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【2021年 12月 26日 主日礼拝説教より】

説教「神の言葉は貫かれる」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第31篇 15-17節

       マタイによる福音書 第2章 13-18節


 

 一昨日、昨日と、主イエスのご降誕を祝う喜びの礼拝を献げました。その喜びの光の余韻、あるいは喜びの賛美の歌声の残響が響く中で、今日の主日礼拝を迎えています。聖書の記述に従って、今日はその続きを読みますが、そこに描かれているのは、ヘロデ王による、2歳以下の幼児の虐殺を告げる記事です。目を覆いたくなるような、できれば見たくない、聴きたくない出来事です。

 教会の改革者マルティン・ルターは、「ここに書かれているのはまことに素晴らしい物語だ」と説教しています。なぜならここで、悪魔と、悪魔に支配されているこの世が、幼子イエスと、その幼子がもたらそうとしてくださっている神の国に対して、どんなに敵意を持ったか、が示されているからだ、と言うのです。

 王ヘロデは、この地域の平和を維持し、秩序をもたらす良い面を持ち合わせていましたが、主イエスに殺意を抱きました。そして、子供を大量虐殺します。王は、自分の世界の中で、思う通りの生活を作り、楽しみます。けれども、思う通りの生活を妨げるものを拒否し、殺してしまうのです。しかしこれはわたしたちとも決して無関係ではありません。主イエスがわたしたちに教えてくださった愛は、自分にとって不都合な存在を受け入れることです。しかし実際、わたしたちは一人の人を愛そうとするときに、どんなに大変で面倒くさいか、知っています。その面倒くさいことに踏み込んでいったときに、本当の愛が始まるのです。それをしないならば、「邪魔者は殺せ」というヘロデの考えと同じです。

 旧約のヤコブは、息子ヨセフが殺されたと聞いて、激しく嘆きました。その妻ラケルがラマ(=ベツレヘム)で葬られた。そして、バビロン捕囚でユダヤの人々が捕らえられ連れて行かれる姿を預言者エレミヤが見ながら、あのヤコブの妻ラケルも激しく嘆いたことを想像しているのです。

 わたしたちのクリスマスも、神から切り離された人間についての悲しみと無縁ではありません。むしろその悲しみのただ中に、主イエスはお生まれになられました。主イエスはこの悲しみを引き受けて、十字架に死んでくださったのです。







【2021年 12月 19日 主日礼拝説教より】

説教「今こそ、救い主に献げよう」
      瀬谷 寛 牧師

       詩編 第72篇 8-15節

       マタイによる福音書 第2章 1-12節(4)


 

 今日のクリスマスの礼拝に、特別な思いをもって集っている方がいます。洗礼をもって教会に迎え入れた方々、そして病を得、今日が最後のクリスマス礼拝となる覚悟をもっている方がいます。しかしどのような状況が与えられても、救い主が誕生されたクリスマスは喜びの時であることは変わりません。

 しかし今日の新約聖書の言葉の中には、喜びが乏しいように感じられます。むしろ不安、殺意、悲しみ、恐れ、そのような思いがあふれています。その中でたった一か所「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10)とあります。原文のギリシア語を見ますと、「大きな喜びを、非常に喜んだ」と訳せる、不器用に言葉を重ねても十分とは言えない程のあふれる喜びが、ここに刻まれています。

 これほど喜んだ東方からの占星術の学者たち、彼らを導いたのは星でした。星は夜輝くもの、明るい場所で、威張っているものには見えない光です。闇の中、苦しみ、痛みの中にある者こそ、特別な、救い主誕生の場所に導く星の光の輝きを見ることができます。わたしたちは明るいところに立っている気になっていると、星の光の小さな動きに気づくことができません。

 この星に導かれが学者たちが、喜びにあふれたのは、最終的には、母マリアと共にいる幼子、救い主、イエス・キリストにお目にかかったからです。彼らは黄金・乳香・没薬を、救い主への献げ物として献げました。これらは、学者たちの仕事道具だったのでは、と言われることがあります。これらによって、彼らは自らの命を支えていたのです。もしそうだとするならば、彼らはこの生命そのものを惜しげもなく、この小さな幼子に差し出したことになります。この御方になら、わたしの命を献げても構わない、と。なぜ、彼らはそこまでできたのでしょう。彼らは、この幼子こそやがて、ご自分のすべてを献げて、全人類を救うために十字架にかかり、死んでくださる方だ、と感じ取ったに違いありません。

 では、わたしたちはこの救い主に、何を献げているでしょう。十分に献げているか、と問われたら、決して十分ではないに違いありません。けれどもわたしたちの多くは、洗礼を受けています。今日も洗礼式が行われました。洗礼はまさに、わたしたちの全てを主イエスに献げて行き始めることです。







【2021年 12月 12日 主日礼拝説教より】

説教「陰険な王ヘロデ」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第63章 15-19節

       マタイによる福音書 第2章 1-12節(3)


 

 先日、招かれて、宮城学院中高のクリスマス礼拝に出席し、説教のご奉仕をさせていただきました。クリスマスページェントを、今年はコロナによって生の舞台は見られませんでしたが、あらかじめ撮影されたものをスクリーンで見るだけでも、とても感動しました。自分が、主イエスのご降誕物語の中に入り込み、その一員として加えていただいた思いがいたしました。

 そのシーンにも出てきたのですが、東方から占星術の学者たちが来て、ユダヤ人の王として生まれた幼子を探している、という情報がヘロデ王の耳に達しました。自分以外の王が生まれる、ヘロデの場合、その不安は人一倍深刻でした。彼は当時、この地域を支配していたローマ帝国の人々の信用を得、40年近く、王として権力をふるっていました。平和を維持し、エルサレム神殿の改修などで、大きな力を発揮しましたが、狂気に近いほど疑い深い性格であったことが、致命的な欠陥でした。誰かが自分の権力の座を脅かすと思えば、妻ですら、息子ですら殺害させました。こういう人物が、将来王となる子どもが生まれた、という知らせを聞いた時、どれほど動揺したことか、と思います。

 ヘロデは、祭司長と律法学者たち、いわば、専門家の第一人者たちを集め、聖書によれば、新しい王はどこで生まれるのか、調べさせました。彼らは、ミカ書から、ベツレヘムがその場所であることを示しました。ヘロデは学者たちに、その情報を与え、ベツレヘムのどの家で、幼子が生まれるのか、知らせてほしい、と告げます。しかし、ヘロデの唯一の願いは、あの王として生まれたという幼子を殺すことでした。そのために嘘をついてでもそれを実行しようとしました。彼は、幼子が自分の生活、地位、権力、勢力を脅かすことを恐れていたのです。

 今日でも、主イエスを抹殺してしまいたいと願っている者がいます。自分の生活を干渉されたくない、自分の思い通りの生活をしようとする、そこで主イエスがじゃまになり、殺してしまおうとします。まさに、わたしたち自身の姿です。そのように、自らを自分の人生の王、主人とするのでなく、あのページェントのシーンのように、学者や羊飼いたちと共に、主イエスを拝み、まことの主人、王として受け入れる者たちの一員となることが、わたしたちに求められています。







【2021年 12月 5日 主日礼拝説教より】

説教「東方より来る者にも」
      瀬谷 寛 牧師

       列王記上 第5章 9-14節

       マタイによる福音書 第2章 1-12節(2)


 

 主イエスがお生まれになられたベツレヘムの町で、そのご降誕に立ち会い、その喜びを分かち合った者たちの一組が、「東の方から来た占星術の学者たち」です。昔は東方の博士、と呼ばれていました。「東の方」と言っても、東にある、ある特定の国というのではありません。

 この「東」という言葉を聞いて、ユダヤの人々が思い浮かべるのは、アッシリアであり、バビロンであり、ペルシアという国々です。まだ主イエスがお生まれになる何百年も前に、ユダヤの人々はこれらの国に滅ぼされ、あるいは支配されてしまいました。自分たちを捕まえていった、自分たちを神の宮・神殿から引き離していった、少しも神を信じていない憎っくき敵です。また、「占星術の学者たち」と訳されている言葉は、原文ではマゴスといい、マジックの語源となった、いわば「魔術師」、星占いの専門家です。クリスマスの場面を描くマタイによる福音書には、このわずか数人の占星術の学者たちが、大きな喜びにあふれて、幼子主イエスに出会うことができたことが示されています。神など信じないと人々が退けていた外国人の、しかも星占いの連中でした。

 なぜこの人々が、神の御子主イエスにお会いすることができたのでしょう。神は、星占いの道が間違っていることをご承知でした。しかも彼らがユダヤの民に属さない異教徒であることを承知しておられた。主イエスと出会う喜びを味わう資格の全く持たないものであることを知っておられる神が、クリスマスの喜びを指し示す者として、お立てになられたのです。これは神がなさったことであり、わたしたちにはその真意は分かりません。ただ言えるのは、神から遠かった、ということ、しかし、神に救われることを願っていた、ということです。

 これは、わたしたちの物語です。このアドベントに、神の前に集まっていますが、ここに立てば立つほど、わたしたちは愛せず、赦せない、神から遠いことを味わいます。しかしその遠さは、神にとっては大したことはありません。神ご自身がわたしたちに近づいて来られます。神は、愛せず、赦せないで神から遠く離れたわたしたちを、愛し、赦して十字架で死なせるために、御子主イエスを生まれさせてくださいました。わたしたちは、神に近く、神を拝む者とされました。







【2021年 11月 28日 主日礼拝説教より】

説教「王はどこで生まれたか」
      瀬谷 寛 牧師

       ミカ書 第5章 1-5節

       マタイによる福音書 第2章 1-12節


 

 今年もこの季節、待降節、アドベントを迎えました。主イエスの御降誕を、喜びをもって待ち望む、特別なときが始まります。この特別な喜びの時の始まりに、喜びがさらに増し加えられる出来事に立ち会いました。洗礼式です。先ほど洗礼を受けた方は、コロナで礼拝出席を中断させられながらも、再び教会に呼び戻されて今日の洗礼の日を迎えられました。神のご意志が貫かれたのです。

 ところで、マタイによる福音書は、系図から書き始められていることをすでに読みました。それは、系図の最後に名前を置かれたイエスというお方が、アブラハムと、そして特にダビデとつながっている、ということを示す意図があった、と考えられます。

 その意図は、系図に続く主イエスの誕生の物語にも引き継がれています。「イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(マタイ2:1)。ここに、イエス・キリストがダビデとつながるキーワードがあります。それは「ベツレヘム」という地名です。旧約聖書のあちらこちらに出てくる地名なのですが、特に重要なのは、かつての王ダビデもまた、この「ベツレヘム」で生まれた、ということです。そもそも、ダビデの曾祖母(ひいお婆さん)に当たるルツが、夫を早くなくしてもその夫の母、ナオミに従ってベツレヘムに住んだところから始まります。そこでボアズとの出会いが与えられ、結婚してオベドが生まれ、その子供としてエッサイが生まれ、そのエッサイの子供としてダビデが生まれます。このダビデが後に王として、国を治め、その支配がイスラエルの国全体に及びます。

 それから時代が300年近く下ってミカという預言者が活動するころ、国は荒廃を極めていましたが、「エフラタのベツレヘムよ お前の中からイスラエルを治めるものが出る」、だから希望を捨ててはならない、神は決してお前たちを見捨てない、預言者ミカはそう語るのです。

 このベツレヘムで生まれたダビデを継ぎ、ダビデを越えて本当に王となられた方がイエス・キリストです。辛く厳しい中でも、わたしたちを真実に支配し、救われる方がベツレヘムで生まれました。神のご意志はそのように貫かれます。







【2021年 11月 21日 主日礼拝(秋の伝道礼拝)説教より】

説教「主の呼びかけ」
      松本 周 教師(宮城学院女子大学)

       エレミヤ書 第1章 4-8節

       ヨハネによる福音書 第21章 15-19節


 

 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」復活なさったイエスさまは呼びかけます。神は一人ひとりの名を呼んで呼びかけられます。イエスさまはあなたに呼びかけています。

 ペトロはイエスさまの十字架刑の前夜、イエスさまを〈三度〉「知らない」と拒みました。そのペトロにイエスさまは〈三度〉呼びかけられます。イエスさまの呼びかけに支えられて、このときペトロは愛する者へと創りかえられていきました。ペトロのみならず、私たち人間は皆、自分の力では愛を実現することができない存在であることを、イエスさまは深く知っていました。愛に生きられないそのような私たちのために、イエスさまは十字架を通して、愛の極み、真の愛の姿を示して下さいました。

 イエスさまは十字架で私たちの罪を滅ぼしてくださいました。その罪とは、言い換えれば、私たちの自己中心の姿です。聖書を通して愛の素晴らしさを知らされていながら自分の力ではそれを行い得ない私たち。自己本位で、神と隣人を愛することの出来ない私たち、その罪をイエスさまが十字架で滅ぼしてくださいました。ご自身が十字架に架かるという犠牲の愛を示し、私にかけがえなく尊い命を与えてくださった。そうして私たちの内に愛を宿らせ、愛に生きる者へと創り変えてくださいました。さらに「わたしを愛するか」と呼びかけ、私たちを愛に生きる者へと招かれます。「羊の世話をする」、教会を愛する生き方へと招かれます。私たちは互いに愛し合い、それによってイエスさまの愛を証しすることへと招かれています。きょうだい愛、隣人愛の喜びへと召されています。

 イエスさまが与えてくださる愛の中に生きる時、私たちに変化が訪れます。神の愛の中に生きるとき、行きたくないところへ、すなわち自分の意志を超えた歩みへと導かれていく。人々の求めに応じ、それらの背後にある神のご計画に導かれ、教会に生きる者は歩んでいく。それは時として、自分の計画や考えと異なるかもしれない。けれども私をかけがえなく愛してくださった方の御心に応えていく。ちっぽけな私の自己実現などはるかに超えた、大いなる神の御心の中を生きる生涯とされます。イエスさまは「あなたは私を愛するか」と呼びかけています。イエスさまはあなたを洗礼へと招き、また洗礼を受けた者に教会に生きる人生を呼びかけています。「わたしに従いなさい」と。







【2021年 11月 14日 主日礼拝説教より】

説教「インマヌエル―共におられる主」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第7章 10-175節

       マタイによる福音書 第1章 18-25節(4)


 

