【2022年 12月 25日 主日礼拝説教より】
説教「ダビデの子孫からの神の子の誕生」 イザヤ書 第42章 1節-4節 ローマの信徒への手紙 第1章 1節-7節
本日、喜びのクリスマスを迎えています。すべての喜びは、神の御子であるお方、主イエスがこの世界にお生まれくださった、ということに基づいています。その喜びのもとから派生するようにして、洗礼式が行われました。教会に仲間が加えられました。大きな喜びです。またこの礼拝後、3年ぶりに対面でクリスマス愛餐会をいたします。コロナでずっと控えましたが、感染対策の上でクリスマスの喜びを、互いに顔を見て確かめ合うことができるのは本当に嬉しいことです。 本日のローマの信徒への手紙の言葉は、教会の伝統では、12月24日のクリスマスを祝う夜に読んで、御子の御降誕を喜び祝った言葉です。ここで話題になっていることの中心は「福音」です。福音とは、喜びをもたらす言葉、それを聴いたらうれしくなってしまう言葉のことです。なにが喜ばせるのか、それが主イエス・キリストです。このあと、まさにわたしたちが今日味わっている喜び、すなわち福音であるイエス・キリストについて語られます。 第一に、「神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたもの」だということです。主イエスの到来、救いのみ業は、神が長い時間をかけて、前もっての計画・約束によることだ、といいます。第二に、「御子に関するもの」、すなわち主イエスは、神の子であられることです。このことでわたしたちの人間の世界・歴史が、神の御子が来られた世界・歴史に変わりました。このクリスマスは、そのことを確認する祭りの日です。第三に、その御子は「肉によればダビデの子孫から生まれ」た、ということです。人間として、無国籍ではなくダビデの子孫、ユダヤ人の仲間として生まれ、人としての嘆き悲しみの中に立ってくださいました。第四に、「聖なる霊によれば、死人からの復活により、力ある神の子と定められ」ました。人間として死なれ、しかし死を打ち破る神の力によって、神の御子であることを明らかにされました。最後、第五に、どうしても言われるべきことは、「この方が、わたしたちの主イエス・キリスト」ということです。それは、わたしはこの主イエスのものになってしまったということです。主イエスは、何よりもわたしたちを生かすために、これらの道をたどってくださいました。そのことで自分が何者かを知りました。主イエスはわたしたちの喜びです。 【2022年 12月 18日 主日礼拝説教より】 説教「自分のことで思い悩むな」 コヘレトの言葉 第5章 12節-19節 マタイによる福音書 第6章 25節-34節
ドイツで、説教を教える神学者のボーレン先生は「説教する人間は、説教における自分の言葉を、自分の生活において実際に生きて…信仰者の模範にならなければならない」と言いました。パウロも幾度も、「わたしにならう者となりなさい」と言いました。主イエスがどういうお方か、わたしを見ればわかるだろう、と言えるような歩みをするのが、信仰を持っている人間の歩みです。 今日の25節以下はよく知られた御言葉で、主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」「野の花のことを注意してみなさい」と言われました。空の鳥、野の花が、主イエスによって、「これを見るがよい」、と言われる姿をしているのであれば、同じ程に、主イエスはわたしたちを指さして「この人を見て、その生き方を見てごらん」といっていただけるはずだと思います。 このことは、わたしたち信仰を持っている者の特徴は、空の鳥、野の花のように「思い悩みを持たない」という点にある、ということです。わたしたちは決して完全無欠な人間というわけでなないでしょう。失敗ばかりしているかもしれません。たとえそうとしても、わたしたちは思い悩まず、生きて行けるのです。 主イエスがここで、大変丁寧に、「思い悩むな」と繰り返し語っておられるのは、人間の一番大きな問題の一つが、まさしくこの思い悩みであり、そこからの解放なしに、救いはない、とお考えになったからでしょう。わたしたちが本当に主イエスのものであるならば、空の鳥、野の花にまさる魅力を持ちます。 けれども実際、この地球上には、深刻な問題が跡を絶ちません。ウクライナ、ロシア、北朝鮮。そういう話を聞かされると、明日はどうなるのか、わたしたちの子どもたちはどんな時代を生きるのか、思い悩みが始まります。そのわたしたちに主イエスは「思い悩むな」とおっしゃいます。真剣に聴いているでしょうか。 主イエスは、現実を知らない詩人のように勧めているのではなく、人間のお姿を取り、人間と歩みを共にされました。その上で、その日の労苦は思い悩まずそのまま身に受けて生きていけばいい、というのです。しかし、どうしたらそうできるのでしょう。主イエスこそ、自ら人間の労苦を味わいつつ、十字架にまで労苦を引き受けてくださいました。そこでこそ、わたしたちの悩みは解き放たれます。 【2022年 12月 11日 主日礼拝説教より】 説教「澄んだ目を持って」 イザヤ書 第40章 18節-31節 マタイによる福音書 第6章 22節-24節
わたしたちはなぜ、毎週日曜日に、教会で礼拝をするのでしょうか。世の中にいろいろな宗教がありますが、日曜日に必ず礼拝をすると言うのは、キリスト教会の信徒となった人特有の姿です。そうでないとやっていかれないのです。 オランダの画家、レンブラントの「エマオのキリスト」という作品の中に、まなざしを上に向けている主イエスのお顔があります。実は、この主イエスの顔を描くのに、レンブラントは、親しくしていたユダヤ人医師の顔をモデルにしていたそうです。レンブラントにしてみれば、主イエスの顔は、わたしたちの顔がモデルになることもあり得たのです。そのように、主イエスの真似をして、わたしたちも天を仰ぐことができます。 わたしたちが日曜日ごとに、教会に来ているとても大切なことは、この主イエスが見ておられるものを、わたしたちが見る、ということではないでしょうか。それを何度でも繰り返す時に、わたしたちの目は「澄んだもの」になります。わたしたちの目はすぐに濁って、主イエスの見ておられるものを見ることができなくなります。