【2020年 12月 27日 主日礼拝説教より】

説教「主の御心を己の心として」
      西間木 順 教師
       エレミヤ書 第31章 31−34節
       ローマの信徒への手紙 第12章 2節

 ローマの信徒の手紙を書いた使徒パウロは、熱心さからキリスト教会を迫害しました。そのパウロに転機が訪れます。復活のキリストとの出会いです。パウロは十字架につけられたままのお姿のイエス・キリストと出会いました。パウロはその出会いの経験を人々に伝えたのです。「今、目のまえに十字架につけられたままのお姿のイエス・キリストがはっきりと示されている。そのイエス・キリストに目を注ぎなさい。そのお姿を自分の心にしっかりと刻みなさい。」パウロはこのように伝えたのです。十字架につけられたままのお姿のイエス・キリストを心に刻む。それは自分の思いを捨て去ることによって可能となります。自分の心を無にして、イエス・キリストに明け渡さなければなりません。
 イエス・キリストは「神の言」だと言われます。言葉はそれを語る者の心を表します。ですから、イエス・キリストは神の御心そのものです。十字架につけられたままのお姿のイエス・キリストを心に刻むということは、神の御心を心に刻むことと同じです。一人ひとりが心に刻まれた神の言葉、神の御心と向き合うこと、その神の言葉、神の御心を用いて自分の心と向き合うことが求められています。自分の心と向き合うとは、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえることです。神の御心を問うことです。そうすることによって、神の御心を自分の心として生きるように造り変えられるえられるのです。神に、イエス・キリストに自発的に喜びと感謝を持って従うように造り変えられていくのです。
 礼拝では、今ここにおられる十字架につけられたままのお姿のイエス・キリストに目を注ぎます。そのイエス・キリストから神の言葉が語られ神の御心が示されています。私たち一人一人の心に神の言葉、神の御心が刻まれるのです。神の言葉を通して神の御心を知り、その御心を自分の心として、感謝と喜びを持って信仰の道を送ることができるようにと祈り求めるのです。来るべき新しい年も、神の御心を己の心として、共に感謝と喜びを持って信仰の道を歩んでまいりましょう。

【2020年 12月 20日 主日礼拝説教より】

説教「民を罪から救う方の誕生」
      瀬谷 寛 牧師
       イザヤ書 第9章 1−6節
       マタイによる福音書 第1章 18−25節

 新型コロナウイルスに翻弄され、クリスマスを迎えました。いろいろな不自由を強いられる中ですが、このように礼拝を献げられること自体、感謝すべきことです。
 クリスマスの出来事は、ルカによる福音書の描き方が大変美しく、壮大で輝かしい色彩に富んでいますが、それに比べてマタイによる福音書は、大変ひそやかな、穏やかなものです。最初にマリアが妊娠したこと、ヨセフが思い悩む中で夢で主の天使が現れたこと、生まれた子に「イエス」という名がつけられたこと、のみ記しています。
 ヨセフの婚約者、マリアが身ごもりました。当時、男性とすでに婚約をしている女性が、他の男性と性的交渉をもったことがわかると、結婚した妻の姦淫と同じほど重い罪とされ、石で撃たれて殺されてもやむを得ませんでした。ヨセフはマリアが自分以外の男と交わったということを認めていませんが、事実、妊娠しています。ヨセフはとても悩みます。マリアに対する愛が、またその愛と重なって疑いがあり、そしてマリアのことを表ざたにするのを避けるため、ひそかに縁を切ろうと決心しました。薄情なことではなく、マリアは自分が結婚前に身ごもらせてしまい、しかもこちらのわがままで別れる、ということならば、マリアの姦淫にもならず、責めを負わせることにならない、とヨセフは考えたのです。誰の目にもつかないひそかな悩みの中に、クリスマスの物語が始まっています。
 この状況を開いたのは、主の天使の声が聞こえた夢でした。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。ヨセフはマリアの罪をかばうことに一所懸命でした。けれどもここでは、マリアの罪だけが問題ではなく、神の民イスラエルのこれまで宿したもろもろの罪から救う者として、マリアに子が生まれます。
 「イエス」という名は、ヘブライ語では「ヨシュア」といいますが、特別な名前ではなく、「神はわれらの救い」という意味でよく最初に生まれた子につけられた、ひそかな、平凡な名でした。しかしこの静かで地味な、苦しみのただ中から始まった神の子の救いの歴史は、確かに教会に、このわたしに届いています。

