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【2022年 12月 25日 主日礼拝説教より】

説教「ダビデの子孫からの神の子の誕生」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第42章 1節-4節

       ローマの信徒への手紙 第1章 1節-7節


 

 本日、喜びのクリスマスを迎えています。すべての喜びは、神の御子であるお方、主イエスがこの世界にお生まれくださった、ということに基づいています。その喜びのもとから派生するようにして、洗礼式が行われました。教会に仲間が加えられました。大きな喜びです。またこの礼拝後、3年ぶりに対面でクリスマス愛餐会をいたします。コロナでずっと控えましたが、感染対策の上でクリスマスの喜びを、互いに顔を見て確かめ合うことができるのは本当に嬉しいことです。

 本日のローマの信徒への手紙の言葉は、教会の伝統では、12月24日のクリスマスを祝う夜に読んで、御子の御降誕を喜び祝った言葉です。ここで話題になっていることの中心は「福音」です。福音とは、喜びをもたらす言葉、それを聴いたらうれしくなってしまう言葉のことです。なにが喜ばせるのか、それが主イエス・キリストです。このあと、まさにわたしたちが今日味わっている喜び、すなわち福音であるイエス・キリストについて語られます。

 第一に、「神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたもの」だということです。主イエスの到来、救いのみ業は、神が長い時間をかけて、前もっての計画・約束によることだ、といいます。第二に、「御子に関するもの」、すなわち主イエスは、神の子であられることです。このことでわたしたちの人間の世界・歴史が、神の御子が来られた世界・歴史に変わりました。このクリスマスは、そのことを確認する祭りの日です。第三に、その御子は「肉によればダビデの子孫から生まれ」た、ということです。人間として、無国籍ではなくダビデの子孫、ユダヤ人の仲間として生まれ、人としての嘆き悲しみの中に立ってくださいました。第四に、「聖なる霊によれば、死人からの復活により、力ある神の子と定められ」ました。人間として死なれ、しかし死を打ち破る神の力によって、神の御子であることを明らかにされました。最後、第五に、どうしても言われるべきことは、「この方が、わたしたちの主イエス・キリスト」ということです。それは、わたしはこの主イエスのものになってしまったということです。主イエスは、何よりもわたしたちを生かすために、これらの道をたどってくださいました。そのことで自分が何者かを知りました。主イエスはわたしたちの喜びです。





【2022年 12月 18日 主日礼拝説教より】

説教「自分のことで思い悩むな」
      瀬谷 寛 牧師

       コヘレトの言葉 第5章 12節-19節

       マタイによる福音書 第6章 25節-34節


 

 ドイツで、説教を教える神学者のボーレン先生は「説教する人間は、説教における自分の言葉を、自分の生活において実際に生きて…信仰者の模範にならなければならない」と言いました。パウロも幾度も、「わたしにならう者となりなさい」と言いました。主イエスがどういうお方か、わたしを見ればわかるだろう、と言えるような歩みをするのが、信仰を持っている人間の歩みです。

 今日の25節以下はよく知られた御言葉で、主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」「野の花のことを注意してみなさい」と言われました。空の鳥、野の花が、主イエスによって、「これを見るがよい」、と言われる姿をしているのであれば、同じ程に、主イエスはわたしたちを指さして「この人を見て、その生き方を見てごらん」といっていただけるはずだと思います。

 このことは、わたしたち信仰を持っている者の特徴は、空の鳥、野の花のように「思い悩みを持たない」という点にある、ということです。わたしたちは決して完全無欠な人間というわけでなないでしょう。失敗ばかりしているかもしれません。たとえそうとしても、わたしたちは思い悩まず、生きて行けるのです。

 主イエスがここで、大変丁寧に、「思い悩むな」と繰り返し語っておられるのは、人間の一番大きな問題の一つが、まさしくこの思い悩みであり、そこからの解放なしに、救いはない、とお考えになったからでしょう。わたしたちが本当に主イエスのものであるならば、空の鳥、野の花にまさる魅力を持ちます。

 けれども実際、この地球上には、深刻な問題が跡を絶ちません。ウクライナ、ロシア、北朝鮮。そういう話を聞かされると、明日はどうなるのか、わたしたちの子どもたちはどんな時代を生きるのか、思い悩みが始まります。そのわたしたちに主イエスは「思い悩むな」とおっしゃいます。真剣に聴いているでしょうか。

 主イエスは、現実を知らない詩人のように勧めているのではなく、人間のお姿を取り、人間と歩みを共にされました。その上で、その日の労苦は思い悩まずそのまま身に受けて生きていけばいい、というのです。しかし、どうしたらそうできるのでしょう。主イエスこそ、自ら人間の労苦を味わいつつ、十字架にまで労苦を引き受けてくださいました。そこでこそ、わたしたちの悩みは解き放たれます。





【2022年 12月 11日 主日礼拝説教より】

説教「澄んだ目を持って」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第40章 18節-31節

       マタイによる福音書 第6章 22節-24節


 

 わたしたちはなぜ、毎週日曜日に、教会で礼拝をするのでしょうか。世の中にいろいろな宗教がありますが、日曜日に必ず礼拝をすると言うのは、キリスト教会の信徒となった人特有の姿です。そうでないとやっていかれないのです。

 オランダの画家、レンブラントの「エマオのキリスト」という作品の中に、まなざしを上に向けている主イエスのお顔があります。実は、この主イエスの顔を描くのに、レンブラントは、親しくしていたユダヤ人医師の顔をモデルにしていたそうです。レンブラントにしてみれば、主イエスの顔は、わたしたちの顔がモデルになることもあり得たのです。そのように、主イエスの真似をして、わたしたちも天を仰ぐことができます。

 わたしたちが日曜日ごとに、教会に来ているとても大切なことは、この主イエスが見ておられるものを、わたしたちが見る、ということではないでしょうか。それを何度でも繰り返す時に、わたしたちの目は「澄んだもの」になります。わたしたちの目はすぐに濁って、主イエスの見ておられるものを見ることができなくなります。だから毎週教会に来て、繰り返し澄んだものにしていただきます。

 主イエスはわたしたちに、「あなたの目は澄んでいるか」と問うています。複雑ではなく単純なまなざしを、幼子のように天に向ける、ということです。またある人は「澄んでいる目」とは、2つのものをいっぺんに見ようとしない目だ、といいます。一つのものだけをひたすら見つめる目です。主イエスは、そのようなまなざしであなたは何を見ているのか、天を見ているのか、地上の富を見ているのか、と問われます。それは、何を信頼して生きているのかと問われることです。

 「誰も、二人の主人に仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。実に耳の痛い言葉です。わたしたちはどうしても地上の富に仕える生き方を選び取ってしまうからです。

 主イエスご自身はどうだったのでしょう。主イエスは二人の主人に仕えることはなく、ただお一人の主人、父なる神のみを見つめ、この方に仕えぬかれました。貧しく、低く生きられ、そして十字架にまで赴かれました。その死によって、わたしたちは赦され、澄んだ目を持たせていただくことができたのです。





【2022年 12月 4日 主日礼拝説教より】

説教「富は天に積むもの」
      瀬谷 寛 牧師

       箴言 第23章 1節-12節

       マタイによる福音書 第6章 19節-21節


 

 本日与えられた主イエスのお言葉は、一般にもよく知られています。特に「富は、天に積みなさい」、以前の翻訳では、「天に宝をたくわえなさい」となっています。いずれにしても、説明抜きでもわかる言葉であると思います。

 20節の「虫が食う」という言葉も、「さび付く」という言葉も、外国語の聖書では「虫」と訳されており、本や衣類や、あるいはシロアリのように建物を食うような虫のようです。あるいは、「盗人が忍び込む」とは、当時の建築事情で、簡単に壁を壊して侵入できる家であったことが想像されます。いずれにせよ、地上に蓄えた財産は、いつも形が変わり、なくなるような危険にさらされています。そして、悲しい思いをします。けれどもそんなことは、主イエスに教えていただかなくても、わたしたちはよく知っているようにも思えます。

 ただわたしたちは、そのことを承知の上で、なお地上の富、宝のために心を労しています。この地上の富がなければ生きていけないと思っています。そのわたしたちに主イエスは、「富は、天に積みなさい」と語っておられます。主イエスはいったい、わたしたちに何を求めておられるのでしょう。

 そこで改めて「天」とはいったいどこでしょうか。天を仰ぐ、という時、天はどこに見えてくるのでしょうか。地上の労苦とは無縁の、聖人のような者だけが関係のある、きれいごとの世界でしょうか。そうではなく、「富を天に積む」とは、この地上でせっせと働く中での問いです。わたしたちが地上で汗を流す生活の中で、天を仰ぐまなざしを持ち続けることを、主イエスは求めておられます。

 天とは、主イエスがそこから来られたところです。主イエスがそこから来られて、わたしたちと同じ人間になり、地上の労苦を知り、肉体の飢えと渇きをお知りになられました。その労苦が無駄ではなく、意味あるものとするために、主イエスは神の言葉を語り、御業を始められました。その間いつでも主イエスは天を仰いでおられました。そして十字架で死なれ、復活され、天に帰られました。

 21節「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と主イエスは言われました。逆に、心のあるところに富がある、とも言えます。わたしたちは何が心の支えでしょう。地上から自由になり、天に、神に信頼するよう招かれています。





【2022年 11月 27日 主日礼拝説教より】

説教「ただ神のまなざしの前で」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第30章 1節-13節

       マタイによる福音書 第6章 16節-18節


 

 ろうそくの火が1本灯り、今日から待降節(アドベント)と呼ばれる期間が始まります。主イエスのお誕生の祝いを待ち望むときです。何か、ウキウキします。

 ところで、先週までこの礼拝では主の祈りについて取り上げ、今日はその続きの断食がテーマの箇所です。せっかくアドベントのウキウキしたわたしたちに水を差す言葉のように感じます。

 けれども実は、今日、断食の記事を読むのは、最もふさわしいことである、とすら言えます。なぜなら、アドベントはもともと、教会の伝統では悔い改めの断食を行う期間だったからです。主イエスの誕生による第一の到来とともに、今は天にあげられた主イエスが、この世を裁いて完成させるために、もう一度お出でになる、第二の到来を待望するときでもあるからです。神の裁きの前に、悔い改めの断食をして、その裁きに備えよう、そう考えたのです。

 断食には、どのような意味があるのでしょう。心も体も、すべてを集中して、神に身を向ける一つの努力です。断食を通して、わたしたちの心が、神以外の者に向かうのを避けるのです。また、断食は、悲しみの表現でもあります。深い悲しみは、食べることを受け付けなくさせることがあります。

 この断食の教えに先立ち、主イエスは主の祈りの、罪を赦すことについてもう一度触れられました。わたしたちは、神の前で、わたしたちはどんなに人を赦すことができないか、そのことを悲しみ苦しみます。断食は、そのことに思いを致すため、とも言えます。

 そして主イエスは「偽善者のように、沈んだ顔つきをしてはならない」。問題は、断食に際しても偽善を行ってしまう、ということです。偽善を行うのは、わたしたちが、神のみ前に自分だけで立つことができず、どうしても人の目を考え始めてしまうからです。それは、わたしたちの姿です。もう、人のまなざしではなく、神のまなざしのみを考えるように、その決断を主イエスは促しています。

 自分の偽善の罪を認める者は、その自分の罪が主イエスの十字架の死によって赦されることを知っている者です。アドベントに入り、わたしたちの罪を赦すために来てくださる主イエスの前で、罪を悔い改めつつ、過ごしたいと思います。





【2022年 11月 20日 主日礼拝説教より】

説教「誘惑に遭わせず-主の祈り七」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第42章 1節-13節

       マタイによる福音書 第6章 13節


 

 今日は主の祈りの「試みに遭わせず、悪より救いいだしたまえ」について、思い巡らせたいと思います。この祈りが、祈りの本文の最後に置かれているのは、いったいなぜなのでしょうか。

 わたしたちはいろいろな祈りをしますが、「どうぞ、試みに、誘惑に遭わせないでください」という祈りは、どう位置づけられるでしょうか。この祈りは、「助けてください」という悲鳴のような叫びです。そのような叫びが、祈りになりうる、ということを、主イエスは教えてくださっておられます。

 「助けてください」と叫ぶ、それは、自分の弱さを認めることです。もしもこの祈りが、わたしたちの切実な祈りの中核になっていないとすれば、祈りにおいてもわたしたちは自分の弱さを認めたくない、と思っていることになります。

 有名な詩編の第46篇は、「神はわたしたちのさけどころ、わたしたちの砦」と記します。わたしたちは、神の懐に逃げ込むことができる、弱さを持っています。それを認めることは、少しも悪いことではありません。むしろ、自分は神なしでも生きていける、強い人間だ、と言い張ろうとすることのほうが問題です。

 「悪より救いいだしたまえ」は、新共同訳では「悪い者から救ってください」とあります。「悪い者」という方が、聖書の原文に近いと思います。悪、というのが抽象的にあるのではありません。悪は生きています。悪い者がうっかりすると、自分を捕まえるのです。明らかに自分でも悪いと思う、間違いをしてしまった時、自分でやったというより、なにかに誘われたような気がします。思いがけないひどい言葉を口にしてしまったり、やってはいけないことに手を出したり、それは、「悪い者の力」に負けてしまっているのです。

 主イエスは、人間を積極的に考えました。世界は、天地の造り主である神が、「これでよし」とおっしゃって造られたものです。悪はあってはならないのです。けれどもわたしたちは弱く、悪の力の虜になります。主イエスは強さをもって、わたしたちの味方となってくださいました。そのお陰で、わたしたちの悪に敗北してしまいそうな戦いが勝利に向かって大転換します。主イエスの恵みの中で立ち上がることができました。これこそ、わたしたちの弱さを示すものです。





【2022年 11月 13日 主日礼拝説教より】

説教「赦しの中に立って-主の祈り六」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第51篇 1節-19節

       マタイによる福音書 第6章 12節、14節、15節


 

 わたしはかつて、「説教者トレーニングセミナー」という説教の学びの泊りがけの合宿に出かけた時、そのセミナーを指導する加藤常昭先生から、ドイツで子どもたちでも祈る食前の祈りの言葉を、教えていただきました。「主よ、わたしたちになくてならないものが2つあります。それを、あなたの憐れみによって与えてください。日毎のパンと、罪の赦しを」。食事のたびごとに、主の祈りの「日用の糧」を求めることと、それに続く「罪の赦し」を求めることを、切り離さずに一つの祈りとして祈っています。食事を欠いては生きていけないように、罪を赦していただかないとこの人生は成り立たないのです、と祈るのです。単純ですが、実に深い祈りです。ぜひ、皆さんにも、学んでいただきたい祈りです。