だから毎週教会に来て、繰り返し澄んだものにしていただきます。 主イエスはわたしたちに、「あなたの目は澄んでいるか」と問うています。複雑ではなく単純なまなざしを、幼子のように天に向ける、ということです。またある人は「澄んでいる目」とは、2つのものをいっぺんに見ようとしない目だ、といいます。一つのものだけをひたすら見つめる目です。主イエスは、そのようなまなざしであなたは何を見ているのか、天を見ているのか、地上の富を見ているのか、と問われます。それは、何を信頼して生きているのかと問われることです。 「誰も、二人の主人に仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。実に耳の痛い言葉です。わたしたちはどうしても地上の富に仕える生き方を選び取ってしまうからです。 主イエスご自身はどうだったのでしょう。主イエスは二人の主人に仕えることはなく、ただお一人の主人、父なる神のみを見つめ、この方に仕えぬかれました。貧しく、低く生きられ、そして十字架にまで赴かれました。その死によって、わたしたちは赦され、澄んだ目を持たせていただくことができたのです。 【2022年 12月 4日 主日礼拝説教より】 説教「富は天に積むもの」 箴言 第23章 1節-12節 マタイによる福音書 第6章 19節-21節
本日与えられた主イエスのお言葉は、一般にもよく知られています。特に「富は、天に積みなさい」、以前の翻訳では、「天に宝をたくわえなさい」となっています。いずれにしても、説明抜きでもわかる言葉であると思います。 20節の「虫が食う」という言葉も、「さび付く」という言葉も、外国語の聖書では「虫」と訳されており、本や衣類や、あるいはシロアリのように建物を食うような虫のようです。あるいは、「盗人が忍び込む」とは、当時の建築事情で、簡単に壁を壊して侵入できる家であったことが想像されます。いずれにせよ、地上に蓄えた財産は、いつも形が変わり、なくなるような危険にさらされています。そして、悲しい思いをします。けれどもそんなことは、主イエスに教えていただかなくても、わたしたちはよく知っているようにも思えます。 ただわたしたちは、そのことを承知の上で、なお地上の富、宝のために心を労しています。この地上の富がなければ生きていけないと思っています。そのわたしたちに主イエスは、「富は、天に積みなさい」と語っておられます。主イエスはいったい、わたしたちに何を求めておられるのでしょう。 そこで改めて「天」とはいったいどこでしょうか。天を仰ぐ、という時、天はどこに見えてくるのでしょうか。地上の労苦とは無縁の、聖人のような者だけが関係のある、きれいごとの世界でしょうか。そうではなく、「富を天に積む」とは、この地上でせっせと働く中での問いです。わたしたちが地上で汗を流す生活の中で、天を仰ぐまなざしを持ち続けることを、主イエスは求めておられます。 天とは、主イエスがそこから来られたところです。主イエスがそこから来られて、わたしたちと同じ人間になり、地上の労苦を知り、肉体の飢えと渇きをお知りになられました。その労苦が無駄ではなく、意味あるものとするために、主イエスは神の言葉を語り、御業を始められました。その間いつでも主イエスは天を仰いでおられました。そして十字架で死なれ、復活され、天に帰られました。 21節「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と主イエスは言われました。逆に、心のあるところに富がある、とも言えます。わたしたちは何が心の支えでしょう。地上から自由になり、天に、神に信頼するよう招かれています。 【2022年 11月 27日 主日礼拝説教より】 説教「ただ神のまなざしの前で」 詩編 第30章 1節-13節 マタイによる福音書 第6章 16節-18節
ろうそくの火が1本灯り、今日から待降節(アドベント)と呼ばれる期間が始まります。主イエスのお誕生の祝いを待ち望むときです。何か、ウキウキします。 ところで、先週までこの礼拝では主の祈りについて取り上げ、今日はその続きの断食がテーマの箇所です。せっかくアドベントのウキウキしたわたしたちに水を差す言葉のように感じます。 けれども実は、今日、断食の記事を読むのは、最もふさわしいことである、とすら言えます。なぜなら、アドベントはもともと、教会の伝統では悔い改めの断食を行う期間だったからです。主イエスの誕生による第一の到来とともに、今は天にあげられた主イエスが、この世を裁いて完成させるために、もう一度お出でになる、第二の到来を待望するときでもあるからです。神の裁きの前に、悔い改めの断食をして、その裁きに備えよう、そう考えたのです。 断食には、どのような意味があるのでしょう。心も体も、すべてを集中して、神に身を向ける一つの努力です。断食を通して、わたしたちの心が、神以外の者に向かうのを避けるのです。また、断食は、悲しみの表現でもあります。深い悲しみは、食べることを受け付けなくさせることがあります。 この断食の教えに先立ち、主イエスは主の祈りの、罪を赦すことについてもう一度触れられました。わたしたちは、神の前で、わたしたちはどんなに人を赦すことができないか、そのことを悲しみ苦しみます。断食は、そのことに思いを致すため、とも言えます。 そして主イエスは「偽善者のように、沈んだ顔つきをしてはならない」。問題は、断食に際しても偽善を行ってしまう、ということです。偽善を行うのは、わたしたちが、神のみ前に自分だけで立つことができず、どうしても人の目を考え始めてしまうからです。それは、わたしたちの姿です。もう、人のまなざしではなく、神のまなざしのみを考えるように、その決断を主イエスは促しています。 自分の偽善の罪を認める者は、その自分の罪が主イエスの十字架の死によって赦されることを知っている者です。アドベントに入り、わたしたちの罪を赦すために来てくださる主イエスの前で、罪を悔い改めつつ、過ごしたいと思います。 【2022年 11月 20日 主日礼拝説教より】 説教「誘惑に遭わせず-主の祈り七」 イザヤ書 第42章 1節-13節 マタイによる福音書 第6章 13節