【2020年 12月 13日 主日礼拝説教より】

説教「待つべき者はだれか」
      瀬谷 寛 牧師
       イザヤ書 第42章 1−9節
       マタイによる福音書 第11章 2−11節

 主イエスの到来を待つ待降節(アドベント)は、主イエスの登場の直前に、先駆けとして洗礼者ヨハネが登場する時と、重なり合います。
 今日の聖書には、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」(2節)とあります。ヨハネが牢の中にいたのは、当時の領主のヘロデが、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアを自分の妻にした(その娘がサロメ)、という過ちに、正面切ってその罪を問うたのがヨハネであったからです。だから捕らえられ、やがて、サロメの要求で首をはねられてしまいます。
 ヨハネは自分の弟子たちを主イエスのところに送って尋ねさせました。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。主イエスは、そのとおり、という意味のことを言われ、「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃいました。これは、祝福の言葉です。「おめでとう、わたしにつまずかなくてよかったね。わたし以外の他の人のところへ行こうと思わなくてよかったね」と言われたのです。クリスマスに、「クリスマスおめでとうございます」と挨拶を交わすのは、わたしたちが生きててよかった、とその喜びを確認し合うことです。それは、この方のところへ来てよかった、という喜びと重なり合います。その喜びは、主イエスの祝福を受け入れ合う喜びです。
 それにしても改めて、なぜヨハネは主イエスに「来たるべき方はあなたでしょうか」と問うたのでしょう。ある人は「ヨハネは他の誰よりもすべてをここにかけたために、主イエスに対してだれよりも真剣な問いを発せずにはいられなかった」と言いました。主イエスのことを適当に考えているならば、問いを発することはなかったでしょう。しかしヨハネは、獄中で自分の人生は間違っていなかったか、語ったことは間違いなかったか、と問い直す思いがあったでしょう。
 主イエスがヨハネのこと語られたところで「あなたがたは…風にそよぐ葦か」と言われました。フランスの思想家パスカルの『パンセ』に、有名な「人間は一本の葦に過ぎない、自然の中でも一番弱い者だ、だが、それは考える葦である」という言葉を記します。ヨハネもわたしたちも葦です。けれども「傷ついた葦を折ることな」く(イザヤ42)、生かす方として主イエスが到来してくださいました。

【2020年 12月 6日 主日礼拝説教より】

説教「神が来られる!」
      瀬谷 寛 牧師
       イザヤ書 第40章 1−11節
       マタイによる福音書 第3章 1−12節

 主イエスは、クリスマスに、わたしたちと同じ地上の歩みを歩まれました。その歩みに欠かせないのは、主イエスの歩みの道ぞなえをした一人の人物です。洗礼者ヨハネ。わたしたちは今、クリスマスでの主イエスの到来を待ち望む待降節を過ごしていますが、それは洗礼者ヨハネの時を過ごしている、と言えます。
 今日の第3章2節で「悔い改めよ。天の国は近づいた」とヨハネが語っています。ところが第4章12節でヨハネが捕らえられたあと、17節で同じ言葉を語ったのは、主イエスでした。この点で、主イエスは洗礼者ヨハネを継承しています。しかもこのヨハネの思いを超えるみ業をなさいました。
 洗礼者ヨハネは、悔い改めを求めるのに、ヨルダン川で洗礼運動を起こしました。罪で汚れた魂を、水で洗って清めるのです。古今東西、日本にも、神社などに、この考え方があります。しかしヨハネの運動の特徴は、ユダヤ人に洗礼を求めた、ということです。割礼を受けて神のために約束のしるしを持っているユダヤ人に「あなたは本当にそのままで、神の民としての資格があるのか。罪の汚れを洗い清めなくていいのか」と問うたのです。それが多くの人の心を惹きました。
 ヨハネは「天の国は近づいた」とも語りました。そこで考えていたのは、まもなく登場されるお方、主イエスの存在です。このお方は、天と地の一切の権能を授かっている、すなわち天の王であるお方が地の王として、まさに神としてやって来られることを指し示したのです。その時ヨハネは、一体その時、神の怒りにだれが耐えられるだろうか、と叫びました。だから、その怒りにさらされても、なお生きられるために「だから悔い改めにふさわしい実を結べ」と言いました。
 しかし、悔い改めにふさわしい実とは何でしょう。洗礼を受けたわたしたちが、実際はそれにふさわしい生活ができない、その穴を埋めるために努力することでしょうか。悔い改めるとは、神の恵みの中に、全く向きを変え、自分自身の存在のすべてをそこに置くことです。わたしたちにはできず、火に投げ入れられるべき者ですが、主イエスが、わたしたちの代わりにご自身を火の中に投げ込み、死んでくださいました。だからこそわたしたちは、自分たちも愛され、自分たちも悔い改め、ふさわしい実を結ぶことができる望みを持ち続けることができます。

