【2021年 12月 26日 主日礼拝説教より】

説教「神の言葉は貫かれる」
      瀬谷 寛 牧師

       エレミヤ書 第31篇 15-17節

       マタイによる福音書 第2章 13-18節


 

 一昨日、昨日と、主イエスのご降誕を祝う喜びの礼拝を献げました。その喜びの光の余韻、あるいは喜びの賛美の歌声の残響が響く中で、今日の主日礼拝を迎えています。聖書の記述に従って、今日はその続きを読みますが、そこに描かれているのは、ヘロデ王による、2歳以下の幼児の虐殺を告げる記事です。目を覆いたくなるような、できれば見たくない、聴きたくない出来事です。

 教会の改革者マルティン・ルターは、「ここに書かれているのはまことに素晴らしい物語だ」と説教しています。なぜならここで、悪魔と、悪魔に支配されているこの世が、幼子イエスと、その幼子がもたらそうとしてくださっている神の国に対して、どんなに敵意を持ったか、が示されているからだ、と言うのです。

 王ヘロデは、この地域の平和を維持し、秩序をもたらす良い面を持ち合わせていましたが、主イエスに殺意を抱きました。そして、子供を大量虐殺します。王は、自分の世界の中で、思う通りの生活を作り、楽しみます。けれども、思う通りの生活を妨げるものを拒否し、殺してしまうのです。しかしこれはわたしたちとも決して無関係ではありません。主イエスがわたしたちに教えてくださった愛は、自分にとって不都合な存在を受け入れることです。しかし実際、わたしたちは一人の人を愛そうとするときに、どんなに大変で面倒くさいか、知っています。その面倒くさいことに踏み込んでいったときに、本当の愛が始まるのです。それをしないならば、「邪魔者は殺せ」というヘロデの考えと同じです。

 旧約のヤコブは、息子ヨセフが殺されたと聞いて、激しく嘆きました。その妻ラケルがラマ(=ベツレヘム)で葬られた。そして、バビロン捕囚でユダヤの人々が捕らえられ連れて行かれる姿を預言者エレミヤが見ながら、あのヤコブの妻ラケルも激しく嘆いたことを想像しているのです。

 わたしたちのクリスマスも、神から切り離された人間についての悲しみと無縁ではありません。むしろその悲しみのただ中に、主イエスはお生まれになられました。主イエスはこの悲しみを引き受けて、十字架に死んでくださったのです。




2021年1月3日から12月26日までの説教要旨はこのリンクからご覧いただけます(クリック)。 

仙台東一番丁教会(ホーム)