今日は主の祈りの「試みに遭わせず、悪より救いいだしたまえ」について、思い巡らせたいと思います。この祈りが、祈りの本文の最後に置かれているのは、いったいなぜなのでしょうか。 わたしたちはいろいろな祈りをしますが、「どうぞ、試みに、誘惑に遭わせないでください」という祈りは、どう位置づけられるでしょうか。この祈りは、「助けてください」という悲鳴のような叫びです。そのような叫びが、祈りになりうる、ということを、主イエスは教えてくださっておられます。 「助けてください」と叫ぶ、それは、自分の弱さを認めることです。もしもこの祈りが、わたしたちの切実な祈りの中核になっていないとすれば、祈りにおいてもわたしたちは自分の弱さを認めたくない、と思っていることになります。 有名な詩編の第46篇は、「神はわたしたちのさけどころ、わたしたちの砦」と記します。わたしたちは、神の懐に逃げ込むことができる、弱さを持っています。それを認めることは、少しも悪いことではありません。むしろ、自分は神なしでも生きていける、強い人間だ、と言い張ろうとすることのほうが問題です。 「悪より救いいだしたまえ」は、新共同訳では「悪い者から救ってください」とあります。「悪い者」という方が、聖書の原文に近いと思います。悪、というのが抽象的にあるのではありません。悪は生きています。悪い者がうっかりすると、自分を捕まえるのです。明らかに自分でも悪いと思う、間違いをしてしまった時、自分でやったというより、なにかに誘われたような気がします。思いがけないひどい言葉を口にしてしまったり、やってはいけないことに手を出したり、それは、「悪い者の力」に負けてしまっているのです。 主イエスは、人間を積極的に考えました。世界は、天地の造り主である神が、「これでよし」とおっしゃって造られたものです。悪はあってはならないのです。けれどもわたしたちは弱く、悪の力の虜になります。主イエスは強さをもって、わたしたちの味方となってくださいました。そのお陰で、わたしたちの悪に敗北してしまいそうな戦いが勝利に向かって大転換します。主イエスの恵みの中で立ち上がることができました。これこそ、わたしたちの弱さを示すものです。 【2022年 11月 13日 主日礼拝説教より】 説教「赦しの中に立って-主の祈り六」 詩編 第51篇 1節-19節 マタイによる福音書 第6章 12節、14節、15節
わたしはかつて、「説教者トレーニングセミナー」という説教の学びの泊りがけの合宿に出かけた時、そのセミナーを指導する加藤常昭先生から、ドイツで子どもたちでも祈る食前の祈りの言葉を、教えていただきました。「主よ、わたしたちになくてならないものが2つあります。それを、あなたの憐れみによって与えてください。日毎のパンと、罪の赦しを」。食事のたびごとに、主の祈りの「日用の糧」を求めることと、それに続く「罪の赦し」を求めることを、切り離さずに一つの祈りとして祈っています。食事を欠いては生きていけないように、罪を赦していただかないとこの人生は成り立たないのです、と祈るのです。単純ですが、実に深い祈りです。ぜひ、皆さんにも、学んでいただきたい祈りです。 今日わたしたちが思い巡らす祈りの言葉は、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」です。『聖書』新共同訳の言葉では、「罪」という言葉が「負い目」となっております。このことからわかるのは、罪、負い目とは、いつも相手があることであり、その相手を傷つけ、存在に負わせることだ、ということです。そしてこの負い目は誰よりも、神に対しての負い目です。この厳しさを理解しないまま、罪の赦しを語るのは、罪をいい加減に扱うことです。罪を犯す者は、神との関わりを損なうことなのです。 詩編51:5,6に、「あなたに背いたことをわたしは知っています。…あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」とあります。王ダビデが、自分の部下ウリヤの妻、バト・シェバを奪った罪を悔い改めたときの言葉、とされています。謝るべきはウリヤに対して、あるいは尊敬と信頼を裏切った国民に対してであるはずなのに、「あなた(=神)のみに罪を犯し」と祈ります。わたしたちの犯した罪は、根本のところで、神との交わりを損なったものとなっていることを、それがいかに深刻なことであるか、を示しています。けれども、そのことを本当には知ることができなかった人間が、主イエスを十字架につけました。しかしその主イエスが、わたしたちの罪の赦しのために祈ってくださいました。わたしたちは、十字架を知るときに初めて、自分自身の罪の深さを知ります。だから日毎の糧を求めるように罪の赦しを求めたいと思います。 【2022年 11月 6日 主日礼拝説教より】 説教「日ごとの糧を-主の祈り五」 詩編 第145篇 1節-21節 マタイによる福音書 第6章 11節
主の祈りは、2つの部分に分かれています。前半は神に向かう祈りであり、後半は人間の生活についての祈りです。今日から、後半の祈りに入りますが、その最初が「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りです。どうして人間の生活についての祈りの最初が、日用の糧を求める祈りとなっているのでしょうか。 「日用の糧」というのは、「日用品」とあるように、いつも使う、生活に欠かせないものであり、しかも、高価な品、高価なごちそうではなさそうです。簡単に手に入れられる、と考えがちですが、戦時中、戦後などでは、決して簡単ではなかった歴史があることを、わたしたちは忘れてはならないと思います。 しかし改めて、今日のわたしたちは、この祈りを、本気で、真剣に祈っているでしょうか。日毎の糧を神に求める、そこにはどんな意味があるのでしょうか。 主イエスが、この主の祈りを教えてくださった山上の説教の直後のところで、「思い悩み」「思い煩い」(口語訳)について教えてくださいました。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、…思い悩むな。…だから明日のことまで思い悩むな。…その日の苦労は、その日だけで十分である」。これも、日毎の生活に関わることです。