのことは否定せず、むしろ「預言者以上の者である」と主イエスはおっしゃいました。ヨハネの働きは、一面では旧約以来の預言者の系譜に連なり、悔い改めを訴えつつ来るべきメシア・救い主を指し示していました。それでは一体、どういう意味で、ヨハネは「預言者以上の者」なのでしょうか。それは、ヨハネが直接、メシアとしての主イエス・キリストの道備えをしたからであり、直接主イエスを指し示したからにほかなりません。

 これは、聖書の持つ偉大さに似ているかもしれません。聖書は、古今東西のベストセラーであり、深い教養、知恵が盛り込まれ、また、貴重な歴史資料としても存在の価値はあります。しかし、本当に聖書に価値があるのは、ただ神の御子であられる主イエス・キリストについて語っているからです。その主イエスの偉大さのゆえに、それについて記した聖書は偉大な書物、といえます。

 ヨハネは主イエス以前の、最後の、最大の預言者ですが、今や、救い主当人である主イエスが登場されました。それ以降、この主イエスに捉えられ、教会に連なるわたしたちは、主イエスを指し示すだけでなく、証しする者となりました。「天の国で最も小さな者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大」、この小さな者とは、ヨハネたちよりもっと強く主イエスと結びついているわたしたちのことです。





【2023年 9月 3日 主日礼拝説教より】

説教「わたしたちは誰を待つべきか」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第35章 3節-6節

       マタイによる福音書 第11章 1節-6節


 

 先週の礼拝の中で、二人の方をこの教会にお迎えしました。洗礼式、転入会式には志願者が、まっすぐな言葉で信仰を告白し、誓約いたしました。

 今日のところには、洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは荒れ野で預言を繰り返し、人々の罪を責め、悔い改めを求めました。そのヨハネが、ここでは牢の中にいた、というのです。権力者に逆らったからです。

 このヨハネは、牢の中から弟子たちを主イエスのもとに送って、こう訪ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」。この世界を救う救い主は、本当にあなた、主イエスなのですか、と尋ねました。この問いを投げかけたヨハネは、疑い深い、不信仰な人間だ、と感じるでしょうか。けれどもこのヨハネは、主イエスの先駆者となった人です。主イエスが公の活動を始めようとする時、ヨハネのところに来ました。ヨハネは明らかにすでに、主イエスが救い主であることを悟っていたように思われます。また、2節でヨハネは「キリストのなさったことを聞いた」と記されています。「キリスト」(=救い主)と記すのは、意図があったことでしょう。

 けれども、ヨハネの側は、主イエスを救い主、キリストと信じながら、主イエスは自分が語ってきた救い主のやり方とは違って厳しさが足りない、とその見方がぐらついて、「本当に待っている方なのか」と問い直したのかもしれません。本当にこの人に自分のすべてを掛けて良いのか、ヨハネは真剣に問うたのです。

 わたしたちも、2000年前の、遠くパレスティナの一人の男に、自分の一生の望み、全人類の望みをかけて本当によいか、ヨハネと同じ問いを問います。

 そこで主イエスは、弟子を通してヨハネに、旧約の預言者、イザヤの言葉を用いながらお答えになりました。神が到来して、目の見えない人、足の不自由な人が見え、歩けるようになるのだ、と。神が到来されると、救いと解放が始まる、それが今始まっているのだ、というわけです。そして主イエスは、「わたしにつまずかないものは幸い」と言われました。主イエスを疑い、つまずくのがわたしたちですが、主イエスはわたしたちのつまずきで十字架に死なれ、つまずいていたわたしたちが、まっすぐに神への信仰を告白し、誓約できる者とされました。





【2023年 8月 27日 主日礼拝説教より】

説教「教会に根ざす強さ」
      瀬谷 寛 牧師

       出エジプト記 第4章 10節-17節

       マタイによる福音書 第10章 40節-第11章1節


 

 ただ今、洗礼式と転入会式をもって、新しくお二人の方を、この教会に迎え入れることができました。その喜びの中で本日与えられました、マタイ10:42で主イエスは「わたしの弟子だという理由で」とおっしゃっています。これは当然12人の弟子のことですけれども、主イエスに従い、そして遣わされる者と考えれば、この世に遣わされるすべての信仰者のことをも指します。今日洗礼を受けた方も、主イエスの弟子となったのです。

 今日の言葉を愛唱聖句にしている人は少ないかもしれません。読み過ごしてしまいそうな言葉ですが、すごいことが言われています。例えば40節には、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れる」、主イエスに伝道する者として使わされた弟子、そして同じ弟子であるわたしたちを、受け入れる人は、主イエスを受け入れ、それはまた、神さまご自身を受け入れることになるのだ、というのです。わたしたちが主イエスと一つとなり、それによって神と一つとなる、だからわたしたちに水を一杯でも与える人は、永遠の報い、永遠の命を持つのだ、というのです。不思議な言葉、驚くべき言葉、そしてもったいない言葉です。

 水一杯を与える、ということで思い起こすことは、同じマタイによる福音書25:40の主イエスの言葉、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という言葉でしょう。小さな値打ちのないと思われる人のためにした小さな親切は、皆主イエスにして差し上げたことだ、というのです。このみ言葉は、心に留めたい愛唱聖句としている方もあるかもしれません。ところが今日の、第10章では、何かどこかにいる助けを必要としている人、というのではなく、わたしたちのことだ、と言われています。この主イエスの弟子であるわたしたちに、誰かが一杯でも水を飲ませてくれたなら、永遠の命を得る、と言われているのです。驚くべき言葉です。しかしこれは、わたしたち一人ひとりが多くの値打ちを持っている、ということなのです。小さな、ちっぽけなわたしたちが、主イエスの弟子であるゆえに、主イエスの十字架の死と復活によって、永遠の命を宿しているのだ、というのです。新しい愛唱聖句としたい言葉です。





【2023年 8月 20日 主日礼拝説教より】

説教「無垢になろうとする」
      大久保 直樹 教師(宮城学院中高)

       詩編 第37篇 37節

       ガラテヤの信徒への手紙 第5章 22節-23節


 

 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」イエス様は逮捕される前にゲツセマネの園で祈られました。そして十字架に磔にされたとき、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。激しく揺れ動くイエス様のお心がよくわかります。それだけ私たち人間の持つ、悩み苦しみ悲しみ、痛みを知っていてくださる。しかもご自分は何の罪もなく、十字架という最も悲惨な殺され方を通して知ってくださる。ご自分が神の独り子であるということ、神の身分であるということを打ち捨ててまでです。詩編の言葉をご存知でありつつ、ご自分の経験や知識や思いから一旦離れて無垢になり、神につながり、神の御心を尋ねて生きようとなさっていたに違いありません。ですから平和を求めるわたしたちに第一に必要なことは祈ること。その祈りは、心が激しく動く中での祈りであってもよいのです。この祈りを通して私たちは自分を無垢にするように導かれ神さまのみ旨、御心によって自分の言葉や行いが導かれるのです。

 ガラテヤの信徒への手紙の言葉に「これらを禁じる掟はありません。」とあるにも関わらず、わたしたち人間はその掟を作り、争いの絶えない現実を生み出しています。ここでもわたしたちはイエス様の掟に立ち返るべきです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ福音書15:12)そして、「霊の結ぶ実は愛」とパウロが言っている通り、わたしたちは霊によって愛に導かれます。イエス様は復活の日の夕方、弟子たちにおっしゃいました。「あなたがたに平和があるように。…聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。…」愛の根底には赦しがある。赦すことから、パウロの言う、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制に繋がっていくのです。

 平和が尊いものであり、目指すべきものであることを知りつつも、平和に生きることができないことの多い私たち。まずはイエス様に倣って祈り、無垢になろうとしたいです。そして互いに愛し合いなさいというイエス様の掟に生きるため、聖霊に導かれて、神に愛され、赦されている者として、霊の結ぶ実りを一つずつ、少しずつ、共に作っていくことのできる私たちでありたいと願います。





【2023年 8月 13日 主日礼拝説教より】

説教「十字架に根ざす強さ」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第20章 7節-12節

       マタイによる福音書 第10章 34節-39節


 

 8月という月は、わたしたちの国では戦争のことに思いを重ね、同時に平和への願いに思いを寄せることの多い時となっています。特に近年、その平和を打ち破る出来事が起こっており、平和を願う思いが厚くなっているかもしれません。

 そのようなわたしたちにとって、今日の主イエスのお言葉には、驚きを隠すことができないのではないでしょうか。34節「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」。主イエスがこの世においでになられたのは、平和のないこの世界に、平和を実現するためだ、誰もがそう考えているのではないでしょうか。しかもそれに続く35節も、最も平和が望まれる最小の単位である家族の間ですら、敵対させる、と主イエスはおっしゃいます。ますます悩ましい言葉です。わたしたちにとって、痛みを生じさせる言葉です。

 わたしたちは平和を願っており、主イエスこそ、平和そのものであるようなお方であるのに、どうしてこんなに厳しい言葉をお語りになられるのでしょう。主イエスは、平和を願うわたしたちに「剣」を投げ込まれる、とおっしゃいます。その「剣」とは何か、それがどこを向いているのか、それが、この問を解く鍵になると思います。わたしたちは、主イエスが「剣」を投げ込む先は私たち人間のいるこの地上だ、と考えるかもしれません。けれどもある人は、この「剣」は確かに、地上に投げ込まれるかもしれないが、その投げ込まれた先は地上に来られた主イエスご自身だ、と言いました。主イエスはこの「剣」で人々を殺そうとしたのではありません。むしろ逆に、主イエスご自身が、人々の振りかざす「剣」のもとで死なれました。あの十字架の死は、人々が主イエスに対して「剣」を刺し貫いた死でした。また、主イエスはこの剣を、悪魔や人々の罪悪を叩き切るために用いる、と言われたわけでもありませんでした。それは、主イエスの深い悲しみの中から出た言葉でした。「平和をもたらすために来たのではない」と言わなければならない、地上の罪の深刻さを、主イエスは受け止めていたのでした。

 この十字架の主イエスを見つめる者は、主イエスの痛みと悲しみを自分のものにし始めます。主イエスと共に、主イエスの十字架を背負う者へと招かれます。





【2023年 8月 6日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスの仲間、と言い表す」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第26篇 1節-12節

       マタイによる福音書 第10章 32節-33節


 