 今日わたしたちが思い巡らす祈りの言葉は、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」です。『聖書』新共同訳の言葉では、「罪」という言葉が「負い目」となっております。このことからわかるのは、罪、負い目とは、いつも相手があることであり、その相手を傷つけ、存在に負わせることだ、ということです。そしてこの負い目は誰よりも、神に対しての負い目です。この厳しさを理解しないまま、罪の赦しを語るのは、罪をいい加減に扱うことです。罪を犯す者は、神との関わりを損なうことなのです。

 詩編51:5,6に、「あなたに背いたことをわたしは知っています。…あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」とあります。王ダビデが、自分の部下ウリヤの妻、バト・シェバを奪った罪を悔い改めたときの言葉、とされています。謝るべきはウリヤに対して、あるいは尊敬と信頼を裏切った国民に対してであるはずなのに、「あなた(=神)のみに罪を犯し」と祈ります。わたしたちの犯した罪は、根本のところで、神との交わりを損なったものとなっていることを、それがいかに深刻なことであるか、を示しています。けれども、そのことを本当には知ることができなかった人間が、主イエスを十字架につけました。しかしその主イエスが、わたしたちの罪の赦しのために祈ってくださいました。わたしたちは、十字架を知るときに初めて、自分自身の罪の深さを知ります。だから日毎の糧を求めるように罪の赦しを求めたいと思います。





【2022年 11月 6日 主日礼拝説教より】

説教「日ごとの糧を-主の祈り五」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第145篇 1節-21節

       マタイによる福音書 第6章 11節


 

 主の祈りは、2つの部分に分かれています。前半は神に向かう祈りであり、後半は人間の生活についての祈りです。今日から、後半の祈りに入りますが、その最初が「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りです。どうして人間の生活についての祈りの最初が、日用の糧を求める祈りとなっているのでしょうか。

 「日用の糧」というのは、「日用品」とあるように、いつも使う、生活に欠かせないものであり、しかも、高価な品、高価なごちそうではなさそうです。簡単に手に入れられる、と考えがちですが、戦時中、戦後などでは、決して簡単ではなかった歴史があることを、わたしたちは忘れてはならないと思います。

 しかし改めて、今日のわたしたちは、この祈りを、本気で、真剣に祈っているでしょうか。日毎の糧を神に求める、そこにはどんな意味があるのでしょうか。

 主イエスが、この主の祈りを教えてくださった山上の説教の直後のところで、「思い悩み」「思い煩い」(口語訳)について教えてくださいました。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、…思い悩むな。…だから明日のことまで思い悩むな。…その日の苦労は、その日だけで十分である」。これも、日毎の生活に関わることです。わたしたちの日毎の生活、人生に必ず出会う苦労を、思い悩まずに、喜んで担おう、と勧めるのです。思い悩み、思い煩(わずら)いは、病気の患(わずら)いに通じます。「日用の糧を今日も与えたまえ」と求めて祈ることは、病気になるほどの思い煩いから解き放たれることを求める祈りです。

 「日用の糧」という言葉はギリシア語では、「次の食事」という意味ではないか、と言われます。そうとすれば、この祈りは、「一時一時、わたしたちの命を生かす、それを支える不可欠なものを与えてください。いつ取り去られるかもわからない命、その次の瞬間を生かしてください」と祈る祈りです。すべての命を、神からいただくことを、心から信頼する信仰告白でもあります。

 「糧」とは、「パン」という言葉です。このパンとは、「わたしがいのちのパンである」とおっしゃった主イエスのことであることにも、思い至ります。主イエスは十字架にかかり、ご自身の命をパンとしてわたしたちに与えてくださいました。この祈りが、わたしたちにどれほど必要で大切な祈りであるか、に気づかされます。





【2022年 10月 30日 主日礼拝説教より】

説教「何度でも、苦難から希望へ」
      瀬谷 寛 牧師

       ローマの信徒への手紙 第5章 1節-11節


 

 本日は、この礼拝のあとで、年に一度の教会修養会が予定されています。今年の修養会においては、苦難について、考え、語り合うことになっています。わたしは御言葉の説き明かしによってその役割の一部を果たしたいと思います。

 ところで、苦難というものは、それぞれの人が、それぞれのレベルにおいて経験するわけですが、それをどう克服するか、そのあり方が、信仰の足腰が鍛えられているかどうか、ということに関わると思います。ちょっとした苦難が襲うたびに、砂の上に建てた家のようにグラグラぐらついて、押し流されてしまうのか、あるいは、岩の上に建てた家のように、多少の苦難を受けても、もろともしない、そういうところに立つのか。教会修養会という場が、皆さんのその信仰の足腰を固める、土台を固める、確かめる、そのような場となるのだと思います。

 ところで今日ご一緒に読んだ聖書、ローマの信徒への手紙から、苦難について考える教会修養会においては、3,4節「苦難」「忍耐」「練達」「希望」ということが関わって来ると思います。それがどうして苦難から希望に至る道筋が成り立つかというと、直前の2節の口語訳では、「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ」とあります。新共同訳では訳出されていない「立っている」という言葉が実は大事だと思います。わたしたちはどこに立っているか、と問われたときに、神の恵みの中に立っている、と言える、というのです。わたしたちには、いろいろな立場を持っています。誰もが等しく持っている立場は、神の恵みの前、という立場です。考えてみると、立つというのは、なんでもない当たり前のことのようですけれども、立つことを妨げる力や崩そうとする力に対して、戦わなければならない、と考えると、決して容易なことではありません。そうであるにも関わらず、わたしたちがなお立てるとするならば、それは神の恵みの中に、信仰によって立っている、と言えるからではないでしょうか。だから、苦難から希望への道筋をたどることができます。

 わたしたちがその中に立っている神の恵みとは、主イエスにおいて捉える恵みです。わたしたちがまだ罪人であったとき、主イエスの死によって、神の愛が示されました。その恵みの中に立ち、苦難を乗り越えることができます。





【2022年 10月 23日 主日礼拝説教より】

説教「みこころを地にも-主の祈り四」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第115篇 1節-18節

       マタイによる福音書 第6章 10節b


 

 先週、休暇をいただいて、京都大宮教会で礼拝を献げました。ちょうど、教会創立95年を祝う礼拝でした。京都の地で、キリストの教会として95年にわたって、神が御心を行ってくださった、その証しを見せていただいたように思われました。

 もう一つのことは、来週、年に一度の教会修養会を計画しています。その主題は「苦難の中を歩む教会―過去・現在・未来―」です。今年は「コロナ」「ウクライナ」「北朝鮮」「統一協会」など、わたしたちを苦難が取り囲んでいることを思います。「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るように主イエスから教えられていることは、神の御心がわからないような苦難の中で、御心を求めるように祈ることができることを示しているのではないでしょうか。

 ところで、今日耳を傾けるのは、これまで思い巡らせてきた主の祈りの中で、「御名をあがめさせたまえ」「御国を来たらせたまえ」という短い祈りに続くものです。「御心をなさせたまえ」と短く祈ればいいものを、「天になるごとく、地にも」という言葉が差し挟まれています。なぜでしょうか。

 この事を考えるときに、ハイデルベルク信仰問答124の答えに、忘れがたい言葉があることに気付かされます。「自分の務めと召命とを、『天の御使いのように』喜んで忠実に果たせるように」。「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るとき、わたしたちも天使になる、というのです。どんな天使になるのだろう、と想像するとともに、これは大変なことだ、と思います。わたしたちが人間として生きている日々のすべての生活の場面で、神の御心がなるように、天使のように生きるように、求められているからです。そのためには、神のご意志のみを重んじ、それに従わなければなりません。神の意志に逆らう自分自身の思いを捨てなければなりません。わたしたちの信仰の戦いは、新しく天使になるための戦いです。

 その時に、天使であるわたしたちの先頭には、主イエスが、天使長として立っています。主イエスこそが、天の父の愛と義のご意志を、御心を実現するために、神に裁かれ、人から裏切られる、誰よりも厳しい十字架の苦難の中で「御心のままに行ってください」と祈られました。わたしたちは、苦難の中でこそ、この祈りを祈れます。そして、どこよりも神が御心を行ってくださる教会に集わされています。





【2022年 10月 16日 主日礼拝説教より】

説教「復活の主の御体には御傷がある」
      松本 のぞみ 教師

       イザヤ書 第57章 14節-19節

       ヨハネによる福音書 第20章 24節-29節


 

 復活のイエスさまは来て弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。それからトマスに向かって「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。トマスはイエスさまの御傷のなかに、人間の疑い深さよりもさらに深みをいく、神の愛に触れた時、「わたしの主、わたしの神よ」との信仰告白が沸き上がりました。自分の手や自分の目の確かさをはるかに超えて存在する、復活のイエスさま、救い主である神と出会えたから。

 復活の主と出会う時、私を私以上に知ってくださる方の中に、本当の自分を知らされます。その時、私の人生はいかにして生きるべきか、何のために生きるべきかがはっきり示されてきます。復活のイエスさまによって私たちの人生は誕生から死で終わるのではなく、誕生から復活までであることが告知されました。人生はそこにまで行かねばならないことが知らされました。その道こそイエス・キリスト。それは死んでよみがえるイエスさまの命と一体化するという洗礼への決心、信仰告白にまで至るのです。一粒の麦のように死に、そして多くの実を結ぶことへとよみがえられたイエスさまの復活の義の実、それは2千年の間、世界に広がってきた教会、イエスさまの復活の御体なる教会です。つらなる私たちは復活の証人とされています。教会には既に私たちより先に主を告白し、復活の主と共に天の国の扉を開いて歩んで行った多くの先達がいます。やがて私たちも同じ場所に迎えられる、その日まで、あとに続く人々に復活の主を告白し続けます。「わが主よ、わが神よ」と。

 復活の主の御体には御傷があるように、復活の主の御体なる教会には十字架の傷跡があります。それは具体的に聖餐。聖餐こそが、教会が復活の主の御体であることを証しし、主の十字架と復活を証ししています。私たちはその御傷によって一つの体である教会に入れられています。十字架で主の受けた御傷によって私たちの傷はいやされ、罪ゆるされて、一つの体である教会に入れられています。このように世界にひろがる復活の主の御体なる教会には十字架の御傷のなかでつくられた神の平和があります。復活の主の御傷によって、遠くにいる者にも、近くにいる者にも、すべての人に神の国の平和がおとずれることを祈り、イエス・キリストを証しする教会として新たに歩み出したいと願います。





【2022年 10月 9日 主日礼拝説教より】

説教「神の国を生きる-主の祈り三」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第41章 8節-16節

       マタイによる福音書 第6章 10節a


 

 本日は、一年に一度の逝去者記念主日聖餐礼拝ですが、今続けて読んでいる主の祈りの、「御国を来たらせたまえ」という言葉にご一緒に耳を傾けたいと思います。この祈りは、主イエスが教えてくださった祈りの中で、弟子たちに最もふさわしい祈りだと思います。なぜなら、主イエスは、御国、すなわち神の国について、たくさんのことを教え、またその神の国をもたらすために、戦っておられるからです。

 主イエスが伝道をお始めになられる時の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉でした。「神の国」は来た、という意味です。そのことを、別の箇所では、「神の国はあなたがたの間にある」と言われました。主イエスがこの地上におられることによって、「神の国」がもうその地上に来ている、ということを指しているといえます。ですから、「神の国」というよりも「神のご支配」と訳した方がふさわしいかもしれません。国、と言うと国境を考え、こちら側とあちら側がある、と考えてしまいそうになるからです。ここではむしろ、国境ではなく、主イエスが子どもたちが近寄るのを、「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃって祝福された心で祈ることができるか、が問われています。

 主イエスの地上のご生涯は、すべての者のために、すでに地上の隅々にまで神のご支配が始まっていることを明らかにする戦いでした。今まで自分は、だれからも見捨てられたと思われた足や目の不自由な人や、徴税人、罪人などのところに出向いていかれ、神の国をそこまで持ち運ばれました。何とかこの、罪と闇に支配されたこの世界を、神のご支配なさる世界に変えねばならない、そのために主イエスこそは、この祈りを切実に祈りつつ、十字架について死なねばなりませんでした。そしてこの祈りをわたしたちの祈りとして与えてくださったのです。

 この神の国のための主イエスの戦いは、復活にまで至ります。神の支配は、死にも打ち勝つ支配です。「御国を来たらせたまえ」ということは、地上において別れの悲しみに面しているわたしたちにとって、大切です。そこでこそ、神のご支配は果てることなく続いていることを信じる祈りです。やがて主イエスがもう一度地上に来てくださってそのご支配を完成させてくださることを信じるのです。

 朝毎に、「今日も神のご支配が来ますように」、と祈りたいと思います。





【2022年 10月 2日 主日礼拝説教より】

説教「御名を聖とする-主の祈り二」
      瀬谷 寛 牧師

       エゼキエル書 第36章 22節-32節

       マタイによる福音書 第6章 9節b


 

 わたしたちがもしも、主の祈りを知らず、どんな祈りを祈ってもよい、と言われたら、まず先に、どのような祈りをするでしょうか。きっとその時の自分の目の前にある願いを祈るでしょう。間違ってはいないかもしれませんが、人間中心の身勝手な欲望から来る祈りかもしれません。それは神がただ、人間の生活に役立つものとしか考えられていないことの現れかもしれません。

 主の祈りの本文には6つの祈りがあり、はじめの3つは神のための祈り、後半の3つがわたしたちのための祈りとなっています。まず、神のための祈りが置かれるべきことを、わたしたちは主イエスが教えてくださった主の祈りから学びます。

 祈りの本文の、第一は「御名をあがめさせたまえ」です。新共同訳聖書では「御名があがめられますように」となっています。最新の聖書協会共同訳では、「御名が聖とされますように」とより原文に近くなっています。同じ意味のようでいて、厳密には、主語が違います。本来は、あくまでも主語は神の御名です。

神は、神として、そのお名前を持ってわたしたちと共にいてくださるお方です。この方に向けてわたしたちは「あなたのお名前が聖とされますように」と祈るようにと教えられています。

 この「聖としてください」の願いの背景の一つとして、エゼキエル書36:23「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」という言葉があります。神は、神の名を汚している神の民イスラエルに対し、ご自分の名を聖とし、赦しと救いをお与えになる、というのです。そしてここから、この祈りをお教えくださった主イエスの十字架の死と甦り、その福音につながってくるのです。神が、ご自分の名を汚れのない、聖とするために、主イエスをお送りになり、十字架で死なせたのです。

 ハイデルベルク信仰問答が、この祈りがわたしたちに求めることを次のように説き明かしています(問答122)。この祈りによってわたしたちが第一に、神のことを正しく知り、聖なるお方としてあがめること、第二に、わたしたちたちが自分の生活のすべてを正して、神の御名が汚されずに生きることが求められています。結局この祈りは、神を心から礼拝することを求めているのです。





【2022年 9月 25日 主日礼拝説教より】

説教「神を呼ぼう-主の祈り一」
      瀬谷 寛 牧師

       ホセア書 第11篇 1節-3節

       マタイによる福音書 第6章 9節a


 