わたしたちの日毎の生活、人生に必ず出会う苦労を、思い悩まずに、喜んで担おう、と勧めるのです。思い悩み、思い煩(わずら)いは、病気の患(わずら)いに通じます。「日用の糧を今日も与えたまえ」と求めて祈ることは、病気になるほどの思い煩いから解き放たれることを求める祈りです。 「日用の糧」という言葉はギリシア語では、「次の食事」という意味ではないか、と言われます。そうとすれば、この祈りは、「一時一時、わたしたちの命を生かす、それを支える不可欠なものを与えてください。いつ取り去られるかもわからない命、その次の瞬間を生かしてください」と祈る祈りです。すべての命を、神からいただくことを、心から信頼する信仰告白でもあります。 「糧」とは、「パン」という言葉です。このパンとは、「わたしがいのちのパンである」とおっしゃった主イエスのことであることにも、思い至ります。主イエスは十字架にかかり、ご自身の命をパンとしてわたしたちに与えてくださいました。この祈りが、わたしたちにどれほど必要で大切な祈りであるか、に気づかされます。 【2022年 10月 30日 主日礼拝説教より】 説教「何度でも、苦難から希望へ」 ローマの信徒への手紙 第5章 1節-11節
本日は、この礼拝のあとで、年に一度の教会修養会が予定されています。今年の修養会においては、苦難について、考え、語り合うことになっています。わたしは御言葉の説き明かしによってその役割の一部を果たしたいと思います。
ところで、苦難というものは、それぞれの人が、それぞれのレベルにおいて経験するわけですが、それをどう克服するか、そのあり方が、信仰の足腰が鍛えられているかどうか、ということに関わると思います。ちょっとした苦難が襲うたびに、砂の上に建てた家のようにグラグラぐらついて、押し流されてしまうのか、あるいは、岩の上に建てた家のように、多少の苦難を受けても、もろともしない、そういうところに立つのか。教会修養会という場が、皆さんのその信仰の足腰を固める、土台を固める、確かめる、そのような場となるのだと思います。
ところで今日ご一緒に読んだ聖書、ローマの信徒への手紙から、苦難について考える教会修養会においては、3,4節「苦難」「忍耐」「練達」「希望」ということが関わって来ると思います。それがどうして苦難から希望に至る道筋が成り立つかというと、直前の2節の口語訳では、「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ」とあります。新共同訳では訳出されていない「立っている」という言葉が実は大事だと思います。わたしたちはどこに立っているか、と問われたときに、神の恵みの中に立っている、と言える、というのです。わたしたちには、いろいろな立場を持っています。誰もが等しく持っている立場は、神の恵みの前、という立場です。考えてみると、立つというのは、なんでもない当たり前のことのようですけれども、立つことを妨げる力や崩そうとする力に対して、戦わなければならない、と考えると、決して容易なことではありません。そうであるにも関わらず、わたしたちがなお立てるとするならば、それは神の恵みの中に、信仰によって立っている、と言えるからではないでしょうか。だから、苦難から希望への道筋をたどることができます。
わたしたちがその中に立っている神の恵みとは、主イエスにおいて捉える恵みです。わたしたちがまだ罪人であったとき、主イエスの死によって、神の愛が示されました。その恵みの中に立ち、苦難を乗り越えることができます。
【2022年 10月 23日 主日礼拝説教より】 説教「みこころを地にも-主の祈り四」 詩編 第115篇 1節-18節 マタイによる福音書 第6章 10節b
先週、休暇をいただいて、京都大宮教会で礼拝を献げました。ちょうど、教会創立95年を祝う礼拝でした。京都の地で、キリストの教会として95年にわたって、神が御心を行ってくださった、その証しを見せていただいたように思われました。 もう一つのことは、来週、年に一度の教会修養会を計画しています。その主題は「苦難の中を歩む教会―過去・現在・未来―」です。今年は「コロナ」「ウクライナ」「北朝鮮」「統一協会」など、わたしたちを苦難が取り囲んでいることを思います。「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るように主イエスから教えられていることは、神の御心がわからないような苦難の中で、御心を求めるように祈ることができることを示しているのではないでしょうか。 ところで、今日耳を傾けるのは、これまで思い巡らせてきた主の祈りの中で、「御名をあがめさせたまえ」「御国を来たらせたまえ」という短い祈りに続くものです。「御心をなさせたまえ」と短く祈ればいいものを、「天になるごとく、地にも」という言葉が差し挟まれています。なぜでしょうか。 この事を考えるときに、ハイデルベルク信仰問答124の答えに、忘れがたい言葉があることに気付かされます。「自分の務めと召命とを、『天の御使いのように』喜んで忠実に果たせるように」。「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るとき、わたしたちも天使になる、というのです。どんな天使になるのだろう、と想像するとともに、これは大変なことだ、と思います。わたしたちが人間として生きている日々のすべての生活の場面で、神の御心がなるように、天使のように生きるように、求められているからです。そのためには、神のご意志のみを重んじ、それに従わなければなりません。神の意志に逆らう自分自身の思いを捨てなければなりません。わたしたちの信仰の戦いは、新しく天使になるための戦いです。 その時に、天使であるわたしたちの先頭には、主イエスが、天使長として立っています。主イエスこそが、天の父の愛と義のご意志を、御心を実現するために、神に裁かれ、人から裏切られる、誰よりも厳しい十字架の苦難の中で「御心のままに行ってください」と祈られました。わたしたちは、苦難の中でこそ、この祈りを祈れます。そして、どこよりも神が御心を行ってくださる教会に集わされています。 【2022年 10月 16日 主日礼拝説教より】 説教「復活の主の御体には御傷がある」 イザヤ書 第57章 14節-19節 ヨハネによる福音書 第20章 24節-29節