 本日のみ言葉は、わたしたちが人々の前で、自分を主イエスの仲間であると言い表せば、主イエスの側が神のみ前で、わたしたちを主イエスの仲間、と言い表してくださる、けれども逆に、わたしたちが人々の前で、主イエスを知らないといえば、主イエスもわたしたちを知らないという、というのです。

 もちろんわたしたちは、主イエスの仲間として生きたいので、「わたしは主イエスの仲間です」と人々の前で言い表したい、と考えます。ところが実は、それはそんなに簡単な話ではありません。ここで主イエスは、ご自分が天の国の福音を宣べ伝えるために遣わす弟子たちに教えておられるのですが、弟子たちは、人々からの激しい迫害で、命の危険に身をさらしながら、しかし、恐れないように励ましを受けながら、歩んでいたのです。主イエスの仲間であることを言い表す難しさがありました。

 この「仲間と言い表す」という言葉は、前の聖書では「受け入れる」、さらに元の言葉は「信仰を告白する」「賛美する」という意味の言葉です。わたしたちが主イエスを信じる、ということは、主イエスを救い主と信じ、仲間と信じ、そのことを「受け入れる」ということにつきます。それは、主イエスだけを恐れ、この方以外のものを恐れない生き方へと踏み出していくことです。

 わたしが今日のみ言葉から思い浮かべた聖書に登場する人物がいます。それは主イエスの弟子のペトロです。元は漁師であったペトロは、「わたしについて来なさい」という主イエスの呼びかけに応えて、すぐに網を捨てて主イエスに従いました。主イエスの仲間、弟子として歩むことになりました。そしてやがて、「あなたはメシア、生ける神の子です」という、信仰の告白の言葉で、主イエスの仲間であることを見事に言い表したのです。

 ところが同じベトロが、主イエスを三度も「知らない」と言ってしまいました。ペトロにはまだ人々への恐れ、死への恐れがあったのです。けれども主イエスはそのペトロをなお仲間として赦し、そのために、十字架の道を歩まれ、死なれました。そしてこのペトロを用いてくださって、全世界に教会が建ち、福音が宣べ伝えられることとなりました。この赦しの恵みに目を注ぎたいと思います。





【2023年 7月 30日 主日礼拝説教より】

説教「恐れに根ざす強さ」
      瀬谷 寛 牧師

       マタイによる福音書 第10章 26節-31節


 

 主イエスはご自分の業、そして父なる神の業として、人々に神の国を宣べ伝える、伝道の使命を果たす時に、12人の弟子を呼び集め、ご自信の力と権能を与えて、まるでご自身の分身を遣わすように、遣わされました。それはまるで、「狼の中に羊を送り込む」ように、苦しみ、迫害を伴うものでした。

 主イエスは、弟子たちに託した使命が、どんなに重いものであるか、よく知っておられ、もしかすると人々から殺されるかもしれない、大きな恐れが伴うことを知っておられました。

 そこで主イエスは、「恐れるな」という言葉を3度繰り返し、励ましておられます。第一は、26「人々を恐れてはならない」、なぜなら「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに住むものはないから」というものです。神の福音は、どんなに周りから抑圧されても、触れる人間に語り続けます。かつての社会主義国でもキリスト教信仰は生き続けていました。

 第二は、28「魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」、「体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れ」るべきだから、と言います。わたしたちは確かに、体の生活にこだわり、自分の体としての命が、奪われることを恐れています。けれども主イエスは、人間が奪えるのはせいぜいからだだけなのに、なぜそれを恐れるのか、わたしたちの存在のすべてを滅ぼすことがおできになられるのは神のみではないか、その神のみが、わたしたちに永遠の命を与えてくださっておられるではないか、というのです。 そして第三に、31「恐れるな。あなたがたはたくさんの雀よりもはるかに勝っている」、すべてのものを滅ぼす力を持った唯一の恐るべきお方は同時に、小さな雀をも心に留め、わたしたちの髪の毛までも数える細やかさをもって、配慮してくださるから、と言います。

 これらは、結局のところ、わたしたちが本当に恐れなくていい、と言えるのは、本当に恐れるべきお方を知っているときだ、と言おうとしていると思います。神を恐れない人ほど、様々な恐れや不安を抱きます。しかし主イエスは、ご自身が恐れと立ち向かって死に、甦られました。この恐れの勝利を頂いたわたしたちは、「恐れるな」を、禁止命令でなく、励ましとして受け止めます。





【2023年 7月 23日 主日礼拝説教より】

説教「言うべき言葉は神が与える」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第51篇 1節-21節

       マタイによる福音書 第10章 16節-25節


 

 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」。弟子たちに向けての、主イエスのお言葉です。ある大学の卒業式で、学長が卒業生に「はなむけの言葉」としてこの言葉を贈った、と言います。

 主イエスもまた、弟子たちへの「はなむけの言葉」として語り、送り出したと言えます。この時の弟子だけでなく、その後の教会が伝道するたびに、この主イエスの「はなむけの言葉」を聞いたことでしょう。「狼の群れに羊を送り込む」、確かにキリスト教会の最初の300年の歴史は、迫害の歴史でした。教会の歴史の始まりが、そのようなものであることを、主イエスのみ言葉に従って生きる時、そういう苦労が伴うことを、忘れないようにしたいです。

 「狼の群れに羊を送り込む」と言われたのは、何よりも主イエスご自身が羊であられたからです。けれどもここで主イエスは、「あなたがたは羊となりなさい」とおっしゃってはおられません。苦難、困難を立派に受け止める英雄になることを求めておられません。羊とならざるを得なかった、羊としてしか真理を表せなかったのでした。

 これはわたしたちの現実が映し出されていると思います。特別に王や総督や議会に立たされることはないかもしれませんが、自分より知恵ある人、力ある人に自分の信仰を問われることはあるでしょう。問われて答えられない自分の無力を何度も嘆いたことがあるのは、誰もが体験していることです。

 けれどもその時に、何も心配しなくて良い、と主イエスはおっしゃいます。神さまが語ることを教えてくださるから、いえ、自分の中で神さまが語り始めてくださるからだ、というのです。それは、何もせず手ぶらで突っ立っていい、ということではありません。神が自分の中で生きて語りかけてくださる、そのことだけに一筋の思いをかけて生きるのです。何の準備もしないことではありません。鳩のように素直に、主イエスの後に付いていくために、神の語りかけに耳を傾けるのです。そして語らせていただくのです。

 狼の中に遣わされている羊は、小羊である主イエスの血によって洗われ、清められている羊です。皆が羊になることで、世界は平和になります。





【2023年 7月 16日 主日礼拝説教より】

説教「平和を告げる者に」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第52章 7節-10節

       マタイによる福音書 第10章 5節-15節


 

 主イエスは、地上では短い伝道の生涯でしたが、その間、決してお一人でお働きなさいませんでした。十二弟子(使徒)をご自分の同士として、お選びになられ、お集めになられ、そしてこの人たちを町々、村々に派遣をなさって、伝道をさせました。そこからやがて、キリスト教会の伝道、その歴史が始まりました。

 主イエスはこの十二弟子に、ご自分のなさったことをそっくりそのままできる権能を与えました。西遊記の孫悟空は自分の分身を作り出しましたが、主イエスは12人を選び、彼らを自分の分身として遣わされました。これは12弟子の特徴であり、後の教会の基本的な特徴でもあります。

 その主イエスの分身として伝道する弟子たちに命じられていることは、12節、家に入って「平和があるように」と挨拶することでした。これはシャーロームというユダヤ人にとってはごく日常の挨拶の言葉ですが、その日常の挨拶を飛び越えることが示されます。ふさわしい家に、弟子たちが平和を告げると平和が与えられ、ふさわしくなければ平和は弟子たちに戻る、といいます。挨拶を受け入れるか、受け入れないかでその家のすべてが決まる、それほど重いのです。その平和の重み、中身は、7節「行って、天の国は近づいた」と宣べ伝えることが命じられていることから、神のご支配がここにもう始まっているのだ、という事実から生まれる平和であることがわかります。

 その平和の挨拶は、すでにそこに平和がなくても受けられます。むしろ平和が存在しないところに行って平和の挨拶を送ります。今、病が襲っている、すでに死に至っているかもしれない、その現実に向かい合うように、「よく聴いてください、神は生きて、この家をご支配なさっておられます」と告げます。

 この平和は、重みをもっているので、厳しい言葉が添えられます。14節、平和の挨拶を受け入れなければ、その家を出る時、違法の汚れた地に行ったときのように、足の埃を払い落とせ、と言われます。弟子の言葉、教会の言葉は、神と同じ権威を持つ言葉であることが示されます。

 さらに伝道の旅に向かう弟子たちの持ち物が制限されています。共におられる神の配慮にのみより頼んで生きる伝道者、信仰者の生き方を示しています。





【2023年 7月 9日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスのもとに集められ」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第6章 6節-8節

       マタイによる福音書 第10章 1節-4節


 

 前回の、マタイによる福音書第9章の最後は、町と村を巡り歩いて伝道なさった主イエスが、飼う者のない羊のように弱り果てた群衆を見、弟子たちに「収穫の主に、働き手を送ってくださるように、願いなさい」と勧めておられました。

 本日の第10章の初めではすぐに、十二弟子の選任ということになります。働き手を願い求める立場から、一転して自らが、その働き手となっています。一体、ここで主イエスに選ばれた12人とはどのような人たちなのでしょうか。

 2~4節に記されている名前を見ると、興味深いリストになっていることに気付かされます。まずは「ペトロと呼ばれるシモン」です。彼は自他ともに認める一番弟子でした。けれども先には、この人が主イエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子」と口にしましたが、すぐ後で主イエスに「サタン、引き下がれ」と言われるほど、主イエスについて無理解であったことが記されています。

 アンデレは、陰に隠れがちですが、偉大な兄弟ペトロを信仰に導く大切な役割を果たしました。トマスは、ご復活の主イエスを見ながら、なお疑って、「この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言った人です。

 ところで、徴税人マタイと、熱心党シモンが12人の中に選ばれています。徴税人はローマの仲間となって仕える者、熱心党はローマに対抗する超愛国主義者です。こんなにも違う者たちを、主イエスはお選びになっておられます。