 本日から、主イエスが「だから、こう祈りなさい」とおっしゃりながら口移しで教えてくださった「主の祈り」を少しずつ読み進めます。

 三世紀の神学者のテルトゥリアヌスという人が「主の祈りは福音全体の要約である」と言いました。キリスト教会の信仰とは何かを知ろうと思うならば、主の祈りを学べば、大切なことはすべてそこに含まれている、ということです。

 すでに教会の中で生きているわたしたちは、主の祈りを祈る機会が多いかもしれません。けれども、その主の祈りの価値を十分にわきまえているでしょうか。何気なく、無造作に、粗末に扱っていないでしょうか。心して学びたいです。

 そこで今日は最初の呼びかけ、「天にまします我らの父よ」という言葉に耳を傾けます。この呼びかけには、神がどのようなお方であるか、よく現れています。

 まず、「我らの父よ」です。神を「父」と呼ぶということは、どういうことでしょう。わたしたち人間の父親が、神に似ているから、父なる神、と呼ぶのでしょうか。わたし自身も父親ですが、あまりに情けない父親です。実は本当の、本来の父は神だけです。父としての愛を貫けるのは神だけです。それでもわたしたちが父と呼ばれる時があるなら、ほんの少し神に似ることが許された時だけです。

 わたしたちが、神を父と呼べるのは、本当の父なる神の子である主イエスと似たところがある、ということです。情けないわたしたちが、父なる神の子と呼ばれるのは、本当の子である主イエスがわたしたちにご自身の場所を明け渡してくださったからです。そのために、主イエスは十字架で死んでくださいました。

 「我らの父」の「我ら」とは、二つの意味があります。一つは、主イエスとわたしのことです。主イエスがこの祈りを祈っておられるその傍らで、わたしも祈ることを赦してくださっておられる、ということです。もう一つは、横の繋がりのことです。まずは、一緒に祈る教会の仲間たちのことです。しかしそこから始まって、わたしたちの家族、町、国、世界の者たちのことへと広がります。それらの人々と、「『我らの』父よ」と神を呼ぶことができるのです。

 「天にまします」とは、わたしたちを遥かに超えたお方、ということ、そのお方が、「我らの父」と呼べる近い所におられる不思議を思わずにいられません。





【2022年 9月 18日 主日礼拝説教より】

説教「祈りの真実」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第62篇 1節-3節

       マタイによる福音書 第6章 5節-8節


 

 英国はスコットランドで19世紀に活躍した神学者に、フォーサイスという人がいます。その代表的な著作が『祈りの精神』、最近は『祈りのこころ』と訳されているものです。その中に「最悪の罪は祈らないこと」という言葉があります。

 ところで、今日与えられた聖書に記されている主イエスの言葉は、わたしたちの祈らない罪を問題にしているわけではありません。むしろ祈りに熱心な人の偽善が批判されています。しかしそれなら、改めてわたしたちは、主イエスに偽善の罪を糾弾されるほどに祈っているでしょうか。わたしたちはまず祈らなければならないのかもしれません。そもそも祈りとは何でしょう。主イエスは、何をもって祈りとされているのでしょうか。

 まず主イエスは、祈る時には自分の部屋の戸を締めて祈れ、と言われます。大切なことは、他人に見られる中で、自分が祈ったと確認するような祈りはするな、ということです。そればかりでなく、自分自身も充実感に満たされて、祈ったと確認することも錯覚だ、といいます。あえて祈りの空しさに立つのです。

 「異邦人のようにくどくど祈るな」、という言葉があります。神を支配するような祈りはするな、ということです。なぜなら、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知」だからです。わたしたちが、自分にこれが必要だと思っても、神はもっと正確に、わたしたちに本当に必要なものをご存知でいらっしゃいます。だからもっと大胆にいうと、主イエスは、わたしたちが理解する祈りは、もう不必要だ、もうしなくていい、ということです。そうすると、祈らなければいけない、という思いや、祈れない、という思いからも自由になることができます。神が必要をご存知だからです。

 それならば、祈らなくていいのだ、とはなりません。それならばこの後、主の祈りをお教えくださる必要もないでしょう。自分で無理して祈る祈りの不必要がわかった時、本当の祈りが生まれます。

 神はわたしたちに近くいます。その神の目にだけ、自分を晒せば良いのです。信仰を持つ、とは、神がわたしたちに近くおられることに気づくことです。

 もし祈りに戸惑っているならば、「主の祈り」を、いつどこでも祈りましょう。





【2022年 9月 11日 主日礼拝説教より】

説教「神が報いてくださるのは」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第41篇 1節-13節

       マタイによる福音書 第6章 1節-4節


 

 今日から新しくマタイによる福音書第6章に入ります。本当は18節までが一つのまとまりです。ここで繰り返し問われているのは、1節の「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」ということです。この善行の代表が、2~4節の施し、5~6節の祈り、そして16~18節の断食です。その真ん中の「祈り」の部分に、主の祈りがさしはさまれています。問題は他人にほめられるために、善い業をするのは真実ではないだろう、ということです。

 そこで今日は施しについて取り上げられていますが、2節の「偽善者」という言葉は、元は「俳優・役者」を意味する言葉でした。1節の、「見てもらおうとして」という言葉は、後に劇場と訳されるシアターという英語の元の言葉です。舞台で役を演じることを、日常生活の中でなすと偽善者になります。

 2節にある、施す時に「ラッパを吹き鳴らしてはならない」というのは、分かりにくいかもしれません。ユダヤ人にそういう慣習があったのかもしれません。わたしたちはそんなみっともないことはしない、と思うかもしれませんが、要するに、わたしは善いことをしていますよ、とアピールすること、と考えれば、思い当たることはあります。わたしたちは心の中でいつも、他人からどう見られているか、他人の目を意識し、少しでも良く見られたい、と思うからです。

 3節の「右の手のすることを左の手に知らせてはいけない」というのも分かりにくかもしれません。わたしたちは両手を動かすので、右手のすることを左手が知らないはずはない、と考えます。これは、自分にも他人にも、すべての人の目に善行を見せるな、隠せ、ということです。自分に対しても芝居をしていないか、偽ることがないか、その偽善を捨てなさい、と言われているのです。

 ここで主イエスが「天の父のもとでの報い」について語っています。わたしたちは、施しなど、善いことをする時に、どこかで相手が感謝してくれて当然、と思います。けれどもそこで人に評価され、感謝される時、神にお目にかかる前に、善い行いの精算が済んでしまいます。けれどもわたしたちは、主イエスが十字架で死んでくださったので、いつも、神にこそ報いていただく、「コーラム・デオ」、「神のみ前で」生きる自由の中を、生きることができます。





【2022年 9月 4日 主日礼拝説教より】

説教「挫折を越えて」
      原田 雅子 神学生

       イザヤ書 第49章 14節-16節

       ルカによる福音書 第22章 31節-34節


 

 小麦がもみ殻と実にふるい分けられるように、サタンが試練や誘惑を用いて信仰を挫折させようと揺さぶりをかけてくると言われます。挫折する時、私たちは信仰のない自分の姿を突きつけられますが、主イエスはそのような私たちの名を愛をもって呼んでくださり、その挫折をも主の御手の内にあるのだと告げてくださいます。経験則や理屈が通らない挫折も、混沌や無秩序の結果ではなく、既にサタンに打ち勝たれた主の御心の中にあります。

 私たちをどうにかして救おうとされる主の御心を聞き、祈られている自分を知る時、絶望に転がり落ちる所から命に踏み留めさせられます。それは、十字架で救いを成し遂げてくださった主ご自身が「わたしは決してあなたを見捨てない」と外からお語りくださるのをお聞きすることです。主が決して忘れないとご自分の手のひらに刻まれた私たちの名(イザヤ49:16)は、頑なさや弱さという罪を、主イエスが十字架で代わりに負い罰を受け赦してくださったしるしです。命を掛けて救い愛し抜いてくださる主が「わたし」こそが「あなた」のために「信仰が無くならないように」祈ったと言ってくださるのです。

 更に主は、あなたは必ず立ち直るという約束をお語りくださいます。ペトロの様に私たちも立ち直らされ、挫折を越えて生かされるその先で、兄弟たちを力づける者へと変えられる希望です。主の救いを受け取り喜びに生きる姿が、周りの者を慰め、生きる力を与えるでしょう。

 今日の御言葉は、十字架を目前にした主ご自身が、最後が近づく時に大事な弟子たちにどうしても伝えたかった言葉です。あなたのためにも、わたしは信仰が無くならないように祈り、立ち直りを約束したのだ、私は決してあなたを見捨てない、いつも共にいる、それをどうしても聞いてほしいと言ってくださっているのです。

 今日、各々が問われ続ける生活の場から礼拝へと招かれた私たちは、この主の命の御言葉を共にお聞きし、ここにこそ安息を見出します。そしてその恵みを聖餐として備えられようとしています。そうして救われている自分に気付かされる喜びの中で、私たちは再びそれぞれの場所へと遣わされてゆくのです。





【2022年 8月 28日 主日礼拝説教より】

説教「敵を愛するとは」
      瀬谷 寛 牧師

       出エジプト記 第23章 4節-5節

       マタイによる福音書 第5章 43節-48節


 

 この説教に先立って、小児洗礼式、洗礼式、転入会式を執り行いました。それぞれ、違う年齢、違う性別、違う形の式でしたが、共通しているのは、仙台東一番丁教会を通して御言葉を聞く仲間が加えられた、ということです。それは主イエスの愛の中に入れられた、ということでもあります。その主イエスの愛はどのようなものか、それが今日読んだ聖書の言葉から問われています。

 主イエスはまず、当時の言い伝えである、「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉を引用しておられます。当時のユダヤ人にとっての「隣人」は、自分たちの民族同胞だけでした。その枠の外は愛する必要がなく、まして敵に至っては憎まなければならない、それが当然だ、と考えられていました。けれどもそれは既に、旧約の精神でないことがわかります。出エジプト記第23章には、敵であっても困っているときには助けることが求められています。

 主イエスもまた、「自分を愛してくれる人」だけに愛を返すことで、愛が成り立つか、と問われます。そして踏み込んで、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と勧めておられます。本当に実行できるのでしょうか?

 主イエスは、天の父である神のお姿に目を向けさせようとします。天の父は、「善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方です。わたしたちはすぐに「あれはいい人、これは悪い人」などと区別します。しかし、神の目から見たらそのような区別は実に些細な事であり、わたしたちが語る正しさもたかが知れています。神がわたしたちを養ってくださるのは、わたしたちが正しいからでも、いい人間だからでもありません。すべて、神の恵みによって、生かされています。神は、どんな人も愛しておられます。その神を信じ、信頼するならば、その「天の父の子となるため」に、父の姿を映し出し、父に似る者となるよう、求められているのではないでしょうか。

 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。「完全な者」とは、愛において完全、徹底的に愛し、赦す人のことです。主イエスは、ご自身、十字架で敵に囲まれながら「彼らをお赦しください」と祈られました。わたしたちは、その祈りによって赦され、生かされています。





【2022年 8月 21日 主日礼拝説教より】

説教「静かにささやく声」
      原田 雅子 神学生

       列王記上 第19章 1節-18節

       マルコによる福音書 第4章 1節-9節


 

 預言者エリヤは、命を狙われるという大きな恐怖の中で荒野の中を1日中歩き続け、えにしだの木の下に辿り着いた時、倒れるように座り込み「もう十分です。私の命を取ってください。」と神に願いました。私たちにも肉体的に限界で精神的にも深く落ち込み、生きる意味を見失うような経験があるでしょう。

 神はまずエリヤをしっかりと休ませ、神とお会いする所まで歩いて行く力を与えてくださいました。エリヤは荒れ野の中を40日40夜歩き続け神の山ホレブに到着し、洞穴で夜を過ごします。そこで神は「エリヤよ、ここでなにをしているのか。」と問われました。エリヤが苦しみながら訴える預言者としての空しさを、神は二人だけの所で黙って聞いて受けとめてくださいました。

 そして、神が通り過ぎてゆかれました。激しい風や地震や火という、目に見えてわかりやすいもの中に主はおられません。その後に「静かにささやく声」がありました。声が主なる神でした。その声にエリヤは立ち上がらされ、新しい次のステップへ送り出されます。

 私たちは苦しむ時に自分の中に解決方法を探し出そうとしますが、外からの声にこそ解決があります。それがはっきりと示されるのが、神が愛する御子をこの地にお送りくださった主イエスの十字架です。自力で乗り越えようとする傲慢という罪を主イエスが代わりに負い、十字架で死を味わい、赦して取り払ってくださり、私たちの耳を開き聞こえるようにしてくださるのです。苦難の中で周りを一切受け付けられなくなってもなお「私はあなたと一緒にいる。私はあなたを決して見捨てない。ここに、今、共にいる。」と語り続けられる声がある。その確かな声が細くとも小さくとも聞こえた時に、主イエスとの出会いが与えられるのです。声のただ中に十字架の主ご自身がいてくださるのです。

 主イエスは良い土地に落ちて実を結び、聴く耳を持つ者になるようにとの期待をもって、御言葉の種を撒き続けてくださいます。今日、礼拝に招かれた私たちは神の御子主イエスとお会いします。礼拝こそ静かにささやく声の源です。私たちはたとえどのような苦難の中に置かれようとも、聞こえてくる静かだけれど確かな御声に信頼して生きていくことへ招かれているのです。





【2022年 8月 14日 主日礼拝説教より】

説教「献げる者へ」
      原田 雅子 神学生

       詩編 第98篇 1節

       マルコによる福音書 第14章 3節-9節


 

 主イエスがベタニアの家で食事の席についておられたとき、驚くことが起りました。一人の女性が手にした石膏の白い壺を壊して、香油を主イエスの頭に注ぎました。それは非常に純粋で高価なナルドの香油で、その良い香りが部屋中に広がっていきます。しかしこれは当時の習慣から見て非常識な行為でした。何人かが憤慨し、もっと効果的に使えたのにと彼女を問い詰めます。300デナリオン以上という年収相当の価値がありましたから、この批判は正論でしょう。

 しかし主イエスは、これは時に適った良いことで、彼女はできることをしたのだとおっしゃり、ご自身の埋葬の準備に位置づけてくださいました。死を悼む者が共に祈りつつ大切に積み重ねられてゆく葬りの業ですが、主が十字架で息を引き取られた時、香油を塗る時間はありませんでした。今、十字架が差し迫る時に、主イエスが彼女の行いを救いの中に位置づけてくださったのです。

 この主イエスの言葉に、憤慨した人たちは立ち止まらせられたのではないでしょうか。彼女の行いは、主イエスとの出会いの中で真理に触れ、このお方こそ自分の存在を受け止めてくださるお方ではないかと感じさせられていったことから溢れ出た、感謝の応答でしょう。これに対して、憤慨する人たちは主イエスがどなたなのかを見誤ってしまっているのではないでしょうか。