復活のイエスさまは来て弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。それからトマスに向かって「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。トマスはイエスさまの御傷のなかに、人間の疑い深さよりもさらに深みをいく、神の愛に触れた時、「わたしの主、わたしの神よ」との信仰告白が沸き上がりました。自分の手や自分の目の確かさをはるかに超えて存在する、復活のイエスさま、救い主である神と出会えたから。 復活の主と出会う時、私を私以上に知ってくださる方の中に、本当の自分を知らされます。その時、私の人生はいかにして生きるべきか、何のために生きるべきかがはっきり示されてきます。復活のイエスさまによって私たちの人生は誕生から死で終わるのではなく、誕生から復活までであることが告知されました。人生はそこにまで行かねばならないことが知らされました。その道こそイエス・キリスト。それは死んでよみがえるイエスさまの命と一体化するという洗礼への決心、信仰告白にまで至るのです。一粒の麦のように死に、そして多くの実を結ぶことへとよみがえられたイエスさまの復活の義の実、それは2千年の間、世界に広がってきた教会、イエスさまの復活の御体なる教会です。つらなる私たちは復活の証人とされています。教会には既に私たちより先に主を告白し、復活の主と共に天の国の扉を開いて歩んで行った多くの先達がいます。やがて私たちも同じ場所に迎えられる、その日まで、あとに続く人々に復活の主を告白し続けます。「わが主よ、わが神よ」と。 復活の主の御体には御傷があるように、復活の主の御体なる教会には十字架の傷跡があります。それは具体的に聖餐。聖餐こそが、教会が復活の主の御体であることを証しし、主の十字架と復活を証ししています。私たちはその御傷によって一つの体である教会に入れられています。十字架で主の受けた御傷によって私たちの傷はいやされ、罪ゆるされて、一つの体である教会に入れられています。このように世界にひろがる復活の主の御体なる教会には十字架の御傷のなかでつくられた神の平和があります。復活の主の御傷によって、遠くにいる者にも、近くにいる者にも、すべての人に神の国の平和がおとずれることを祈り、イエス・キリストを証しする教会として新たに歩み出したいと願います。 【2022年 10月 9日 主日礼拝説教より】 説教「神の国を生きる-主の祈り三」 イザヤ書 第41章 8節-16節 マタイによる福音書 第6章 10節a
本日は、一年に一度の逝去者記念主日聖餐礼拝ですが、今続けて読んでいる主の祈りの、「御国を来たらせたまえ」という言葉にご一緒に耳を傾けたいと思います。この祈りは、主イエスが教えてくださった祈りの中で、弟子たちに最もふさわしい祈りだと思います。なぜなら、主イエスは、御国、すなわち神の国について、たくさんのことを教え、またその神の国をもたらすために、戦っておられるからです。 主イエスが伝道をお始めになられる時の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉でした。「神の国」は来た、という意味です。そのことを、別の箇所では、「神の国はあなたがたの間にある」と言われました。主イエスがこの地上におられることによって、「神の国」がもうその地上に来ている、ということを指しているといえます。ですから、「神の国」というよりも「神のご支配」と訳した方がふさわしいかもしれません。国、と言うと国境を考え、こちら側とあちら側がある、と考えてしまいそうになるからです。ここではむしろ、国境ではなく、主イエスが子どもたちが近寄るのを、「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃって祝福された心で祈ることができるか、が問われています。 主イエスの地上のご生涯は、すべての者のために、すでに地上の隅々にまで神のご支配が始まっていることを明らかにする戦いでした。今まで自分は、だれからも見捨てられたと思われた足や目の不自由な人や、徴税人、罪人などのところに出向いていかれ、神の国をそこまで持ち運ばれました。何とかこの、罪と闇に支配されたこの世界を、神のご支配なさる世界に変えねばならない、そのために主イエスこそは、この祈りを切実に祈りつつ、十字架について死なねばなりませんでした。そしてこの祈りをわたしたちの祈りとして与えてくださったのです。 この神の国のための主イエスの戦いは、復活にまで至ります。神の支配は、死にも打ち勝つ支配です。「御国を来たらせたまえ」ということは、地上において別れの悲しみに面しているわたしたちにとって、大切です。そこでこそ、神のご支配は果てることなく続いていることを信じる祈りです。やがて主イエスがもう一度地上に来てくださってそのご支配を完成させてくださることを信じるのです。 朝毎に、「今日も神のご支配が来ますように」、と祈りたいと思います。 【2022年 10月 2日 主日礼拝説教より】 説教「御名を聖とする-主の祈り二」 エゼキエル書 第36章 22節-32節 マタイによる福音書 第6章 9節b