 改めて、自分が神学大学へ入学したときのことを思い起こします。実に多彩な人がいました。しかし卒業の時には皆、それなりに整えられて、今も、それぞれふさわしい現場で働いています。牧師にならなかった人も、それはそれで、別の形でこの世に遣わされていると思います。

 イスカリオテのユダは「主イエスを裏切った」人物として出てきます。主イエスの死を招いた人です。主イエスはここで、裏切りを見抜けなかったのか、とわたしたちは疑問を抱きますが、おそらく、ユダが自分を裏切ることを知りながらあえて、爆弾を抱え込むように彼を弟子の中に入れられたでしょう。しかし最後はユダだけでなく、ここで選ばれた者皆が、主イエスを裏切りました。わたしたちもその仲間です。でもあえて主は抱え込んで十字架で死んでくださいました。





【2023年 7月 2日 主日礼拝説教より】

説教「飼い主のない羊を憐れみ」
      瀬谷 寛 牧師

       エゼキエル書 第34章 1節-10節

       マタイによる福音書 第9章 35節-38節


 

 現代の日本の教会、特にわたしたちが属している日本基督教団の伝道の力は、危機的なほど弱くなっています。いわゆる地方教区と言われる東北教区でも、その傾向は顕著です。数名で礼拝を献げているところばかりです。

 わたしたち仙台東一番丁教会は幸いにも、それほど寂しい礼拝をしていないかもしれませんが、しかしかつては今の2倍ほどの人数が、毎週礼拝に集っていたというお話などを伺うと、もう一度、伝道の激しい情熱を燃え上がらせたい、と何よりもわたし自身が願い、祈っています。けれどもわたし一人、あるいは教会が願うに先立って、主イエスが今、どんなに深い、熱い想いをもって、この日本を、そしてこの東北地域を救いたい、と願っているだろうか、と思います。本日の38節のみ言葉に、そのことが現れています。つまり「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」た、というのです。この主イエスのお心を、少しでもわたしたちの心とさせていただきたいと思います。

 主イエスは、ファリサイ派の人々を始め、主イエスのお心を理解しない人間たちに囲まれていました。ずいぶん愚かに見えていただろうと思います。それは現代のわたしたちも同じかもしれません。主イエスはそのように、だれよりも人間の愚かさがよく見えたお方です。けれども主イエスはその愚かな人間のために働く愚かさを、お止めにはなられませんでした。そして、依然として、町や村を残らず回り、なすべきことをなし続けられました。

 主イエスはそのような人間たちを、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と見て、「深く憐れまれた」と言います。それは、なにか偉そうな神が上から、憐れんでやった、というようなことではなく、ご自分の内臓を痛めるように、激しく同情してくださった、ということです。これは人間には不可能であって、神の御子主イエスだからこそおできになることです。

 そこで主イエスは、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから…収穫の主に願いなさい」と言われました。あなたが働き手になりなさい、というのではなく、「願いなさい」と言われたのです。収穫の仕事は神がなされます。そのまなざしには、「収穫は多い」と映っています。わたしたちも持つべきまなざしです。





【2023年 6月 25日 主日礼拝説教より】

説教「口の利けなかった者が語る」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第51篇 16節-21節

       マタイによる福音書 第9章 32節-34節


 

 わたしたちはこの礼拝で、マタイによる福音書を少しずつ読み進めています。それは、わたしたちが主イエスと共に、伝道の旅を続けていることでもあります。弟子たちの後ろから、主イエスのお声を聞き、その御業を目の当たりにさせていただくのです。

 前回、二人の目の見えない人を主イエスがおいやしになられた場面に遭遇しました。この二人がいやされて主イエスの元を離れたあと、続いて悪霊に取りつかれて口の利けなくなった人が、主イエスのもとに連れて来られました。口が利けない人、という言葉は、発声が困難というだけでなく、耳の不自由な人のことをも意味する言葉だ、と言われます。確かに、明瞭に発音ができない人は、自分の声を自分の耳で聞くことが出来ない場合が多いです。

 そして当時、耳が聞こえず口が利けない人は、悪霊に取り憑かれている人だ、と考えられていたようです。不明瞭で意味がわからないような言葉しか発することが出来ない、気味が悪い、それは、悪霊が働いているから、という訳です。

 主イエスがこの人を、おそらく耳を聞こえるようにし、語ることができるようにされました。この人はいやされて最初に、どんな言葉を語ったのだろうか、と想像します。おそらく、他の聖書の箇所から考えると、いやしていただいた主イエスに対する讃美の声だったのではないでしょうか。また、この光景を見ていた群衆も驚嘆し、「こんなことは、イスラエルで起こった試しがない」と言って、神の民イスラエルの歴史を顧みつつ、主イエスをほめたたえました。今や、新しい時代が始まった、ということを示しています。

 今日のところで注目したいのは最後の言葉です。これは、これまでの主イエスの様々な御業を重ねてきた物語の、締めくくりの言葉です。「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」。ファリサイ派の人々の言葉でした。せっかくの物語が、ハッピーエンドで終わりません。しかしこれは、今日のわたしたちもしていることです。主イエスの御言葉、愛の業に対して、それを拒否し、ハッピーエンドを与えないのです。しかし、そういうわたしたちを赦し、本当のハッピーエンドをもたらすために、主イエスが十字架で死に、復活してくださいました。





【2023年 6月 18日 主日礼拝説教より】

説教「盲人の目が見えるように」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第42章 18節-25節

       マタイによる福音書 第9章 27節-31節


 

 今日の新約の箇所を読んで、どのようなことを感じたでしょうか。わたしの第一印象は、よくあるいやしの奇跡の場面だな、ということでした。二人の盲人たちが登場して、主イエスに呼びかけて叫び、主イエスが彼らをいやしてくださる、普通の奇跡物語のように見えます。果たしてどうなのでしょうか。

 二人の盲人たちは主イエスに「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。この「ダビデの子」とは、救い主を意味します。ユダヤ人が待ち続けている、いや、ユダヤだけでなく全世界の人々に救いをもたらすメシア、救い主の称号として用いられています。この救い主が盲人と出会う、ということには大きな意味があります。例えば旧約のイザヤ書第42章でも、神の救いが現れる時、真っ先になされることの一つは、目の見えない盲人の目が開かれることだ、と語っています。

 そこで一つ注意をしたいことは、主イエスは「ダビデの子」と呼ばれることは、ダビデ王の再来、と見られることです。ユダヤ人にとってダビデ王は、最も素晴らしい国を作った人物です。その再来、「ダビデの子」と呼ばれる主イエスはしかし、政治の世界に躍り出て、世界に君臨するユダヤ大帝国の王となる、というようなことを、ご自分の使命とはなさいませんでした。むしろ逆に、貧しい者、罪人と共に歩んで、憐れみに生きようとしました。そういう仕方で、世界を愛で支配しようとなさる、まことの王となられました。

 主イエスは盲人たちの目をいやして見えるようにされたあと、「このことはだれにも知らせてはいけない」と「厳しくお命じに」なりました。謎の多いところです。それは、主イエスを取り巻く、救い主・王、その救いを巡る大きな誤解と戦わなければならなかったからではないでしょうか。いやされた盲人は、すぐに主イエスの御業を言い広めました。悪意はなかったでしょう。しかし彼らは、主イエスの厳しさを感じ取ることはできませんでした。このよく理解しない盲人を主イエスは、退けられませんでした。「わたしにできると信じるのか」と問われ、彼らは「はい、主よ」とだけ彼らは応えました。それは主イエスが語られた言葉を受け止める言葉です。わたしたちも「はい」と応えて立ち上がります。





【2023年 6月 11日 主日礼拝説教より】

説教「振り向く主のまなざし」
      瀬谷 寛 牧師

       民数記 第15章 37節-41節

       マタイによる福音書 第9章 18節-26節


 

 普段の日常生活では、「死」というものを正面から見据えることが少ないわたしたちであるかもしれません。けれどもしばしば、突然この「死」が目の前に飛び込んでくることがあります。親しい者の死、という経験はその典型です。

 今日の箇所は、主イエスが二人の人と出会う場面ですが、二人とも、死と向き合わざるを得ない人でした。一人は、愛する娘が死んでしまった父親です。主イエスがその家に向かおうとしている時に、もう一人、12年間、出血が続く病で苦しんでいる女性に出会います。主イエスは、死んだ少女の手を取って呼び起こし、出血の病気の女性には、励ましの声をかけておいやしになられました。

 聖書では、主イエスは見事にいやし、起き上がらせますが、現代のわたしたちの現実において、悲しいことですが、同じ奇跡が起こるとは限りません。しかも、少女も、女性も、ここから何年か後には死んでしまいました。なぜこの福音書で、このような奇跡が書き残されたのでしょうか。

 わたしたちが知恵として知っているのは、「形あるものは皆壊れる」、そして壊れたらほとんど元に戻すことはできない、ということです。老いた肉体は若い肉体に戻れないし、死を味わった人間は、死の前に戻ることはできません。あらゆるものはやがて、弱り、衰え、滅びます。どこに望みがあるのでしょうか。

 死は、誰もが味わうものです。そこでこそ、主イエスは死の現実を真剣に受け止めてくださいます。そのために主イエスは、父親の案内について行ってくださったし、出血の女性は服の房に触れた時に振り返ってくださいました。主イエスが、死と立ち向かわれるためになさった決定的なことは、この後、お甦りになられた、ということです。死によって止まったと思われた命を、主イエスはご自身の十字架の死とお甦りによって、もっと先に進めるようにしてくださいました。

 主イエスは、出血の病の女性に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。けれども女性には、主イエスに褒めていただく立派な信仰はありません。あったのは絶望だけでした。その中で、主イエスの服の房に触れました。主イエスが神の清さに生きておられることを認めたのでしょう。主イエスは振り向いて、この女性を見てくださいました。ここに、主イエスの愛があります。





【2023年 6月 4日 主日礼拝説教より】

説教「新しいぶどう酒を新しい革袋に」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第31章 31節-34節

       マタイによる福音書 第9章 14節-17節


 

 前回マタイによる福音書を説教した時、第9章9節以下を読みました。そこで登場したファリサイ派の人々は、主イエスが徴税人や罪人たちと一緒に食事をしていることにつまずきました。