 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:23)。 インマヌエル―神は我々と共におられる、これが、主イエスがお生まれになられた場面で神から与えられた言葉です。しかしもとを正せば、旧約の預言者イザヤの預言の言葉から来ています。どういう状況だったのでしょう。

 紀元前730年頃のこと、イザヤが預言をしていたユダの国がアハズ王の支配にあったとき、この国はアラム・エフライム、そしてアッシリアと呼ばれる隣の国から、今にも攻め込まれそうな状況でした。アハズ王も、その民も、「森の木々が風に揺れ動くように動揺し」ました(イザヤ7:2)。預言者イザヤは、この時こそ神を信じなければならない、とアハズ王に進言しますが、王は聞き入れようとしません。そこで預言者イザヤが、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」、それをもって神を信じなさい、と勧めるのです。敵が滅びることがしるしとして与えられるならば、アハズ王はすぐに信じたでしょう。

 ところが、そこで与えられたしるしが、冒頭の言葉、一人の、インマヌエルと呼ばれる男の子が生まれる、というものでした。王にとっては、何の助けにもなりません。どうして、敵に取り囲まれる情勢の中で、力となるでしょう。

 神が共に、一緒にいてくださる、ということは、わたしたちにとって本当に大切なことではないでしょうか。世の中で、職場で、家庭で、わたしたちは孤独です。それが一番の問題かもしれません。けれどもそれに反して、自分の魂に触れるように一緒にいるものがあることが、とても大事です。夫婦でも、心に触れなかったら孤独と言わなければなりません。一緒にいる、とは、主イエスのお誕生のことだけでなく、すべての人間が待ち望んでいることです。

 わたしたちが孤独であること、それは実は、わたしたちは本当には神を信じようとしない、罪があるためです。けれども主イエスはこの世にお生まれになられました。この世においでになられ、ご自分の死によって、わたしたちの罪を赦してくださいました。そして本当に、インマヌエル、神が共にいてくださることを信じるように招いてくださいます。主イエスの誕生の恵みは、ここにあります。







【2021年 11月 7日 主日礼拝説教より】

説教「民を罪から救う主イエス」
      瀬谷 寛 牧師

       イザヤ書 第43章 8-15節

       マタイによる福音書 第1章 18-25節(3)


 

 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21)。婚約者マリアのお腹の中に、聖霊によって身ごもられた幼子を、「イエス」と名付けるように、主の天使はヨセフに告げました。この「イエス」という名前は新約聖書のギリシア語に近い発音で、この名は旧約聖書のヘブライ語で「ヨシュア」と記されているのと同じ名です。

 この「イエス」、「ヨシュア」というのは「救い」ということを意味する言葉ですが、当時のユダヤ人の中ではよく長男につけられた、平凡な名、どこにでもある名でした。それは、神が跡継ぎを与えてくださった、神が我が家を救ってくださった、その喜びを込めてつけられた名だったようです。

 「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。主イエスは、ヨセフとマリアの家だけを救うのでなく、神の民を救うためにお生まれになられました。それはまた、全人類の救いとなられることをも意味しました。ヘブライ人への手紙では、主イエスのことを長子と呼びました(1:6)。そしてわたしたちはその主イエスによって「兄弟」と呼ばれるようになりました。主イエスを長男とする神の家族が誕生します。

 実は、この「イエス」という名前は、ここで生まれた主イエスとは別の人物にもつけられた名でした。それは、後の十字架の死の場面で、主イエスと共に裁かれ、しかも自分は死刑を免れることが出来た囚人バラバが、「バラバ・イエス」という名であったと記録されています(マタイ27:15~17)。主イエスは、罪人とともに深くすべてを共有してくださったことを意味します。その上で、バラバが罪を免れたように、わたしたちすべての人間も主イエスが裁かれたおかげで罪を免れました。まさに「救い」がもたらされたのです。

 改めて、この「イエス」という名は、ユダヤ人の名であることに目を向けたいと思います。そして、今日、日本人として生きるわたしたちにとって、二千年前にこの名を持って生まれた方が、わたしたちの人生を変えてしまうほどの関わりがあることは、本当に不思議なことです。このお方をわたしたちにとってかけがえのない方とさせていることに、ただただ、感謝するばかりです。







【2021年 10月 31日 主日礼拝説教より】

説教「聖霊によって宿られた主」
      瀬谷 寛 牧師

       マタイによる福音書 第1章 18-25節(2)


 

 先日、主日礼拝の後に、「求道者の集い」を行いました。洗礼を受けるか受けないか、その判断の基準があるとすれば、教会の信仰の言葉、毎週告白する使徒信条を、すべては理解できなくとも、アーメン、そのとおり、と言って受け入れられるかどうか、というところにあると思います。

 前回に続いて、主イエスの誕生を描いた聖書の箇所を読んでいます。まだ婚約の状態であったマリアとヨセフが、まだ一緒になる前に、マリアの胎に幼子を身ごもらせていることが分かりました。ヨセフは戸惑いましたけれども、主の天使が夢で現れて、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊のよって宿ったのである」と告げました。結局ヨセフは、この言葉の通りマリアを受け入れ、幼子主イエスを我が子と受け入れる決心をします。

 この出来事を、使徒信条では「(主イエスは)処女(おとめ)マリヤより生まれ」と言い表しています。いわゆる処女降誕です。そうするとわたしたちは、この処女降誕ということばかりに目を留めてしまいがちです。先日の求道者の方が、使徒信条のこの言葉はとても受け入れがたい、だから洗礼は受けられない、と考えてしまうかもしれません。どう受け止めたらいいのでしょうか。

 まず、使徒信条は、「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」と言われていることに注目すべきです。主イエスは聖霊によって受胎され、地上の存在となって、処女マリヤから生まれた、これをまるごと受け入れることが大事です。これは、神の御子の誕生の神秘を現しています。神の御子が、一人の娘に、神の霊である聖霊によって宿ったのです。ただの偉人が一人生まれた、という人間の出来事ではありません。人の手によらずに宿られた、神のみ業です。

 あえて申し上げると、主イエスの処女マリヤからの誕生を信じなければ(よく理解しなければ)救われない、ということではありません。わたしたちにとって救いが集中するのは十字架と甦りです。主イエスがわたしたちの罪と死を克服するために、十字架につけられ、神によって甦らされた、そこに集中します。しかし、神の子が人の子となってくださったことがなければ、十字架も復活も起こりえす、意味を持ちません。この真理を受け入れさせていただきたいと思います。







【2021年 10月 24日 主日礼拝説教より】

説教「ヨセフ、困惑の中からの信頼」
      瀬谷 寛 牧師
        申命記第24篇第1-4節

        マタイによる福音書 第1章 18-25節


 

 新約聖書の始め、マタイによる福音書の冒頭、アブラハムから主イエス・キリストに至る系図が記された直後に記されているのは主イエスの誕生の物語です。

 18節後半には、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。当時の婚約は、ほとんど結婚後の夫婦と同じ生活をしていたようで、この期間中に他の男、あるいは他の女と肉体的な関わりを持つことは、結婚後の姦淫と同じ思い罪と考えられていました。「ヨセフは正しい人であった」とあります。律法をきちんと守り、マリアと肉体的な関係を持っていなかったことは明らかです。にもかかわらず、自分の婚約者に子が宿ったのです。ヨセフのマリアに対する愛が、どんなに深く傷ついたでしょうか。

 しかもヨセフは、それだけで悩んだのではなかったようです。「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。表ざたにするとは、マリアを姦通の罪で訴える、ということです。当時の律法では、夫を裏切ることは、石打ちの死刑に処せられることはほぼ確実でした。ですから縁を切り、婚約を解消すれば、マリアが子どもを生んでも姦通の罪に問われることはないのです。これはヨセフのマリアへの、精一杯の優しさです。しかし、この決心に至るまで、ヨセフは随分苦しんだでしょう。

 そこで、主の天使が現れた、つまり神からの語りかけがありました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。神はヨセフに、マリアがヨセフによらず身ごもった子どもを、自分の子として受け入れ、その父となり守り育てることを求めました。ヨセフは「わたしにはそんな責任はありません」と言えます。しかし、ヨセフは「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」という神のみ言葉を信じ、神のご命令に従う決心をしました。

 この決心によって、アブラハムから始まる系図が、主イエスにつながります。救い主がダビデの子孫として生まれる、という預言がヨセフの決心によって実現したのです。神は、このヨセフの決心を尊重してくださいます。そして同時に、決心のつかないヨセフを、わたしたちを、主イエスが助けてくださいます。







【2021年 10月 17日 主日礼拝説教より】

説教「罪人に連なる系図」
      瀬谷 寛 牧師
        詩編第79篇第1-13節

        マタイによる福音書 第1章 1-17節(3)


 

 マタイによる福音書の冒頭にある、たくさんの名前が並べられている系図を読む時に、だれもが指摘する事実があります。それはこの系図の中に四人の女性たちが登場する、ということです。3節にタマル、5節にラハブ、ルツ、そして6節には名前は出ていませんが、ウリヤの妻と出てきます。

 この婦人たちは、系図に記されるほどに特別に立派な信仰者、というわけではありません。そもそも、系図に女性が出てくる事自体、当時のユダヤ人にとっては驚くべきことです。血統を正しく受け継ぐのは男、とされていたからです。

 ここに記されるタマルは、ユダの子を宿した、とありますが、ユダは自分の夫ではありません。自分に子どもが生まれないのを嘆いて、遊女・売春婦の姿になりすまし、自分の夫の父であるユダを迎え入れ、その子どもを生んだのです。

 ラハブはまさに遊女・売春婦で、しかもユダヤ人ではありません。ユダヤ人は、自分たちだけが神を信じる立派な民族だと思っていたので、他の民族の人々を軽蔑していました。その異邦人の女で、しかも遊女ラハブが登場します。

 ルツの名がその次に出てきます。このルツもモアブの女、つまり異邦人です。モアブ人は、ユダヤ人が特に嫌っていて、モアブの血が混じった場合には、10の世代が変わらないと、その血はきれいにならない、と考えられていました。

 そして、何よりもウリヤの妻、バト・シェバです。前回も登場した王ダビデは、自分の部下の妻であった女性を無理や自分のものとしてしまい、邪魔になったその夫ウリヤを激しい戦場に追いやって殺してしまいました。

 これは、女性の罪の物語ではありません。女性が混じったから、罪に汚れた系図となったのではありません。むしろ男が罪を犯しています。人間の罪です。

 このアブラハムから始まった、神の民の罪の歴史が、主イエスにまでつながり、わたしたちにつながっています。この系図によって示された神の民の歴史は、きれいな血筋ではなく、神に背き続ける人間の濁った血筋でした。そこに主イエスは神の子として、しかし同時に罪の系図を通り抜けた人の子として、入って来られました。そして汚れた血の流れを、十字架によって清い命の血にすっかり入れ替えてくださいました。その清い血が、わたしたちにも注がれています。







【2021年 10月 10日 主日礼拝説教より】

説教「み父のみもとへ」
      瀬谷 寛 牧師
        詩編第23篇第1-16節

        ヨハネによる福音書 第14章 1-7節


 

 本日は、教会創立140年を迎えた中での逝去者記念礼拝です。わたしたちよりも先にこの地上の生命を終えた、信仰の先達が、140年前からこの教会より送り出され続けたことを覚えます。今地上にいるわたしたちは、これらの方々と別れてしまっています。これらの方々は一体、どうなっているのでしょう。

 主イエスとその弟子たちも別れを迎えようとしています。今日与えられたヨハネによる福音書の第13章から第16章のあたりまで、いよいよまもなく主イエスが逮捕され十字架へと向かわれる、その直前に弟子たちにお語りになられた、告別説教と呼ばれる、主イエスのまとまった言葉が残されています。その中の第14章1節、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と語られました。神を信じるように、イエス・キリストを信じるなら、いえもっと言えば、あなたがたの目の前にいるイエス・キリストこそ神と信じ、信頼するなら、別れに際しても心の騒ぎが収まるだろう、というのです。

 そして2節に「わたしの父の家には、住むところがたくさんある」と続きます。主イエスは神のもとから遣わされましたが、まもなく天へとお帰りになられます。しかしそのことは、天に弟子たちの住む場所を用意するためである、というのです。主イエスとの死の別れは、弟子たちが、父なる神や主イエスとこれから先もずっと共にいられるようになるための死なのだ、というわけです。

 しかし、どのように天の父のもとに行くのか戸惑う弟子たちを前に、主イエスは5節で「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃいました。強調すべきは、「わたしは道である」ということで真理と命は、道を説明する言葉です。主イエスが道なのは、主イエスを通らなければだれも父のもとに行くことはできないからなのです。つまり、地上の命を終えた者は、主イエスが用意された父なる神のおられる場所に移ることが約束されてはいますが、主イエスという道を通らなければそこにたどり着くことができないのです。そのために主イエスはここで弟子たちとの別れを告げられた後、十字架へと赴かれ、さらに死者の中からお甦りになられ、またさらに別の弁護者としての聖霊をわたしたちに与えてくださいました。改めてこの時、主イエスのお姿を思い起こしたいと思います。








【2021年 10月 3日 主日礼拝説教より】

説教「王に連なる系図」
      瀬谷 寛 牧師
        サムエル記下 第7章12-16節

        マタイによる福音書 第1章 1-17節(2)


 

 先月、マタイによる福音書を読み始めてから二度めの講解となります。
 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。これからイエス・キリストを明らかにしようとする新約聖書の冒頭にこの言葉が置かれています。イエス・キリストは「アブラハムの子」であるとともに、「ダビデの子」であることが大切なことだ、というのです。どういう意味でなのでしょう。
 ダビデとは、イスラエル・ユダヤ統一王国の建設者で、紀元前1000年王位につき、将軍政治家として、卓越した能力を発揮しました。エルサレムを、この統一王国の首都とし、イスラエルの信仰の象徴であった契約の箱を、このエルサレムに置きました。対外的にも周辺地域をイスラエルの領土とし、戦利品と貢物が宮廷の財源を潤しました。誰からも尊敬される、伝説の王、レジェンドです。これからイエス・キリストのことを明らかにしようとする時、イエス・キリストはこのダビデ王の子であると言うのです。それは、旧約聖書サムエル記下7:12、13におけるダビデに向けて語られた、預言者ナタンを通して授けられた神の言葉に基づいています。すなわち、「あなたが生涯を終え、先祖とともに眠るとき、あなたの身から出る子孫に後を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座を永久に堅く据える」。この後を継ぐ子孫がイエス・キリストです。
 王ダビデにおいてわたしたちが見出すものは、神の主権のこの世における実現です。神はこの世に対して、王のように力をもって振る舞われます。その具体的な姿が、イスラエルの王という形で現れます。
 しかし主イエスのこの世への到来の意味は、ただ単純に王ダビデの職を受け継ぐ、というところにとどまりません。ダビデになく、主イエスにあるものがありました。それが、人間に対する罪の赦しの恵みの権威です。マタイによる福音書9:8で、中風の病の人に対して「あなたの罪は赦される」と宣言された主イエスを前に「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美し」ました。主イエスは、聖餐のパンと杯ほどに身を小さくしながらわたしたちの罪をお赦しになるほどに、大きな権威を持つ本当の、真実の王です。