 私たちもまた主イエスに結ばれて信仰にある喜びに共に生きるようになります。しかし、主を見誤ってしまっている事も私たちの現実でしょう。主を見てはいますが、語りかけを聞く耳を持たず、人も出来事も表面的な判断をしてしまいます。主は、そんな私たちを立ち止まらせて、このお方がどなたであるかを気付くようにと招き、問うてくださるのです。

 主イエスこそが私たちの救い主です。私たちを御もとに招いて御言葉の中に取り戻してくださり、主を見誤る私たちを十字架と復活により赦して救いを与えてくださいます。そして、応答する者、献げる者へと変えてくださっているのです。今、私たちにできることはこの礼拝です。それを主が300デナリオン以上のものとして受け取ってくださる。礼拝ごとに新しい出会いを与えられた感謝の讃美を、私たちの救い主が受け取ってくださっているのです。





【2022年 8月 7日 主日礼拝説教より】

説教「右の頬を打たれたら」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第50章 4節-9節

       マタイによる福音書 第5章 38節-42節


 

 主イエスのご生涯は、神のおられる天の国を宣べ伝えるご生涯でした。わたしたちが今読んでいる山上の説教は、言葉によって天の国を宣べ伝えた、その教えの代表のようなものです。けれどもわたしたちがこの山上の説教の主イエスの言葉を読む時、「イエスさま、そんなことをおっしゃっても、わたしには、実行できません」とつぶやく思いが湧き起こってくるかもしれません。

 「目には目を、歯には歯を」という言葉が出てきます。旧約聖書にも出てきますが、もっと古いハムラビ法典にさかのぼることの出来る言葉です。人に目をえぐられたら、その相手の目をえぐってもよい、という野蛮な言葉に聞こえますが、もともとは、無限に報復することを制限する言葉だ、と言われます。歯を一本やられたら、仕返しをするのは一本だけにしなさい、ということです。このような「やられたらやり返せ」というのが普通のこの世界の論理のただ中で、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という今日の言葉は、実行が難しい言葉の典型であるかもしれません。

 一つは、復讐、仕返しは、人間にはそれをする資格がない、ということでしょう。復讐、仕返しをしようとする時、わたしたちは審判者、裁判官になっています。欠けに満ちた罪人であるわたしたちに、その資格があるでしょうか。

 もう一つのことは、主イエスは損を引き受ける愛に生きることを求めておられる、ということです。主イエスはわたしたちの家族や友人との基本的な愛すらも、本当の愛になっていないことをよくご存知でした。その基本的な愛が回復されるためにも、損して愛することを受け入れよう、と呼びかけています。

 これを実行するために、わたしたちは大きな武器を持っています。そもそもこの命令、呼びかけをしてくださるのは、まさに右の頬を打たれた時に左の頬を差し出す歩みを文字通りしてくださった、主イエス・キリストです。主イエスは人々から蔑まれ、ののしられ、平手打ちを喰らいながら、一切反撃せずにそれを受け、最後は十字架の死に至りました。それは、そのように右の頬を打ってしまうわたしたちに注がれた愛と赦しを示しています。争いの絶えないこの世界のただ中で、ほんの少しでもこの主イエスの言葉が実現すれば、世界は変わります。





【2022年 7月 31日 主日礼拝説教より】

説教「真実な言葉をもって」
      瀬谷 寛 牧師

       マタイによる福音書 第5章 33節-37節


 

 今日与えられた主イエスのお言葉、それは、誓約・誓いを禁じることです。ここで語られていることは、はっきりしていると思われます。

 けれども他方で、わたしたちはいろいろな誓約をします。今、幸いなことに、洗礼志願者と転入会志願者が与えられています。もしも長老会で可決されれば、洗礼式・転入会式を行うことになります。そこでなされるのは誓約です。また、わたしたちは主日の礼拝において信仰告白をします。これも誓約と言えます。わたしたちは皆、このような神の御前での誓約に基づいてここに集まり、教会を作っています。その誓約に対してどれだけ誠実であるか、が問われます。教会生活・信仰生活の根幹に触れる、重要なことを、主イエスは語っておられます。

 人と人とが共に生きる時、常に言葉をかわします。その言葉が不真実で信頼できない物になったら、社会は成り立ちません。その真実な言葉が語られる道を訪ねて、誓約、という方法が生まれました。神のみ前で、神を証人として、真実な言葉を語る、ということです。もし裏切ったら、神への裏切りとなります。

 主イエスは、「一切誓いを立ててはならない」とおっしゃいます。34節以下には、「天にかけて」「地にかけて」「エルサレムにかけて」誓うな、とあります。当時、モーセの十戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」という言葉を守るために、そうなされていたのでしょう。主イエスは、自分が支配するのでなく、常に、生ける神の前で自分が支配されているものであることを知るために、つまり、神を神とし、神にのみ栄光を帰すために「誓うな」と言われました。

 この主イエスのみ言葉はたしかに厳しいです。けれどもそれは、主イエスが、不真実な言葉を語ってしまうわたしたちでも、父なる神と同じ真実に生きることが出来るのだ、と望みを失っていないことが示されていると思います。

 どのように、不真実な言葉を語るわたしたちを、真実を語る者に変えるのでしょうか。主イエスの十字架です。最後まで真実を貫かれた主イエスは、不真実なわたしたち人間の罪の言葉によって、殺されました。けれどもそのところで、主イエスが貫かれた真実が、不真実なわたしたちの罪を赦し、生かします。神の真実を受け入れ、信仰を告白し、真実な言葉を語らせていただきたいと思います。





【2022年 7月 24日 主日礼拝説教より】

説教「肉の欲を問う」
      瀬谷 寛 牧師

       サムエル記下 第12章 1節-15節a

       マタイによる福音書 第5章 27節-32節


 

 わたしたち、肉体をもって生きる者には、様々な欲があります。食べること、富を欲すること、名誉を願うこと。それらと並んで、肉欲の思いが、わたしたちを突き動かす欲望であることは否定できません。その肉欲を、わたしたちが、神を信じて生きるこの生活の中で、どう捉えるか、その問いを、わたしたちは避けることができません。

 果たして、キリスト教会の信仰は、肉欲を否定するものでしょうか。少なくとも主イエスは、肉欲を真っ向から否定されたことはありません。ご自身は結婚なさったことはありませんが、結婚を、心から祝福してくださる方でした。

 とても珍しく、また嬉しいことに、昨年から今年までの約半年で、この教会では三度の結婚式を行いました。その礼拝としての結婚式の中で、最初に必ず読む文章は、「主イエス・キリストも、ガリラヤのカナで婚礼に連なり、最初の奇跡を行ってこれを祝されました」というものです。教会が結婚式を行う理由がここにあります。主イエスが、結婚を喜んで、祝福してくださったからです。

 結婚は、肉欲と深く関わります。その結婚、そこでの男女の肉体的結合を、主イエスが祝福してくださるというこの事実は、主イエスが深く人間的な事柄に入り込んできてくださった、ということを意味します。

 「みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである」(28)とあります。それに続いて、右の目がつまずかせるならそれを捨て、右の手がそれをさせるなら、切り捨てよ、と続きます。今では通用しない純血主義だ、と見られがちですが、性欲を罪悪視しているわけではありません。肉体もまた神が造られ、それ故、肉体も救われるべきものです。肉欲を殺すこと、肉欲をただ満たすこと、いずれも健やかな人間が歩む道ではありません。

 主イエスは、罪を犯す目や手を、「切り捨てよ」とおっしゃりながら、わたしたち人間ではなく、主イエスの側が、十字架に死んでくださり、ご自身が切り捨てられてくださいました。それは、わたしたちのところに、健やかな愛に生きる道を開くために、侵入してこられた、ということを意味します。この主イエスによって、わたしたちは肉欲をもったままに、まるごと救われます。





【2022年 7月 17日 主日礼拝説教より】

説教「もう、怒りを捨てよう」
      瀬谷 寛 牧師

       エゼキエル書 第18章 25節-32節

       マタイによる福音書 第5章 21節-26節


 

 今日の聖書のみ言葉に、「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」とあります。人を殺してはいけないのは、誰もが知っていること、と言ってよいでしょう。けれども、誰もが知っている事実の前で、元首相の安倍晋三さんが白昼堂々、銃で打たれて殺されてしまいました。言論・思想の自由に対する反逆、と最初は見られていましたが、反社会的な宗教団体に対する恨みが原因であることが明らかにされてきました。いずれにしても、「怒り」が殺人へと至り得る事件であった、ということができると思います。

 改めて、今日の聖書には、兄弟に腹を立てる者、兄弟に「ばか」、「愚か者」というものが出てきます。これらは、怒りの感情の現れです。主イエスはこのように、他人を決めつけ、呪いを述べるようなものこそ、その人自身が呪われ、火の地獄に投げ込まれる、してはいけないことだ、とおっしゃいます。

 しかし顧みて、わたしたち自身は、怒らないで生きていかれるでしょうか。世の中には、例えば親が子に対して怒る、正当な怒りというものがあるだろう、と考えます。そこである聖書では、「故なくして怒る者は裁きを受ける」と解釈します。けれどもそれは本当に主イエスがおっしゃっていることでしょうか?

 そもそもわたしたちが怒る時、それは自分が正しいと考えることを主張している時です。前回出てきたファリサイ派や律法学者は、怒りながら正義を振りかざしていました。その彼らの義にわたしたちが勝る、と主イエスがおっしゃる時、もっと激しく怒ることを主イエスが求めておられる、とは考えにくいです。

 もう一つのことは、逆にわたしたちは、教会に今は属していない人の救いに、無関心ではないでしょうか。悲惨な事件の首謀者たちのことを憎むことはしても、この人も救われなければならない、と思ってニュースを見るでしょうか。

 主イエスは、他者と共に生きることを真剣に問うています。わたしたちが礼拝する時、礼拝とはそもそも神と仲直りしていただくことですが、その時にまだ友人と喧嘩し、人々への憎しみの心を抱いたままであることはないか、と問われます。何よりも主イエスが、怒らずに生きるとはどういうことかを、あの十字架で「父よ、彼らをお赦しください」と祈る姿で、示してくださっておられます。





【2022年 7月 10日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスの到来はこのために」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第58章 1節-14節

       マタイによる福音書 第5章 17節-20節


 

 「わたしが来たのは律法や預言者を…廃止するためではなく、完成するためである」(17)。「律法と預言者」とは、旧約聖書のことです。この言葉の説明が、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(20)という言葉だと考えられます。主イエスが来られたのは、律法を完成するためだ、と言われました。その律法の完成は、主イエスお一人の事柄にとどまらず、「あなたがた」、すなわちこの説教を聞いている弟子たち、そしてわたしたちのことです。わたしたちの義、正しさが、ファリサイ派の義にまさるようになるために、主イエスは来られた、というのです。

 けれども、そうとすれば、この言葉に誰が耐えられるでしょうか。あなたはファリサイ派の人々にもまさる義に生きている、この言葉を生きる喜びを与える言葉として読むことができるか、それがわたしたちに問われていると思います。わたしたちは、弱さの中で優しく呼びかけられる言葉に慰めを覚え、そのような言葉を喜ぶかもしれません。けれども、神がわたしたちに与えてくださる慰めは、安心して座り込むことではなく、安心して立ち上がり、歩き出すことができるようにしてくださることだと思います。主イエスが「完成する」とおっしゃる律法による義の生活は、このようなものであると思います。

 これから主イエスは、次々と2つの考え方を対比させます。昔の人は「殺すな」と教えたが、わたしは、兄弟に愛して腹を立てたり悪口を言うだけで殺すに等しい、と語ります。まさに、「律法を完成する」具体的展開です。

 わたしたちが、神の恵みによって救われるということは、その恵みによってのみ生きていることを、生活の中で具体化せざるを得ません。できそうにないことを、無理やりやらされるところに追い込まれることではありません。

 改めて、この聖書の言葉で確認することは、何のために主イエスが来られたのか、ということです。律法は神から与えられたものであり、この律法に従って生きるためには、神の恵みによって生かされるよりほかないのだ、と知らせるために、主イエスが十字架に死んで、その道を示してくださったのでした。





【2022年 7月 3日 主日礼拝説教より】

説教「あなたがたは地の塩・世の光」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第65章 8節-16節

       マタイによる福音書 第5章 13節-16節


 

 「あなたがたは地の塩である」。「あなたがたは世の光である」。

 とても良く知られた主イエスの言葉です。これは言ってみれば、主イエスのわたしたちに対する理想が語られている、と見ることが出来ます。しかしそれだけに、わたしたちは、この世にかけがえのない地の塩、光り輝く世の光だ、と言い切ることができるか、と問われると、実に心もとない者です。けれども主イエスは、この言葉の前にたじろぐわたしたちの現実をよくご存知の上で、「あなたがたは地の塩だね、世の光だね」と語られます。

 理想、と言うと、理想主義、という言葉を思い出します。ギリシアの哲学者、プラトンは、地上の目に見えるものは、肉体に閉じ込められているが、その背後に、本当の理想の姿があり、魂がその理想の姿を思い起こすことができる、真善美も、それを慕う人間の魂の働きによって説明できる、と考えました。

 天をあおいで生きているわたしたちも理想主義者です。天にあって、神の眼差しがわたしたち自身の姿を捕らえていてくださる、わたしたちはその理想の姿に生きる、と言って良いと思います。

 富士見町教会の植村正久牧師は、「地の塩、世の光とは、主イエス・キリストそのものだ。キリストが語られ、生きられた理想にひるまず、この理想をわたしたちの生活の中に織り込んでいったらよい」とおっしゃいました。

 今の日本の抱えている様々な問題の一つは、この理想主義の喪失ではないでしょうか。けれども偉そうに国や社会を批判していればそれで済むわけではありません。わたしたちの教会、一人ひとりのキリスト者が、理想に燃えているか、問わざるを得ません。日本の教会の歴史を開いた人々は、信仰の理想、幻に生きた人たちでした。だからこそ、伝道の困難に耐え、乗り越えることが出来ました。

 主イエスはわたしたちについて、大きな理想を語っておられます。この教会が存在しているおかげで、この世界が腐らず滅びずに存続するのだ、と言われます。あなたがたは「地の塩、世の光」として、大きく生きているのだ、輝いているのだ、あなたがたが考えているよりも、あなたがたはもっとずっと立派なものだ、と見ていてくださっておられます。十字架の主イエスのおかげです。





【2022年 6月 26日 主日礼拝説教より】

説教「喜んで真理に生きる」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第54章 1節-10節

       マタイによる福音書 第5章 10節-12節


 

 「山上の説教」の冒頭の「幸い」についてのみ言葉に聴いています。今日はその最後です。これまで聴いてきた8つの幸いについての主イエスの言葉の一つひとつが、わたしたちの信仰の新鮮さをテストするようなものだと思います。新鮮さを失うことは、わたしたちが神からの祝福、幸いを失い始めていることです。