 その直後のことでしょう。今日の14節以下には洗礼者ヨハネの弟子たちが登場しますが、彼らは、主イエスの弟子たちが断食をしないことにつまずきました。断食というと、丸一日、24時間、全く食べ物飲み物を口にしない、ということを思い浮かべますが、当時の断食は基本的に、日が昇っている間だけ食事を取らない、という限定的なものであったようです。けれどもそれにしても、大変だったと思います。そもそもなぜ断食をするのかといえば、それによって、自分や他人の堕落した生活を憂い、食を断つことによって悲しみを表すためでした。真面目に、真剣に信仰のことを考え、罪を悲しむ姿だったのでしょう。

 そもそも、洗礼者ヨハネは、そのように登場しました。非常に質素な生活をしながら、堕落した人々に、悔い改めて神に立ち帰るように呼びかけました。主イエスもそのヨハネに、深く共感をしたからこそ、ヨハネから洗礼を受けました。主イエスご自身も、40日40夜、断食をなさった経験をお持ちです。ヨハネの弟子たちは、主イエスの弟子たちが断食しないと抗議していますが、断食などどうでもよい、この世が罪を犯し堕落しても関係ない、とは思っていませんでした。

 ただ主イエスは、この世の罪や堕落に対して、もっと根源的な仕方で解決する道を開かれました。それは、人間が下から、自分を清くして上におられる神に近づく、という道ではなく、神ご自身の清さにあずかる道、神の御子主イエスとつながることによって清くしていただく道、上から清くされる道でした。その道は、新しいぶどう酒のようなもので、古い革袋のままではなく、それを受け止める新しい革袋となるように、主イエスは促しておられます。この「新しさ」は単なる時間的な新しさではなく、質的な新しさです。主イエスの示された道は、いつの時代においても新しく、人間にとっては、つまずきであり続けます。

 主イエスは、婚礼の食事が、花婿と花嫁が共にいる喜びを味わえるように、主イエスが共にいてくださる食事を楽しむように、招いておられます。





【2023年 5月 28日 主日礼拝説教より】

説教「全体の益のために働く霊」
      瀬谷 寛 牧師

       申命記 第26章 5節-11節

       コリントの信徒への手紙一 第12章 4節-11節


 

 わたしたちの仙台東一番丁教会は、今年の5月の最初の主日に、教会創立142年を記念した礼拝を献げました。その同じ月の最後の主日である今日、聖霊降臨主日、ペンテコステの礼拝を献げています。この2つの出来事はつながっています。今から約2000年前に弟子たちのただ中に起こった聖霊降臨の出来事が、今から142年前のこの仙台にも同じように起こりました。聖霊が降り、神の言葉が語られ、それを聴いた者たちが洗礼を受け、教会が誕生したのです。

 本日与えられた一コリント12:4以下に、霊の賜物にはいろいろな多様性があることがまず指摘されています。教会に集う人たちは、皆それぞれの考え方、感じ方に違いがあります。例えば学歴や、勤め先を重んじる、という考え方があります。自分はこんな人間だ、と思うことが、他者と区別し、自分が自分であることの保証と考える、この手紙の著者パウロは、そのことを否定はしません。ユダヤ人であること、ギリシア人であることなどの特色を、捨てるわけではありません。またそれは霊の賜物としても現れる、といいます。聖書についての知恵の言葉を持っている人、知識を持っている人、信仰の力によって病気を癒す人、奇跡を行える人、預言をする人、他に様々な賜物が与えられている人がいます。けれどもそれらの賜物が与えられていること自体にこだわって、同じ賜物を持たない人を裁いてしまったら、その賜物は台無しになります。

 ですから4節で「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」と言われます。様々な賜物も、皆等しく、聖霊によって「イエスは主である」と信仰を言い表す、このことは誰の場合も同じなのだ、と言います。

 5節の「務め」とは仕える務めのことです。その務めを与えてくれる主イエスのために、何らかの仕方で役に立つ、そのための賜物です。6節の「働き」はエネルギー、力を持った働きのことです。そこで働いているのは人間ではなく、同じ神だ、と言います。その働きに仕えて、全体の益となるのです。全体とは、主イエスの体である教会のことです。教会の益のためにすべての働きがあります。

 142年前、聖霊によってイエスは主であると告白し洗礼を受けた者たちが起こされ、今も聖霊によって全体の益になるために教会が生きて働いています。





【2023年 5月 21日 主日礼拝説教より】

説教「新しい神の招き」
      瀬谷 寛 牧師

       ホセア書 第6章 1節-6節

       マタイによる福音書 第9章 9節-13節


 

 今日登場するマタイは、後に主イエスに直接選ばれる12人の使徒の中の一人で、おそらくこの福音書の著者ではないか、と考えられていたようです。今日の聖書の学者たちはほとんどそう考えてはいないようです。けれども、この福音書の成立のために、何らかの関わりのあった人物かもしれません。

 このマタイは、徴税人でした。今日で言えば税金を徴収する税務署の職員、ということになりますが、当時は、ユダヤ人から罪人と並んで悪い存在として見られていました。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていたいわば植民地で、税金を、ローマに支払うことはできればしたくありませんでした。でもそういうわけにはいきませんので、ローマにユダヤ人が委託され、税が徴収されました。その役割を担うユダヤ人は、ローマに魂を売り渡した者として、軽蔑されていたのです。他方、徴税人たちの間でも、ローマの権力をバックに、人々から不当なお金を、随分巻き上げていたようです。

 主イエスはこの場面で、徴税人のことを「病人」と呼ばれました。何よりも自分の罪に病んでいる「罪人」だったからです。そして福音書記者マタイは、まさにそれが自分であることを描いた、と考えられます。しかしその表現は、実に簡潔です。主イエスの通りがかりに、収税所に座っているマタイを見て、「わたしに従いなさい」と言い、立ち上がって従った、というのです。彼は罪を犯す現場で、主イエスの眼差しに捉えられました。そして呼びかけられ、すぐに立ち上がって着いていく、それだけ単純であり、またそれだけに激しいことです。

 これに続いて、ファリサイ派の人々が登場します。彼らは、自分たちのことを「正しい人」と認識していました。できるだけ罪人と関わりを持たず、彼らを神から遠く離れた人間と見限り、見下げていました。だから「なぜ徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」問いかけました。主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人だ」とおっしゃいました。主イエスは罪人とともに座りながら、この罪人の罪をいやし赦されました。そのためにご自身は後に、十字架の死へと向かいます。ファリサイ派も、わたしたちも無関係ではありません。この礼拝において主イエスは、病の根源である罪を取り除いてくださいます。





【2023年 5月 14日 主日礼拝説教より】

説教「罪を赦す主イエス」
      瀬谷 寛 牧師

       ホセア書 第11章 1節-9節

       マタイによる福音書 第9章 1節-8節


 

 今日わたしたちに与えられている物語は、多くの信仰者に愛されている物語かもしれません。中風と呼ばれる、今日では脳血管障害のことでしょうか、寝たきりの病になった人が、主イエスのところに仲間の手によって運ばれます。主イエスはその病の人に「あなたの罪は赦される」とお語りになりました。マルコとルカの福音書では、屋根に穴を開けて吊り降ろして主イエスの前に連れて行った、とありますが、今日のマタイによる福音書には、その記事はありません。けれどもマタイの特徴は、8節「人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美した」とあることです。なぜ「人間」なのでしょう。「主イエスという人間に」と確かに読めますが、それだけでなく、弟子に、使徒に、教会に神は権威を委ねられた、と読めます。教会では罪の赦しが告げられ、罪の赦しが実際に起こるのです。

 ルターは、「罪の赦しのあるところ、そこに命と祝福とがある」と言いました。「罪の赦しのあるところ」、ルターは聖餐が執行される礼拝、そしてその礼拝が行われる教会のことを考えていました。そして教会は、罪の赦しのあるところですが、同時に、罪を言い表す場所でもあります。

 主イエスは、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。わたしたちは礼拝で、「もういつでも死ねる」というくらい祝福に満たされて帰ります。それは、「あなたの罪は赦された」、わたしの罪はもう赦されている、という思いを与えられるからです。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それは、主イエスの弟子として招かれた教会の中で、主イエスが罪の赦しの言葉を与え、罪の赦しそのものを与えてくださったからです。だからわたしたちの教会の、礼拝の中で、この言葉を響かせ続けたいと願います。

 主イエスは中風の人に「元気を出しなさい、あなたの罪は赦される」と言われたのはなぜでしょう。どんな人間でも、元気を出して生きるために大切なことは、肉体の健康ではなく、罪が赦されることだ、とお考えになったからです。この罪の赦しは、自分の罪に気づき、告白することを条件として起こるのではありません。ただ、主イエスがご自身の命をもって与えてくださる罪の赦しの恵みの中に立てばよいのです。そこで起こる赦しの言葉を、語り続けたいと思います。





【2023年 5月 7日 主日礼拝説教より】

説教「聖霊により語り続ける教会」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第115篇 1節-11節

       コリントの信徒への手紙一 第12章 1節-3節


 

 本日は、1881年5月1日、今から142年前に仙台東一番丁教会が設立された、そのことを記念して、礼拝を献げています。週報の説明文には、押川方義先生と、吉田亀太郎先生という二人の伝道者によって設立された、と記されています。そこには、明らかに、聖霊の働きがあります。

 そのことを念頭に置きながら、今日の一コリント第12章のみ言葉を読みました。聖霊の働き、その霊の賜物というと、何か特別神秘的な体験や、将来を見通すことや、超自然的な能力のことを思い浮かべるかもしれません。たしかに当時のコリント教会では、いわゆる人々が思い浮かべるような神秘的体験のような霊の理解の混乱があったようです。

 わたし自身、かつて若い日に受洗し、教会生活を、迷いの日々の中で送っていました。自分には何か特別な、熱心な信仰は与えられていない、という霊的劣等感を抱いていました。聖霊が与えられていないのではないか、と思っていました。皆さんの中にも、我を忘れるような信仰をもっていないからだめだ、と思う方もあるかもしれません。

 では、本当の意味での霊の働きとは何でしょうか。その中心をパウロは指摘します。「神の霊によって語る人は、誰も『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えないのです」(3節)。霊的な賜物に生かされる、その最も大切なことがここにあります。あのイエスというお方をどう呼ぶか、ということです。「イエスは主である」、こう呼ぶことができるところにこそ、聖霊の働きがあると言うのです。