【2021年 9月 28日 主日礼拝説教より】

説教「慰めを受け、伝道する教会」
      瀬谷 寛 牧師
        ゼカリヤ書 第8章9 ~13節

        使徒言行録 第9章 19b-31節a


 

 本日は、本来であれば、年に一度の教会修養会の日です。残念ながらいつものように皆で集まって修養会を行うことはできませんが、その代わりに数ヶ月、時間をかけて紙面で、オンラインで、形を変えて行いたいと思います。今年、教会創立140年を迎えているわたしたち仙台東一番丁教会が、10年後に迎える「創立150周年に向けての幻」を思い描きながら、御言葉に聴いていきたいと思います。
 主イエスが、ここではまだサウロと記されている、のちの使徒パウロに新たな道を示されました。キリストの教会を迫害していたパウロに、「「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と主イエスが語りかけられました。このパウロのダマスコの途上での、衝撃的な出会いによって、彼は新しくされました。
 その後、主の御業の器として働いたアナニアに、主イエスがおっしゃいます。「(サウロが)わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。主イエスに出会った者は苦しみを受けるのです。主イエスの弟子たちを捉えてエルサレムに送って殺そうとしていたのに、キリストの弟子としてすっかり変えられてしまったパウロは、今度は自分を殺そうとするユダヤ人の殺意に取り囲まれ、町を出ることができなくなってしまいました。
 サウロはダマスコをようやく逃れて、今度はエルサレムに戻ってきます。このエルサレムでも、サウロは命を狙われていました。しかもサウロは、その自分を敵視する人々のために、主イエスの名を伝えました。伝道とは、キリストの名を告げることです。こうしてサウロは、神に用いられ、エルサレムにいた使徒たちと同じ主イエスの弟子として、教会のために働く者とされました。
 このようにして、使徒言行録は改めて教会の姿を語ります。「全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信徒の数が増えていった」。仙台東一番丁教会も、創立以来140年の歴史を重ねながら、さまざまな困難の中でもおそれずに伝道を続けてきました。主イエスとの出会いによって、全く新しい歩みを始める者が起こされ続けました。150年に向かう教会の歩みの中で味わう喜びが、ここにあります








【2021年 9月 19日 主日礼拝説教より】

説教「方向転換させられた者」
      瀬谷 寛 牧師
        ヨブ記 第42章1 ~6節

        使徒言行録 第9章 1-19節a


 

 ここに描かれているのは、後にパウロと呼ばれるようになるサウロが、主イエスにとらえられた物語です。とても大きな事件です。けれども、この使徒言行録を書いたルカは、偉人パウロがキリスト者になった物語として、特別な光の中に置かず、一連の神の御業の一つとして、このサウロの物語が語られています。

 また他方、この大きな事件であるパウロの回心の出来事が、パウロの書いた手紙に何も書かれていない、という指摘があります。確かにこの場面を忠実に再現する箇所は他にはありません。けれどもパウロは、手紙でもこの出来事について言及していると思います。たとえば、ローマ5:8~10です。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」、わたしたちは、神の敵であった、と言っています。使徒言行録も書いています。9:1「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き」。パウロは、主イエスの弟子であるキリスト者たちをエルサレムに連行し、裁判にかけ、殺そうと思っていました。憎しみにあふれていました。

 ところが、この迫害の旅半ばで、天からの光が彼の回りを照らしました。そして、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という声を聴きます。そして、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と続きます。パウロよ、お前はキリストの教会、わたしの弟子を殺そうとしている、それはわたしを迫害し、恨み、殺すのと同じことだ、と主イエスご自身が語っておられます。パウロは地に打ち倒されました。ひざまずくような思いになっていたでしょう。そこからパウロは、目が見えなくなり、手を引かれてダマスコまで連れて行かれます。そして神は、アナニアという教会の仲間を遣わし、彼の「目が見えるように」と祈りによって、しかしそれは主イエスの御業、神の御業によって、パウロの目は見えるようになりました。

 こうしてパウロは元通り、目が見えるようになりました。しかしその目は、これまで見ていたのとは全く違った現実を見るようになりました。全く新しい人間になりました。方向転換させられました。わたしたちの現実にも同じことが起こっていますし、仙台東一番丁教会でも同じことが140年間起こり続けています。







【2021年 9月 12日 主日礼拝説教より】

説教「救い主の系図」
      瀬谷 寛 牧師
        創世記 第12章1 ~9節

        マタイによる福音書 第1章 1-17節


 

 コリントの信徒への手紙一を読み終わり、次に礼拝で読む聖書箇所を、長老会で相談しながら、マタイによる福音書を読むことに決めました。聖書の言葉はどれも神の言葉で、同じ重みを持つものですが、直接主イエスのお姿が見え、肉声が聴こえるような福音書は、折に触れて読んでいくことが大切だと考えます。

 マタイによる福音書は、新約聖書の冒頭に置かれている文書です。そしてこの文書の始まりは無味乾燥に見えるカタカナの羅列です。信仰を求めようとする人に、わたしは牧師として、聖書を読むことを勧めますが、初めての方にはこの冒頭のカタカナだらけは非常に読みにくく、通読の出鼻をくじかれるに違いありません。どうして、この文書の、そして新約聖書の冒頭にこのカタカナだらけの言葉が置かれているのでしょうか。

 そのはじめの言葉はこうです。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。新約聖書の4つの福音書のうち、最も早い時代に書かれたのはマルコによる福音書だ、と言われています。書かれた年代の順に文書が並べられる、ということであるなら、マルコによる福音書が冒頭に来るべきです。けれども、この「系図」から始まるマタイによる福音書こそ、新約聖書の冒頭に置かれるべき、と考えられました。それは、この「系図」という形で全旧約、イスラエル民族の全歴史を繰り返し、それが、イエス・キリストを目指しているのだ、ということを明らかにする、という意図が働いていたからです。

 全旧約、イスラエルの全歴史がイエス・キリストを目指している、ということは、イエス・キリストがアブラハムの選びの目的の完成・成就を目指そうとしていることを意味します。イスラエル民族の父アブラハムはかつて、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という言葉をもって、神に選ばれました。イスラエルという一民族から始まって、他の異邦人と呼ばれるすべての民族を含めて、神の祝福に入る、という神の壮大な約束がここに示されます。その約束がイエス・キリストにおいて、その十字架の死と復活において、完成するのです。

 わたしたちは、このアブラハムへの約束、そしてその約束の主イエスにおける成就よって、今、神の祝福の中に入れられています。







【2021年 9月 5日 主日礼拝説教より】

説教「めぐみの朝を待ち望む」
      柳沼 大輝 神学生
        哀歌 第3章1 ~24節

        フィリピの信徒への手紙 第2章 6-11節


 

 哀歌には紀元前6世紀バビロン捕囚によって故郷を失った詩人の苦悩が歌われています。そこにはまさに神によって苦しめ抜かれた一人の人間の姿があります。しかし詩人は18節以降で深い悲しみのなかにあって「主を待ち望む」と宣言します。(18、21、24節)

 身を裂くような大きな苦しみのなかで詩人を立ち上がらせた〈再生の希望〉とは詩人が「それほど深い」と告白している「あなた(主)の真実」でした。(24節)詩人はわたしの魂が沈み込み(20節)絶望の淵に立たされてなお、神の救いを諦めず「神の真実」に生きたのです。

 私たちの生きている世界にも哀歌に歌われているようなたくさんの痛み、苦しみ、悲しみがあります。ときに新しい朝に希望を見出せないような絶望があります。しかし神はいつも私たちに「神の真実」を示してくださっています。それが「イエス・キリストの十字架」です。主イエスは、まことの神でありながらまことの人としてこの地上に生まれ、苦しみを受け、十字架によって死に渡されました。そうして私たちの絶望の淵にまで降りて来てくださいました。私たちが悲しみを悲しみ抜いて自らの魂を沈めるとき、そこにはすでに私たちの罪のために深きに沈み込んでくださったイエス・キリストの十字架があります。だから私たちは深い悲しみにあってけっして独りではありません。主イエスが、私たちの悲しみを十字架でともに負っていてくださいます。十字架の主イエスとの出会いにこそ、私たちを悲しみから立ち上がらせる〈再生の希望〉があります。

 朝、夢から目覚めて喪失を突き付けられる「悲しみの朝」は終わりました。いま私たちが待ち望むのは。キリストの復活の朝に目覚める、死を打ち破る新しい命を仰ぎ見る〈めぐみの朝〉です。「主の慈しみは決して堪えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い」(22、23節)主イエスの十字架と復活によって悲しみの朝は終わりました。めぐみの朝が来ます! さあ、いまこそ主の慈しみ・憐れみを受けて、ともに主をほめたたえましょう!







【2021年 8月 29日 主日礼拝説教より】

説教「主を待つ喜びに生きる」
      瀬谷 寛 牧師

       コリントの信徒への手紙一 第16章 13-24節


 

 今から約2年前の2019年6月16日、この礼拝においてコリントの信徒への手紙一を読み始め、本日で読み終えます。ずいぶんゆっくりと読んで、ようやくここにたどり着きました。この手紙は、コリントの教会のさまざまな具体的問題を切り口にして、「信仰とは何か」「教会とは何か」という事柄の本質に切り込んでいきます。どの言葉も簡単に通り過ぎることはできません。

 その意味で、今日の最後のところも、大変具体的な何人かの信徒の名前が挙げられています。ステファナ一家、フォルトナト、アカイコ、アキラ、プリスカ。彼らがいなければコリントの教会は立ち行かなかったかもしれない、その最初の教会を支えてきた人たちです。この「彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々」(16)を「重んじてください」(18)とパウロは語ります。

 わたしたち仙台東一番丁教会も、今年、創立140年を迎えています。歴代の牧師たちは当然、ある役割を担ってきましたが、それと同じだけ大切なのは、教会のために労を惜しまなかった信徒が生まれ続けてきた、ということです。

 ところでパウロは、「あなたがたによろしくと言っています」、「互いに挨拶を交わしなさい」(20)と述べています。そしてパウロ自身も「自分の手で挨拶を記します」。教会の仲間が、心から挨拶できることは、重要なことです。教会が健やかかどうかは、心からの挨拶が互いになされているかどうかで測られる、と言えるかもしれません。

 パウロの挨拶は、「マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みがあなたがたと共にあるように」というものでした。おそらく、この手紙は礼拝の集まりで、皆が聖餐にあずかるときに読まれたもの、と考えられます。聖餐のたびに、十字架で死に、甦り、天に昇られて救いの業を始められた主イエスが、もう一度わたしたちのところに来て、救いの業を完成してくださることを、コリントの教会の人々は待ち望んでいたのです。パウロはいつもこう挨拶していました。

 ここに、わたしたちの教会の持っている姿勢が現れています。わたしたちは、十字架と復活の主イエスを礼拝しつつ、その救いの恵みによって育まれ、もう一度来てくださり救いを完成してくださる主イエスを待つ喜びに生きるのです。







【2021年 8月 22日 主日礼拝説教より】

説教「わが神、わが神」
      柳沼 大輝 神学生
        詩編 第22篇 2-6節

        マルコによる福音書 第15章 33-39節


 

 主イエスは全地が暗くなってから3時間後、午後3時に十字架上で神に叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15:34)これはアラム語で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。この時、神の子である主イエスは光の途絶えた暗闇のなかで絶望の声を上げられました。

 主イエスを襲った闇、絶望は罪の裁きを受けて、神から「見捨てられる」という恐ろしさでした。私たちは誰かに声が届くとき、絶望のなかでも希望を持って叫び続けることができます。しかし、自分の叫びが誰にも届かないと知るとき、大きな絶望に襲われます。主イエスはまさに神との愛の交わりが絶たれ、暗闇のなかで独りになられました。主イエスは、十字架上で究極的な絶望を味わい大声で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

 十字架上での主イエスの叫びは、私たちの罪のための叫びです。神に背き、神から離れて、自分の力で生きようとしている私たちのための叫びです。本来、罪の裁きを受け、神から見捨てられるべき罪人は私たちでした。けれども主イエスが私たちのために十字架にかかり、私たちに代わって罪を負ってくだいました。そして、私たちの嘆きと共に叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」私たちは、自らの罪に目を留めるとき、はじめて主イエスの十字架の痛みを、あの叫びの意味をわたしのものとして受け取ることができます。

 主イエスの十字架の死は、私たちに新しい道を開いてくださいました。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたよう(15:38)に神と私たちを隔てていた壁は崩されました。罪によって断絶していた神と私たちとの間の大きな溝に十字架という橋が架けられたのです。私たちはもう神から見捨てられることはありません。礼拝を通して神は私たちと出会い、私たちと共にいてくださいます。だから、私たちはどんな暗闇のなかにあっても絶望する必要はありません。神に信頼して「わが神、わが神」と父なる神・主イエスに祈っていくことができます。私たちの叫びは、たしかに神に届いています。

 今日も共々に主の御声に応答していきましょう。







【2021年 8月 15日 主日礼拝説教より】

説教「その名はザアカイ」
      柳沼 大輝 神学生
        詩編 第118篇

        ルカによる福音書 第19章 1-10節


 

 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:10)。「失われたもの」とは本来あるべき神から背を向けて離れてしまったもののことを言います。ここに「失われたもの」がいました。その名はザアカイ。徴税人の頭でした。彼は神にではなく金に頼り、金を唯一の拠り所としてきました。彼は神などいなくても自分の人生は十分に満たされていると感じていました。