わたしたちがもしも、主の祈りを知らず、どんな祈りを祈ってもよい、と言われたら、まず先に、どのような祈りをするでしょうか。きっとその時の自分の目の前にある願いを祈るでしょう。間違ってはいないかもしれませんが、人間中心の身勝手な欲望から来る祈りかもしれません。それは神がただ、人間の生活に役立つものとしか考えられていないことの現れかもしれません。 主の祈りの本文には6つの祈りがあり、はじめの3つは神のための祈り、後半の3つがわたしたちのための祈りとなっています。まず、神のための祈りが置かれるべきことを、わたしたちは主イエスが教えてくださった主の祈りから学びます。 祈りの本文の、第一は「御名をあがめさせたまえ」です。新共同訳聖書では「御名があがめられますように」となっています。最新の聖書協会共同訳では、「御名が聖とされますように」とより原文に近くなっています。同じ意味のようでいて、厳密には、主語が違います。本来は、あくまでも主語は神の御名です。 神は、神として、そのお名前を持ってわたしたちと共にいてくださるお方です。この方に向けてわたしたちは「あなたのお名前が聖とされますように」と祈るようにと教えられています。 この「聖としてください」の願いの背景の一つとして、エゼキエル書36:23「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」という言葉があります。神は、神の名を汚している神の民イスラエルに対し、ご自分の名を聖とし、赦しと救いをお与えになる、というのです。そしてここから、この祈りをお教えくださった主イエスの十字架の死と甦り、その福音につながってくるのです。神が、ご自分の名を汚れのない、聖とするために、主イエスをお送りになり、十字架で死なせたのです。 ハイデルベルク信仰問答が、この祈りがわたしたちに求めることを次のように説き明かしています(問答122)。この祈りによってわたしたちが第一に、神のことを正しく知り、聖なるお方としてあがめること、第二に、わたしたちたちが自分の生活のすべてを正して、神の御名が汚されずに生きることが求められています。結局この祈りは、神を心から礼拝することを求めているのです。 【2022年 9月 25日 主日礼拝説教より】 説教「神を呼ぼう-主の祈り一」 ホセア書 第11篇 1節-3節 マタイによる福音書 第6章 9節a
本日から、主イエスが「だから、こう祈りなさい」とおっしゃりながら口移しで教えてくださった「主の祈り」を少しずつ読み進めます。 三世紀の神学者のテルトゥリアヌスという人が「主の祈りは福音全体の要約である」と言いました。キリスト教会の信仰とは何かを知ろうと思うならば、主の祈りを学べば、大切なことはすべてそこに含まれている、ということです。 すでに教会の中で生きているわたしたちは、主の祈りを祈る機会が多いかもしれません。けれども、その主の祈りの価値を十分にわきまえているでしょうか。何気なく、無造作に、粗末に扱っていないでしょうか。心して学びたいです。 そこで今日は最初の呼びかけ、「天にまします我らの父よ」という言葉に耳を傾けます。この呼びかけには、神がどのようなお方であるか、よく現れています。 まず、「我らの父よ」です。神を「父」と呼ぶということは、どういうことでしょう。わたしたち人間の父親が、神に似ているから、父なる神、と呼ぶのでしょうか。わたし自身も父親ですが、あまりに情けない父親です。実は本当の、本来の父は神だけです。父としての愛を貫けるのは神だけです。それでもわたしたちが父と呼ばれる時があるなら、ほんの少し神に似ることが許された時だけです。 わたしたちが、神を父と呼べるのは、本当の父なる神の子である主イエスと似たところがある、ということです。情けないわたしたちが、父なる神の子と呼ばれるのは、本当の子である主イエスがわたしたちにご自身の場所を明け渡してくださったからです。そのために、主イエスは十字架で死んでくださいました。 「我らの父」の「我ら」とは、二つの意味があります。一つは、主イエスとわたしのことです。主イエスがこの祈りを祈っておられるその傍らで、わたしも祈ることを赦してくださっておられる、ということです。もう一つは、横の繋がりのことです。まずは、一緒に祈る教会の仲間たちのことです。しかしそこから始まって、わたしたちの家族、町、国、世界の者たちのことへと広がります。それらの人々と、「『我らの』父よ」と神を呼ぶことができるのです。 「天にまします」とは、わたしたちを遥かに超えたお方、ということ、そのお方が、「我らの父」と呼べる近い所におられる不思議を思わずにいられません。 【2022年 9月 18日 主日礼拝説教より】 説教「祈りの真実」 詩編 第62篇 1節-3節 マタイによる福音書 第6章 5節-8節
英国はスコットランドで19世紀に活躍した神学者に、フォーサイスという人がいます。その代表的な著作が『祈りの精神』、最近は『祈りのこころ』と訳されているものです。その中に「最悪の罪は祈らないこと」という言葉があります。 ところで、今日与えられた聖書に記されている主イエスの言葉は、わたしたちの祈らない罪を問題にしているわけではありません。むしろ祈りに熱心な人の偽善が批判されています。しかしそれなら、改めてわたしたちは、主イエスに偽善の罪を糾弾されるほどに祈っているでしょうか。わたしたちはまず祈らなければならないのかもしれません。そもそも祈りとは何でしょう。主イエスは、何をもって祈りとされているのでしょうか。 まず主イエスは、祈る時には自分の部屋の戸を締めて祈れ、と言われます。大切なことは、他人に見られる中で、自分が祈ったと確認するような祈りはするな、ということです。そればかりでなく、自分自身も充実感に満たされて、祈ったと確認することも錯覚だ、といいます。あえて祈りの空しさに立つのです。 「異邦人のようにくどくど祈るな」、という言葉があります。神を支配するような祈りはするな、ということです。なぜなら、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知」だからです。わたしたちが、自分にこれが必要だと思っても、神はもっと正確に、わたしたちに本当に必要なものをご存知でいらっしゃいます。だからもっと大胆にいうと、主イエスは、わたしたちが理解する祈りは、もう不必要だ、もうしなくていい、ということです。そうすると、祈らなければいけない、という思いや、祈れない、という思いからも自由になることができます。神が必要をご存知だからです。 それならば、祈らなくていいのだ、とはなりません。それならばこの後、主の祈りをお教えくださる必要もないでしょう。自分で無理して祈る祈りの不必要がわかった時、本当の祈りが生まれます。 神はわたしたちに近くいます。その神の目にだけ、自分を晒せば良いのです。信仰を持つ、とは、神がわたしたちに近くおられることに気づくことです。 もし祈りに戸惑っているならば、「主の祈り」を、いつどこでも祈りましょう。 【2022年 9月 11日 主日礼拝説教より】 説教「神が報いてくださるのは」 詩編 第41篇 1節-13節 マタイによる福音書 第6章 1節-4節