 パウロは、預言、異言、奇跡など聖霊の働きの多様性は認めます。しかし最も核となるのは、この「イエスは主である」という信仰告白です。

 今から142年前の5月、教会設立の時に実際に起ったのは、二人の受洗者が与えられた、ということです。それは聖霊によって「イエスは主である」と信仰を告白した者がこの群れの中に初めて生まれたことを意味します。以来当教会は、このイエス・キリストを主と仰ぐ信仰を明確にしつつ、礼拝を献げ、仲間を増やし続けました。これからもそれを止めずに歩ませていただきます。





【2023年 4月 30日 主日礼拝説教より】

説教「悪霊を退ける主イエス」
      瀬谷 寛 牧師

       マタイによる福音書 第8章 28節-34節


 

 わたしたちの教会では今、マタイによる福音書を読み進めながら、礼拝をお献げしています。主イエスの歩みはいつも、お一人だけの歩みではなく、いつも弟子たちが後ろからついていく歩みでした。それはわたしたちもまた弟子として、主イエスとご一緒に旅を続けていることでもあります。

 さて、主イエスとその弟子たち一行は、嵐に見舞われたガリラヤ湖をなんとか渡り切り、向こう岸のガダラ人の地方に着きました。そこへ、「悪霊にとりつかれた者」が二人、主イエスのところにやって来ました。この二人は、とても狂暴で、誰もその辺りの道を通れないほどだった、と言います。

 彼らは墓場から出てきた、といいます。自分に閉じこもる姿の現れかもしれません。あるいは、周りの家族などがもう手に負えず、墓場まで押し込んだかもしれません。うまく自分を表現したいけれども、それが自分の思い通りにならないので、そのようになってしまったのかもしれません。彼ら自身も被害者です。

 聖書は、この事柄の背後に、悪霊を見ています。その特徴は、神に従わず、神に逆らう心の根底にあるものです。主イエスがこの世界においでになられ、そこでしているのは、その人自身とその人に働く悪霊を分け、追い出すことでした。

 この二人は主イエスにこう叫びました。「神の子、かまわないでくれ」。彼らに働く悪霊が、主イエスを「神の子」と呼んでいます。悪霊は、どんな人間よりも賢く、主イエスが一体誰かを、正確に見抜いていました。そしてこの悪霊は、神の子としての主イエスが、時が来れば、自分たちを滅ぼしてしまうことを知っていたので、慌てました。終わりの日、神の子が、神の勝利の時をもたらすことを知っていたのです。そこで、なんとか悪霊が生き延びる道を見出そうと、たまたま目に触れた豚の大群を指して、「我々を追い出すなら、あの豚の中にやってくれ」と言いました。主イエスはその通りにし、その豚の大群が皆、崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだといいます。

 豚たちは、理不尽な気がします。けれども、この、共に滅んでいく豚こそ、最も主イエスのお姿をよく表している、といった人がいました。まさに主イエスは、理不尽な死を、あの十字架で味わってくださり、悪が滅びたのです。





【2023年 4月 23日 主日礼拝説教より】

説教「風を𠮟る主イエス」
      瀬谷 寛 牧師

       創世記 第1章 3節-10節

       マタイによる福音書 第8章 23節-27節


 

 教会堂という建物は、それが生まれた最初の時代から、舟と結びついていました。わたしたちが、教会堂に集まるのは、舟に乗ること、教会堂で礼拝を献げるのは、主イエスの乗っておられる舟旅をする体験だ、ということになります。

 この時、主イエスと弟子たちの乗っておられた舟は、嵐に巻き込まれ、風と波が激しく、沈みそうになりました。主イエスが共におられる、ということであっても、嵐を避けることができるわけではありません。むしろ、主イエスに従ったがゆえに、嵐にもろに巻き込まれる、ということもあります。この世界のただ中で、神の御心に従って歩もうとすれば、大きな逆風を受けることになります。

 嵐の中で弟子たちは、主イエスが共に乗り込んでいながら、舟の上で慌てふためいていました。けれども主イエスはあたかも、何事もなかったかのように、眠っておられました。主イエスは天に属する方として地上を歩まれたからこそ、此の世のどんな嵐の中にあっても、びくともされなかったのでしょう。

 主イエスは、弟子たちが慌てふためき、思わず「主よ、助けてください。溺れそうです」と叫んだ時、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言いました。「信仰の薄い」とあるのは、元の言葉では「小さい信仰」という言葉です。ある説教者は、「この信仰の薄さは、目に見えるものだけを頼りにして生き、目に見えないものを頼れないところから来る」と言いました。弟子たちにとっては、目に見えるのは嵐の海のことでしょう。わたしたちにとっては、目に見えて体験できる信仰、それなりに教会に生き、礼拝をし、説教を聞き、献金をして、奉仕をする、信仰生活のことかもしれません。しかしこの説教者は、それが本当に信仰なのか、目に見える信仰が滅びに揺さぶられた時どうなるのか、目に見えない、滅びに揺さぶられても壊れない信仰が問われます。

 主イエスは眠って、何をしておられたのでしょうか。単に疲れをいやされただけでなく、滅びの嵐と戦っておられたのではないでしょうか。わたしたちが嵐の中で、滅びの声だけが強くなろうとするところで、この滅びは滅びではない、そう言ってのけておられるのです。わたしたちの嵐のそばでも、主イエスは眠っておられます。だからわたしたちは主イエスの平和の中で眠ることができます。





【2023年 4月 16日 主日礼拝説教より】

説教「宿もない主イエス」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第63篇 1節-12節

       マタイによる福音書 第8章 18節-22節


 

 久しぶりに、マタイによる福音書に戻ってきました。今日の箇所は、主イエスに従うとはどういうことか、主イエスご自身が教えてくださった短い言葉です。しかしかつての第二次大戦前後のドイツで、今日の「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」という言葉を、主イエスを「枕するところがない」ところへ追いやったのは、国家にも責任がある、と当局に受け止められて、これを説き明かした説教者が、逮捕されたそうです。逮捕される人を生み出した、厳しい言葉です。

 主イエスはここでまず、おそらくいやしなどを求める群衆を拒否されました。求めに応じていやしをし続ければ、人気者になったかもしれませんが、その道を拒否し、行くべきところに行こうとされました。すると一人の律法学者が主イエスの前に現れて、「どこへでも従って参ります」と言いました。主イエスはそれを、受け入れられたか、断られたかはわかりませんが、断られた、ととっても仕方の無いような、厳しい言葉を語られました。それが今日の「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」という言葉です。その一つの意味は、主イエスには、この地上に安住の地がない、ゆっくり眠るところもない、ということでしょう。

 けれどもそれは、主イエスがわたしたちと全く違った生活をなさっておられる、ということではなく、むしろわたしたちの不信仰と不安な生活、共に悩みながら同じ生活をしつつ「人の子には枕するところがない」とおっしゃったのだと思います。つまり、地上に本当に帰るべき故郷を持っていないわたしたち人間と歩みを共にしてくださった言葉なのです。

 そのような主イエスに従う事を理解させるために、父の葬りにまず行かせてほしい、と申し出た弟子の一人に、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と主イエスはおっしゃいました。これは、死んだ者のことはもうどうにもならないから放っておけ、ということではなく、主イエスの傍らにこそ、死を乗り越える命があることを信じなさい、という招きです。わたしたちは、この方のところにこそ、帰るべき場所があることを覚えたいと思います。





【2023年 4月 9日 主日礼拝説教より】

説教「涙をぬぐって立てる」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第60章 17節-22節

       ヨハネによる福音書 第20章 11節-18節


 

 イースター、おめでとうございます。昨日、この同じ場所で、バッハのマタイ受難曲を日本語演奏しながら、受難週音楽礼拝が、コロナ以来4年ぶりに行われました。この曲の最後、終曲には、主イエスの死の悲しみの涙をもって、墓の前でうずくまる人の歌が歌われます。どうか主イエスよ、墓の前で安らかにお眠りなさい、と。

 今日与えられた聖書の箇所はまさに、その墓の前で涙を流す女性が登場します。マグダラのマリアと呼ばれる女性です。愛する者を失った涙です。

 精神医学者の土居健郎という方が、「悲しみの秘密は愛である」と繰り返し語っています。親しい人を失うと、なぜ悲しくなるのか、その秘密は愛だ、といいます。科学では説明できない、愛がそこにあるからです。

 実はこの時、重大な出来事が起こっていました。まだ安息日前の金曜日に、確かに主イエスのご遺体お納めしたはずのお墓をふたする大きな石が、取り除けてあったのです。安息日が明けて、少しでも早く、お体を整えよう駆けつけたマリアは、主イエスがどこにいるのか、問いました。わたしたちも愛する者を失った時、その者がどこにいるのか、問わずにはいられません。

 そこで後ろを振り向くと、主イエスがそこに立っておられるのが見えた、といいます。振り向く、という言葉は物理的・空間的に向きを変えることであると同時に、心の向きを変えることでもあります。これまで確かだと見ていた方向から、全く見ていなかった反対方向へ、心の向きを変えることです。悔い改めて神に立ち帰ることです。そこに主イエスは立っておられます。

 けれどもマリアには、それが主イエスだとわからなかった、といいます。考えてみれば主イエスは、誰にとっても本来、よくわからない方です。分からなくても、マリアの前に確かに主イエスが立っている、その事実が重要です。わたしたちが分からなくても、構いません。なぜなら主イエスの方から、名前を呼んでくださるからです。主イエスは、ご復活なさって、わたしたちと新しい関係を結んでくださいました。それは、復活の命の栄光の輝きの中にわたしたちを置いてくださる、ということでもあります。素晴らしいことです。





【2023年 4月 2日 主日礼拝説教より】

説教「真実の王はどこに」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第118篇 22節-29節

       ヨハネによる福音書 第12章 12節-19節


 

 主イエスが三年間、北方のガリラヤを中心に活動していましたが、ついに都エルサレムに上られます。それはさながら、東北地方のようなところから、東京に向かっているようなものかもしれません。けれども主イエスにとっては、憧れの都ではなく、覚悟を持った上京でした。十字架につけられるためにエルサレムへと赴いたからです。