 けれども、主イエスがエリコを訪れる噂を聞いたとき、ザアカイは主イエスを一目見てみたいと強く願いました。彼のなかに金では埋められない虚しさ、何かに対して憐れみ・救いを求める叫びがあったのです。しかし、そこにはすでに大勢の群衆が押し寄せていました。背が低かった彼は群衆に遮られ、主イエスを見ることができなかったので彼は急いで先回りし、いちじく桑の木に登りました。

 すると突然、主イエスが木の下からザアカイに語りかけられました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19:5)主イエスは名前を呼んで「降りて来い!」と彼に命令しました。この招きの根拠は失われたものを捜して救うために来たという神の計画にあります。自分の名前を呼び、御側へと招いてくださっている主イエスと出会ったとき、ザアカイは気が付きました。主イエスが自分よりも先回りして、自分のことをずっと見ていてくださったことに。神と自分との間に壁を築いていたのは自分自身だったことに。

 主イエスと出会った彼は大きく変えられました。自分の唯一の拠り所であった財産の半分を手放し、自らの過去への償いを約束します。ここに金ではなく、自分を呼んでくださった主イエスに自らの身を委ねようとする、その名の通り「義しい人」となったザアカイの姿があります。救いが、今日この家を訪れました。

 主イエスは十字架にかかって陰府に降ってまで、ザアカイのように神から離れ、失われていたわたしたち一人ひとりを捜し救いに来てくださいました。そして主イエスは毎主日の礼拝においてたしかに救いの計画を遂行しています。私たち一人ひとりの名前を呼び、たしかに「来い」と招いてくださっています。失われていたわたしのことを捜し招き、救ってくださった神の救いの計画を思い、今日も共々に主の御声に応答していきましょう。







【2021年 8月 8日 主日礼拝説教より】

説教「何事も愛をもって」
      瀬谷 寛 牧師
        ハバクク書 第2章1 ~4節

       コリントの信徒への手紙一 第16章 5-24節


 

  パウロが心の中で大切にしていたのは、「主が許してくだされば」という、主なる神のみ心を重んじる思いでした。その思いが教会に広がるように、とテモテとアポロという二人の伝道者のことが出てきます。

  テモテは、パウロの手紙には度々出てくる、パウロが最も愛したまだ若い伝道者の一人でした。老練なパウロはテモテがコリントの教会に遣わされるに際して、教会の人に向かって、「だれも彼をないがしろにしてはならない」(一コリント16:11)と申しました。この若い伝道者をめぐって、心配する気持ちがあったようです。特にその心は「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」(一テモテ4:12)という言葉にも表れています。テモテを軽んじてはならないのは、パウロと同様、主の仕事をしているからです。主イエスを宣べ伝える伝道は、主イエスご自身の仕事です。それならば、伝道者は若くともないがしろには出来ません。

  次に出てくるアポロは、雄弁で聖書に精通した、経験ある伝道者だったようです。この手紙の第1章には、アポロが、ペトロやパウロと同じようにこの教会で活躍し、愛されていた様子が記されていました。パウロはこの人にも同じように、コリントに行くことを勧めましたが、この時は行こうとしませんでした。

  いずれにせよパウロは、全く立場や力量の違う人をコリントに送り、あらゆる方面からコリントの教会を支え、導こうとしたのではないでしょうか。

  その後、突然勧めの言葉が出てきます。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」。ここに、およそ信仰者の生活の姿勢がわかるような気がします。主イエスがいつもう一度、再びおいでになっても大丈夫なように目を覚ましているのが、信仰者の姿です。けれどもだからといって、何か特別な、変わった用意をするわけではありません。何事も最初から、愛をもって行うだけです。すべてのことを愛の中で起こるようにするのです。それ以外の姿勢はありません。

  主イエスの十字架の死によって示された愛によって愛されている者として、わたしたちは目を覚まして、何事も愛をもって生きる道を進みたいと思います。







【2021年 8月 1日 主日礼拝説教より】

説教「主が許してくだされば」
      瀬谷 寛 牧師
        出エジプト記 第25篇1 ~9節

       コリントの信徒への手紙一 第16章 1-12節


 

 前回まで読んでいた、コリントの信徒への手紙一第15章には、死者の復活の信仰、世の終わりに、わたしたちも主イエスの復活に与って、新しい、朽ちることのない復活の体が与えられ、死の力が滅ぼされ、神の恵みの勝利が完成する、そのような信仰者の究極の希望について語ってきました。

 その直後の第16章に今日から進みますが、ここに描かれている内容は献金の話しです。大きな落差を感じるかもしれません。遠く世の終わり、永遠を見つめていた目が、急に卑近で即物的なお金の話に引き戻されるかのようです。

 けれども、パウロの中では落差はなく、同じ口調で語っています。もちろん、第15章50節「肉と血は神の国を受けることができず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」、つまり過ぎ去るこの世の営みの延長に救いがあるわけではありません。しかし、復活の希望に生きるものは、この世の具体的、即物的な現実の中で、それらが朽ちていくものであることをはっきり知りつつ、そこでなお朽ちないものにつながる希望をもって、「主の業に励み」ます。献金の教えは、復活の希望に支えられて、この世の事柄を用いて主の業に励むことの具体的な事例として語られています。

 パウロはここで、「聖なる者たちのための募金」について語りますが、これは、エルサレムの信徒たちへの献金を指します。なぜエルサレムの教会のために献金が必要だったのでしょうか。一つは、エルサレム教会が一番大きかったからです。当時の教会は、社会的な条件が厳しかった人、寡婦や孤児たちなどがたくさん集まっており、そのエルサレムの教会が一番貧しくて困っていたのです。そして実際、ユダヤ人、異邦人の垣根を超えて献金がなされたのでした。

 5節以下は、自分の計画について書いています。使徒言行録第19,20章あたりをあわせて読むと事情がわかるでしょう。パウロは今、エフェソでこの手紙を書いていますが、これから、コリントの教会に立ち寄りたい、と願っています。けれども、パウロの心の中にあったのは、「主が許してくだされば」という思いです。この主の御心を重んじる思いが、教会の中で互いに生まれるところで、教会の健全な交わりが生まれ、献金する心も、健康に生かされることになります。







【2021年 7月 25日 主日礼拝説教より】

説教「動かされないように立つ」
      瀬谷 寛 牧師
        イザヤ書 第25篇6 ~10節a

       コリントの信徒への手紙一 第15章 50-58節(2)


 

 この第15章でパウロが語ってきたのは、わたしたち人間が、この世の終わりの日、主イエスの再臨の時に、復活して、新しい体、霊の体を与えられる、という、信仰における究極的な希望です。その希望の根拠は、主イエスの復活でした。主イエスがわたしたち人間の罪の身代わりとして十字架で死に、神はこのお方を復活させられました。そして、わたしたちも、復活させていただき、新しい体と命をいただく希望に生きることができるようになりました。

 この、主イエスの復活を通して、わたしたちの体が変えられる、という不思議な出来事に望みをもって生きるならば、死を乗り越えて生きることができます。人生は、死から与えられた一時の執行猶予期間ではなく、神が命を与え、生かしてくださっている恵みの期間、と受け止めることができます。

 この復活の希望、神の恵みの、死に対する勝利の希望に生きる時、わたしたちのこの世の生活は変わります。パウロは最後に、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい」と勧めます。この世の様々な声に振り回されず、どっしりと腰を落ち着けて歩みなさい、というのです。わたしたちは、最終的にどこに行くか、最後のゴールをしっかり見つめていれば、今をまっすぐに歩くことができます。また、「主の業に励みなさい」とのパウロの勧めは、わたしたちのこの世での業が問われています。わたしたちがこの世でなすべきことは、主の業です。わたしの業ではなく主イエスの業です。主イエスが願っておられること、命じておられることを果たすのが、わたしたちのこの世での使命です。それをなすように、とパウロは勧めます。

 そしてパウロはこの勧めの根拠を語ります。「主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならない」。主に結ばれている者は、復活の時に、その主にあってなされる苦労がすべて報いられて実を結び、空虚に終わることはない、といいます。このつまずきの多い、苦労の多い世界にあって、苦労が報われない、と思えるときにも、主イエスは目を留めて報いてくださいます。

 主の業に励む、それは、「主に結ばれて」する苦労です。それは結局、洗礼を受け、教会の一員となり、あらゆる業の中心である「礼拝」に生きることです。







【2021年 7月 18日 主日礼拝説教より】

説教「死に対して勝利する」
      瀬谷 寛 牧師
        ホセア書 第13篇9 ~14節

       コリントの信徒への手紙一 第15章 50-58節


 

 コリントの信徒への手紙一第15章の最後のところを読みました。ここのところで、この手紙の本文が終わり、パウロがこれまで書いてきた信仰のことについての最後の言葉となります。

 そこでまずパウロは、今のこの肉の体のままでは、神の国を受け継ぐことはできない、と語ります。なぜならば、今の体は朽ちるものだからです。わたしたちの今の体は、決して「救いが完成した体の姿」ではありません。わたしたちはやがて来たるべき復活のときに、朽ちない者に変えられるのです。

 続いて、わたしたちは、皆、今とは異なる状態に変えられる、と語ります。したがって、今の状態で将来生きるのではありません。確かに、神からいただいた肉体ですが、しかし、それにあまり固執した生活をするならば、結局それは、この世の生がすべて、という生き方になります。

 さらに、最後のラッパがなる時に、すべてが変わる、と言います。しかも、たちまち、一瞬のうちに。徐々に少しずつ、というのではありません。そしてその変化は、すべてのものに及ぶ、と言います。つまり、もうすでに死んでしまった人皆に起こると同時に、その時にまだ死なないで生きている人にも起こることだ、と言います。だから、皆が眠りにつくわけではないが、皆が変えられるのだ、というわけです。

 そして、54・55節に「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」という言葉をパウロは書き記しました。しかしこれは、旧約のイザヤ書とホセア書からの引用の言葉と考えられます。注目すべきは、もとのホセア書では、「死よ、お前の呪いはどこにあるのか」とあることです。わたしたちにとって死が恐ろしいのは、そこに、神の呪いが潜んでいると思われるからです。神に捨てられた、と思う時、敗北感を抱きます。

 なぜ、死が呪いとなるのでしょう。それは、わたしたちの罪が結びついているからです。けれども、主イエスが来て、十字架で死んでくださり、罪の力、律法からわたしたちを解き放ってくださいました。主イエスを信じることによって、わたしたちは、キリストの死からの勝利に与ることができるようになりました。







【2021年 7月 11日 主日礼拝説教より】

説教「復活者の姿」
      瀬谷 寛 牧師
        創世記 第2篇4b ~7節

       コリントの信徒への手紙一 第15章 35-49節(2)


 

 先週も問いましたが、わたしたち人間が死んだらどうなるのか、ということは、誰も詳細についてはよくわかりません。誰も経験したことがないからです。けれども、死について全くわからない、ということは考えてみると惨めです。困難なことばかりの人生、怠けたら失われてしまうと思いながら過ごし、やがて衰え、老いのうちに終わるだけの人生、人生はこんなに不安定なものだ、と考えると、こんなに惨めで哀れなことはない、と思います。

 ところが、聖書が語ることは、それとは全く違う、正反対のことです。42節で、「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです」とあります。ここで言われている一つのことは、今のこの生活が朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものである、ということです。それが、全く自分とは別物になってしまうような、朽ちることのない、輝かしい、力強い命に甦る、というのです。この甦りの体をもう一度神さまからいただくのだ、というのです。どうしてそんなことが言えるのでしょう。

 45節に「最初の人アダムは命ある生き物となった」とあります。これは、旧約聖書のはじめ、創世記2:7に、塵によって形作られた最初の人に、神が命の息を吹き入れ、「人(ヘブライ語でアダム)はこうして生きるものとなった」、そのことを言い換えています。この「最初の人アダム」とは、文字通り最初の人アダムだけでなく、その後に続くすべての人間のことです。

 けれどもそれと対比する存在が現れました。それが「最後のアダム」と呼ばれる存在です。それは、「最後のアダム」とは、もう新しい人間を必要としない、完全に救われた人間、すなわち甦りの主イエス・キリストのことです。このキリストは、体をもってお甦りになり、命を与える霊的な存在としてわたしたちと出会います。

 わたしたちは、最初の人アダムの似姿となっているように、甦りの主イエス・キリストの似姿にもなる、と約束されています。わたしたちは死んだらどうなるか、「キリストに似たものとなる」、それがわかれば、十分ではないでしょうか。







【2021年 7月 4日 主日礼拝説教より】

説教「神が与えるそれぞれの体」
      瀬谷 寛 牧師
        創世記 第1篇9 ~13節

       コリントの信徒への手紙一 第15章 35-49節


 

 わたしたち人間は、死んだらどうなるのだろうか、この問いは、およそすべての人間にとって、最も大きく、深刻な問いと言えるかもしれません。

 コリントの信徒への手紙一第15章に入りましてパウロは、復活という主題について語っています。これまでは、どちらかというと「復活の事実」について語ってきましたが、今日の35節以降は最も深い関心があると思われる「復活の内容」「復活の仕方」について論点を移して、さらに復活について考えていきます。

 パウロは、「復活の事実」を、自分に当てはめて考えると、一体どんなふうに甦るのか、そう問いたいだろう、と言って、それに答えるように話を進めます。

 けれどもパウロは、そういう問いを自分で取り上げておきながら、「愚かな人だ」と、ずいぶんはっきりしたことを言います。誰も解決も説明もしたことがないような大きな問について悩むことが、どうして愚かなことなのだろうか、と思います。その後にでてくるのは、種を蒔く話です。蒔かれた種は、種自体は朽ちていきます。そこから目がでて、木が生えて、花が咲きます。聖書ではそのことを、蒔かれた種が死んで、新しい姿になる、と表現します。

 復活の体もそれと同じだ、とパウロはいいます。わたしたち人間に復活の体が与えられるのは、主イエスの再臨のときですが、その体は、今の地上の体とは比べ物にならないほど、栄光に満ちている、と言います。「種」と「種から出て青々と葉を茂らせ、花を咲かせ、実を実らせる植物」との間には、大きな違いがある、それと同じように、「地上の体」と「復活の体」には、大きな違いがある、連続していない、というのです。

 けれども神は、「一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる」(38節)ともパウロは言います。それぞれの植物、つまり芽や、葉や、花や実などの姿は、やはり種に、神が体を与えた、というわけです。連続している面があるのです。つまり、将来わたしたちが与えられる復活の体は、現在のわたしたちの地上の体と無関係ではないのです。確かに今の体が、復活の体に変えられるのです。