 今日与えられたのは、「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉です。この言葉によって、突き放されたように思うかもしれません。これまでの貧しさや悲しさや、義に対する飢え渇きは、「わたしのことです」とうなずくことが出来ても、わたしは義のために迫害されてきた人間です、と言うには、ためらってしまうであろうからです。

 けれども改めて思い返したいのは、主イエスが「天の国はその人たちのものである」と言われていることです。これは3節の心の貧しい人たちの幸いについてすでに語られた言葉です。つまりここで主イエスは、天の国の約束を、心の貧しい人たちも、義のために迫害される人たちも、同じ人のこと、と捉えることができることを示しています。しかもそれは、ほかの誰かのことではない、この主イエスの話を聴いているあなたがた弟子たち、そして今日この言葉を聞いているこのわたしたちが、迫害を受けていると言われています(11,12節)。

 神は、人間をお造りになられたときに、「極めて良かった」、値打ちがある、とおっしゃいました。その値打ちは、神とつながっていないと出てきません。それがかつてのわたしたちでした。主イエスに救われるということは、その値打ちを回復することです。その値打ちを理解せず、ののしり、迫害し、悪口をいうものは、偽りを語るものです。ポイントは「わたしのために」、というところにあります。イエスというお方を主と信じ、従う生活を始める時、だれもが、それが理由で、ののしられ、迫害される生活が始まります。

 そう考えると、迫害される、ということの最も良い説き明かしは、迫害され、ついには十字架で罪人として殺されてしまう主イエスご自身のご生涯であることに気づきます。そして、主イエスに従ってこの迫害にあうわたしたちのことを、天で、神が喜んでおられます。その喜びを期待して、耐えることが出来ます。





【2022年 6月 19日 主日礼拝説教より】

説教「平和を実現しよう」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第8章 8節-13節

       マタイによる福音書 第5章 9節


 

 この主日礼拝では、毎週、神の言葉として聖書の言葉が読まれ、それに基づく説教を聴きます。今朝、神の言葉として聴くことが求められているのは、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」という言葉です。

 争いに疲れ果てるこの世から離れて、平和を、平安を楽しむ者は幸い、というのなら、もっと気楽にこの言葉を聴けます。けれども、「平和を実現する人々は幸い」と言われています。争いのないところへを指すのでなく、争いのあるところにでかけていって、そこで平和を実現する、平和をつくり出す(口語訳)、そういう人は幸いだ、と主イエスはおっしゃるのです。

 今、わたしたちの多くが心を傷めているのは、ロシアがウクライナを侵略している、ということです。日本においても、自分たちの国にいつ同じことが起こるかわからない、と防衛費を相当増額しよう、という声が総理大臣から上がっています。平和、という言葉が色あせ、どこかで平和に絶望しています。

 わたしたちもごく周辺の家庭、職場、教会において、「平和を実現する幸い」をどれだけ知っているでしょうか。だれも今まさに平和を実現している、とは言えないでしょう。けれども主イエスは平和を実現して生きよと言われます。このみ言葉は重いです。何を意味するのでしょう。

 「平和を実現する人」が「神の子と呼ばれる」と言われています。当時、「神の子」とは、権力を持つ皇帝などが呼ばれていた呼び名です。力をもって平和を造るものこそ、真実の王、神の子にふさわしい、と考えられていました。けれども主イエスは、その皇帝にこそふさわしい言葉を、ご自分の前に座っている民衆に向かって、あなたがたもそう生きるのだ、と呼びかけられました。

 主イエスは、どのようにしてもこの世界に平和を造り出すことができないわたしたち人間に近づいてきてくださいます。平和を作れない人間の罪を、ご自身の罪としてくださり、しかもそれを十字架の上で、滅ぼしてくださいました。聖書ではそのような仕方で、わたしたちはすでに平和を得ている、と断言しています(ローマ5:1)。何よりもまずこの平和は、神との平和が考えられなければなりません。主イエスによって根底から、わたしたちの破れ、憎しみが克服されます。





【2022年 6月 12日 主日礼拝説教より】

説教「神を見る清さとは」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第51章 1節-21節

       マタイによる福音書 第5章 8節


 

 本日与えられましたのは「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」という言葉です。確かに、心の清い人がどこかにいれば、その人は神を見られるだろう、とは思うかもしれません。けれども、これはまさしく自分のことだ、とまでは、考えが至らない方が多いかもしれません。

 「心の」という言葉がついていますが、肉体は別にして心だけ清い、と考えるのではなく、心が清ければ、その人間そのものがまるごと清い、そういう「心の清さ」と理解すべきです。

 では、その清さ、とは何でしょう。混じりけのない、純粋な、あるいは、「単純さ」と訳すことも出来ます。心にシワがない、隠れるところがない、従って愚直、ともなります。複雑な現実にあって、賢さを捨て、愚かなほど単純に、裏表なく、真っ直ぐな清さに生きよ、と主イエスは呼びかけておられます。

 この箇所について書き記す者の多くが、詩編第51篇と重ね合わせています。この詩は、イスラエルの最も偉大な英雄とみられるダビデ王の歌、と言われます。けれどもダビデは間違いを犯しました。自分の部下、ウリヤの妻、バト・シェバを自分のものにすべく、ウリヤをわざと戦いの最前線に送って敵に殺させました。神は、このダビデの罪を見過ごさず、預言者ナタンをダビデのもとに遣わして、その罪を告発しました。ダビデはその罪を責められて、涙ながらに歌ったのが、この詩編第51篇だ、と言われます。

 「神よ、わたしのうちに清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください」。自分が悪いことをしておいて、虫が良すぎる祈りですが、「清いものがなにもないわたしに、清い心を創造してください」とダビデは祈らざるを得ませんでした。

 「その人たちは神を見る」とは何でしょう。一つは、世の終わりにおいて、はっきりと神と顔と顔とを合わせて対面する時を待ち望むことです。今はまだ神を見ていないが、必ず見ることを楽しみにしつつ生き、死ぬのです。もう一つは、イエス・キリストを知ることによって、すでに神を見ている、ということです。わたしたちが礼拝で出会う主イエスのお姿、その御業の中に、神のみ顔を見るのです。礼拝をするわたしたちこそ、神を見る心の清い者とされているのです。





【2022年 6月 5日 主日礼拝説教より】

説教「聖霊を受けた好ましい群れ」
      瀬谷 寛 牧師

       ヨエル書 第3章 1節-5節

       使徒言行録 第2章 36節-47節


 

 本日は、聖霊降臨主日(ペンテコステ)礼拝として礼拝を献げています。主イエスが十字架で死に、三日目に甦られた後、40日後に天に上られました。そして、復活から50日後、弟子たちが一つに集まっているところに聖霊が弟子たちのところに降りました。ペンテコステとは、第50日目、という意味です。

 ところで、聖霊が注がれると、何が起こるのでしょうか。なんといっても、教会が生まれます。使徒言行録第2章の前半ばかりが注目されますが、実は聖霊降臨の後にまだその出来事は続きます。第2章の最後まで、もっと言えば、使徒言行録全体が、聖霊降臨で起こった教会の出来事と言えるかもしれません。

 そして、ペンテコステ、聖霊降臨というと、何か超自然的な出来事を思い浮かべるかもしれませんが、大切なのは、神の言葉の出来事が起こる、ということです。1~4節にあるのは、聖霊に満たされた弟子たちは、他の国々の言葉で語りだした、ということです。その語りの内容は、11節に、「神の偉大な業」でした。

 この時、聖霊が下った弟子たちの語った言葉を代表して、14節以下にペトロの説教が収められています。この説教の大切な点は、説教の最後、36節で、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。ユダヤ人たちが十字架につけたイエス・キリストを神は復活させ、この方を神は主とし、メシアとなさった、これが、聖霊によって語られた神の偉大な御業だったのでした。

 その聖霊に働きによって偉大な御業を語る言葉を聞いた者たちが、「どうしたらいいですか」と訪ねます。ペトロが答えた最初のことは、悔い改めることでした。悔い改め、洗礼を受け、罪を赦していただくことを勧めます。そうすると、聖霊を受けるようになる、とペトロは語ります。洗礼を受けるということは、41節では、教会の仲間に加わることだと言われます。そこで、み言葉に聞き、聖餐に与り、祈る、つまり礼拝を献げる者になる、ということです。

 礼拝を献げる者たちは、互いに持ち物を分かち合い、「民衆全体から好意を寄せられる」群れとなります。自分も、あの仲間に加わりたい、そう見てもらえるような教会の群れに、聖霊を受けたわたしたちの教会も、なることができます。





【2022年 5月 29日 主日礼拝説教より】

説教「手応えある憐れみ」
      瀬谷 寛 牧師

       マタイによる福音書 第5章 7節


 

 主イエスは「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」とおっしゃいました。わたしたちがこのみ言葉を聞くとき、別に新しいことではない、当然のことを聞いた、と思うかもしれません。さしあたり、「憐れみ」を「愛」という言葉で置き換えてみますと、要するに主イエスはここで、「愛し合いなさい」とおっしゃっておられます。仏教でも、道徳でも、「愛は大切」と教えます。けれども考えて見るにつけ、誰もが大切と認めながら、実行するのに難しい課題であることに気づきます。わたしたちのあらゆる行動に、「そこに愛はあるのか」と問われているのです。主イエスはそこで、答える道を与えているのです。

 「憐れみ」は、「同情」とも言い換えられます。ある牧師は、妻のいくつもの美点を数え上げた後、たった1つの欠点として「夫に対する同情がない」と述べました。すると妻がすぐに答えました。「それはこちらの言うべきことです」。どの夫婦も、必ずと言っていいほど、相手に対して抱いている思いかもしれません。

 同情してもらえないのも悲しいですが、同情できないのも辛いことです。夫婦や家族のだれかが病気になった時、途方に暮れます。肉体の辛さや痛みを本人と全く同じ仕方で分かち合うことができないからです。他人の悲しみ、苦しみ、いや、喜びすらも本当には自分の心にできないわたしはどうしたらよいでしょう。

 そのわたしに「憐れみ深い人々は幸いである」と主イエスは語られます。この時の「憐れみ」は、人間の感情よりも、神と人間の関係の正しさを意味します。神の憐れみは、神の義、正しさが貫かれることに結びつきます。正義を貫かれる神は、憐れみをもって振る舞い、わたしたちを憐れみの義の中にすでに立っていることに気づくように招き入れます。主イエスの命をもって立たせます。「憐れみ深い人」とは、神の憐れみを知り、それに感謝することを知っている人です。

 礼拝において、司式の長老がする大切な祈りは、会衆の皆さんを代表してなされる罪の告白です。そして神の憐れみを願うのです。わたしたちは、神の憐れみなくしては決して生きていかれません。「憐れみ深い人々の幸い」は、自分の憐れみの貧しさを知る者は幸いだ、ということです。そして、本当に憐れみの幸いを知るのは、十字架にかかられた主イエスのみです。愛は神に関わるものです。





【2022年 5月 22日 主日礼拝説教より】

説教「義に飢え渇くわたしたち」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第23章 1節-8節

       マタイによる福音書 第5章 6節


 

 「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」。

 主イエスの教えてくださった山上の説教の冒頭の言葉を一節ずつ読んでいます。皆さんは、「義に飢え渇く」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。

 今年の2月24日、ロシアがウクライナに攻め戦争が始まりました。ロシアは各地で民間人への無差別攻撃を行い、民間人の死者は3000人、避難民は1000万人と言われます。ウクライナも防戦していましたが、直近では、マリウポリの製鉄所で最後まで立てこもっていたウクライナ兵士が投降した、と伝えられました。

 本当は皆、よく知っているはずなのです。殺し合ってはいけない、ということを。わたしたちのこの日本は、唯一の被爆国と言われます。憲法において、武力を持って国際紛争の解決をしようとは思わない、と平和を宣言した国です。そこに生きるわたしたちキリスト者は、何をどう考え、生きていったらいいのでしょうか。そのことは、具体的に声を上げるかどうかはともかく、問い、祈り続けることが、求められているように思います。

 「義に飢え渇く」ということは、そういうことです。今ここで、正義が行われているか、世界に神の義が立てられているか、その問を問い続けることを止めてはならない、と主イエスはおっしゃっておられるのです。

 けれども、わたしたちは一方で、正義、愛、平和などと言っても、現実は結局力付くの世界ではないか、と思っています。主イエスはまさにそのところで、望みを捨てず、義に飢え渇くことは大切だ、とおっしゃいます。もちろん主イエスは現実をよくご存知であられながら、しかしそれでも単純に、無邪気に、クソ真面目に、義に飢え渇く心、義を求める心に生きよう、と呼びかけておられます。義を渇き求めながら、それを実現するのに無力である、そのことを主イエスの前にさらしだすことがわたしたちには赦されているのです。

 何よりも、本当に義に飢え渇いていたのは主イエスです。わたしたち人間が正義を求めて祈るどんなに小さい嘆き祈りを、それにつきまとう罪から清め、神の前において聞き届けられる幸いなものに変えるために、主イエスは、最も深いところ、あの十字架の上で「義に飢え渇いて」おられるのです。





【2022年 5月 15日 主日礼拝説教より】

説教「愛によって造り上げられる教会」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第127篇  1節、2節

       エフェソの信徒への手紙 第4章 16節


 

 本日は、アメリカのペンシルヴェニア州ランカスター神学校の学生たちがYouTubeを通して一緒に礼拝を献げています。かつて、東京神学大学からの夏期伝道実習生としてこの教会で実習をした、上田容功教師が関わっています。

 また本日の礼拝後、当教会の教会堂献堂20年記念シンポジウムが行われます。この教会堂がこのように建築されるに至るまでの歩みに、思いを馳せます。

 ところで、今日は特に、エフェソの信徒への手紙4:16の「造り上げられていく」という言葉に注目をしたいと思います。これは、聖書の元の言葉であるギリシア語では、「オイコドメー」「オイコドメオー」といい、家をたてること、家の建築を意味する言葉です。

 聖書では、実にしばしば、「教会を形造っていく」ことを、この、「家を建てる」ことと結びつけて、同じ言葉で言い表しています。特に今日の4:16では、教会は愛によって造り上げられ、建設されていくことが大切なことだ、と言われています。その場合の愛とは、何と言ってもイエス・キリストの愛です。「キリストにより…造り上げられる」とつながります。主イエスが、その愛によって、一人ひとりそれぞれ違う部分、違う働きを担う者同士を結び合わせ、教会というキリストの体が成長し、造り上げられていく、というのです。主イエスは、この違う者同士を、自分を捨てても他者を生かす、十字架の愛をもって、結び合わせます。十字架の愛を互いに分かち合いながら、教会を造り、成長するのです。