【2020年 11月 29日 主日礼拝説教より】

説教「目を覚ましていなさい」
      瀬谷 寛 牧師
       マタイによる福音書 第24章 36−44節

 ろうそくの明かりが1本灯った。この光が、1本ずつ増えていって、5本全てともったら、クリスマス。主イエスの到来を待ち望む季節を迎えました。
 今日の聖書の36節には、「その日、その時はだれも知らない」とあります。「その日、その時」とは、直前の35節に「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と主イエスがおっしゃっておられますので、その「天地が滅びる」時、ということでしょう。この「天地」とはわたしたちを含んでいます。わたしたちが滅びる、という明らかな予告です。
 わたしたちは、霊も魂も体も、神の前にあっては何ものでもない、死すべき、滅ぶべきものです。そのことをわたしたちは、永遠に生きておられる神を知るからこそ、しっかりと見つめることができます。けれどもわたしたちは、自分が滅びる、ということを、まともに見ることがなかなかできません。創世記に出てくるノアも、大きな箱舟を造りましたが、その周りの人々は、その脇で飲み、食い、めとり、嫁いでいました。自分たちが永遠に生き続けられるかのように。
 主イエスはその話を、昔の話ではなく、自分を十字架につけようとしている人々、またその時代に向けてお語りになりました。ご自分がここにやって来てしていることが、ノアのしていることと重なり合っていることを語っています。
 けれども主イエスは、いつ死ぬか、いつ世の終わりが来るかわからないから、と言って、ビクビクするように、と教えておられるのでしょうか。そうではなく、日常の飲み食いの生活の中で、「天地の滅び」を知っている、その大切さを説かれているのです。その時に大切なことは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という主イエスの言葉を聴き続け、三度の食事をすることです。すると、それを知らない人とは違った食べ方・飲み方になるに違いありません。すなわち、いつ滅びが、主イエスが、もう一度来られるときが来るかわからないけれども、いつでも待ちながら、備えながら、生きていくことになります。
 わたしたちは、油断をしているかもしれません。けれども主イエスは、この言葉を語られた後すぐに、十字架につけられて殺されてしまいます。命をもって神のみ心を成就しようとされます。わたしたちもよく備えたいと思います。

【2020年 11月 22日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスを迎える」
      瀬谷 寛 牧師
       列王記下 第9章 11−13節
       マタイによる福音書 第21章 1−11節

 今年は、来週の11月29日から、主イエスのご降誕と再びおいでになることを待ち望む待降節、アドベントが始まります。教会の暦では、来週から新年を迎えることになります。今日は一年の最後です。いつもの、コリントの信徒への手紙一から離れて、マタイによる福音書の、主イエスが王としてエルサレムにお入りになられる記事を読み、一年の最後としたいと思います。わたしたちが日々の生活において主イエスを王として迎え入れているか、確かめたいと思います。神から遣わされた御子主イエスを、わたしたちの真実の王として迎え入れるところから、人間が本当に人間らしく生きる世界が拓ける、と信じるからです。
 福音書ではこれまで、主イエスが王である、ということをいつも言っていたわけではありません。マタイによる福音書のはじめに置かれている、主イエスの誕生の記事の中で、東の方から来た占星術の博士たちがエルサレムを訪ねたときに、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」とヘロデに問う場面があります。ヘロデは不安に怯え、幼子を虐殺してしまいます。
 それ以来、王としての主イエスのお姿は二度目です。これまではどちらかと言うと隠しておられましたが、ここでは意図的に、ご自分が王であることを明らかになさいました。わざわざ、二人の弟子を遣わし、ろば、子ろばを解いて準備するようお命じになられ、その上にお乗りになりました。群衆たちは服や木の枝を切って道に敷き、主イエスを王として迎えました。
 けれどもこの同じ群衆が、この何日か後に、恐るべき犯罪者とみなして、「十字架につけろ」と叫びます。主イエスもよくお分かりになっていたはずなのに、なぜ、この愚かな群衆に、自分に対する歓呼の声を挙げさせたのでしょうか。
 それは、旧約聖書において預言されていた、神の愛のみ心を実現なさるためでした。この世界は、神の愛によって支配されることを受け入れなければ、祝福を受けることができません。このことをわたしたちがよく理解したときに、この世界は決してドン底まで悪くなるはずがない、という望みを持つことができるようになります。コロナ禍で、先行きが全く見えない状況でも、主イエスのエルサレム入城を思い起こす時、この世界は神の愛が支配していることに気づくのです。