 種が死んで、新しい命を生み出すように、わたしたちも死んで、新しい体の祝福へと向かいます。主イエスが、その道を先立って作ってくださいました。







【2021年 6月 27日 主日礼拝説教より】

説教「永遠の次元に生きる」
      瀬谷 寛 牧師
        イザヤ書 第22篇12 ~14節

       コリントの信徒への手紙一 第15章 29-34節


 

 洗礼と聖餐、これは教会にとって、神の恵みを伝えてくれる、大変に大切なものです。ただの儀式として大切なのではなく、十字架にかけられ復活されたキリストが、今も生きてこの洗礼と聖餐において働いておられる、と受け止める信仰において、大切な意味があります。けれども、これを正しい信仰で受けない時、信仰ではなく迷信になリます。今日出てくる「死者のために洗礼を受ける人」というのも、迷信と言ってよいでしょう。もはや今日の教会では見ることがなくなりました。行われる無意味さに気づいたからです。けれども、本来、自分の救いのために受ける洗礼を、自分の親しい者を愛するゆえに、その人のために自分が何度も洗礼を受けたい、という気持ちは、全くわからないわけではありません。

 パウロはこの「死者のための洗礼」を、当時のコリント教会の人たちが行っていたことを手がかりに、もう一度問うています。なぜ、死んだものの救いのために、洗礼が必要と考えるのか、それは、死んだ者が甦ることを疑っているからではないか、と。「死者が復活しない」と考えるのは、大変な思い違いだ、と33節で述べています。また続く34節では、「正気になって身を正しなさい」と語ります。きつい言葉ですが、かつては「目覚めて」と訳されていました。パウロはまるで、コリント教会の人たちの心の方を揺さぶるように、「目を覚ましなさい」「正気を取り戻しなさい」と訴えかけているかのようです。「死者が復活しない」と考えるのは、神について無知である罪を犯しており、恥ずかしいことだ、とまでパウロは語ります。それほどムキになったように、熱意を持って語ります。

 さらに、イザヤ書を引用しながら、「死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』と述べます。パウロにとって、受け継いだ福音を宣べ伝えて生きることは、命の危険を体験する戦いでした。けれどももし、死者が復活しない、復活の信仰がむなしいものであるならば、そんな危険を犯してまで戦う必要はない、食べたり飲んだりしよう、どうせ死ぬのだから、ということになる、というのです。復活の信仰から滑り落ちるわたしたち自身も、同じように考えます。神の言葉を聴きながら、神の言葉を軽んじるのです。そうならないように、パウロの熱意を思い出したいと思います。







【2021年 6月 20日 主日礼拝説教より】

説教「すべてをキリストに服従させ」
      瀬谷 寛 牧師
        詩編 第110 篇1 ~7 節

       コリントの信徒への手紙一 第15章 12-28節(3)


 

 「復活」ということは、キリスト教会の信仰にとって、最も大切で中心的なことです。復活の信仰がなければ、キリスト教会は誕生していなかったでしょうし、今日まで存在しなかったでしょう。けれども、大切な事柄ゆえに、コリントの教会においても、今日においても疑いと混乱が根強くしみわたっています。

 パウロは、死者の復活がどのように起こるのか、その順序について、三段階に分けて記していきます。第一段階でキリストの復活し、第二段階でキリストがもう一度来られる再臨の時に、キリストに属している人たちが復活をし、そして第三段階でこの世の終わりが訪れる、というものです。

 なぜパウロは、このような順序をあえて述べたのでしょう。それは、コリントの教会の中に、すでに死者の復活は起こった、と考える人がいた、と考えられます。洗礼を受けた時に、「すでに」そこで永遠の命に与って、復活は成し遂げられた。だから、将来の体の復活、将来の救いの完成などもうない、と主張した人たちがいたようなのです。救いにおける「今」を強調する人たちです。けれども救いには、まだ完成していない、という「いまだ」の部分が、同時にあるものなのです。パウロは、信仰における「すでに」と「いまだ」をはっきり 区別するために、終わりの出来事の順序を述べています。

 キリストの十字架の死と復活は、確かに「すでに」起こりました。それに伴ってキリスト者も、「すでに罪を赦され、義とされ、神の子とされ、聖霊による汚れからの清めに与っています。

 けれども同時に、「いまだ」実現していないこともあります。それはキリストがもう一度、再び来られる再臨の時です。その時、キリスト者は新しい体に復活します。そして、救いの完成に至ります。これは将来のことで「いまだ」実現していない、待ち望むべきことです。

 わたしたちはすでに救われている神の子とされており、しかし同時にいまだ、わたしたちの救いが完成しているわけではありません。それ故にキリストは今なお戦い、キリスト者も戦っています。その戦いは永遠の続くのでなく、キリストの再臨の時までの戦いです。その時を待ち望み、今の時の戦いを戦っています。







【2021年 6月 13日 主日礼拝説教より】

説教「むなしくない信仰」
      瀬谷 寛 牧師
        イザヤ書 第55章8ー13節

       コリントの信徒への手紙一 第15章 12-28節(2)


 みなさんがそれぞれに、聖書を読む時に、その読み方のコツのようなものがあるとしたならば、キーワード、鍵になる言葉を見つけるのは、聖書をよりよく理解するために、役に立つと思います。今日のところでわたしが考えさせられたのは「無駄」という言葉です。14節に「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とあり、他にも2節、10節などにも出てきます。さらに、「むなしい」「滅び」「惨め」という言葉も重ねられます。パウロは、わたしたちが無駄な生き方をしてしまう、その危険をよく見ていたのだと思います。むなしい信仰に生きるということは、自分が結局、依然として罪の中にまだある、ということです。

 このようなパウロの厳しい目は、パウロ自身がもっていたもの、というよりも、信仰の虚しさ、罪の恐ろしさ、その危険を本当に知っておられた主イエスのまなざしを映し出していたということでしょう。

 21,22節で、パウロはアダムについて引き合いに出しながら、人間が罪を犯し、死すべき者となり、滅びに渡されるようになったのは、一人の人、アダムが罪を犯したからだ、と述べます。そしてそこから、すべての人間が知らなければならない罪と死の責任を、わたしたちも負っています。

 けれども、死が一人の人から来たように、甦りもまた一人の方によって、すべての者に及ぶようになった、と言えます。主イエスは十字架において、そして復活において、罪がもたらす滅びの力と戦いをし、勝利してくださいます。けれども、このキリストの勝利の戦いはまだ続いています。そしてその戦いが終わるのはまさに、世の終わりであり、その時に主イエスが神の国を、神ご自身にお返しするのだ、と言います。この主イエスの勝利の道を見ている者こそが、主イエスの勝利を信じない者がむなしい生活をすることを知っていたのです。

 しかし、そのすべてのむなしさが消える時を、今わたしたちは、望みをもって、信仰において見ることができます。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)。主イエスが死んだ人たちの初穂となられ、先頭に立って、甦ってくださったのです。






【2021年 6月 6日 主日礼拝説教より】

説教「死人の中からよみがえり」
      瀬谷 寛 牧師
        コヘレトの言葉  第9章1ー7節

       コリントの信徒への手紙一 第15章 12-28節


 コリントの信徒への手紙一を書いたパウロは、この手紙を締めくくるに際して、最後の大きな主題、「死人の復活」について記しています。それは、そう述べなければならないほど、教会の中に間違った考えが生まれたからです。「キリストは、死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っている」(12節)と言われているように、死者の復活を否定する人がいたようなのです。

 この死者の復活と、主イエス・キリストの復活とが重なり合ってきます。「死者の復活がなければキリストも復活しなかったはずです」(13節)。これはもしかすると、誤解をしているかもしれません。死んだ人間が甦らないなら、キリストも甦らない、けれども、死んだ人間が甦ることがありうるなら、キリストも甦ることがありうるはずだ、というように、パウロはキリストの復活を他の一般的な人間の復活の証明を根拠にして説明している、と受け止めているかも知れません。けれどもこれは誤解です。パウロは、キリストの復活の事実から出発します。すべての考え方の根本には、主イエスは復活なさった、ということがあります。

 ですからパウロにとっては、キリストの復活を否定するなどということは考えられません。コリントの教会の中に、キリストの甦りは信じるけれども、死者の甦りは信じない、という人に対してパウロは、それはおかしい、断じておかしい、キリストの復活を否定するならば、あなたがたは、キリストの復活も否定することになる、と言いました。キリストの復活の信仰は、人間の死者―もちろん、わたしたちもその中に入っていますが―もまた死んで復活する、という望みを与えられていることになります。もしもこの復活の信仰を受け入れることができなければ、培ってきた貴い信仰が無駄になってしまう、とパウロは言います。

 そうは言っても、復活を受け入れるのは、難しいと考えてしまうかもしれません。復活があるかないか、事実か事実ではないか、という方向で考えると誤ってしまいます。自分とは関係なくなってしまうからです。復活を考える時はいつも、十字架に死なれた主イエスの復活、このわたしの罪を赦し、救いを与えるお方の復活を考えたいです。復活は、わたしたちの救いに不可欠なものです。






【2021年 5月 30日 主日礼拝説教より】

説教「神の恵みは無駄にならず」
      瀬谷 寛 牧師
        コリントの信徒への手紙一 第15章 1-11節

 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」。わたしたちの教会には、伝えるべきものがあります。それは、今の教会の牧師や長老会が作り出したのではありません。教会がより以前から受け継いできたものを受け取り、そして受け渡していくものです。パウロですら、その語る言葉は自分の独創ではなく、受け継いでいる言葉だ、というのです。
 では、その、パウロが受け継ぎ、また教会が受け継いで、また伝えるものとは何でしょうか。教会に参りますと、およそどこの今日はでも自分たちの信仰を言い表す言葉として大切にしているのは、使徒信条です。この使徒信条は、もともとは、洗礼を受けたいという人がいた時に、最低限、これは受け入れるべきものとされる言葉です。その使徒信条に言い表されている信仰の告白の、もともとの言葉がここにでてきている、と理解して良いと思います。わたしたちの主イエス・キリストが聖霊によって、処女マリアからお生まれになったこと、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみをお受けになったことなどが記されています。それに続いて、主イエスが死んで葬られて、三日目に死人の中からお甦りになられたことがはっきりと示されています。
 ただ、使徒信条に書いていないことで、パウロが大事にしていたことが、お甦りになられた主イエスがその後、人々に「現れて」くださったということです。
 パウロも、自分もそのようにお甦りの主イエスに捉えられたものだ、と考えています。「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのないものです。神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。自分の罪のために死んでくださり、三日目に神が甦らせてくださった主イエスが、このわたしにも現れてくださった、その恵みによって今日のわたしがある、と言い切っています。そして実は今ここにいるわたしたちも、現れてくださった主イエスのおかげ、神の恵みのおかげで生きているはずです。しかし、本当にそう思っているでしょうか。神の恵みによっているなら、自分の力によらないはずです。涙しながらに感謝するはずです。けれども、神の恵みは、そのようなわたしたちを越えて働きます。無駄になることはありません。





【2021年 5月 23日 主日礼拝説教より】

説教「わたしにも現れた主イエス」
      瀬谷 寛 牧師
        詩編 第16篇 1-11節
        コリントの信徒への手紙一 第15章 1-11節

 聖霊降臨主日(ペンテコステ)の礼拝ですが、いつものように、コリントの信徒への手紙一を読み進めて、今日からその第15章に入ってまいります。ここからは、「死人の復活」についての話が進められます。
 パウロは、その話題の導入のところで、コリントの教会の人たちに、福音の再確認をしようとしています。それは「生活のよりどころとしている」福音、と表現しています。あなたがたが立っているその足元をもう一度見なさい、それを支えているのは何か、と問いかけています。そして、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」と述べ、説教者の説教を覚えていれば、それがあなたを支えるのだ、と大胆に語ります。
 けれども見なければならない大事なことは、パウロ個人の人格、説教者の性格が教会を造ったのではなりません。あくまでも教会を造るのは説教者が語る福音の言葉、イエス・キリストの言葉です。
 その福音の内容が3節以下にあります。ここには十字架という言葉は直接は出てきません。けれども主イエスが「わたしたちの罪のために死んだ」という十字架が持つ本当の意味がはっきりと語られています。教会が最初から受け継いできた信仰の中心が、ここにありました。神は、ご自身の御子主イエスを十字架につけることによって、わたしたちを救う決断をしてくださった、人間の考えを遥かに凌駕する神の知恵です。
 パウロはこの後の「死者の復活」の話題を踏まえ、主イエスが「葬られたこと」、「三日目に復活したこと」を語ります。主イエスは必ず終りを迎えるはずの人間と同じ死を死んでくださり、復活してくださいました。
 更にパウロは、その復活の主イエスを目撃した弟子たちを列挙します。そして最後に、教会の迫害者であるパウロ自身の前に、復活の主イエスが「現れた」と言います。そしてこの経験は、わたしたちにも起こっています。礼拝で御言葉を聴く時、聖餐を祝う時、わたしたちは復活の主イエスと出会います。神が、聖霊を注いでくださり、福音が福音となる出来事が起こります。





【2021年 5月 16日 主日礼拝説教より】

説教「秩序ある言葉」
      瀬谷 寛 牧師
        創世記 第3章 8-20節
        コリントの信徒への手紙一 第14章 26-40節

 教会は、神の霊、聖霊によって生まれ、聖霊によって動かされているものです。その意味で、教会は人間の集まりですが、人間の集まりではありません。霊的な集まりです。霊的なものといえば、自由を思い浮かべるかもしれません。けれども教会は霊的な集まりですが、無秩序ではありません。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」(33節)とあり、「しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」(40節)と言われているとおりです。
 ところが、その秩序が思いがけないところで問題になりました。「婦人は教会では黙っていなさい婦人たちは従うものでありなさい」(34節)。この言葉は、今日のわたしたちには、とても理解しがたいところがありますが、どうやら、当時の教会では、こう書かなければならなかった事情があったようです。つまり、当時の教会の中での婦人の振る舞いに、問題無しとしないところがあったようなのです。
 その前提となることは、今日の教会もそうなのですが、当時の教会でも、教会の中での婦人の働きが、決して小さいものではなかった、ということです。この手紙の、すでに読んだ第115節では「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら」とあり、被り物のことが話題になっていますが、明らかに女性が祈ったり、預言したりしていた、ということが分かります。
 そのような中でパウロは、「それとも、神の言葉はあなたがたから出てきたのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか」(36節)という言葉をも記しています。詳しいことはよくわかりませんが、コリントの教会のある婦人たちの中に、もしかすると少し自信を持ちすぎた人がいて、その人たちが教会の全体の秩序を乱していたかもしれません。そうであればパウロは、教会の秩序を保つために、女性に対して、すべてを適切に、秩序正しく行うための勧めをせざるを得なかったのかもしれません。
 神は人間に、秩序をお求めになられます。神は秩序の神です。人間に、神に従うように求めておられます。教会に秩序があるのは、霊の賜物が健全に生かされるためです。この意味でわたしたちは、霊の賜物を求めてまいりたいと思います。