 今日の箇所には、その主イエスを迎え入れる大勢の群衆が登場します。彼らは大声で賛美の歌を歌い、主イエスを迎え入れました。

 「ホサナ」から始まるこの叫び声は、詩編第118篇の言葉です。当時よく知られていた巡礼者の歌だ、と言われています。けれども「主の御名によってこられる方に、祝福があるように」という詩編のもともとの言葉に、「イスラエルの王に」という言葉を付け加えました。この方こそ自分たちを支配なさる王なのだ、この方に聴き従って生きるとき、わたしたちは最もよく生きることができるのだ、と喜びにあふれて歌いました。

 聴き従う、とは窮屈ではないか、と思う方もありますが、ほんとうに聞くべき言葉を持っていることはむしろ幸いだと思います。自分しか信じられない、というほど寂しい生き方はありません。けれども、聖書の言葉には、わたしたちが聴き従って間違いのない言葉が確かにあります。

 けれども複雑な思いがします。この群衆の出迎えの光景を見ながら、この後すぐに、同じ群衆が「十字架につけよ」と叫びます。苦い思いがします。十字架の出来事の中で、この王を、体を張って守るものは一人もいませんでした。群衆とはそんなものでしょうか。そんなわたしたちに思いがけない思いを抱くのは、「ホサナ」と叫びながら迎え入れられたこの王は、ロバの子に乗ってやってこられました。後で主イエスをすぐ殺せと叫ぶのに、主イエスはこの歓迎の言葉を拒否せず、低い姿勢で受け入れたのでした。そして、その主イエスの十字架の死によって、完全にわたしたち人間は、受け入れられたのでした。

 わたしたちに、なつめやしの枝の用意があるか、ということが問われます。この主イエスを、わたしたちの真実の王として、心から迎えたいと思います。





【2023年 3月 26日 主日礼拝説教より】

説教「わたしたちをいやす主イエス」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第53章 1節-12節

       マタイによる福音書 第8章 14節-17節


 

 わたしたちは聖書を通して、主イエスがしてくださった出来事に触れます。それがとても興味深いだけに、なお関心をもつのは、一体、主イエスの日常生活は、どのようなものだったのだろうか、ということです。

 今日のところから推察すると、福音書記者マタイは、ある日の日常を第5章1節、山上の説教から書きはじめ、その一日の終わりまでを記している、と理解することができます。主イエスは山の上で大勢の群衆を教え、そこから降りられると、病に悩むもののためにいやしを行ってくださいました。今日のところでは、ペトロの姑の熱を下げてくださいました。まさに休む間もなく、働き続けられた、それが主イエスの日常でした。

 他方ペトロの視点で見てみますと、主イエスは、自分の家にやってこられました。そこで一日の疲れた体を癒そうと、最初から計画していたのかもしれません。そこでしゅうと、つまり自分の妻の母が熱を出して寝込んでいたので、彼女をいやされました。何か重い病気、というのではありません。風邪でも引いたのかもしれません。ペトロやその家族にとっては、ごくありふれた日常生活の場面に、主イエスが入ってこられました。ここで、主イエスの日常とわたしたち人間の日常生活が重なり合います。信仰にとって大切なのは、主イエスをわたしたちの日常生活のただ中に、迎え入れる事ではないでしょうか。

 このような主イエスのお姿に対して、福音書記者マタイが、このような言葉で17節にまとめています。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」。一人の人が、誰からも忌み嫌われるような病になった時、実はそれが、わたしたちの悲しみと病を担い続ける姿であった、というのです。けれどもわたしたちはそれに気づかず、ああ、彼は神に対して何か悪いことをしたから、彼自身のせいでああなってしまっているのだ、と思っている時に、「あにはからんや」、そうではない、彼の傷は、わたしたちの罪のために打ち砕かれている姿だ、と気付かされるのです。主イエスはそのように、わたしたちの日常の中に近づいて、そこで出会うわたしたちの小さな棘の、その背後にある罪まで見つめながら、ご自身の十字架の死によって、取り除いてくださいました。





【2023年 3月 19日 主日礼拝説教より】

説教「言葉の権威」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第107篇 1節-22節

       マタイによる福音書 第8章 5節-13節


 

 本日、この礼拝の直後に、第一次定期教会総会が行われます。そこでは、この教会において最も大切なことと言って良い、長老の選出が行われます。心して臨みたいと思います。

 ところで、主イエスは今日のところで「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とおっしゃいました。これこそ、本物の信仰だ、と主イエスが大変感心しておられます。顧みて自分の信仰が、主イエスに感心していただけるだろうかと思います。主イエスにほめられるような信仰の真実とは何でしょうか。

 主イエスがその信仰をほめたのは、百人隊長でした。当時は、領主が外国人の兵隊を雇うのが一般的でしたから、神の民イスラエルの人ではなかったでしょう。出来事の発端となったのは、この百人隊長が信頼していた部下が病気で苦しんでいた、ということでした。その時、イエスという方にお願いしたら、病気が治るかもしれない、と思い、そのことを主イエスに訴えました。

 この百人隊長は、わたしたちが知っている、威張っている人間とは違い、部下に対する温かい信頼関係に生きていました。そして権威に生き、無理矢理でも主イエスを連れてきて治させる、ということもしませんでした。むしろ、自分が主イエスを自分の家に連れてくるほどの資格があるとは思わなかった。そこで、こういう言葉を主イエスに伝えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではなりません。ただ、一言仰ってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。

 この百人隊長は、自分の権威に恐れを抱いていました。自分が「来い」と言えば部下はそれに従います。自分のような人間でも、言葉で人を動かすことができるならば、主イエスのような語られる言葉が、どんなに重く、重要な働きをするか、と考えたので、お言葉だけ頂きたい、とお願いしました。

 わたしたちが神と向かい合う時に、実は、お風呂屋でサービスを求めるような姿勢で臨んでいるとすれば、考えなければなりません。時代は、あらゆる権威から自由になることが良いこと、と言われるかもしれませんがむしろ、神の権威に従う、権威の健やかさを取り戻すことは、大切なことだと思います。





【2023年 3月 12日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスが手を差し伸べる」
      瀬谷 寛 牧師

       レビ記 第14章 1節-9節

       マタイによる福音書 第8章 1節-4節


 

 昨日の3月11日、東北教区主催の、東日本大震災12年記念礼拝が行われました。あれから12年、やむを得ないとは思いますが、明らかに世の中の関心が低くなっているように思われます。けれども、この地に建つ教会に集うわたしたちは、この事がなぜ起こったのか神から大きく問いかけられていること、また多くの命が失われたこと、今もなお命が脅かされている人たちがあり、その人たちのために神が必ずいやし与えてくださることを祈ることを、覚え続けたいです。

 ところで、今日から読み始めるマタイによる福音書第8章は、主イエスの「山上の説教」の直後の出来事です。山の上は、集中して神の言葉を聞く場所でしたが、主イエスは、山にとどまり続けず、山をお降りになられました。そしてこれから町へ入ろうとするところで、一人の「重い皮膚病」を患っている人に出会われました。それは偶然ではなく、この病の者は、町の中にすむことが赦されず、山の麓まで追いやられていたので、真っ先に主イエスに会うことができました。

 この「重い皮膚病」を患った人を苦しめていたのは、肉体的苦痛とともに、ユダヤ人共同体から追い出されたという、宗教的・社会的苦痛でした。けれどもこの病の人は、決まりを無視するように、主イエスのお姿を見るなり、近寄り、ひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。「あなたが欲しさえすれば、わたしは清くなります」と訴えたのです。

 ルターはこの箇所について、この病の人はこの時、自分がいやされることについて何の疑いもなかった、と述べました。わたしは、この人がこの時、もしいやされなかったらどうしただろう、と考えました。しかし、本当は、「御心ならば」という時に、自分の疑いも迷いもすべて主イエスに委ねて、その御心のもとに立つことが、信じることだ、と思い直しました。

 それに対して主イエスは退かず、逆に手を伸ばしてその人にあえて触れました。単なる肉体の病ではない、心の中にまで刻みつけられている傷を受け止め、手で触れられたのでした。彼に触れた手は、やがて十字架の傷を負われる御手でした。その御手をもって、主イエスは深くいやされました。東日本大震災で傷を負われた人にも、主イエスがその御手を触れて、深くいやしてくださいます。





【2023年 3月 5日 主日礼拝説教より】

説教「あなたの人生の土台を問う」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第56章 1節-8節

       マタイによる福音書 第7章 24節-29節


 

 2022年4月から、マタイによる福音書第5章から第7章までの、主イエスの教えてくださった「山上の説教」をよみはじめました。本日、それを読み終えようとしています。たった3章分を約1年かけて、礼拝で読み進めた事になります。

 「山上の説教」は普通とは違った面白いですが、重い言葉です。特に、それを生活の中でわたしたちがそれらを成就するのはほとんど不可能です。たとえば自分の子供や生徒に対して、嘘をつくな、仲良くしなさい、争ってはならない、と教えながら、自分はどうなのか、後ろめたさを感じます。

 けれども、「山上の説教」の言葉は、誰も実現することができない理想を語っているのではなく、ただお一人この言葉通りに生きられたお方、すなわち主イエスが教えてくださった言葉です。実体のない、出来もしない言葉ではありません。

 今日のところで主イエスは、岩の上の家と、砂の上の家のたとえを話され、それをもって、「山上の説教」の結びとしました。なぜでしょう。

 「賢い人」と「愚かな人」が出てきます。その違いは、何でしょう。誤解されがちなのは、主イエスの言葉を聞いて実行した人が賢く、行わない人が愚かだ、という理解です。けれども、「わたしの言葉を聞いて行う」というのは、一息で読まれるべきです。主イエスの言葉を行わないのは、聞いていないのです。

 ここで注意をしたいのは、元の言葉では「賢い人は岩の上に家を建てるだろう」と未来のことを言っている、ということです。つまり将来、賢い人と愚かな人の違いが出る、というのです。主イエスの言葉を聞いて行うか行わないか、信じ切って生きるか信じないか、この2つの生き方がどれほど違うか、今はまだよくわからないけれどもこれから先、いえもっと言えば世界が完成され、雨や洪水や風が吹くときに、倒れないか倒れるか、大きな違いが現れる、というのです。

 主イエスがここで終わりの嵐を描くのは、わたしたちを恐れさせるためではなく、望みを与えてくださるためです。主イエスが、ご自身が山上の説教で語られたことを、神の国を、全うしてくださいます。そして生きることも死ぬことも貫いて慰めとなり、わたしたちを主イエスのものとして生かしてくださいます。山上の説教は、この主イエスのものとして生きるように、招いている言葉です。