【2020年 11月 15日 主日礼拝説教より】

説教「友人であるあなたがた」
      東北学院中高 松井浩樹 教師
       イザヤ書 第49章 11−13節
       ルカによる福音書 第12章 1−7節

 主イエスはまず、弟子達に語りかけられるのです。その言葉はまず、「偽善に注意しなさい」。この主イエスからの警告を受けても弟子たちは、さほど気にも留めている様子はありません。ただ、この主イエスに従う決心を堅くしていた弟子たちは、やがて十字架の死を前にした主イエスを見て裏切って逃亡するという行為にでるのです。ですから、この主イエスの警告は、決して間違っているのではなく、むしろ予見していた警告であり、ある意味弟子たちの偽善ぶりがここで早くも露呈する結果となるのです。とするならば、私たちの側は決して偽善からは逃れることができないし、また、防ぎようがないのであります。
 そこで主イエスはまず「恐れてはならない」と語ります。そして11節「心配してはならない」と続くのです。しかも4節の冒頭「友人であるあなた方に言う」と私たち一人ひとりの事を極めて親しい「友人」として励ましを語られるのです。そこで6節以下のスズメの話に移ります。5羽で2アサリオンとあります。これは2アサリオン支払うならば1羽がサービスとしてついてくる事を意味しています。たとえそのサービス品という存在であったとしても、あなたのことは決して見失われてはいない。そればかりか、あのスズメにさえ心を配られる神は、あなたの髪の毛の数さえ知っておられる、との力強い宣言が続くのであります。その神の愛に支えられて、またもろく、はかないが故に私たちは生かされて生きる、ないし互いに生かされつつ生きなければならない存在であるのです。
 新しい週の始まりです。コロナ禍にあっても、いや様々な制限付きの不自由なコロナ禍にあるからこそ私たちはより一層、礼拝によって励ましを受けるのです。心配や不安、ともすると今もうすでに不満が満ち満ちている思いで、ここに集った方もいらっしゃるかもしれません。しかしながら誰一人もれることなくこの聖書の言葉で私たちは、それぞれの罪の赦しを受けるのです。そしてキリストからの励ましを全身で身に受けるのです。

【2020年 11月 8日 主日礼拝説教より】

説教「祈りの姿勢」
      瀬谷 寛 牧師 
       詩編 第138篇 1−8節
       コリントの信徒への手紙一 第11章 2−16節

 今日の言葉の意味することはどういうことか、今日、解釈は様々です。わたしたちも、どう理解すべきか、困惑するところがあります。
 事柄は簡単です。ここでの問題は、集会をしているときに、女性が被り物をしていなければいけないのか、しなくてもいいのか、ということです。少し先のところでは、女性は黙っていたほうがいい、という意味のことを語っています。女性が差別されていたようにも見えます。けれども5節「女はだれでも祈ったり、預言したりする際」とありますから、女性が集会で祈ることも預言、すなわち説教もすることすらできたようです。11節には「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません」ともあります。教会において、男女が等しいことを、パウロは明確にわきまえ、教えていたと思います。
 ところが、そこで一つ問題が生じたようです。女性たちから、我々は平等で、男も女もないのだから、礼拝での女性の被り物を、取ってもいいではないか、と言い始めたらしいのです。しかし、すべてのことにおいて自由だ、と考えた女性たちが男性を押しのけてでも預言したりして教会の中に混乱が生じたようです。パウロはそのことについて、2−16節で考えています。
 結局、女性が被り物をしている、ということは、神に造られた女性としての自分を受け入れる、つまり、神の見守りを受け入れるしるしと考えられます。そのように神の守りの力のしるしをかぶって、悪い天使が女性を襲うのを防いでいる、と考えることができます。創世記の最初の記述を思い起こしながら考えれば、順序としては神―キリスト―男―女となりますが、男も、女から生まれてくるものであり、男も女に依存しなければ、存在することはできません。神から始まって、男があり、女があり、女があり、男があります。そのような人間としての自然の姿を受け止めながら、自然なあり方で生きればいい、とパウロはいいます。
 パウロがここで語っている言葉は、教会の歴史の中では色々変化しています。パウロの言葉が規則として、わたしたちを縛るのではありません。当時と違い今では、女性が力を発揮できるのは素晴らしいことです。しかし、秩序を保ち、不自然でなく自然に生きることを、パウロは伝えようとしているのです。