 この、家を建築するように少しずつ、丁寧に建て上げ、造り上げていくことの大切さは、コリントの信徒への手紙一第3章からも見て取ることができます。3:9で、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」という言葉があります。主イエスの教会に生きる者は、神のために力を合わせて働き、神が建てられる建物とされます。またさらにその先の17節では、あなたがた、つまり教会に生きるわたしたちは「神の神殿」だ、と言われます。わたしたちが、神が住んでくださるところとされる、というのです。驚くべきことです。神は、本当に生きておられるのか、と周りの人から問われるときには、教会に集うわたしが、神の神殿、わたしを見れば神が生きておられるのがわかる、と答えることができます。





【2022年 5月 8日 主日礼拝説教より】

説教「人生に勝つやさしさ」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第37篇  7節-13節

       マタイによる福音書 第5章 5節


 

 「山上の説教」という、主イエスが弟子たちや群衆を前に語った説教の冒頭の、幸いについての箇所を、一節ずつ礼拝説教で取り上げています。丁寧すぎる、と思われるかもしれませんが、それでも聖書の言葉の富、豊かさを汲み尽くしたとは言えません。少しずつ、その豊かさを受け取って進みたいと思います。

 今日は「柔和な人々は幸いである」という言葉です。「柔和」、やさしさです。人との付き合いにおいて柔らかくやさしいことを指します。すぐに怒らず、ピリピリ身構えず、余裕があり、ゆったりしており、じっと耐えて、神を待ち望む心、それが柔和な心と言えるでしょう。

 ヨーロッパの神学者は、「柔和」とはひじを張らない生き方、と説明します。日本のように四方を海で囲まれておらず、いたるところが地続きなヨーロッパの人々は、いつ攻め込まれ、また押し返し、肩ひじを張って生きています。今、まさにウクライナで起こっていることが、いつ、どこに起こるかわからない、そういう緊張感があります。実はユダヤ人たちも同じでした。旧約聖書は、ユダヤの人々が周囲の大国によって脅かされ、攻め込まれ、翻弄された様子を語ります。

 そのような状況において、この「柔和」が語られます。それは決して簡単ではありません。自分の家庭で、職場で、どういう顔つきをしているか、笑顔で、やさしさだけでは生きていけない、と考え始めてしまいます。

 けれども、わたしたちにはやはり、その全生活において柔和であることが求められています。そこで一つ大切なことは、「その人たちは地を受け継ぐ」と言われていることです。柔和の世界は、天にしかないように思うかもしれませんが、神は天にも地にもおられます。神が、最初の人間アダムとエバをご自分の形に似せて造り、他の被造物を管理させたように、柔和な人間は地を受け継ぐのです。

 この「柔和」が同じマタイの他の箇所に、主イエスについて語るところで出て来ます。第11章では柔和で謙遜な主イエスのもとにまことの休息が与えられること、第21章では柔和なロバの子に乗って、都エルサレムに入城することが記されています。主イエスは力付くで生きようとするわたしたちのただ中で、柔和に、力を捨てられ、十字架の死によって、わたしたちを救ってくださいました。





【2022年 5月 1日 主日聖餐礼拝(教会創立141年記念礼拝)説教より】

説教「成熟した人間・成熟した教会」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第44篇  21節-23節

       エフェソの信徒への手紙 第4章 12節、13節


 

 わたしたちの教会では、毎年、5月第一主日に、教会創立記念礼拝を献げています。昨年は創立140年の記念の年でした。切りのいい年であり、大きな区切りを迎えたことを意識して臨んだつもりでした。けれども一年前は、コロナのひどい時期とも重なっていました。残念だったのは、聖餐に与れなかったことです。わたしたちの教会は、聖餐にあずかり続けて、本日、141年の記念の時を迎えました。この聖餐を大切にして、このパンと杯によって指し示されているお方、主イエス・キリストを主と仰ぐ信仰を明確にしてきたのです。

 本日与えられた聖書の箇所は、教会について書き記されているところです。そこには、当時から今に至るまでの教会の特質が示されています。今日読んだ一つ前の11節以下には、当時の教会の中にすでに、使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師などいろいろな務めがあり、役割分担されていた、つまり制度がすでにあった、ということが記されています。

 教会にはなぜ制度があるのでしょう。そこには目的がありました。「こうして聖なる者たちは、奉仕の業に適したものとされ」(12節)る、洗礼を受けた教会員が、神のもの、聖なる者として、主イエスに奉仕する、主イエスの体なる教会にお仕えする、という目的です。

 そして、「キリストの体を造り上げていき、…成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです」(13節)とあります。成熟した人間、とは完全な人、という言葉です。不完全ではないのです。キリストの豊かさによって測って、「ああ、一人前の教会だ」と言えるようになろう、というのです。そのために、「信仰と知識において一つ」(13節)になる事が必要です。バラバラなのではなく、一つなる教会の信仰の言葉を自分の信仰の言葉にし、そのように「信仰と知識」が一つであることが、教会が成熟していく問の基本的な条件で、そのことによって教会は、神の子の豊かさを反映するものとなります。

 そして、その後には、「愛に根ざして」(15節)、「愛によって造り上げられる」(16節)、とあります。主イエスの愛の中に立ち、その愛をもって愛し合い、慰め合う教会、これこそ、わたしたちの目指す成熟した教会に進む道です。





【2022年 4月 24日 主日礼拝説教より】

説教「苦難から忍耐・練達・希望へ」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第119篇  113節-120節

       ローマの信徒への手紙 第5章 1節-15節


 

 本日、この礼拝の後に、2022年度第二次定期教会総会が開かれます。この朝の礼拝は、その開会礼拝を献げる思いで、献げたいと思います。

 総会では、これまでの歩みを振り返る報告がなされます。教会では「恵みを数える」という言い方をして、これまでの歩みを神に感謝します。また、これからの活動計画を審議します。これは、これからの歩みを神にお委ねをする、という意味があります。ほかの団体でも総会があるでしょうが、神に感謝し、神に委ねる、そのように神と共に歩み姿勢を表すのが、教会独自の総会の仕方です。

 新年度、わたしたちの教会が見つめようとしている、一つのキーワードは「希望」です。このコロナ禍の中で、教会の活動も、決して小さくない影響を受けました。苦しみ・苦難の時であることを自覚しながら、この時をどう過ごし、どう乗り越えていったらいいのか、その答えとしての一つが、このみことばに示されているのではないでしょうか。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(3,4節)。けれども、「苦難にあっても、希望があるよ、希望を捨ててはいけないよ」という言葉を、確かな根拠と共に聞くことはなかなかできないのが現状である気がします。

 聖書では、何を根拠としているのでしょうか。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」(1節)。神との平和な関係に生きている、と言い切っています。しかし、わたしたちのどこに平和があるのだろう、と戸惑うかもしれません。ロシアのウクライナ侵略のニュースが流れるのを聞きながら、平和のありかを探しているわたしたちです。

 この手紙の著者パウロはここで、自分が神に受け入れられていることを喜び、誇っています。神がわたしたちを受け入れて、神との間に平和を得ている、だからわたしは、苦難を喜ぶ、と言います。それは、主イエスの十字架の死と復活によって、神の愛がわたしたちに注がれた故にもたらされた、神との平和です。

 わたしたちの教会は「神との間に平和を得ている」のですから、どのような苦難を誇りとし、喜びとし、希望に向かって進んでいくことができます。





【2022年 4月 17日 主日礼拝説教より】

説教「悲しみが喜びに」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第61章 1節-9節

       マタイによる福音書 第5章 4節


 

 ただ今、洗礼式を執り行い、一人のキリスト者の誕生を目の当たりにしました。教会として、こんなに喜ばしいことはありません。主イエスのお甦りを記念するこの時に、喜びが重ね合わせられます。その喜びの中で説教が語られます。そのような時に与えられたみことばは、「悲しむ人々は幸いである」というものです。ふさわしくない言葉のように思われますが、この喜びの中で、悲しみについて思い巡らせることは、わたしたちの喜びは何か、幸いは何か、その真相を見つめることになると思います。

 わたしたちが語れるのは、「悲しまないで生きることは幸いだ」ということでしょう。けれども主イエスは「悲しむ人々は幸いである」とおっしゃいました。もう一歩進めると、「悲しむことができる人々は幸いである」と聞くことができます。悲しみを表に表すことができる、その悲しみが祝福を受ける、やせ我慢はしない、悲しければ悲しめばいい、というのです。

 ヨハネによる福音書第11章に、主イエスがラザロを墓から呼び出された物語が記されています。ラザロがすでに死んでしまったあとで、主イエスがその村にたどり着きました。親しい者が失われて、その姉妹マルタとマリアは、涙を流しました。主イエスは、その涙を軽んじられませんでした。「イエスは涙を流された」(35節)。姉妹の涙を受け止められました。悲しむがよい、その涙を、神のみ前に注いだらいい、そのように涙を流すことができる者は幸いだ、主イエスはそう語られました。主イエスの涙は、わたしたちの涙を受け入れる涙なのです。

 「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」と、詩編の詩人は歌いました(56:9)。神が、わたしたちの流す涙を、飲み干してくださいます。主イエスが一緒に涙して、わたしたちの涙を覆ってくださいます。

 主イエスは、その悲しみを全部引き受けて死なれた後、復活してくださいました。悲しみがわたしたちの最後の言葉ではないことを、示してくださいました。死に対する勝利は、悲しみに対する勝利です。そのように、自由に悲しめる者は、他者の悲しみを引き受けることができます。教会は、そのような悲しむの悲しみを引き受け、慰める共同体です。今日、そこに一人が増し加えられました!





【2022年 4月 10日 主日礼拝説教より】

説教「祝福される貧しさ」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第20章 7節-13節

       マタイによる福音書 第5章 3節


 

 主イエスは、山に上って、人々に教え始められました。この山上の説教は、「心の貧しい人々は幸いである」と、貧しさの祝福を語ることから始まります。一体、その「貧しさ」とはどのようなものなのでしょうか。

 このマタイによる福音書では、「心の貧しい人」について語られています。同じ場面を記したルカによる福音書6:20は、ただ「貧しい人」となっています。けれどもマタイも、物質的な貧しさを否定するものではないでしょう。キリスト教会の歴史の中には、たとえば修道院などで本当に貧しい生活を送ることが主イエスに仕えることだ、とその生活を大切にして来た伝統があります。

 「心」と訳されている言葉は、もとの新約聖書のギリシア語では、「霊」とも訳すことのできる言葉です。つまりここでは、神の霊との関わりにおいて貧しい人々のことが言われています。

 ここで思い起こすことができる貧しさの典型は、ルカによる福音書16・19で語られている、金持ちと貧乏人ラザロの話です。主イエスは、一人の金持ちが贅沢な日常生活を遊び暮らしていたが、死んだ後、地獄に落ちた、ところが金持ちの食卓の残飯で生きた貧乏人ラザロが死んだ後、天国に行った、という話をなさいました。因果応報の物語として考えられやすいものです。

 けれども、ここでは、ラザロの善行も金持ちの悪徳も描かれてはいません。ラザロは、欠乏、貧しさの中で神の救いにあずかった、それだけです。

 ルターはこの貧しさについて語りました。死の2日前に記した言葉は、「我々は物乞いにすぎない、それは本当だ」という言葉です。これは、聖書の言葉がわかるには、神の導きによる奇跡を待つ他ない、と行って、ただみ言葉を求め続ける思いを述べた言葉です。ルターは、神の霊による交わりに生きた時、自分の貧しさを深く知りました。それが貧しさに生きた人、ルターの人生でした。

 この貧しさ、神を真実に生きておられる方として仰ぐことができない欠乏こそ、何もかも満ち足りていると思われる現代においても解決されていないわたしたちの貧しさです。それは、わたしたちの愛の貧しさに繋がります。けれども、神ご自身の愛、主イエスをもって、貧しさの欠け、罪を覆ってくださいました。





【2022年 4月 3日 主日礼拝説教より】

説教「幸いを造る」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第1篇 1節-6節

       マタイによる福音書 第5章 1-12節


 

 2022年4月、新しい年度の最初の主日礼拝です。2021年度の困難を、主イエス・キリストの父なる神が支えてくださったことを感謝し、新しい2022年度も支えられ、御心にかなって歩ませていただけますことを、祈り願います。

 さて、この礼拝で読む聖書の言葉も新しくなりました。マタイによる福音書第5章から第7章まで主イエスが直接語られた、特徴的な、生き方についての教えが記されています。「山上の説教」と呼ばれます神の救いを宣べ伝え、それを告げる、まさに説教の言葉です。 この山上の説教は有名な、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉がから始まります。昨年度までわたしが聖書を教えていた東北学院中でも、毎年この言葉を取り上げていましたが、「貧しい人が幸い、なんでありえない! 金持ちが幸せに決まってる」という反応です。主イエスはわざと普通の人とは逆のことを言って聞かせて、驚かせるために語ったのでしょうか。むしろ、「おめでとう! あなたは心が貧しくて、なんと幸せな人でしょう!」と呼びかけています。

 わたしたちの地上の生活は、幸いからほど遠い、といえるかもしれません。東日本大震災、その余波と思われる地震が襲いました。新型コロナウイルスという疫病が、世界を覆い包みました。ロシアのウクライナ侵攻は、今日もわたしたちの心を痛めます。

 この世界の中で、主イエスはわたしが語る、わたしの描く世界の姿は喜ばしいものだ、といわれます。天だけが持つ理想の世界を語られたのではありません。

 主イエスは、世界の暗さを知りつつ、そこで幸いを造ってくださいます。貧しさや悲しみを、幸いなものへと造り変えてくださいます。責任を持って。

 主イエスはどこで責任を取られたのでしょう。それは、十字架の上で、です。この教えを語られた主イエスはやがて、十字架で死なれ、甦られました。ここで語られた幸いが、地上に生きるわたしたちの今ここでの現実となるように、と責任を取って十字架で死んでくださいました。

 主イエスが悲しみに満ちたこの世界のただ中で、世界のために死に、甦り、わたしと共におられ、教会の中にわたしが置かれる、こんな幸せはありません。





【2022年 3月 27日 主日礼拝説教より】

説教「祈りのこころ」
      松本 のぞみ 教師

       イザヤ書 第55章 6節-7節

       ルカによる福音書 第22章 39-46節


 

 イエスさまは私たちの祈りのこころを、父の御心に結んでくださるため、苦しみもだえ、切に祈られました。もしもイエスさまだけが父の御心と一つになるのであったなら苦しむことはなかったでしょう。もともと父・子・聖霊なる神は一つだからです。しかし、父・子・聖霊なる神の御心の交わりのなかに、私たち罪人を招き入れてくださるために神は痛んでくださいました。神はイエスさまによって私たちをご自分のなかに招き入れてくださるほどに私たちを愛してくださっているからです。この神の憐れみのこころは、イエスさまの十字架において完全にあらわされました。イエスさまの十字架は、神がまことの人となり、罪なき方が私たち罪人の身代わりとなって死んでくださることにより、私たちを神と一つに結んでくださいます。十字架でからだが引き裂かれる苦しみのなかで、イエスさまは私たちの祈りを神の御心と一つに結んでくださいます。その祈りには十字架の痛みが伴っています。イエスさまに祈られて、私たちに「祈りのこころ」が与えられています。