【2021年 5月 9日 主日礼拝説教より】

説教「証しする言葉」
      瀬谷 寛 牧師
        イザヤ書 第45章 14-19節
        コリントの信徒への手紙一 第14章 20-25節

 コリントの教会の人々は、礼拝の中で異言を語ることにこだわっていたようです。異言は、特別な賜物が与えられている者だけが語れる特権のように思って、競って異言を語ろうとすることが起こり、教会の中で混乱が生じたようです。
 パウロは、そのような人に「物の判断については大人になってください」、「子供にならないで」、と語りました。小さな誇りに生き、周りの人のことを考えず、教会のことの考えず、自分のことしか考えない人にならないで、と訴えています。
 さらにパウロは、異言は不信仰のつまずきを呼び起こす、ということを述べて、23節以下で丁寧に説明しています。教会全体が一緒に集まる集会で、解釈がないとさっぱりわからない異言が語られているとき、そこに、その教会に加わって間もない人、あるいは、信仰を求め、神のことを知りたいと思っている求道者が入ってくると、さっぱりわからないどころか、この人達はおかしくなったのではないか、と思われてしまうだろう、といいます。理性によっては、何もわからない、そう思ったならば、来なくなるだけです。
 それに対して、皆が理性で分かる預言している集会をするならば、まだ信仰を持っていない人、教会に来て間もない人などが入ってきても、その言葉を理解することができます。
 ここで、一体、理性で分かる預言の言葉・説教を、理解する、とはどういうことか、はっきり記されています。「彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され」。吊し上げの糾弾ではありません。求道者が集会で、黙っていても、心の深いところで、「ああ、自分も神さまに赦していただかなければならない罪を犯していた」と気づくことです。そしてそこで集会をしている人たちと一緒に神を拝み、「まことに神はあなたがたの内におられます」と言い表すこと、これが、預言の言葉・説教を理解する、という時に起こることです。
 先日の、教会創立140年の記念礼拝の時に「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても」と聴きました。実際に信徒の皆さんができることは、教会に連なり、神を崇める礼拝を献げ続け、主イエスの御言葉を理解し、聴き続けることでしょう。それが、教会全体が宣べ伝えていることに参与することになります。





【2021年 5月 2日 主日礼拝説教より】

説教「折が悪くとも宣べ伝えよう」
      瀬谷 寛 牧師
        イザヤ書 第52章 7-12節
        テモテへの手紙二 第4章 1-5節

 新しい月、5月はこの仙台東一番丁教会創立の月です。188151日、押川方義と吉田亀太郎という二人の伝道者の仙台での伝道で初めて、二人の者が洗礼を受けた、それをもってこの教会の創立と定めたのです。様々な不思議な出会いの奇跡、神の御業が積み重ねられ、ここに至りました。そしてもっと注目すべきは、そこから始まって、さらに出会いの奇跡が積み重ねられ、受洗者、転入者が与えられて、140年の年月が流れ、今日を迎えることができた、ということです。
 その神の御業を覚えながら、今日与えられたのは、「御言葉を宣べ伝えなさい」との御言葉です。わたしたちの教会の先輩たちは、このパウロを通して語られた勧めの御言葉に忠実に従い続けて、今日まで歩んできました。パウロはどのような思いでこの言葉を勧めたのでしょう。
 この御言葉の始まりは、こういうものです。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」。「厳かに命じる」、文字通り厳しい言葉です。わたしたちの信仰生活で欠けているのは、厳かさではないでしょうか。わたしたちは、神さまは愛なる優しいお方だ、とばかり考えて、厳かさをごまかし、薄めようとしていないでしょうか。けれども、「御言葉を宣べ伝えなさい」という勧め、命令は、神の厳かな命令です。それは、世の完成、主イエスの再び世に来て、生きている者と死んだ者を裁かれることを待ち望みながら、聴くべき命令だ、という点で厳かなのです。主イエスの再臨はまだ先だ、と御言葉を宣べ伝えないことは、主イエスのさばきを軽んじることになります。
 その厳しさの中で、「折が良くても悪くても」御言葉を宣べ伝えなさい、急いで、どんなときでもお構いなしにしなさい、といいます。御言葉とはイエス・キリスト、すなわち主イエスを宣べ伝えなさい、というのです。
 考えてみると、この時代は良い、この時代は悪い、などとは言えないのではないでしょうか。先達は良くても悪くてもひたすら伝道しました。今はコロナで悪い時、と感じるかもしれません。けれどもわたしたちの今なすべきことは、神の御前に立つ厳かな思いで、教会に連なり、御言葉を宣べ伝えることでしょう。





【2021年 4月 25日 主日礼拝説教より】

説教「説得力ある言葉」
      瀬谷 寛 牧師
        申命記 第27章 15-26節
        コリントの信徒への手紙一 第14章 1-19節

 この手紙の第14章に入り、異言と預言の違いについて、パウロは丁寧に語っています。特に612節は、教会を建てる、という基準から見ると、分かる言葉である預言は分からない言葉、異言よりも優れている、とはっきり語っています。
 確かに異言は、特別な賜物を持っている人だけが語れるものです。したがって、多くの人が異言を語りたいと願い、語れない人は取り残された気持ちになります。気づけば随分多くの人がワイワイ異言を語っていたかもしれません。
 けれどもパウロは、教会を建てるのはこのような威厳ではなく、神について語る啓示、知識、預言、教えなどの言葉、すなわち説教であり、教会では、人々が分かる言葉である説教が問われていました。
 それに続く1319節は、礼拝における祈り、讃美、感謝について記されています。パウロは礼拝の時に、異言を語る者は、それを説いて人々に伝えることができるように祈らなければならない、と言いました。祈りを大切に位置づけています。礼拝の中心は説教と祈りであることが明らかにされています。
 つまり、説教にしても、祈りにしても、教会で語られる言葉は、他の人に理解できる言葉でなければならない、といいます。それが、「霊と共に理性でも」という言い方で語られています。信仰は、わたしたちの霊に関わること、心、ハートで神の恵みを受け取ることと言えるかもしれません。けれどもその信仰は同時に、理性において実を結ぶものでなければなりません。わたしたちの信仰は、神の恵みの喜びを、兄弟姉妹とともに分かち合ってキリストの体である教会を形作っていく信仰です。そのためには、理性を働かせます。それは冷たい理性ではなく、相手のことを本当に尊重し、愛する、ということです。
 祈りにおいて神の恵みが共有される時、たとえ教会に来て間もない人でも、「アーメン」(その通り)、ということができます。ある牧師が、洗礼を迷いながら、まだ明確に求めてはいない人と、信仰の学びをはじめました。その人は最初、祈りの最後の「アーメン」を口にできませんでした。しかし、学びを重ねる内に「アーメン」と言えるようになりました。その頃に洗礼の思いも固まりました。神の恵みが分かってきたからです。「アーメン」は、教会を造り上げます。





【2021年 4月 18日 主日礼拝説教より】

説教「創造力ある言葉」
      瀬谷 寛 牧師
        エゼキエル書 第33章 1-6節
        コリントの信徒への手紙一 第14章 6-19節

 このコリントの信徒への手紙一をここまで読み進めてきまして、使徒パウロは、どうして書いたのか、書きながらずっと頭にあったのは、どんな思いだったのか、と考えます。コリントの教会は、目を覆いたくなるようないくつもの具体的な問題があり、ねたみや争いが絶えず、分裂寸前の危機にひんしていました。パウロの頭の中には常に、教会の分裂を避け、人間の建てる教会ではなく、真実にキリストがお建てになる、キリストの教会を建てるにはどうしたら良いか、そのことがあったのではないでしょうか。
 この問題を考える時に、注目したいキーワードは「造り上げる」という言葉です。これはもともと、「家を建てる」という意味の言葉から、人の徳を高める、教育する、そして教会を建てる、という意味にもなりました。パウロはこの「造り上げる」という言葉をこの第14章で、3,4,5,12,17,26の各節で続けて用いています。コリント教会に伝えたかったメッセージがここにある、と考えられます。
 では一体、だれが何を造り上げるのでしょうか。パウロは、異言する者は、他のものが理解できない神に触れ、自分を造り上げるだけですが、神の御旨を教会の人たちと共有し、それを伝達する預言する者は人を造り上げ、励まし、そのように教会を造り上げる、というのです。
 この観点から、異言そのものには、教会を立て、造り上げることがないことを、パウロはいくつかのたとえで示しています。ラッパがはっきりした音を出さず、理解出来なければ、人々は戦う準備ができず、その音は役に立つことはありません。また、外国語を聞かされるのも同様、理解できなければ、意味がわからず役に立ちません。パウロが預言する賜物を求めたのは、神の御心が教会全体に理解されることこそ、コリント教会の最大の課題だ、と認識しているのです。
 いわゆる宗教改革も、聖書が、それまではラテン語で書かれており、司祭や学者など、一部の関係者にしかわからなかったものを、一般民衆の分かる言語で伝えようとした出来事でした。わたしたちの教会においても、異言によって意見の食い違いによる対立ではなく、神の御心を共有し、人を造り上げ励ます預言の言葉を互いに語り合いながら、教会を造り上げ、建てあげていきたいと思います。





【2021年 4月 11日 主日礼拝説教より】

説教「教会を造り上げる言葉」
      瀬谷 寛 牧師
        民数記 第11章 26-30節
        コリントの信徒への手紙一 第14章 1-5節

 1節「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。前回までの第13章で愛について語られていました。「その中でもっとも大いなるものは愛である」という言葉で終わった第13章に引き続いて、第14章の初めに「愛を追い求めなさい」とあります。これは、第12章で教会を作る賜物について語られ、第13章でそれを一つにするような愛の賜物について語られ、それを引き継いで第14章で、愛を追い求めつつ、教会で語られる預言の言葉を追い求めなさい、と語られているのです。
 この第14章で一貫して問われているのは、預言と異言という二つの教会の言葉です。預言するとは、新約の時代では説教することと重なり合うようですが、これは実は旧約の時代から、引き継いでいる、と言えます。なぜなら、預言する、とは神の御言葉を語ることだからです。預言の言葉のポイントは、神の御心を、人々に分かる言葉で語る、ということです。
 これに対して、異言を語る、ということが当時のコリント教会で盛んに行われていたようです。元は「舌」という意味が含まれる言葉ですが、自分のコントロールから外れて、舌が勝手に動くときに発せられる言葉です。今日のわたしたちの教会ではほとんど見られないように見えますが、当時異言を語る人が多く、しかも異言を語れる人が熱心で偉い、と見られていたところがあり、そこから教会の中で問題が引き起こされていたようです。異言の言葉のポイントは、聞いた人にはその意味がわからない言葉だ、ということです。
 パウロはその異言に対して、必ずしも否定するばかりではないようです。「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」とさえ言っています。しかし手放しで認めているわけではありません。解釈するものがいない異言は教会では語らないように、というのがパウロの考え方です。
 これは、コリント教会だけに当てはまることではありません。わたしたちの教会でも、例えば、初めて礼拝に来た人がそばにいるのに、教会の親しい仲間同士しか通じないような話をしているならば、それは、異言を語っているのと同じです。教会では、分かる言葉、預言の言葉を語るようになりたいと思います。





【2021年 4月 4日 主日礼拝説教より】

説教「わたしの愛を完成する復活の主」
      瀬谷 寛 牧師
        エレミヤ書 第17章 9-18節
        ヨハネによる福音書 第21章 15-19節

 十字架で死に、復活された主イエスはペトロにお問いになります。「あなたはわたしを愛しているか。この人たち以上にわたしを愛しているか」(ヨハネ 2115,16)。わたしたちも生活のただ中で、主イエスから「わたしを愛しているか」と問われています。けれども、主イエスを愛する、とはどういうことでしょう。
 主イエスはかつて、十字架におかかりになられる前の晩、弟子たちを前に、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」(ヨハネ 1421)とおっしゃいました。主イエスの掟に従うことが、主イエスを愛することだ、というのです。では、その掟とは何でしょう。
 やはり、同じ席の初めのところで主イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 1334)とおっしゃいました。わたしたちが、日々出会っている、共に生きている人たちを愛しているときに、わたしたちは主イエスを愛して生きています。けれどもわたしたちはいつも隣人を愛することができない、その時にわたしたちは主イエスとの愛の関係を否定してしまっています。
 ペトロは、復活された主イエスから、三度、「わたしを愛しているか」と問われました。三度目に問われた時、ペトロが悲しくなったのは、ペトロが主イエスの裁判の時に主イエスとの関係を否定したのが、同じ「三度」だったからです。ペトロはその少し前、主イエスに向かって「あなたのためなら命を捨てます」と言いました。それなのにペトロは、主イエスを愛しぬくことができませんでした。死を恐れたからです。人を愛することは、自分を犠牲にすること、自分に死ぬことです。だからだれにとっても、愛することは難しいのです。そのような人間の有様を、預言者エレミヤは「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と言い当てました。しかもそれに加えて、「主よ、あなたがいやしてくださるならわたしはいやされます」と告白しました。まさに、このエレミヤの預言を成就してくださるために、十字架の死から復活された主イエスが、いまペトロの前に、わたしたちの前に立っておられます。自分では愛に生き抜くことができない罪の病を、主イエスがご自身の命をもっていやし、救ってくださいます。





【2021年 3月 28日 主日礼拝説教より】

説教「愛の大きさ」
      瀬谷 寛 牧師
        民数記 第12章 1-8節
        コリントの信徒への手紙一 第13章 1-13節 (3)