【2020年 11月 1日 主日礼拝説教より】

説教「キリストに倣い、わたしに倣い」
      瀬谷 寛 牧師 
       創世記 第2章 18−25節
       コリントの信徒への手紙一 第11章 1節

 この第11章1節は、少し丁寧に考えて、心に留めたいと思いました。わたしたちの物の考え方についての大切な言葉がここに記されていると思うからです。
 今日の直前のところで指摘されていたのは、自由ということでした。自由になった者の生活の特色は、規則でがんじがらめに縛るような生活はせず、自主的な判断と責任を持って決断する、ということです。しかし同時にパウロは、その自由が他人を惑わしたり、救いから引き離したりすることがないように、求め続けてきました。
 けれども、具体的には、なかなか自由な判断をするのは難しいことです。そこでパウロはこれまで語ってきたことをまとめるようにして「あなたたちは、わたしに倣うものになりなさい」と語りました。倣う、とは、真似をすることです。
 子どもがいろいろなことを学ぶときには、大人の真似をすることから始めます。親にしても先生にしても、真似をされてもいい存在にならなければなりません。わたしの真似だけはするな、というのは困ります。当たり前のことかもしれませんが、パウロがはっきりと言えることは、とても大切なことだと思います。
 このことはわたし自身、大きな問いかけです。このことがいつでも教会の人たちに言えることだろうか、教会員が真似して構わないだろうか、いや、ぜひ真似してほしい、と勧められるような生き方をしているだろうか、いつも考えます。
 パウロが「わたしに倣うように」とここで語っているのは、「わたしがキリストに倣う者であるように」と語っていることに注意したいと思います。わたしの真似をすることは、結局は主イエスの真似をすることになる、と語っているのです。そうすれば、教会の様々な問題に、どうしたらよいか、見えてきます。
 「キリストの真似をする」ということは、警戒されてきた面があります。わたしたちはそもそも、主イエスの真似をする力など、備わっていない罪人です。そのわたしたちがただ主イエスの恵みを信じる時に救われ、解き放たれるのです。
 けれどもその上でパウロが、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と語れることを、主イエスの恵みによって赦された者として受け取り直すことが大切なことだと思います。

【2020年 10月 25日 主日礼拝説教より】

説教「あなたはメシア、生ける神の子」
      瀬谷 寛 牧師 
       ヨシュア記 第3章 9−13節
       マタイによる福音書 第16章 13−20節

 わたしたちの伝道の場所は、教会の礼拝です。共に礼拝を献げ続ける仲間を増やし続けます。しかし改めて、礼拝とは、そこで何をしていることなのでしょうか。一言で言えば、主イエスと出会う、ということです。今日の聖書にも、主イエスに出会った人が登場します。そこで何が起こっているのでしょうか。
 この時、おそらく主イエスは弟子たちだけと一緒におられました。そこで「人々は、人の子(=わたし、イエス)のことを何者だと言っているか」と問われます。弟子たちは、「洗礼者ヨハネだ、エレミヤだ」などといっています、と答えます。
 そこで更に主イエスは弟子たちに問います。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」。ペトロが、弟子たちの代表のようにして「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。主イエスはこれを喜ばれました。
 ここに書かれていることは、「ペトロの信仰告白」と呼ばれます。ここに、どんな人であろうと、主イエスにお会いする時、結局、自分に出会ってくださったこのお方が誰であるか、を言い表わさざるをえない、そこに救いが起こることが示されています。
 ここで大事なことは「あなた」ということです。実際にベツレヘムで生まれ、ナザレで育ち、ガリラヤを中心に伝道なさったイエスというお方を「あなた」と呼びます。そしてそのお方を「メシア、生ける神の子」と呼びます。死んでおられない、今生きておられるのです。ペトロにとっては、「今、生きておられる」のは当然かも知れませんが、今日のこのわたしたちの時代においても、主イエスというお方は過去の偉い人ではなく、今、生きておられます。この方こそ、マリアという女から生まれた、まことの人間であり、まことの神の子です。
 ペトロは、「あなたこそ、そのメシアです、救い主です、神の子です」と申し上げました。主イエスに対して、人間が、あなたこそ救い主です、と言ったのは、これが、人間の歴史において初めてのことです。この信仰に基づいて、教会が造られました。しかしペトロはその直後、「神のことを考えないで、人間のことを考えている」サタンと呼ばれます。わたしたちもサタンになりかねません。しかしそのわたしをお赦しになるために、主イエスは十字架にかかられました。