 どんな祈りであっても、主イエス・キリストの御名によって、天の父に祈るとき、祈りは、私たちのこころを、罪からみこころへと高め、悔い改めさせて、神さまの、私たちに対する偉大なご計画へと導きます。イエスさまこそ、十字架にかかられる、最大の危機のとき、その悲しみの中で、私たちの救いのために、「父よ」、「みこころのままに」と祈り、その力のすべてを、父なる神さまの御手にゆだねられました。そのことによって、神さまは、イエスさまを、死者の中から復活させ、その赦しと愛のうちに、私たちを、招いてくださっています。ここに、私たち教会の、立ち帰る場所があります。イエスさまは、祈りこそが、教会のなすべき、務めであるからこそ、主の十字架の力に裏打ちされた祈りのことば、主の祈りを、私たち教会にお与えくださいました。主の祈りに導かれて共に祈る教会の兄弟姉妹の祈りを通して、天の父なる神のみこころは前進していきます。祈りによって、祈った私たち自身が、神のみこころをなすものへと、変えられていくからです。

 十字架の痛みをもって永遠に生きて執り成してくださるイエスさまのもとに、悲しみを注ぎ出すとき、私たちのこころは天の父なる神さまのみこころへと高められ、悔い改めさせられて、人の思いをはるかに超えた神さまの救いの道へと、導かれていきます。





【2022年 3月 20日 主日礼拝説教より】

説教「あなたも、網を捨てて従うように」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第46章 3節-13節

       マタイによる福音書 第4章 18-25節


 

 今日の聖書箇所には、主イエスの弟子の召命の物語と、さまざまな病苦に悩む群衆を主イエスのもとにつれて来る話、という2つのことが描かれています。そのそれぞれの最後、22節と25節に、「イエスに従った」という言葉が記されています。弟子と、群衆と、従い方は違うかもしれません。けれども、誰であっても「主イエスに従う」ということは大切なことです。主イエスを信じることは、主イエスに従うことです。それは、牧師であろうが、信徒であろうが、主イエスを信じる信仰に生きるものは皆、神に身を献げ、主イエスに従って歩む、同じ重みを持つ献身者である、ということを意味しています。自分の人生をそういう重みを持った人生として、受け止めることが大切です。それは素晴らしいことです。

 主イエスに従う道はさまざまです。群衆も、主イエスに従いました。彼らが従ったのは、彼らには悩みがあり、それを主イエスのところに持って行ったのです。そこから解放されたい、と願っただけなのです。彼らの悩みは、悪霊に取りつかれたり、てんかんや中風の病にかかっていたことでした。主イエスはそのような悩みを軽蔑されることはありません。わたしたちの悩みも、です。そしてその中から、主イエスの名を呼ぶ人に、「あなたの信仰があなたを救った」とさえ言ってくださいます。悩む者たちは、主イエスのことをよく知っていたわけではありません。悩みを、主イエスが解放してくださるかもしれない、と期待しただけです。それを主イエスは信仰、と呼び、ほめてくださいました。主イエスに従い、ついて行く者の恵まれた姿です。

 もう一つの姿は、主イエスに呼び出されてしまった弟子たちです。ここに登場するのはすべて漁師です。彼らがなぜ主イエスに従うようになったかは書かれず、ただ、主イエスに呼ばれ、それに従っただけだ、といいます。確かにわたしたちが主イエスに従うことを、わたしたちの側の理由によって説明することはできません。あるのはただ、「主イエスが呼んでくださった」、それだけです。

 主イエスは網を打っている漁師の日常生活に踏み込み、変えてしまわれたように、わたしたちの日常にも来られて、「あなたも網を捨てて、わたしについておいで」と言われます。誰がお断りできるでしょうか。





【2022年 3月 13日 主日礼拝説教より】

説教「真実の愛に基づき招き ―本当の自分を見出すところ―」
      宮城学院院長 嶋田 順好 教師

       イザヤ書 第43章 4節

       ルカによる福音書 第19章 1-10節


 

 自分のことは自分が一番良く分かっていると私たちは思いがちです。しかし、実にしばしば私たちは自分の本当の願いさえ、自分で気づかずにいるのです。エリコの町の徴税人の頭ザアカイも、まさにそのような人物でした。ローマの手先となって税金を取り立てる仕事は、当時のユダヤの国では、最も忌み嫌われる職業でしたから、徴税人の頭とは文字通り罪人の頭とも言える存在でした。
そんなザアカイが、エリコに主イエスが到来した時、一目見ようとして、職場を離れます。しかし、彼は主イエスを見ることができません。彼は背が低かったし、エリコの住民の敵意が壁となって彼の行く手を遮っていたからです。

 しかし、生来の機転を働かせ彼は脱兎のごとく先回りして、いちじく桑の木に登って高みの見物を決め込みます。いい年した大人がそんな振る舞いに出ることは滑稽でもあり、異様とも言えます。しかし、彼には、そうせずにはいられない強烈な好奇心が宿っていたのです。そんな木の上のザアカイを目指して主イエスはまっしぐらに突き進み、あろうことか「ザアカイ、急いで降りてきなさい。ぜひ、今日はあなたの家に泊まりたい」と招いてくださったのです。それはザアカイにとって、にわかには信じがたい驚くべき恵みでした。

 宗教改革者のマルティン・ルターは、この時のザアカイに「キリストがおいでになるように望んでいたかと尋ねたなら、彼はきっと『わたしにはそう願い、望む勇気はありません』と答えたでしょう。ここに人の心の深みを見ることができます。その真実は深く、その望みは隠されていて、心はそれ自身を知らず、自分の望みを喜ばないのです」と説いています。そのザアカイさえ気づかずにいた真実な愛の交わりへの渇きを、主イエスが探り当て、招いてくださったのです。

 主イエスの懐に飛び降りたザアカイは、主イエスと共に食卓を囲んだ時、これまでの歩みを悔い改め「財産の半分を貧しい人に施します。また、だれからだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と告げます。この時のザアカイはパウロと同じく、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者とみとめられ」(フィリピ3:8-9)たからです、との歓喜に満たされていたに違いありません。





【2022年 3月 6日 主日聖餐礼拝説教より】

説教「救いに至る道」
      瀬谷 寛 教師

       イザヤ書 第8章 23節-第9章6節

       マタイによる福音書 第4章 12-17節


 

 教会の暦によりますと、3月2日から、受難節(レント)と呼ばれる期間に入りました。代々の教会では、主イエスのご復活を祝うイースターの前日まで、日曜日を除いた40日間を、復活に備えるため、主イエスの十字架のみ苦しみを思い、悔い改めの期間として過ごします。なぜ40日間か、その理由は、主イエスが荒れ野で40日40夜、断食をし悪魔の誘惑を受けられたことにあります。

 わたしは以前から、暦に関係なく、いつでも主イエスのみ苦しみを大切に思い起こすべきだろう、と考えていましたが、最近は、これまでの教会が、主イエスのご復活に向かって、祈り、断食、慈善など、身を謹む生活してきたことは、必要なことだと感じています。皆さんも、何かを我慢して、具体的に生活を変化させて、この期間を過ごすことを実践してみるのも良いかもしれません。

 ところで、その荒野での悪魔との対決を終えて、主イエスはいよいよ公の宣教活動に入られます。ヨハネが捕らえられたことが最初に記されています。当時この地域、ガリラヤを治めていたヘロデに、ヨハネはやがて殺されることになります。神の声を圧殺する、この世の権力者の力が働いています。ヨハネは、人々に悔い改めを求めました。そして、死に渡されてしまいました。ここにすでに、主イエスの歩みと重なる、その先駆けとしてのヨハネの姿が浮き彫りになります。

 ところで、主イエスの宣教活動は、「ガリラヤに退かれた」ところから始まります。ガリラヤは中央の都エルサレムからすれば、北の外れの、異邦人の町に隣接した、周辺、地方と言えます。神は、ご自分の計画をすすめるために、まずこの周辺、地方を選ばれるのです。考えてみれば、主イエスがお生まれになったのは、中心のエルサレムではなく周辺のベツレヘムの、しかも家畜小屋です。また主イエスは、罪人、徴税人、娼婦と言われた、周辺の苦しく貧しい人々とずっと共に過ごされました。

 そして主イエスはご自分を指差すように、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言しました。主イエスのおられる所、そこが天の国です。その天の国が近づいた時に求められているのは悔い改めです。わたしたちが神に背を向けて歩いていましたが、十字架で死なれる主の到来によって、神へと向かって進みます。





【2022年 2月 27日 主日礼拝説教より】

説教「主から受けたすべてを」
      松本 のぞみ 教師

       申命記 第6章 4-5節

       マタイによる福音書 第26章 1-13節


 

 ひとりの女性がイエスさまの頭に高価な香油を注いだ、この出来事からイエスさまは受難への第一歩を踏み出されました。この女性のささげものは人間の暗闇の中に福音の光が差し込んだ出来事として聖書にしっかりと書き記されました。

 暗闇の中に神の光が差し込んだ、それはクリスマスの出来事と重なり合います。マタイ福音書における、クリスマスと受難との一致、イエスさまの誕生に贈りものがささげられ、イエスさまの葬りに向けてもまた、高価な贈りものがささげられました。イエスさまの誕生と受難に贈りものがささげられた、それは、イエスさまの地上の生涯全体が、ささげものであることを象徴しています。イエスさまこそ、神さまから私たちに贈られた最高の、愛のささげもの。イエスさまは、私たちに復活の喜びをもたらすため、十字架へ向かわれました。十字架への道は、支配する道ではなく、仕えることにきわまる道。そこにイエスさまの献身があります。それは人間的に考える「貧しい人々」、一部の人々に限定されるものではなく、すべての人をまことの命に生かすため。限りなく私たちを愛されるイエスさまは、無条件に自らの命を差し出されました。この方を救い主としてあがめ、自分の人生の確かさの中心に据えるとき、神と共にある命の喜びが、私たちのうちにあふれます。

 この女性は、ご自身を与え尽くしてまことの命を与えてくださる、主から受けたすべてを感謝し、その恵みに応えて、自分の持っている最高のもの、いや自分自身をささげました。この女性のささげものは、イエスさまの献身の反映であると同時に、教会の、私たちの信仰の姿を現わします。ささげるとは言い換えればゆだねること。キリストにすべてをゆだねるとき、「仕えられるためではなく、仕えるため」(マタイ20:28)に来られた、主と共に生きる者とされます。それは「主の献身」による「私たちの献身」に他なりません。

 私たちは、それぞれ生まれも育ちも考え方も違う者同士ですが、キリストと教会に仕えるため、互いに主に用いていただくとき、そのことが喜びとなり伝道力となります。主から受けたすべてを感謝し、再び主にささげる礼拝から、それぞれの生活場所へ、家庭へ、学び舎へ、社会へ、そしてこの世界へ、和解の福音を携えて、遣わされて参りたいと願います。主の福音の喜びに一人でも多くの友が、共にあずかるために。





【2022年 2月 20日 主日礼拝説教より】

説教「退け、サタン!」
      瀬谷 寛 牧師

       申命記 第6章10-14節 9-13節

       マタイによる福音書 第4章 1-11節(3)


 

 荒れ野において、主イエスが悪魔から誘惑を受けられました。今日は第三の誘惑についてです。説教台の「退け、サタン!」の「!」は聖書にはありませんが、それをつけるにふさわしい、主イエスの叫び声が聞こえてくるようです。

 ところでこの「退け、サタン!」という厳しいお言葉を、主イエスは別のところでも発しておられます。同じマタイ16:23で、主イエスがどのようにこの世を救うか、語り始め、十字架の苦しみと死の予告をされました。それを聞いた弟子の代表者であるペトロが驚いて、「主よ、とんでもないことです」と主イエスをいさめたときに、「サタン、引き下がれ」と激しい口調で語られました。最愛の弟子ペトロを、サタン、悪魔、と呼んでおられます。

 ここでもう一度、考えたいのは、サタン、悪魔とはだれのことか、ということです。荒れ野で誘惑するいかにも悪魔らしいサタンと、一番弟子ペトロの姿が重なり合います。それは、ペトロに代表されるわたしたち人間の思いが、どんなに「悪魔的」であるか、ということをも指しています。

 わたしたちが罪を犯すことは、悪魔的になることです。根本的には、主イエスに対して悪魔的な振る舞いをしてしまうことです。悪魔からの主イエスへの問いかけは皆、わたしたちの罪の姿である、と理解すべきです。

 そこで第三の誘惑は、悪魔が主イエスを高い山に連れて行き、悪魔を拝むならば、ここから見えるすべてのものを与えよう、というものです。これはわたしたちにもわかる、大変厳しい誘惑です。わたしたちの心をいつも魅了するのは、この世の豊かさや美しさです。信仰深い生活をしている人にとっても、決して自由になれない誘惑です。主イエスも、この誘惑を感じておられました。だからわたしたちも、恥じずに、自分の弱さをしっかり見つめ、戦い始めるのが大事です。

 悪魔は、「わたしを拝め」と言いました。主イエスはここでも、旧約の申命記の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と答えられました。悪魔に仕える余地は、全くありません。けれども主イエスは、神を礼拝して生きることが、豊かさをすべて捨て、貧しい生活をしなければならない、とはおっしゃいません。神を無視して、この世の豊かさを生きることに「否」と言われたのです。





【2022年 2月 13日 主日礼拝説教より】

説教「神を試す罪」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第91篇 9-13節

       マタイによる福音書 第4章 1-11節(2)


 

 主イエスのご自身の活動の始まりに、荒れ野で悪魔と戦う場面です。悪魔が登場するなど、非現実的な作り話のように感じます。またそのような悪魔は、わたしたち人間とはかけ離れた存在であるように感じます。けれども、今日聖書に出てくる悪魔は、大変人間的です。悪魔の第二の誘惑に思いを寄せます。

 悪魔は主イエスをエルサレム神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら飛び降りたらどうだ」と誘いました。当時のユダヤ人たちは、自分たちを救う救い主、メシアは神殿の屋根に登場する、と信じていたようです。しかも悪魔は、まるで旧約聖書の専門家のように、天使たちに命じると、飛び降りても天使が支える、という詩編の言葉を用いながら誘います。

 この言葉は決して悪魔の言葉のように聞こえません。もしも主イエスが本当に神の子なら、神の子らしい証拠を見せてほしい、と迫っています。わたしたちも試練や困ったことに出会うとき、神の助けが欲しくなります。人間は、人生のさまざまな場面で、神を求めます。まさに、苦しい時の神頼みです。そしてそれは結局のところ、こちらの都合で神を求めているのです。