【2023年 2月 26日 主日礼拝説教より】

説教「み心を行う者が天国に?」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第14章 14節-18節

       マタイによる福音書 第7章 21節-23節


 

 先週は、東北教区の巡回教師となられた松本のぞみ先生に、この教会の説教壇をお預けして、わたしは、2年前まで代務の牧師をしていた岩沼教会の礼拝に招かれて、説教をしてきました。久しぶりに岩沼教会の説教壇に立てたのはうれしかったのですが、驚きました。わたしを含めて総勢6名での礼拝でした。わたしがいたときよりも、やせ細ってしまいました。ぜひ祈りに覚えてください。

 今日与えられた聖書の箇所は、主イエスのお語りになられた山上の説教の終わり近くの部分です。正直な感想を語るなら、どうしたらいいのだろうか、ということです。今日登場する人は、主イエスに向かって、「主よ、主よ」と言っているようです。御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行ったようです。それなのに主イエスから、「お前など知らない」と言われ、「不法を働く者ども」と言われます。「わたしから離れ去れ」とまで言われます。どうしてでしょう。

 まず、イエス・キリストに向かって「主よ」と呼ぶということは、「イエスは主である」と信仰告白しています。教会にとって信仰告白は、教会を教会として形作る、大変大切なものです。わたしたちは信仰告白を道しるべとして、神の恵みに触れ、それを現実として受け止め、自分の口と言葉で告白し、応答します。

 けれども、神からの恵みへのわたしたちの応答は、信仰告白の「言葉」で口先でなされるだけでなく、心と口と行為を含む信仰者の存在でなされます。

 さらに信仰告白だけでなく、主イエスの名による預言、悪魔祓い、奇跡が数えられています。ここには熱狂主義的な運動が描かれている、と指摘する者もいます。秩序を越えて神秘的な体験を重んじる信仰を、主イエスは正そうとした、と考えられます。本当に主イエスの弟子であろうとするためにはいつも、これらの危険が伴います。確かに信仰は、信仰告白や感激あふれる心として現れます。けれどもすべて、神の働きかけに対する人間の応答であり、神にこそ、栄光を帰すべきであって、人間の側には功績は何もないのです。自己義認ではないのです。

 「御心を行う」信仰とは、自己義認でなく、神におまかせしながら、徹底的に愛することでしょう。主イエスの生と死を通して、聖書が語っていることです。





【2023年 2月 19日 主日礼拝説教より】

説教「義の実を結ぶ教会」
      東北教区巡回教師 松本 のぞみ 教師

       詩編 第126篇 5節-6節

       テサロニケの信徒への手紙二 第2章 13節-17節


 

 テサロニケ教会をはじめ、私たち教会は、神の信実なるイエス・キリストに救われるべき者の中で初めの者として選んでいただきました。それは私たちの後に救われる者に先立っての選びに他なりません。神の義の実を結ぶための選びです。

 私たち教会は救われるべき者の初穂として、自分だけでなく、他の人の救いのために、お互いの救いのために、聖霊によりイエス・キリストを証しし、祈り続ける神の国の群れとされています。それ故に神にささげる時間を自分の人生に備え続けていくのです。何よりもまず、神の国と神の義を求める礼拝生活をささげ、祈祷の場を備えていく、それはこの世の論理からすれば、時間をさかれる、損をする生き方に見えます。そのために涙を流すような時もあるでしょう。しかし「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる」と詩編はうたいます。教会は主なるイエスさまと共に涙を流して神の畑を耕し、福音の種をまき続ける神の国の群れとされています。イエスさまと共に涙を流した教会だけが、イエスさまと共に喜びの歌を歌いながら義の実を刈り入れるのです。やがて一人の人がイエスを救い主、キリストと告白し、洗礼に導かれた時、涙を流したその何十倍、何百倍もの喜びが教会に溢れ出ます。そのようにして教会は義の実を結び続ける神の国の群れとされています。そのためにこそ、何よりもまず、イエスさまご自身が死者の中から復活し、神の国の新しい命の初穂となられました。

 この神の国の初穂であるイエスさまの命に結ばれて、私たち教会も「救われるべき者の初穂」とされています。このことを山室軍平という伝道者は「救わんがために救われてある」と言いました。私が救われたのは他の人に救いが及ぶため、だから神の救いの恵みを他者へと受け渡していくということです。神から与えられたイエス・キリストの十字架による義なる愛、命の水を、自分のところで止めてしまわないで他者へと流していく、それこそ救わんがために救われてある私たち教会の心ではないでしょうか。神さまご自身、無償で私たちの救いのために、独り子をお与えくださったのですから。この喜びの訪れ、福音の種を私たちは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタ10:8)との御言通りにまき続けます。主が再び来たり給う神の国の喜びをはるかに仰ぎ見、待ち望みながら。





【2023年 2月 12日 主日礼拝説教より】

説教「良い実を結ぶために」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第17章 5節-8節

       マタイによる福音書 第7章 15節-23節


 

 前回、「狭い門から入りなさい」という主イエスの「山上の説教」の言葉を聞きました。今日はそれに続いて、「偽預言者を警戒しなさい」と語り始める御言葉です。狭い道は、誰もがすぐに見つけることができないものです。なぜなら、偽預言者が偽りの道を教えるからです。

 「警戒せよ」とは、目を覚ましていなさい、目を皿のようにしていなさい、という意味があります。警戒すべきものが現れたら、見逃せないのです。なぜなら、この偽預言者は、羊の皮を身にまとってやってくる、つまり、羊飼いである主イエスのもとにある羊、すなわち信仰者を装ってやって来るからです。明らかに、狼と分かるような顔をしてやってくるわけではないのです。

 ところで、偽預言者とは、一体誰なのでしょうか。わたしたちは教会で、偽預言者とは関係なく、安楽な生活をしている、ということでしょうか。16節以下に「あなたがたはその実で彼らを見分ける」と、偽預言者の見分け方が記され、それに続いて「良い木は良い実を結び」とあります。ここで、わたしたちの教会のあり方が問われます。実はわたしたちが、偽預言者になる危険があります。人を真理に導いているつもりで、とんでもないところに誘い込んでいるかもしれません。本物の預言者と、偽預言者を、どこで区別するかが問われます。

 ところで、「良い木は良い実を結ぶ」という言葉は、21節の「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」という言葉と重ねられて、口先で言っているだけではダメで、実行しなければならない、という意味と誤解されてきました。

 けれども23節で「不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」、と言われています。ここで問われているのは、働くか働かないかではなく、不法か合法か、どんな働きをするのか、ということです。どういう働きが不法ではないのでしょう。21節で言えば「天の父の御心を行う」ことです。

 この父の御心とは、主イエスが語り続けて来た、たとえば、「山上の説教」の教えに現れています。加えて、人々から見捨てられた主イエスの存在に現れています。偽預言者にならないよう、この主イエスを指し示して歩みたく思います。





【2023年 2月 5日 主日礼拝説教より】

説教「狭い門から入りなさい」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第30章 15節-22節

       マタイによる福音書 第7章 13節-14節


 

 人生は、進学や、就職や、結婚など、決断の連続です。そのような人生の大きな決断だけでなく、わたしたちは日々、無意識のうちに小さな決断をして生きています。大なり小なり、自分で決断するのは、なかなか勇気のいることです。

 そのわたしたちに主イエスは、「狭い門から入りなさい」とおっしゃいます。この御言葉は、小説の題名にもなり、世の中でもよく使われる言葉です。一流大学や企業に入るのは「狭き門」だと言われます。

 しかしここで主イエスがおっしゃっておられるのは、これまで山上の説教で主イエスに従って生きる者の姿勢が語られてきた、その終わり近くです。山上の説教の言葉がわたしたちの現実になるのは、この「狭い門から入る」という決断をすること、ここに山上の説教を生きる鍵がある、と主イエスは言われます。

 この言葉について、人生に二つの道のどちらかを選ばねばならないとき、安楽な道ではなく辛い道を選べ、ということだ、とよく言われます。けれどもそれだけなら、主イエス以外にもいろいろな人が言っています。「人生、楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」。それが、主イエスのみ教えに反しているとすぐには言えないかもしれませんが、主イエスはそれだけを言っているわけではありません。なぜならそこでは、自分は道の狭さ広さをよく知っている、と思いこんでしまっているからです。主イエスは「それを見出す者は少ない」とおっしゃいます。どういう門が狭く、細い道であるかはほとんど誰も発見していない、というのです。

 なぜこの命に至る狭い門、細い道を見出す者が少ない、ほとんどいないのでしょうか。実際、人間は、命そのものである主イエスを寄ってたかって十字架につけて殺しました。わたしたち人間は、神を神とすることができない者です。そして、門や道の広さとは、神を信じなくても歩いて行けると思いこんでしまう道です。多くの人が、この安易な広い道を歩いています。

 「狭い門から入れ」とは、神を信じて生きる道へわたしたちを招く主イエスのお言葉です。わたしたちには見つけにくいこの道を、主イエスによって見つけさせていただきました。十字架の死からの復活の中に、狭く細い命の道があります。その狭く細い道をこの世で示しているのは、キリストの教会です。





【2023年 1月 29日 主日礼拝説教より】

説教「してもらいたいことをせよ」
      瀬谷 寛 牧師

       マタイによる福音書 第7章 12節


 

 今日の言葉は、「黄金律」と呼ばれる主イエスのお言葉です。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。人間が生きていく上で、黄金のように大切な教訓、ということでしょう。調べてみると、これと同じことを教えているのが、実は、中国の孔子、ユダヤ教、ヒンドゥー教、イスラム教、文学者の中にあるようです。ただ、そこでよく指摘されるのが、主イエスは積極的、肯定的な言い方であるのに対し、他の言葉、たとえばユダヤ教のある教師は、「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」と消極的、否定的な言い方になっている、ということです。ただ、どちらにしても、意味するところはあまり変わらない、とも言えます。あえて主イエスの優れた点を探さなくとも、主イエスは、人間誰もがわきまえているはずの常識を語っておられます。日本で言えば、「思いやりを持って生きよう」というようなことと言えるかもしれません。

 主イエスが教えてくださる人間の生き方は、誰もが考えつかない、奇抜なものではありません。日本人であろうが、何人であろうが、紀元前何世紀の人間であろうが、21世紀の人間であろうが、すべての者がこうありたい、と願い続けていることをご自分の願いとしておられます。人間が最も人間らしく生きる道です。