【2020年 10月 18日 主日礼拝説教より】

説教「神を見たのに、なお生きている」
    宮城学院学院長 嶋田 順好 教師
       創世記 第32章 4−33節
       マルコによる福音書 第15章 33−39節

 創世記に登場してくる族長ヤコブは、兄エサウの長子の権利と祝福を奪い取ったため、叔父ラバンのもとへ逃亡します。しかし、20年にわたる叔父との生活も破綻し、なお恨みを抱いているであろう兄の地へと戻らざるを得なくなるのです。
 ヤボク川のほとり、待ち伏せする兄に殺されるかもしれないという恐怖のなかで祈るヤコブに何者かが襲い掛かります。ヤコブは夜を徹してその相手と格闘します。てっきりエサウの回し者と思っていた相手が、次第に自分より遙かに力の強い方であることに気づかされ、ついにその相手が神ご自身であることを知らされた時、ヤコブはどんなに大きな畏れと驚きに捉えられたことでしょう。
 ヤコブは如何にしたら神の御前に立ち得る者となるのでしょう。彼は自らの知恵や力や業を根拠にして立ちえません。彼は兄の長子の権と祝福を奪い、叔父とも争い続けた者なのです。もし彼が主の御前に立ち得るとすれば、今一度、あのベテルにおいて神ご自身が一方的に示してくださった祝福に立ち返るしかありません(28:10-22)。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と。神の激しい攻撃に身をさらしながら、必死に神の祝福の約束を盾にして立ち向かうヤコブ。この神とヤコブとの格闘は、神ご自身のなかにおける義と愛との闘い、神が神と闘った主イエスの十字架の出来事を先取りしていたとも言えるでしょう。
 主は彼に名を問います。「ヤコブです」。そう応答することにおいて、まさしく兄エサウのアケブ(踵)をつかむ者としての、また叔父ラバンとの争いに明け暮れた者としての、彼の赤裸々な罪の姿が露わに示されます。しかし、そのヤコブに向かって「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」との祝福が告げられるのです。
 神の顔を見た者は死ぬという(出エジプト33:20)信仰は、ここではヤコブが神と格闘して勝利するという恵みの出来事によって完全に乗り越えられています。エサウの顔、顔、顔で完全に取り囲まれ、兄を恐れる思いで一杯であったヤコブはイスラエルとされ、「神を見たのに、なお生きている」との圧倒的な恵みに浴し、砕かれ悔いた心をもって兄との邂逅と和解へと歩み始めます。私たちも主日ごとに主に見える祝福を感謝し、主のみ旨に従いつつ歩んでまいりましょう。

【2020年 10月 11日 主日礼拝説教より】

説教「あなたに言う、起きなさい」
      瀬谷 寛 牧師 
       列王記上 第17章 17−24節
       ルカによる福音書 第7章 11−17節

 本日は、一年に一度の逝去者記念礼拝です。昨年から今年にかけて、十名以上の教会の仲間を葬りました。コロナ禍の時期に葬りが重なって、多くの仲間たちと共にお送りできなかった方もあります。
 そのような方々のご家族も含めて、ご一緒に聴いた聖書のみ言葉は、一人の死んだ若者を主イエスが生き返らせた、という短い記事です。母一人子一人で暮らしていたであろう、その息子である若者が死んでしまったのです。母は死の悲しみの中で、泣きながら、町の外の墓に向かう葬列の中にありました。人々はこの母が泣き続けるのを見て、「いくら嘆いてもどうしようもない、あきらめなさい」と教えたかもしれません。わたしたちも弔問に赴いて、何を言ったらいいかわからない、という経験をします。死に逆らう力ある言葉は語れないものです。
 けれども、この町の外へ出ていく人々の流れに逆らって、別の人々が登場します。主イエスと弟子たちと、それと主イエスの話を聞きたがって従う群衆です。しかしこれらの人々も、向こう側からこちら側に棺が運ばれるのを見て、どうしようもない、と思っていたでしょう。
 ここで主イエスはこの婦人を見て、憐れに思った、と聖書に記されています。この「憐れに思う」という元の聖書の言葉であるギリシア語では、「内臓」という意味を含んでいます。はらわた痛む、断腸の思い、と訳されることもあります。主イエスはここで、他者の痛みを、自分の存在の深いところで捉えているのです。
 当時の特にギリシア人は、神は人間を遥かに超えた偉大な方で、人間に同情するとか、はらわた痛める、とかは、ありえないことでした。けれども神の御子主イエスは、この母親を見て、彼女のために全存在を痛めてくださいました。そのようにして、わたしたちがどんなことを味わっても、わたしたちと共にいてくださいます。たとえ死のところであっても、です。
 死の世界は、もう、自分たちの手の届かない暗いところにあるように思えますが、そこにも、主イエスは深い同情をもって、共におられます。そして棺に手をかけて、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われます。死の中から再び立ち上がりなさい、という意味です。主イエスの言葉がわたしたちにも響きます。