今日から新しくマタイによる福音書第6章に入ります。本当は18節までが一つのまとまりです。ここで繰り返し問われているのは、1節の「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」ということです。この善行の代表が、2~4節の施し、5~6節の祈り、そして16~18節の断食です。その真ん中の「祈り」の部分に、主の祈りがさしはさまれています。問題は他人にほめられるために、善い業をするのは真実ではないだろう、ということです。 そこで今日は施しについて取り上げられていますが、2節の「偽善者」という言葉は、元は「俳優・役者」を意味する言葉でした。1節の、「見てもらおうとして」という言葉は、後に劇場と訳されるシアターという英語の元の言葉です。舞台で役を演じることを、日常生活の中でなすと偽善者になります。 2節にある、施す時に「ラッパを吹き鳴らしてはならない」というのは、分かりにくいかもしれません。ユダヤ人にそういう慣習があったのかもしれません。わたしたちはそんなみっともないことはしない、と思うかもしれませんが、要するに、わたしは善いことをしていますよ、とアピールすること、と考えれば、思い当たることはあります。わたしたちは心の中でいつも、他人からどう見られているか、他人の目を意識し、少しでも良く見られたい、と思うからです。 3節の「右の手のすることを左の手に知らせてはいけない」というのも分かりにくかもしれません。わたしたちは両手を動かすので、右手のすることを左手が知らないはずはない、と考えます。これは、自分にも他人にも、すべての人の目に善行を見せるな、隠せ、ということです。自分に対しても芝居をしていないか、偽ることがないか、その偽善を捨てなさい、と言われているのです。 ここで主イエスが「天の父のもとでの報い」について語っています。わたしたちは、施しなど、善いことをする時に、どこかで相手が感謝してくれて当然、と思います。けれどもそこで人に評価され、感謝される時、神にお目にかかる前に、善い行いの精算が済んでしまいます。けれどもわたしたちは、主イエスが十字架で死んでくださったので、いつも、神にこそ報いていただく、「コーラム・デオ」、「神のみ前で」生きる自由の中を、生きることができます。 【2022年 9月 4日 主日礼拝説教より】 説教「挫折を越えて」 イザヤ書 第49章 14節-16節 ルカによる福音書 第22章 31節-34節
小麦がもみ殻と実にふるい分けられるように、サタンが試練や誘惑を用いて信仰を挫折させようと揺さぶりをかけてくると言われます。挫折する時、私たちは信仰のない自分の姿を突きつけられますが、主イエスはそのような私たちの名を愛をもって呼んでくださり、その挫折をも主の御手の内にあるのだと告げてくださいます。経験則や理屈が通らない挫折も、混沌や無秩序の結果ではなく、既にサタンに打ち勝たれた主の御心の中にあります。
私たちをどうにかして救おうとされる主の御心を聞き、祈られている自分を知る時、絶望に転がり落ちる所から命に踏み留めさせられます。それは、十字架で救いを成し遂げてくださった主ご自身が「わたしは決してあなたを見捨てない」と外からお語りくださるのをお聞きすることです。主が決して忘れないとご自分の手のひらに刻まれた私たちの名(イザヤ49:16)は、頑なさや弱さという罪を、主イエスが十字架で代わりに負い罰を受け赦してくださったしるしです。命を掛けて救い愛し抜いてくださる主が「わたし」こそが「あなた」のために「信仰が無くならないように」祈ったと言ってくださるのです。
更に主は、あなたは必ず立ち直るという約束をお語りくださいます。ペトロの様に私たちも立ち直らされ、挫折を越えて生かされるその先で、兄弟たちを力づける者へと変えられる希望です。主の救いを受け取り喜びに生きる姿が、周りの者を慰め、生きる力を与えるでしょう。
今日の御言葉は、十字架を目前にした主ご自身が、最後が近づく時に大事な弟子たちにどうしても伝えたかった言葉です。あなたのためにも、わたしは信仰が無くならないように祈り、立ち直りを約束したのだ、私は決してあなたを見捨てない、いつも共にいる、それをどうしても聞いてほしいと言ってくださっているのです。
今日、各々が問われ続ける生活の場から礼拝へと招かれた私たちは、この主の命の御言葉を共にお聞きし、ここにこそ安息を見出します。そしてその恵みを聖餐として備えられようとしています。そうして救われている自分に気付かされる喜びの中で、私たちは再びそれぞれの場所へと遣わされてゆくのです。
【2022年 8月 28日 主日礼拝説教より】 説教「敵を愛するとは」 出エジプト記 第23章 4節-5節 マタイによる福音書 第5章 43節-48節
この説教に先立って、小児洗礼式、洗礼式、転入会式を執り行いました。それぞれ、違う年齢、違う性別、違う形の式でしたが、共通しているのは、仙台東一番丁教会を通して御言葉を聞く仲間が加えられた、ということです。それは主イエスの愛の中に入れられた、ということでもあります。その主イエスの愛はどのようなものか、それが今日読んだ聖書の言葉から問われています。 主イエスはまず、当時の言い伝えである、「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉を引用しておられます。当時のユダヤ人にとっての「隣人」は、自分たちの民族同胞だけでした。その枠の外は愛する必要がなく、まして敵に至っては憎まなければならない、それが当然だ、と考えられていました。けれどもそれは既に、旧約の精神でないことがわかります。出エジプト記第23章には、敵であっても困っているときには助けることが求められています。 主イエスもまた、「自分を愛してくれる人」だけに愛を返すことで、愛が成り立つか、と問われます。そして踏み込んで、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と勧めておられます。本当に実行できるのでしょうか? 主イエスは、天の父である神のお姿に目を向けさせようとします。天の父は、「善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方です。