 「愛の讃歌」とよく言われるコリントの信徒への手紙一第1347節の言葉は、第12章からのつながりで読まなければなりません。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない」。この愛は、神の霊、聖霊の賜物として与えられるもので、自分の努力で獲得するものではありません。自分が持っているようですが、いつも自分の手からはみ出してしまいます。わたしたちは、何よりもこの愛を持って愛されたい、と願います。しかしまた、そのわたしに働く忍耐強い愛を指差しながら、わたしも忍耐強くなった、と言えるものではないでしょうか。
 この愛はそのような意味ではとても大きいものです。わたしの愛でありながら、わたしを超える大きさで、その大きな愛が、このわたしを生かします。
 その愛の強さを、「愛は決して滅びない」、とパウロは言いました。忍耐強く、この世の、教会で語られる預言や異言も終わる時が来る、それは幼子のような愛であって、不完全だが、やがて幼子を棄て、成人になるように、愛が完成する時が来る、というのです。今は神さまとは、鏡に写るようにおぼろげにしか見えず、一部しか知らないけれども、今すでに神さまに自分のことがよく知られているように、その時にはわたしたちも、神さまのことをよく知ることができるようになる時が来るというのです。それが、神様の愛の支配が完成するときだ、というのです。
 13節で、「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」とあります。信仰と希望がここで突然でてきたように思われますが、実は7節ですでに「すべてを信じ、すべてを望み」という言葉が出てきました。それをはさむように、「すべてを忍び」「すべてに耐える」と記されています。「耐え忍ぶ」、「忍耐」は、4節に出てくることです。愛は耐えることができます。なぜか。やがて、完全な愛に生きる時が来るので、今はしばらくは不完全な愛に耐えなければならないのです。この忍耐を支えるものが、信じる心であり、望む心です。この信仰と希望と愛の中で、愛だけが最も大きいというときに、愛だけが永遠だ、と見がちですが、むしろ神との永遠の愛の関わり中に信仰や希望が含まれている、と見ることもできます。希望の言葉です。





【2021年 3月 21日 主日礼拝説教より】

説教「イエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」
      宮城学院学院長 嶋田 順好 教師
        詩編 51編18-19節
        マタイによる福音書 26章57節-75節

 ペトロは鶏の鳴き声を聞かされた時、激しく泣き崩れました。もちろん、主イエスと交わした誓いを破ったからに違いありません。しかしこの時、ペトロがはっきりと思い起こしていたのは、自分の誓いの言葉ではなく「イエスの言葉」だったのです。つまりペトロは、主イエスが既にこの自分が主を否むことをご存じであった事実に打たれたのです。主イエスは、なぜあえてペトロに彼が否む事実を事前に告げられたのでしょうか。言うまでもなく、ペトロが、自分の破れ果てた弱さに直面した時、主イエスが、そのペトロの弱さを知り抜いておられることを、ペトロに思い起こして欲しかったからです。
 確かに自分の弱さや破れや罪を知ることは大事なことでしょう。しかし、そのことが立ち上がれないほどに大きく強く見え、その人を打ちのめす時、人はそのなかで自死するしかありません。あのイスカリオテのユダのように。ですから最も大事なことは自分の弱さや破れや罪を知ることではありません。その一切を自分が知る以上に既に主がご存知であるということこそが、決定的に重要なことなのです。まさにそのような主であるからこそ、このペトロのためにも、又私たちのためにも身代わりとなって十字架に命を投げ出してくださる救い主なのです。
 もちろんこの時のペトロにはその救いの消息を、未だ充分に知ることはできていません。しかし、同じ悲しみを嘆く涙でも、自分をただただ打ち叩き、責め続けることにおいて流される涙と、主イエスの御言葉を思い起こしつつ、自分の弱さを主イエスとの関わりにおいて涙するのとでは決定的な違いが生じます。パウロがコリントの信徒への手紙二 710節で告げるように「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたら」すことになるからです。ペトロが「イエスの言葉を思い出した。そして外へ出て激しく泣いた」からこそ、本当に自分の弱さ、破れ、罪と戦うために立ち上がることができるようになるのです。そのことがペトロにはっきりと見えて来たのは、復活なさった主イエスに出会うことによってでした。しかし、この悲しみが、主イエスの御言葉を思い起こすことにおいて流された涙ということにおいて、すでに慰められた悲しみなのです。





【2021年 3月 14日 主日礼拝説教より】

説教「愛のしるし」
      瀬谷 寛 牧師
        ゼカリヤ書 第8章 9-17節
        コリントの信徒への手紙一 第13章 1-13節 (2)

 日本の国の歴史において、キリスト教会が教えてくれた言葉の一つに、「愛」という言葉があります。もちろんそれまでにも、「愛」と呼ぶ人間の関係はありました。親子の愛や、仏の慈悲、男女の愛など、今日ではそれらをまとめて「愛」と呼ばれます。良いことかもしれませんが、混乱も生じます。「愛」という言葉を使ったからといって、お互いに理解したことにはならないことが起こるからです。ですから本当の愛とは何か、絶えず問わなければなりません。
 今日の手紙で、パウロが語っている愛は、何よりもまず神の愛のことです。けれども同時に、その愛がわたしのものになっていることが前提となっています。けれどもわたしたち人間というのは、いつも真実の愛を求めながら、その愛を得られない悲しみあるいは飢え渇きの中で生きています。罪がもたらす現実です。
 真実な愛は、愛としてのしるし、特質を持っています。パウロはそれを見事に言い表しました。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。
 ここに出てくる否定的な表現をひっくり返すと、妬む、自慢する、高ぶる、礼を失する、自分の利益を求める、いらだつ、恨みを抱く、となります。これらは考えてみると、わたしたちが神を知らなかった時に、愛と思い込んでいた物の特質です。愛するからこそ恨みを抱くということも起こる、と考えていました。
 ですからここで、愛のしるしとして描かれているものは、愛と愛でないものとの境を見分けるのでなく、真実の愛と偽りの愛を見分けるものです。神が求めておられる愛とは無関係なものは、退けなければならないというのです。
 「愛は忍耐強い」は、「すべてを忍び」「すべてに耐える」と続くように、真実の愛の最も重要な特質です。そこから来る「情け深い」は相手をまず重んじる深い情けです。真実を喜び、全てを信じ、望む、これが真実の愛だ、と言います。
 その真実の愛が成り立つのは、主イエスにおいてです。主イエスは忍耐強い、情け深い、ねたまない。わたしたちは主イエスの中に生かされ、愛を知ります。





【2021年 3月 7日 主日礼拝説教より】

説教「愛なき献身」
      瀬谷 寛 牧師
        詩編 第150篇 1-6節
        コリントの信徒への手紙一 第13章 1-13節 (1)

 今日の新約聖書の言葉は、しばしば、パウロの「愛の讃歌」と呼ばれます。高揚した、美しい言葉で、愛について語られているように思えます。この言葉によって、愛に生きる生活がどんなに豊かにされているか、と思います。
 ただ、ここを読むときに気をつけねばならないことは、この部分だけ抜き取って読まない、ということです。この手紙は、第1214章にかけて、キリストの体である教会に生きることはどういうことか、パウロが丁寧に教えています。その中に、「愛の讃歌」と呼ばれるものが組み入れられています。愛のすばらしさが本当に分かるためには、教会に生きる、ということがないと、正しく理解することはできない、とパウロは考えているのです。
 そのことを踏まえた上で、ここでパウロはこれまであまり使わなかった「わたし」という言葉を用いています。「わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」(1節)、「わたしに何の益もない」(3節)、「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し」(11節)と、パウロ自身の愛の経験を語っているように思われます。
 「異言」という言葉が出てきます。当時のコリントの教会で、信仰が高揚してくると思わず口をついて出てくる言葉、しかし、意味がわからない言葉がよく語られたようです。神秘的な、天使が語るような言葉と考えられたのでしょう。そして、この異言を語れる者に憧れを抱き、語れない者をさげすむ、というようなことが起こっていたようです。せっかくの神秘的と思われる言葉も、人々を喜ばせるのでない、ただ騒がしいとしか聞こえないようなことになってしまいます。もしも、愛がなければ。この愛は、神から与えられた愛です。預言(説教)やさまざまな神秘、不思議な知識、そして山を動かすほどの強い、完全な信仰を持っていたとしても、もし神から与えられる愛がなければ、無に等しい、と言います。また、全財産を貧しい人びとに与え、他人のために自分の命を犠牲にする、主イエスが教えてくださったとおりに献身して生きることでさえも、愛が与えられていないことがある、ただ、自分を誇るためだけに過ぎない、献身的な愛がある、このことをパウロは、「わたしは」という言葉で語ります。自分がその過ちを犯している、もし自分にも神が与えてくださる愛がなければ、というのです。





【2021年 2月 28日 主日礼拝説教より】

説教「わたしたちこそキリストの手足」
      瀬谷 寛 牧師
        イザヤ書 第61章 1-4節
        コリントの信徒への手紙一 第12章 27-31節

 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。ここで使徒パウロが指している「あなたがた」とは、当然コリントの教会の人たちのことですが、同時に、その言葉を今教会で読んでいる、わたしたちのことでもあります。けれども、わたしたちが「あなたがたはキリストの体」と言われても、戸惑いを覚えます。あなたがたはキリストを信じる者、救われた者、キリストの恵みを受けている者、という言い方ならば、まだわかるかもしれません。
 この手紙の第12章の初めからここまで、体と部分についての関係が書かれ、特に、その部分部分の関係が語られていたように見えます。足が、「わたしは手ではないから体の一部ではない」とは言えず、いろいろな部分がそれぞれに必要だ、と言われます。また、特に弱く見える部分こそが必要で、互いに補い合って歩んでいくのだ、と言われています。けれども、こういうことは、いろいろな団体、グループ、サークルなどでも言われていそうです。
 では、わたしたちが「キリストの体」というのは、どういうことでしょうか。キリストの体、とは何よりもそこにキリストがおられる、ということ、そして、そのキリストのおられるところとわたしたちとが結びつく、ということです。
 そのときに大事なことは、洗礼と聖餐です。洗礼は、わたしたちがキリスト・イエスに結ばれるために受けるもの、聖餐は、キリストに結ばれたものが、一つのパンをみんなで分け合って、一つの体の部分であることを受け止めるために定められたものです。ですから、わたしたち同士が、お互いにどれほど親しい関係であるか、ということがわたしたちを一つの体とするのではなく、キリストとの結びついているということが決定的に重要なこと、そこが他と違うところです。
 パウロは続いて、そのキリストの体(手足)とされた教会の職務を取り上げます。わたしたちとキリスト結びつけてくださる霊の賜物をいただいたわたしたちが、キリストの体を作り上げるために用いられるのは当然です。さまざまな務めがありますが、わたしたちの教会でもキリストの体、手足として、このような務めにあたる者が立てられています。長老会がその代表です。そのような者たちを教会に用意してくださる神の恵みを感謝し、喜んで用いられたいと思います。





【2021年 2月 21日 主日礼拝説教より】

説教「わたしは良い羊飼い」
      元仙台東六番丁教会牧師 橋爪 忠夫 教師
        詩編 第23篇 1-6節
        ヨハネによる福音書 第10章 7-18節

 ここには羊にまつわる例えが続いていますが、前の段落は「囲い」、そしてここには「門」と「羊飼い」です。このように続いているのは、羊がいかに弱い生き物であり、それを守るために手厚い保護があることを物語っています。私たちは普通、羊の様子を想像すると、何か牧歌的でのどかな風景を思い浮かべるかもしれません。しかしここではそうではなく、羊たちに迫る深刻な危機が描かれています。ものの本には羊たちはいつも二本足と四本足の敵の出現に脅かされるとありました。盗人と野獣、ことに狼です。
 一つ目は「羊の門」、(遊牧の途上では羊の群れは夜は一箇所の囲いの中に集められて、出入りは門に限られます。これぞ、盗人たちには羊を物色し、奪うチャンスで、彼らは門以外の壁や囲いを乗り越えて侵入し、羊を奪おうとします。これは羊たち、すなわちイスラエルの民とその上に立つ指導者の関わりをたとえています。主イエスの前に来た指導者、いや指導者と自称した者たち、彼らは自らの野望によりイスラエルの民をあらぬ方へ、破滅へと陥れた、まさに盗人でありました。彼らは門以外から来た者、それらを識別し、羊たちに本当の命に与るための出入りを備えているのが羊の門、すなわち主イエス以外にありません。
 二つ目のたとえでは主は「わたしは良い羊飼い」であると繰り返しています。一日をほとんど戸外で過ごす羊の群れにとって、野獣、特に狼は大敵です。狼は羊の群れをつけねらってグループで襲います。その襲撃は巧みで、それに身を守るすべのない羊たちは、ただ羊飼いだけが頼りです。その羊飼いの身に付けている武器は、詩編第23篇にあるような鞭や杖、あるいはこん棒のような粗末なものです。だから羊たちを守るために羊飼いは命がけで体を張ってその手強い野獣と戦わなければなりません。自分の命を落とすことも稀ではなかったようです。それが怖い雇い人の羊飼いは、わが大事で、羊を置き去りにして逃げてしまいます。しかし「良い羊飼い」は羊を守るために、命を捨てる、それがわたし、主イエスだと仰っています。これはイスラエルの民のため、さらに囲いの外にいる別の群れのためにも、十字架に死に、それによって豊かな命を与えようとしている主イエスにほかなりません。この方をいつも身近な守り手と仰ぐ日々を歩みましょう。





【2021年 2月 14日 主日礼拝説教より】

説教「共に苦しみ、共に喜ぶ」
      瀬谷 寛 牧師
        出エジプト記 第34章 4-11節
        コリントの信徒への手紙一 第12章 12-26節