【2020年 10月 4日 主日礼拝説教より】

説教「すべて神の栄光を現すために」
      瀬谷 寛 牧師 
       歴代誌下 第6篇 12−21節
       コリントの信徒への手紙一 第10章 23−33節

 偶像に一度供えられた食べ物を、キリスト教会に生きる者が食べてもよいのか、よくないのか、ということを巡って、この手紙の著者パウロは、ずっと語ってきましたが、「すべてのことが許されている」と、一つの結論めいたことを語りました。イエス・キリストの十字架と復活によって、すべての罪が許され、救われたものは、基本的に、してはいけない戒律のようなものはありません。
 しかし続いて「すべてのことが益になるわけではない」、と続けました。何をしてもいいけれども、どんなことも、利益になるわけではない、というわけです。もう一つ言い換えて、「すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」と言いました。この言葉で思い起こされるのは、同じ手紙の8章1節で、「愛は造り上げる」と言われていたことです。何をしてもよい自由に生きる者は、愛に根ざした自由へと招かれるのだ、というわけです。そしてそれは、神の教会を造り上げることでもあります。
 それが、出された食べ物を何でも感謝して食べるべきでありながら、その食べ物が偶像に供えられたものであることを気にする人がいれば、その人のために食べないでおく、ということも考えてほしい、という主張に結びついていきます。パウロは、神が生かしてくださる地上に自由に生きるために、忘れてはならないことは、感謝に生き続けることだ、と言いました。
 そして31節で、「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と言いました。パウロが言いたいのは、何をするにも、「自分の」栄光を表すためにする、とは考えない、ということです。わたしたちは主イエスによって解き放たれた栄光の輝きの中に生きていますが、しかしその光は、自分から生まれてくるものではなく、神の栄光を映しているだけだからです。
 その栄光の自由に生かされている者が、自由に食べ、飲む時、神の栄光を現すかどうかが試されます。それは同時に、人の良心に心を配ることができる自由に生きることでもあります。自分の益ではなく多くの人の益を求めて生きること、すべての人を喜ばそうと生きるのです。その根底には、人々が救われること、神の教会の仲間として自由に生きられることを願う心があります。

【2020年 9月 27日 主日礼拝説教より】

説教「他人の利益を追い求めよ」
      瀬谷 寛 牧師 
       詩編 第24篇 1−10節
       コリントの信徒への手紙一 第10章 23−29節

 信仰生活は、窮屈なものだ、と考える人がいるでしょう。神を信じるのだから、神のお考えが先に立つはずで、信仰者はそのお考えに従うのだ、と考えるのです。反対に、信仰生活は自由なものだ、と考える人もいるでしょう。この世の束縛から脱して、自由になることが神を信じて生きることだ、と考えます。
 一体、どちらが本当の信仰生活でしょう。このコリントの信徒への手紙一では、偶像に供えられた食べ物を食べることはいいのか、悪いのか語ってきました。神に対して真実であろうとする、真剣な問いです。今日のところには、パウロの結論が記されています。それは「すべてのことが許されている」ということです。
 ここでは、そのことを二つの言葉で説明しています。一つは、すべてが許されているが、益になるわけではない、ということです。何をしてもいい、ということではない、ということです。許されているなら、そうなった理由を考えなくてはなりません。すべてが許されるようになったのは、主イエスの、十字架と復活の救いの御業のゆえです。罪の責任を問われない、自由を与えられたのです。
 もう一つは、すべてが許されているが、すべてが造り上げるわけではない、ということです。この造り上げる、は教会を建てる、建設する、という言葉です。自由を許されているからと言って、それですぐ教会を建てることにはならない、と言っているのです。わたしたちは、すべてのことが許されているのなら、その自由をもって、教会を建てることに参加すべきなのです。
 偶像への供え物について言えば、詩編第24篇に「地とそこに満ちるもの、世界とその中に住むものは主のもの」と言われています。偶像に供えられたものでも、本来は神のもので、感謝して受けるべきものです。この、すべてのものが神のものである、と信じられる者は、神の聖所に立つことができる者、神から主イエスによって救われ、義とされた者だ、というわけです。
 実際にこれを未信者から出されたならば、一方で何でも食べたらいい、と言います。けれども他方もし誰かが、これは偶像に供えられたものだ、と言ったなら、そう言った相手の良心のために食べないほうがいい、と言います。キリスト者は何でもできる自由を、隣人を愛し、教会を建てるために用いるのです。