 今日の言葉は、主イエスの教えてくださった一連の、山上の説教のまとめの言葉、と読むことができます。「してほしいことを人にする」、これ一つを身に着ければ、山上の説教全体を生きるコツを身に着けたことになる、というわけです。

 その時に、主イエスが教えてくださったこととして注目すべきは「何でも」という言葉です。つまり全てのことです。自分が何かしてほしいと思う、辛い時、悲しい時、不足を感じる時だけしてもらう、してあげる、というのではなく、いつでも、どんなことでもするのだ、ということです。使徒パウロが、「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言った(使徒20:35)、与え尽くせ、ということはこの主イエスの言葉の心をよく表しています。

 そして、その与え尽くす生き方に生き抜いたのが、旧約以来預言されていた主イエスです。わたしたちの本当に望むことを十字架の上でなしてくださいました。





【2023年 1月 22日 主日礼拝説教より】

説教「天の父なる神の贈り物」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第6章 16節-21節

       マタイによる福音書 第7章 7節-11節


 

 「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。主イエスの言葉です。しかし、かつて、テレビCMになったほど、教会のことを知らない人にも、この言葉はよく知られていると思います。由来となった聖書の言葉をどう受け止めるでしょうか。

 まずわたしたちは、この言葉を素直に聞きたいと思います。主イエスが、一所懸命求めて祈れば、必ず与えられるのだ、というのです。もしかすると実際のわたしたちは、「ダメでもともと」、祈らないより祈ったほうがまだましだ、という程度で受け止めていないでしょうか。

 自由学園の創設者、羽仁もと子は「人生において、『やってみよう』という力と『どうせダメさ』という力がいつも働き、後者のほうが強くなることが多い、そのうちみんな、人の世は鉛のように重いと考えてしまう」、と言いました。

 主イエスは、夜中に友人を訪ねてパンを求めた人の話をされました(ルカ11:5以下)。執拗に頼めば与えてくれる人よりも、神はもっと確かに与えてくださる、というのです。

 けれども他方、「求めなさい。そうすれば与えられる」とは、欲しいものは何でも思い通りに手に入る」ということではありません。真剣な祈りは、神は必ず聞かれますが、すべての願い、望みを、わたしたちのお申し方で聞いてくださるとは限りません。別の方法や別の時に聞かれる、という事かもしれません。

 ところでわたしたちにとって、本当に求め、祈るべきことはどのようなことでしょう。これまで、主イエスが山の上で教えてくださった「山上の説教」を聞いてきました(マタイ5~7章)。神を信じる人間は、どう生きるのか、ということが記されていました。「敵を愛せ」とか、「兄弟に腹を立てるな」「人を裁くな」など、確かに、わたしたちがこう生きられたらいいな、しかし、実現するのは難しいと感じられる、愛と信頼の世界が山上の説教には描かれていました。それは、神がお造りになり、神が贈り物としてくださる世界です。神が見ておられる、本当の世界です。わたしたちは心を一つにして、求めたいと思います。神よ、主イエスの語られた愛の道を、確かな現実としてこの世界で見せてください、と。





【2023年 1月 15日 主日礼拝説教より】

説教「真珠を豚に投げるな、とは」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第5章 20節-31節

       マタイによる福音書 第7章 6節


 

 「真珠を豚に投げてはならない」。「豚に真珠」ということわざ・慣用句は、今日の聖書の言葉からきていることがわかります。ちなみに他にも「目からウロコ」「ジャイアント・キリング」なども、聖書を由来とした言葉です。「豚に真珠」は元の聖書ではどのような意味なのでしょう。

 まずこの言葉は、マタイ7:1-5の「人を裁くな」と主イエスがおっしゃった言葉に続いています。人の上に立って他人を裁くことができない人間の姿が語られていました。ところが、この6節で語られていることの前提は、わたしたち自身が宝の持ち主として、それを人に自由に与えることができ、他の人を犬や豚のようにみなしています。これまでのことをひっくり返しているのでしょうか。

 「神聖なもの」「真珠」は、自分の目にある罪の丸太を取り除いてくださる神の恵み、力のことです。その恵みの経験をした者が初めて、人に向かって「あなたの目も清くなるのですよ」と進めることができます。それが伝道です。けれども、そうすることがいつでも、その人に喜ばれるわけではありません。教会の話を夫に聞かせたいと思っても、夫はうるさがります。旧約の預言者たちも、神の宝であるみ言葉が聞かれない悲しみを経験しています。

 主イエスが、そういう経験をするわたしたちのことをよく知っておられるのは、それはご自身の経験だからです。そしてわたしたちに、「真珠を真珠として相手が受け入れない時に、無理する必要はない」。十字架にかかる時に黙っておられた主イエスのお姿を思い出します。けれどもわたしたちは、家族が頑なだからと言っても、愛し続けます。伝道の限界、愛の限界を感じつつ、それでよい、と主イエスはおっしゃいます。

 ドイツのボンヘッファーは「神の言葉は人間に侮られ軽視されるほど弱い。御言葉を語る者も弱い。しかし絶望しない。御言葉を捨てさえしなければいい。御言葉の弱さだけが、罪人を心底から悔い改めさせる。弱い御言葉こそ真実に強く、憐れみに満ちた御言葉だ」と言いました。このみ言葉とは主イエスです。

 犬や豚とは信仰を持たない人のことでしょうか。主の宝に鈍いわたしたちのことです。主イエスに丸太を除いて頂き、宝を敏感に受ける教会とされたいです。





【2023年 1月 8日 主日礼拝説教より】

説教「自分の目にある丸太」
      瀬谷 寛 牧師

       サムエル記下 第12章 1節-12節

       マタイによる福音書 第7章 1節-5節


 

 「人を裁くな」(マタイ7・1)。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(7・3)。誰でも分かるような主イエスの御言葉、そしてわたしたちの誰もが反論できないような言葉に見えます。そう感じることは大事なところです。けれども、わたしたちを、手も足も出ないように打ちのめす、それだけの言葉でしょうか。

 この言葉を、他人のことをとやかく言う資格はわたしたちにはない、ということで、分かった気分になっていいでしょうか。父親に叱られた息子が「でもお父さんも、こんな過ちがあるでしょう」と言い返せるように、人はみな欠点をもっているから、それをあげつらうな、と主イエスは語っておられるのでしょうか。それならばなぜ主イエスは、自分が目に丸太を持っており、他人はおが屑を持っている、と語られたのでしょうか。そう考えると、誰でも分かることを、主イエスはお語りになっておられないことに気付かされます。

 改めて考えますと、わたしたちは毎日、他人をさばき続けているように思います。一日自分が語った言葉の中で、他人を裁く言葉に赤い線を引いたら、赤だらけになるのではないでしょうか。主イエスが「人を裁くな」、とお語りになられた時に、他の人が語るのとは違う、大事なことは、本当に裁くことのおできになるお方は神だけだ、ということに思い至ることです。

 旧約の名高い王、ダビデの傍らにいた預言者ナタンが、ダビデに一つのたとえ話をしました。当時の王は、裁判官の役目も果たしたかもしれません。ダビデが裁こうとすると、まさにそれによって実はダビデ自身が裁かれるべき者であることが明らかになりました。このことは、神のみが裁く方であり、どんな人間も、兄弟を、他人を、本当の意味で裁くことはできないことを表しています。

 では責任ある裁きとはどのようなことでしょうか。神の目で見、裁かれた時に、自分の目に大きな丸太があることがわかります。その丸太の大きさはわたしたちの罪の大きさです。そしてそれは十字架の大きさ、主イエスのみ苦しみの大きさと同じです。主イエスはその十字架で死に、わたしたちの目から丸太を取り除いてくださいました。その澄んだ目で、謙遜に、他者を見ることが大切です。





【2023年 1月 1日 主日礼拝説教より】

説教「神の国と神の義を求め」
      瀬谷 寛 牧師

       申命記 第4章 25節-31節

       マタイによる福音書 第6章 25節-34節


 

 今年はカレンダーの関係で、12月25日に歓びのクリスマス礼拝をお献げし、その翌週が今日、1月1日、元旦に礼拝をお献げすることができます。よりにもよって、元旦から教会にいかなければならない、とお思いの方もあるかもしれませんが、考えてみれば、一年の最初に、ほかの場所ではなく、世界の創り主であり、わたしたちの救い主のもとに駆けよることができるのは、幸いです。これは、世間の波に逆らっても、神を礼拝する、という一つの主張、大きな信仰告白です。

 今日与えられた聖書のみ言葉は、少し前にも読んだ言葉です。空の鳥や野の花を見なさい、とおっしゃるように、主イエスは、わたしたちの周りの者に、思い悩むことのないわたしたちの姿を見なさい、とおっしゃっておられます。

 ところで、今日の最後のところには、「明日のことまで思い悩むな」とあります。これまで主イエスは、思い悩みのすべてを禁じていたように思っておりましたら、ここでは、明日までの思い悩みのみを禁じているように感じられます。わたしたちは、今日一日の苦労を生きる時、その苦労を素直に受け入れることができないときがあります。その時、明日、明後日に夢をつなぎます。今に見ていろ、見返してやる、と思います。しかしそこでは、今日一日の苦労を受け入れてはいません。思い悩みの問題は、自分の生活を受け入れないところにあります。

 そうつぶやきながら、主イエスの御顔を仰ぎます。その見顔にも厳しい労苦を見つけます。この世の思い悩みに、悲しみに、愛の労苦に打ちひしがれておられるお顔を見ます。それは実は、「彼が担ったのは、わたしたちの病、…わたしたちの痛み」でした(イザヤ53)。主イエスはわたしたちのわずらいを、悩みを、必ず一緒に担ってくださり、取り除いてくださいます。

 そこで、「『だから』、明日のことまで思い悩むな」の「だから」に注目したい。明日まで思い悩まなくてもいい根拠がある、というのです。それが「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから…」。神のご支配が見えない辛い現実にあってなお、あなたのご支配を見させてください、と祈るよう呼びかけられています。わたしたちに必要なものをご存知の神を信じ、この神と出会うことが、悩みから解き放ちます。




2022年1月2日から12月25日までの説教要旨はこのリンクからご覧いただけます(クリック)。 

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