わたしたちはすぐに「あれはいい人、これは悪い人」などと区別します。しかし、神の目から見たらそのような区別は実に些細な事であり、わたしたちが語る正しさもたかが知れています。神がわたしたちを養ってくださるのは、わたしたちが正しいからでも、いい人間だからでもありません。すべて、神の恵みによって、生かされています。神は、どんな人も愛しておられます。その神を信じ、信頼するならば、その「天の父の子となるため」に、父の姿を映し出し、父に似る者となるよう、求められているのではないでしょうか。 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。「完全な者」とは、愛において完全、徹底的に愛し、赦す人のことです。主イエスは、ご自身、十字架で敵に囲まれながら「彼らをお赦しください」と祈られました。わたしたちは、その祈りによって赦され、生かされています。 【2022年 8月 21日 主日礼拝説教より】 説教「静かにささやく声」 列王記上 第19章 1節-18節 マルコによる福音書 第4章 1節-9節
預言者エリヤは、命を狙われるという大きな恐怖の中で荒野の中を1日中歩き続け、えにしだの木の下に辿り着いた時、倒れるように座り込み「もう十分です。私の命を取ってください。」と神に願いました。私たちにも肉体的に限界で精神的にも深く落ち込み、生きる意味を見失うような経験があるでしょう。 神はまずエリヤをしっかりと休ませ、神とお会いする所まで歩いて行く力を与えてくださいました。エリヤは荒れ野の中を40日40夜歩き続け神の山ホレブに到着し、洞穴で夜を過ごします。そこで神は「エリヤよ、ここでなにをしているのか。」と問われました。エリヤが苦しみながら訴える預言者としての空しさを、神は二人だけの所で黙って聞いて受けとめてくださいました。 そして、神が通り過ぎてゆかれました。激しい風や地震や火という、目に見えてわかりやすいもの中に主はおられません。その後に「静かにささやく声」がありました。声が主なる神でした。その声にエリヤは立ち上がらされ、新しい次のステップへ送り出されます。 私たちは苦しむ時に自分の中に解決方法を探し出そうとしますが、外からの声にこそ解決があります。それがはっきりと示されるのが、神が愛する御子をこの地にお送りくださった主イエスの十字架です。自力で乗り越えようとする傲慢という罪を主イエスが代わりに負い、十字架で死を味わい、赦して取り払ってくださり、私たちの耳を開き聞こえるようにしてくださるのです。苦難の中で周りを一切受け付けられなくなってもなお「私はあなたと一緒にいる。私はあなたを決して見捨てない。ここに、今、共にいる。」と語り続けられる声がある。その確かな声が細くとも小さくとも聞こえた時に、主イエスとの出会いが与えられるのです。声のただ中に十字架の主ご自身がいてくださるのです。 主イエスは良い土地に落ちて実を結び、聴く耳を持つ者になるようにとの期待をもって、御言葉の種を撒き続けてくださいます。今日、礼拝に招かれた私たちは神の御子主イエスとお会いします。礼拝こそ静かにささやく声の源です。私たちはたとえどのような苦難の中に置かれようとも、聞こえてくる静かだけれど確かな御声に信頼して生きていくことへ招かれているのです。 【2022年 8月 14日 主日礼拝説教より】 説教「献げる者へ」 詩編 第98篇 1節 マルコによる福音書 第14章 3節-9節
主イエスがベタニアの家で食事の席についておられたとき、驚くことが起りました。一人の女性が手にした石膏の白い壺を壊して、香油を主イエスの頭に注ぎました。それは非常に純粋で高価なナルドの香油で、その良い香りが部屋中に広がっていきます。しかしこれは当時の習慣から見て非常識な行為でした。何人かが憤慨し、もっと効果的に使えたのにと彼女を問い詰めます。300デナリオン以上という年収相当の価値がありましたから、この批判は正論でしょう。 しかし主イエスは、これは時に適った良いことで、彼女はできることをしたのだとおっしゃり、ご自身の埋葬の準備に位置づけてくださいました。死を悼む者が共に祈りつつ大切に積み重ねられてゆく葬りの業ですが、主が十字架で息を引き取られた時、香油を塗る時間はありませんでした。今、十字架が差し迫る時に、主イエスが彼女の行いを救いの中に位置づけてくださったのです。 この主イエスの言葉に、憤慨した人たちは立ち止まらせられたのではないでしょうか。彼女の行いは、主イエスとの出会いの中で真理に触れ、このお方こそ自分の存在を受け止めてくださるお方ではないかと感じさせられていったことから溢れ出た、感謝の応答でしょう。これに対して、憤慨する人たちは主イエスがどなたなのかを見誤ってしまっているのではないでしょうか。 私たちもまた主イエスに結ばれて信仰にある喜びに共に生きるようになります。しかし、主を見誤ってしまっている事も私たちの現実でしょう。主を見てはいますが、語りかけを聞く耳を持たず、人も出来事も表面的な判断をしてしまいます。主は、そんな私たちを立ち止まらせて、このお方がどなたであるかを気付くようにと招き、問うてくださるのです。 主イエスこそが私たちの救い主です。私たちを御もとに招いて御言葉の中に取り戻してくださり、主を見誤る私たちを十字架と復活により赦して救いを与えてくださいます。そして、応答する者、献げる者へと変えてくださっているのです。今、私たちにできることはこの礼拝です。それを主が300デナリオン以上のものとして受け取ってくださる。礼拝ごとに新しい出会いを与えられた感謝の讃美を、私たちの救い主が受け取ってくださっているのです。 【2022年 8月 7日 主日礼拝説教より】 説教「右の頬を打たれたら」
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
松本 のぞみ 教師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
瀬谷 寛 牧師
原田 雅子 神学生
瀬谷 寛 牧師
原田 雅子 神学生
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瀬谷 寛 牧師