 悪魔は、そのような誰にでも思い当たるような神を求める思いを代表して語っています。こういう願いを叶えてくれる神だったらいいな、と考え、自分好みの神を探す、好みに合えば恵まれたと感じ、そうでなければ不満がつのる、それはわたしたちの姿ではないでしょうか。わたしたちはこの悪魔に近いのです。

 主イエスはこの悪魔の試みに対して、「あなたの神である主を試してはならない」というこれも旧約聖書の言葉(申命記6:16)でお答えになられました。ユダヤの民が、エジプトからモーセに率いられて40年間、約束の地に向かって荒れ野の旅をしますが、その途中、飲み水の危機が襲った時に、神ならばそれを証明せよ、とモーセに迫ります。モーセが杖で岩を打つと水が出てきました。ユダヤの民は、自分たちで神を試みました。

 わたしたちも、荒れ野の民も陥る神を試みる誘惑に、主イエスは勝利されました。神を試さず、信頼し続けて、最後は十字架に死なれて、勝利しました。主イエスに結び合わされたわたしたちは、その勝利にあずからせられた者です。





【2022年 2月 6日 主日聖餐礼拝説教より】

説教「人はパンだけで生きるものではない」
      瀬谷 寛 牧師

       申命記 第8篇 1-3節

       マタイによる福音書 第4章 1-11節


 

 「人はパンだけで生きるものではない」。これは旧約聖書の申命記の言葉ですが、聖書とは知らないながらも、有名になった聖書の言葉の代表かもしれません。どうして、多くの人が、この言葉を心にとどめるのでしょうか。なるほど確かだ、と思うからかもしれません。人間はパンだけで生きるような、低級なものではない、もっと高級に違いない。そう思いながら、次に思うのは、パンがないと、どんな立派な人でも死んでしまうではないか、ということです。そう考えて、この言葉が心に残るのではないでしょうか。

 この言葉が語られたのは、主イエスが荒れ野で、悪魔から誘惑を受けられたときの言葉です。三つの悪魔からの誘惑があったのです。主イエスにとって、これは大きな事件であったと思います。ここには、主イエスご自身のわたしたちのための決断があるからです。ここでの主イエスのご決意によって、それから後の教会の歩みが定まり、人間の心の歴史の方向が定まった、と言えます。

 つまり、主イエスが、悪魔の誘惑を受けられたということは、悪とどう向き合うか、決定された、ということです。悪とは、戦うものだ、そして戦って、どういうふうにこの世に救いをもたらすか。もちろん、その対決の背後には、父なる神のご意志があります。神が、悪魔と対決することをお求めになられました。

 ところで、「人はパンだけで生きるものではない」と、申命記でユダヤの民が聞いた時、神はパンなど食べる必要はない、とおっしゃったのでしょうか。彼らは荒れ野の四十年の間、神から毎日取ってたりだけのマナ、という食べ物を受け取っていました。その上で、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」という神からの御言葉を聞いたのです。つまり、パンを与えてくださる神、マナを与えてくださる神が、わたしたちを本当に生かすために、みことばを一つ一つ、語ってくださる、あなたたちはそれによって生きるのだ、と聞いたのです。

 ここでは、パンだけで生きる卑しい生活に対して、パンを無視して生きる高級な精神の生活が語られているわけではありません。わたしたちはパンを与えるとともに、御言葉をも与え、肉体も魂も生かしてくださる神に感謝して生きます。





【2022年 1月 30日 主日礼拝(家族礼拝)説教より】

説教「主イエスが洗礼を受けてくださった」
      瀬谷 寛 牧師

       マタイによる福音書 第3章 13-17節


 

 今日のところで、ようやく主イエスが登場します。けれどもまだ、本格的な伝道の生活は始まっていません。それに先立って主イエスは、洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼をお受けになられる場面です。

 ヨハネは、真のメシアとして主イエスが後から来られることを知っていましたが、主イエスがヨハネから洗礼を受けようとされるので、驚いて言いました。「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか」。ヨハネは、自分も罪人であり、主イエスからの本当の洗礼に生かされたい、と願いました。けれども主イエスは、その願いを退けるようにヨハネから洗礼を授けられたのです。

 そもそもなぜ、主イエスはヨハネから洗礼を受ける必要があったのでしょう。ヨハネの洗礼は、神に対する罪を認め、神に向き直る悔い改めの印としての洗礼です。けれども神の独り子であられる主イエスは、悔い改める必要のない、罪のないお方です。その主イエスがなぜ洗礼を受けるのでしょうか。

 主イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃいました。ヨハネは確かに、主イエスの先駆けとして悔い改めを呼びかけ、正しい道、義の道を歩き始めていましたが、悔い改めて、不十分ながらも、せめて、神の怒りを少しでも免れることができれば、と考えていたかもしれません。それに対して主イエスは、正しいことをすべて行う、つまり人々の罪を赦して、義の道、救いの道を完成させるのです。そのために主イエスは洗礼をお受けになられたのでした。実質的にヨハネの先駆けとなられたのです。

 また、主イエスの洗礼は、神の独り子であられるお方が、悔い改めて罪の許しをいただかなければ生きていかれないわたしたち罪ある人間と同じところにまで降りて来てくださったことをも意味します。ご自身は本来、悔い改める必要のない方が、悔い改めのしるしである洗礼を受けることによって、わたしたちの罪を引き受けて、後に十字架で死んでくださる方となられたのです。

 主イエスは、罪に死に、神の命に生きる洗礼の道を、わたしたちに先立って歩まれました。わたしたちの歩みの先頭には、常に主イエスがおられます。





【2022年 1月 23日 主日礼拝説教より】

説教「聖霊と火による洗礼とは?」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第52篇 1-15節

       マタイによる福音書 第3章 1-12節(3)


 

 主イエスが登場する前に、その道を整えるために登場したヨハネは、人々に悔い改めを求め、洗礼を授ける運動をしていました。悔い改める、ということは、神の方に向き直すこと、神に帰ることだ、とこれまでも語ってまいりました。そのために必要な、大事なことが一つあります。それはまず、自分の罪を認めることです。「あんな過ちを犯した」と個々の悪行を認めるより、大事なことは、神に対する罪を犯していることを認めることです。そして、神に立ち帰るのです。

 ところで、悔い改めるために神に対して罪を認める、というのは、現代人には難しいと思います。ありのままの自分を肯定することが正しい、という感覚があるからです。うっかりすると、教会も、ありのままの自分を神さまが受け入れてくださる、そういうメッセージを発信しがちです。

 けれども聖書が教えているのは、ありのままの人間は罪人だ、ということです。だからありのままの人間は、悔い改めて罪の赦しを得なければ、祝福されて生きることは出来ないのです。

 このような悔い改めを求めたヨハネは、人々から、ヨハネこそ、旧約以来待ち望まれた、来たるべき来たるべきメシアではないか、と思われていました。けれどもヨハネ自身はそのことを強く否定し、メシアと自分との区別を強調します。

 まずヨハネは、自分のあとから、自分より優れた方がこられる、自分はその履物をお脱がせする値打ちもない、と言います。履物を脱がせるのは、奴隷が主人にする仕事です。奴隷と主人の関係以上に、かけ離れている、というわけです。

 さらに、水で洗礼を授けていたヨハネに対して、後から来るメシアは、聖霊と火で洗礼を授ける、と言います。このメシアは主イエスのことですが、実際主イエスは、いつどこで洗礼を授けたのでしょう。聖霊と火による洗礼とは何でしょう。それは後のペンテコステ、聖霊降臨です。聖霊が、炎のような舌のように、集まった弟子たちの、その一人ひとりにとどまった、と証言されています。この時に、主イエスこそ救い主、メシアであると弟子たちが力強く語り、教会が誕生しました。それこそが主イエスの洗礼です。わたしたちが教会で水で洗礼を受けたのは、主イエスの聖霊の洗礼を受けたことでもあります。





【2022年 1月 16日 主日礼拝説教より】

説教「神が来られる!」
      瀬谷 寛 牧師

       ダニエル書 第2章 44-45節

       マタイによる福音書 第3章 1-12節(2)


 

 「悔い改めよ、天の国は近づいた」。洗礼者ヨハネは、荒れ地に真っ直ぐな道を整えるために声を上げて叫びました。この叫びは、神の民、ユダヤ人以外の者に向かってではなく、ユダヤ人自身に向かって、「あなたがたは、洗礼を受けなくても、本当に神の民の資格があるのか」と問う、一つの信仰覚醒運動でした。

 このヨハネの言葉に基づく洗礼運動は、ユダヤ人の反発を受けるどころか、その心を惹き、ユダヤ全土から、人々が彼のもとに集まってきました。その中には、ファリサイ派やサドカイ派と呼ばれる人が大勢いました。彼らはユダヤ人の中でも信仰熱心なグループでした。時代がどのようであっても、信仰を捨てず、まっすぐ神様を信じて生きていこう、と考え、実際にそう生きたのが、ファリサイ派の人たちでした。ヨハネに聞かなくとも、悔い改めを知っていた人たち、とも言えます。ヨハネに共感し、「我が意を得たり」と、続々と洗礼を受けました。

 この時のヨハネは、どうだったでしょう。自分の語る言葉に人々が、信仰上のエリートであるファリサイ派の人々も含めて、集まってきます。まんざらでもない、少なくとも悪い気はしなかったかもしれない、とわたしたちは思います。けれどもヨハネは「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と叫びました。ファリサイ派の人たちは、洗礼を受ければ、神の怒りから免れる、と考えていたかもしれませんが、ヨハネはそれを否定したのです。それほどにあなたがたの罪は深い、神の怒りは厳しい、と言うのです。

 悔い改める、とは、心の中にある考え方を変えることだけではありません。悪い生活習慣をやめよう、というようなことではありません。聖書の語る悔い改めとは、わたしたちの思いも行為も含めた全存在の向きが、全く正反対に変えられること、神の恵みの中に向きを変えて立ち帰ることです。わたしたちがそうすると、生活の中で神の恵みをほめたたえないわけにはいかなくなります。

 けれども、そのような悔い改めをわたしたちはできません。神の子主イエスは、裁くために火を持って来られました。しかし、わたしたちより前に火に投げ込まれたのは、主イエスでした。裁かれたのは主イエスの側で、わたしたちは裁かれずにすみました。それを覚えて、真実な悔い改めに生きたいと思います。





【2022年 1月 9日 主日礼拝説教より】

説教「荒れ野で叫ぶ者の声」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第40 1-8節

       マタイによる福音書 第3章 1-12節


 

 新型コロナウイルスの感染者が、急激に拡大してまいりました。しかしはっきりしていることは、わたしたちは、神を礼拝することはやめない、ということです。自宅でYouTubeを通して礼拝することを、お願いしなければならなくなることもあるかもしれません。しかし、礼拝は続けてまいります。

 マタイによる福音書を読み進めて、第3章に入りました。第2章までは主イエスはまだ幼子でしたが、本日の第3章からは、主イエスは成人なさって、いよいよ本格的にご自身の活動を始められようとする場面となります。主イエスの歩みをたどる時にどうしても欠かせないのは、主イエスの活動の直前に、道備えをした「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる一人の人物です。

 洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫んでいた、と記されています(マタイ3:2)。ところがこのあと、主イエスがガリラヤで、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と同じ言葉で宣べ伝えるようになったことが記されています(4:17)。この点を見れば、主イエスは洗礼者ヨハネの継承者、後継ぎです。しかも後継ぎとして登場なさりながら、ヨハネの思いを越え、それを完成させるみ業を、主イエスはなさった、と見ることもできます。

 この洗礼者ヨハネは、荒れ野に住んで、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」ようです。要するに、ヨハネは町を離れ、人々とは違った禁欲的な生活をしていたことを意味します。それだけでも一つの社会批判です。そうしながら人々に、「悔い改め」を求めて叫びました。

 このヨハネの働きは、旧約の預言者イザヤがすでに言い当てていました(40:1~)。神に背いて自分勝手に振る舞ったことによってでこぼこの荒れ野のように混乱し、諸外国から攻められて国がなくなるような状況の中で、真っ直ぐな道を整え叫ぶ者が現れる、と預言されていたのです。洗礼者ヨハネは、時代が下っても同じように自分勝手に振る舞う荒れ野のような人々の中で、その道を整えるために、悔い改めることと、そのしるしとして、洗礼を受けることを呼びかけました。そのヨハネの声は、わたしたちのところにも響きます。ルターは、「わたしたちの全生涯が悔い改めである」ことを求めています。





【2022年 1月 2日 主日聖餐礼拝説教より】

説教「『ナザレのイエス』となるために」
      瀬谷 寛 牧師

       民数記 第6篇 1-8節

       マタイによる福音書 第2章 19-23節


 

 新しい、主の年2022年を迎えました。ローズンゲンという聖書日課には、2022年一年間のために選ばれた聖書の言葉があります。ヨハネによる福音書第6章37節に記された主イエスの言葉です。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」。コロナを始め、辛く苦しいことが襲い、孤独を感じますが、主イエスのもとに行くならば、主イエスは決して追い出さない、というのです。

 ところで、主イエスの誕生の出来事の直後に、王ヘロデによって2歳以下の男の子を、ひとり残らず殺させる、恐ろしい、悲しい、嘆かわしい出来事が起こりました。新しい王として生まれた幼子主イエスを殺すためです。

 この幼子主イエスは、危険に取り囲まれていました。彼を危険から守るために、大切な働きをしたのは、両親、特にマリアの夫ヨセフでした。このヨセフに対して、主の天使は三度、夢で現れて告げました。一度目は、マリアに男の子が宿った時、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と、二度目は「子供と母親を連れてエジプトに逃げなさい」とヨセフに告げました。そして三度目に主の天使は「子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい」と告げました。そしてその時に帰ってきたのが、ユダヤのベツレヘムではなく、ガリラヤのナザレだったのです。

 どうしてナザレだったのか、それは主イエスが、旧約に出てくる、神との誓願を立てて献身したナジル人として、神との特別な関係が与えられていることを示すためではないか、という説明があります。またもう一つの説明は、イザヤ書11:1以下の、「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち」の「若枝」が、「ナザレの人」という言葉と似ている、エッサイとはあの王ダビデの父ですから、ダビデの子孫から若枝、つまり、救い主が生まれる、ということを示し、たとえ、「ナザレのイエス」と呼ばれても、ダビデ家のメシアであることに変わりない、ということを示しているのではないかと言われます。

 いずれにしてもこの幼子主イエスの家族が神の言葉に従って歩む旅路は、わたしたち信仰者が、みことばを聴きつつ歩む信仰の旅に重ねることができます。神の言葉を聴きつつ歩む者を、「決して追い出さない」、それが神の約束です。




2021年1月3日から12月26日までの説教要旨はこのリンクからご覧いただけます(クリック)。 

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