 昨夜、大きな地震が起こりましたが、それから12時間もしないうちに、このように皆さんと共に集まって、礼拝を献げられることを感謝します。主イエスのわたしたちへの愛は、どんな物も引き離せないことを覚えたいと思います。
 今日のコリント(I1212以下に教えられている言葉は、あえて言えば、人間であれば、だれでもわかっているようなことです。たとえば21節「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」などという言葉は、子どもに言って聞かせるような表現かもしれません。それなのに、なぜパウロはこれほど丁寧に言わなければならなかったのでしょうか。それは第11章でみんなが揃うまで食事をしない、ということができないコリントの教会の人々に、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ」という心に生きていれば、遅くまで働いた後に集まってくる人の苦しみがわかるはずでしょう、そうであれば、「ご苦労さま」と言ってその人に一番いい席を与えるくらいの思いが働くはずでしょう、と伝えたかったのだと思います。
 この、パウロが語っている体の比喩の中で、あなたがたは足は足でありなさい、耳は耳で、目は目で、頭は頭でありなさい、と語られています。けれども、それに加えて大事なのは、「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要」だ、と言われているところだと思います。教会の中に、自分には、与えられている賜物が小さく、弱く、それどころかなんの役にも立たない、と思う人がいるかも知れません。パウロはしかし、この弱く見えるもの、「恰好が悪い」とまで言っているものについて、もっと格好良くしようとし、見栄えよくしようとするのが、一つの体とされている教会のなすことだ、というのです。大切なことは、教会の中で、弱さ、恰好の悪いと思われるところを、覆うことができる人がいるか、ということです。弱さのために苦しみがあるところ、それを他の者たちも自分の苦しみとして、弱さをかえって尊び、苦しんでいる人を、愛をもって覆ってあげる、そのためにこそ、一人一人に、十字架にかかられた主イエスの賜物が与えられているのではないか、とパウロはそのように言うのです。仙台東一番丁教会も、そのような主イエス・キリストの一つの体とされたい、と願います。





【2021年 2月 7日 主日礼拝説教より】

説教「皆一つの体となるために」
      瀬谷 寛 牧師
        出エジプト記 第17章 1-7節
        コリントの信徒への手紙一 第12章 12-13節

 神からの霊の賜物、聖霊の賜物を受けた人とは、神さまからプレゼント、能力、務めをいただいている人のことです。しかしそれらは全て、自分を満たすためのものではなく、教会全体が益となるという目的ために、与えられた物です。
 その霊の賜物には、二通りあります。一つは、どの教会の信徒も、同じように受けているものです。この第12章の初めにあった、「イエスは主である」と告白させる霊は、これに当たります。
 これに対して、それぞれの人が、それぞれ違った賜物を受ける、ということがあります。それが、ここから後に記されているようなことです。教会に生きる人は、それぞれ違った賜物を与えられて、教会の業に当たります。
 けれども、いちばん大事なことは、「キリストの体」ということです。教会は、「キリストの体」と言われます。主イエスのお体が見えているわけではありませんが、教会が生きて今ここにある、ということは、キリストのお体が今ここにある、ということになります。特に、「これはわたしの体である」と言って分かち与えられる聖餐は、それに与った者がキリストの体とされるのです。
 では、そのキリストの体に、どうしたら入れるのでしょうか。一言で言えば、主イエスによって、その十字架の死によって自分の罪が赦されて、救われる、と信じることです。それを形として表したものが聖餐です。洗礼を受けることによって、聖餐を受け、キリストの体に入れられる、ということになります。わたしたちは、主イエスを信じて生きる信仰生活にとって大事なのは、教会に生きる教会生活だ、と思うことがあるとしても、それが、キリストの体を作る生活である、とまでは考えて来なかったかもしれません。
 ところでパウロは、12節で「体は一つでも、多くの部分から成るように、キリストの場合も同様である」と言われています。なぜ、「キリストの体も同様」あるいは「教会も同様」と言わないのでしょうか。ボンヘッファーという人は、「パウロによれば、キリストと教会とは何度も同一視されている。キリストの体のあるところにキリストはいます」と言いました。教会こそ、キリストが働く場、キリストが力を持って支配なさる所です。ここに主イエスがおられます。





【2021年 1月 31日 主日礼拝説教より】

説教「一人一人に分け与える霊」
      瀬谷 寛 牧師
        コリントの信徒への手紙一 第12章 4-11節

 前回学んだコリントの信徒への手紙一第1213節では、「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えない」、聖霊によって初めて、あのイエスというお方を、まことの救い主、と告白できることを学びました。それに続く411節は、その霊の賜物が実際、どのように働くか、告げています。
 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(46節)よく見ると、三つのことが二重に出てきます。霊と、主(=主イエス)と神です。聖霊の働きは、ただ霊のことだけでなく、聖霊と主イエスと父なる神、つまり三位一体の神が結びついていることを表しています。
 霊については賜物、主については務め、神については働き、と言われています。いずれも、いろいろな形を取るものですが、大事なことは、それらは父子聖霊、三位一体の神を信じる信仰だけが、この霊から賜物を受けられる、ということです。しかも、すべての内に働いているのは、父なる神だ、と言います。人間には、基本的には何の力もなく、何もすることもできません。たとえ霊の賜物を与えられたとしても、神がお働きにならなければ、何もなしえません。わたしたちは、神がお働きになる器とされるだけです。
 そのことをわたしたちが見失って、小さな賜物や務めの違いを互いに比較し合うと、優越感や劣等感にとらわれ、対立が生じます。しかし、すべての賜物は同じ神から出、主イエスから委託されたものです。
 そして結論として、「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるため」と言います。一人一人もれなく、全ては全体の益という目的を持ちます。一人一人の賜物は、自己追求、自己満足、自己実現のために与えられたのではないのです。その全体とは、「教会」のことです。そのために一つのところから、力が出るのです。そしてその教会に働く霊は、人の都合によるのでなく、聖霊の望むままに働きます。わたしたちは、教会で働く時に、聖霊、すなわち神の望むままに働く熱心と謙虚さが必要とされます。





【2021年 1月 24日 主日礼拝説教より】

説教「知るべき霊の賜物」
      瀬谷 寛 牧師
        ハバクク書 第2章 18-20節
        コリントの信徒への手紙一 第12章 1-3節

 1月の始め、主の年2021年を、新しい思いで礼拝を献げて始めた。その後、新型コロナウイルスの影響を受け、今日また、新しい礼拝をもって始めています。何度でも、新しく始められる幸いを思います。
 コリントの信徒への手紙一は、今日から新しく読み始める第12章から第14章まで、神の霊によって与えられる霊的な賜物について語っています。この手紙の中心とすらいえます。第1213節は、その前書きと言えますが、むしろ、霊的な賜物について知るべき基本的な事柄をはっきり述べている箇所と言えます。
 新しい、と言いましたが、パウロの心の中には、新しい問題というよりも、第11章で述べた、主の晩餐の意義まで崩し、軽んじてしまうほどの教会の交わりの混乱、食事に遅れてくる者を待てないおかしな行為は、あなたがたがどんなに素晴らしい聖霊の賜物を受けているかということを忘れているからではないか、との思いがあったのではないかと思います。
 いずれにしても、この霊的な賜物の理解が正しくないと、教会は混乱します。特に当時のコリント教会は、この霊的な賜物に基づく信仰が生き生きしていた、と考えられます。そしてその豊かな霊的な賜物自体は全く否定すべきことではない、大切なことです。それだけに、誘惑があることをパウロは知っていました。
 神の霊の体験をした者は、エクスタシーを体験する、としばしば考えられます。自分の外に出る、我を忘れる、という意味です。自分で責任が持てないで、語らせられるままに語る、ということが教会の中で、そして教会の外でもあったようです。その代表的なものが「イエスは神から見捨てられよ」という言葉でした。とんでもないことですが、そのような言葉を口走っていたようです。
 わたしたちがどんな時でも、心に繰り返し確認すべきことは、あのわたしたちと同じ人間となり、わたしたちに代わって十字架に死なれたイエスというお方こそ、すべてのことにおける主である、ということです。そのことを告白できるならば、聖霊の、霊的な賜物が与えられています。我を忘れるような不思議な体験をしなくとも、求めなくとも、十分です。聖霊によって、「イエスは主である」と日々新たに告白することを、第一の賜物として受け取りたいと思います。





【2021年 1月 17日 主日礼拝説教より】

説教「わたしの言葉を語りなさい」
      東北学院中高 遠藤 尚幸 教師
        エゼキエル書 第2章 1節-第3章4節
        マタイによる福音書 第4章 18-25節

 マタイによる福音書 4:1825の一貫したテーマは「主イエスに従う」ということです。「わたしについてきなさい」という言葉は、原文では「わたしの後ろへ」という呼びかけです。四人の弟子たち、大勢の群衆は今、それぞれの場所から、新しい場所、主イエスの後ろへと招かれていきます。
 主イエスに招かれた人々は、この後、どのような歩みをしたのでしょうか。彼らは、いつも主イエスに従って歩んだのかと言えばそうではありませんでした。特に、マタイによる福音書は、主イエスに従う人々が徐々にいなくなっていく姿を示します。大勢従っていたはずの群衆は、主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶものとなっていきます。弟子達は皆、十字架の場面において、主イエスを見捨て逃げ去ってしまいます。主イエスに従うことで明らかになったことは、誰一人最後まで主イエスに従うことが出来なかったという事でした。
 主イエスを見捨てる人間の罪の只中で、主イエスご自身が、罪深い私たち人間のために、その命をささげ、十字架につけられていきます。主イエスが復活した後、主イエスの弟子たちが人々に語ったことは、「さあ私たちのように、あなたたちも主イエスに従いなさい」ということではありませんでした。彼らは、主イエスの恵み、すなわち、十字架と復活の主イエスを語り続けていくのです。私たちもまた、この弟子たちと同じです。それぞれの現実の中で、時に、主イエスに躓く中で、もう一度主イエスの後ろへと立ち返っていきます。さあわたしの後ろへ、と主イエスは招いてくださっています。今朝私たちは、この神様の恵みの中に一人一人が招かれています。
 エゼキエル書には「わたしの言葉を彼らに語りなさい」(エゼキエル書 34)という言葉がありました。時代がどのように変化しても、私たちが語るべき言葉は変わりません。主イエス・キリストの福音の言葉、私たちの罪のためにキリストがその命を十字架でささげてくださったその恵みの言葉を、それぞれの場で語り続けたいと願います。
 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」
 私たちは主イエスの後ろを歩みます。





【2021年 1月 10日 主日礼拝説教より】

説教「主の死の恵みを刻む晩餐」
      瀬谷 寛 牧師
        出エジプト記 第13章 3-10節
        コリントの信徒への手紙一 第11章 23-34節

 今日の聖書に記されていることは、コリントの教会において、聖餐を行う時に混乱が起きた、そのことを指摘しながら、改めて、一体聖餐とは何か、ということを、パウロが教えているところです。その問題とは、食事のときに、集まる予定の人が全部集まらないうちに、誰かがお腹が空いた、と言って、さっさと食べ始める者たちがいたようです。子どもでも、それはおかしい、とわかりそうなことです。けれども、大人でも、案外お互いへの関心が薄まると、同じようなことをしているかもしれません。
 そこでパウロは、そのように食事の仕方を間違えることは、決して小さなことではなく、主の体と血に対して罪を犯すことだ、と言います。ここで「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は」とありますが、ふさわしくない、とは、他人を待つことができないということです。
 ここで語られている主の晩餐というのは、わたしたちの教会が行っている聖餐とは少し違っていて、平日の夜、仕事の終わりに皆が集まって、皆で夕食をとったのです。その食事の始まりにパンを取って、主イエスがあの最後の晩餐のときにしてくださったことを思い起こしながら、「これはわたしの体」と語り、パンを分け合います。そして食事が終わってから、改めて同じように杯を分かち合います。今日の教会のような儀式的なものではありませんでした。
 そもそも食事とは、どんなに小さな食事でも、喜びでありお祭りです。心が和みます。しかしパウロはそこで、死について語ります。わたしたちがこのように食事をすることができるのは、主イエスが死に引き渡されてくださったからだ、だから、わたしたちは主の死を告げ知らせるのだ、と言います。わたしたちの食事はいつも、ああ、ここに主イエスというお方の死が現れている、そういう食事をするのだ、というのです。
 主イエスは、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と、パンを分かち合い、杯を分け合うことを求められました。わたしを思い起こしてほしい、と言われます。そして主イエスの御言葉を、御業を思い起こすとき、主イエスご自身がそこにおられます。ですから、教会の礼拝において聖餐が大事なのです。





【2021年 1月 3日 主日礼拝説教より】

説教「主の晩餐にふさわしく」
      瀬谷 寛 牧師
        箴言 第17章 5節
        コリントの信徒への手紙一 第11章 17-26節

 今日与えられたみ言葉、特にその2326節は、教派の違いを問わず、キリストの教会の礼拝にとって最も大切な、聖餐を祝う時に必ず読まれる言葉です。主イエスが、十字架におかかりになる直前、弟子たちとともに最後の晩餐をなさいました。それはもちろん、主イエスの生涯の出来事を描く福音書に記されています。けれども、その福音書が書かれるよりも古い時代に、パウロがその場面を書き残しました。わたしたちの教会はなぜ、礼拝において、主イエスの臨在を信じて聖餐にあずかるのかといえば、それは、このパウロの言葉に根拠があるのです。
 ところで、ではなぜこの大切な言葉は、パウロはこの場面に書き記したのでしょうか。教会の礼拝について、きちんと順序立てた、組織的な「礼拝論」というような文章を書いて、その中で大事なこととしてこれを語った、というのではありません。言葉はおかしいですが、たまたまパウロはこの言葉を書き記すようになりました。パウロはここで、この言葉を書かずにはいられなかったのです。
 18節で、当時のコリントの教会に、仲間割れがあったことが示唆されています。たとえば、だれがキリストの教会員としてふさわしい生活をしているか、ということを巡って、仲違いになることもあります。こういうことは、わたしたちも「あの人、あれでもキリスト者なの?」「あれでも牧師なの?」と、日常の会話でも出てくるならば、同じことをしていることになるでしょう。
 パウロは、そういうことは人間が集まれば起こるのだ、仕方がない、と言って片付けず、それこそ、教会にとって大きな問題だ、と考えています。しかもそれはごく素朴なことがきっかけでした。当時の教会では、主の日だけでなく、平日にも仕事が終わるとよく教会に集まって、聖餐の祝いの食事をしていました。特に、貧しい人は仕事が終わるのが遅かったでしょう。その時に、早くから来ることのできる人たちが待ちくたびれてご飯を食べ、お酒で酔っ払ってしまい、貧しい人が遅れてようやく辿り着くと、十分な食事が残されていないということがありました。子どもでもわかるおかしなことです。パウロはこのことを、「神の教会を見くびること」と言いました。そういうことが起こらないように、主イエスは聖餐を定めたのだ、とパウロは大切な聖餐の言葉を思い起こさせたのです。




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