【2020年 9月 20日 主日礼拝説教より】

説教「主に出会う喜び」
      平賀 真理子 教師 
       ヨエル書 第2章 26節
       ヨハネによる福音書 第4章 18−42節

 ヨハネによる福音書4章「イエス様とサマリアの女」の出来事の後半では、「主に出会った喜び」を得た人々が三種類出てきます。
 一種類目の人は、もちろん、イエス様ご自身から「救い主宣言」を受けた「サマリアの女」です。彼女は「イエス様は救い主」と深く理解するよりも先に、神様が遣わした凄い御方に出会うという恵みを受けたと悟ったが故に、大いなる喜びに溢れ、サマリアの町の人々に対しての伝道に出かけました。彼女は「主に出会った喜び」を隣人に伝えたい思いに素直に行動したと言ってもよいでしょう。
 次に、主の御許に来たのが「弟子達」です。彼らが食事を出す前に、イエス様は他のことで満腹でした。即ち、「父なる神様」の御心、具体的には、罪に陥った人間を救いたいという御心を、「サマリアの女」に対して実現したので、喜びで一杯だったのです。イエス様は、彼女が「報酬を受けた」=「主に出会った喜びを受けた」ので、「永遠の命に至る実りを集めている」=「伝道に行った」と説明なさいました。また、イエス様を救い主と信じる準備のできた人々を「神の刈り入れを待つ実り(実った作物)」と例えました。更には、実りよりも先に種蒔きを「主なる神様」が行い、「伝道」は神様と信仰者の共働作業だと語られました。弟子達の担う「伝道」は、彼らだけが労苦するのではなく、神様が大部分を用意なさり、彼らは最後に加担するだけで、喜びを神様と共有できるように御計画されているとイエス様は教えておられます。弟子達は「主に出会った喜び」をきっかけに、その後の人生は主に従うことを決意した者達です(二番目のグループ)。「主に出会う喜び」を広げる「伝道」に用いられるのは、天地にかかる壮大な御業に関与できる、尊くて喜ばしいことだとイエス様は彼らに語っておられたのです。
 三番目のグループは「サマリアの女」の言葉をきっかけにイエス様との出会いに導かれた「サマリアの町の人々」です。ここでは、「信仰」で問われるのは、きっかけではなく、イエス様の語る御言葉が神の真実を啓示すると理解し、それを語るイエス様を救い主として御許に留まろうとするかどうかだと示されています。
 上記の人々だけでなく、私達信仰者の共通点は「主に出会った喜び」です。この喜びを御言葉によって深め、伝道の喜びへと導かれるように祈り求めましょう。

【2020年 9月 13日 主日礼拝説教より】

説教「偶像礼拝がいけないのは」
      瀬谷 寛 牧師 
       レビ記 第7章 1−10節
       コリントの信徒への手紙一 第10章 14−22節

 「偶像礼拝を避けなさい」(14節)、と言われています。この「避ける」は、「逃げる」という言葉です。これに先立つ13節で「逃れる道をも備えていてくださいます」とパウロはすでに語っていました。
 13節で、「あなたがたを襲った試練」と言った時、それは何の試練だったのでしょう。イスラエルの民の歴史を振り返りながら、7節ではっきり「偶像礼拝」と言っていました。一番の試練は、実は真実な神を捨て、偶像を求めることだ、というのです。そうすると、偶像礼拝と戦わなければならない、と考えるかもしれませんが、パウロが語ったのは「偶像礼拝を避けなさい」ということでした。神が備える逃れ道に逃げたらいい、とパウロはわたしたちを誘っています。
 では、その逃れ道とは、何でしょう。16節「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」。この「あずかる」という言葉は、聖書の元の言葉で「コイノーニア」といい、キリスト教会では交わり、と訳されることの多い言葉です。一つのものを共に分け合う、という意味です。キリストの体を、お互いに分け合って、そのようにキリストのお体に連なっているのが、教会だ、と言っています。この手紙の後のところで丁寧に語られますが、「教会は、キリストの体である」と言われます。今は、主イエスのお姿は見えませんが、主イエスが今この地上の歴史において働きをなさっておられます。それは、集められた者たちが一つのパンを裂き合い、一つの杯を飲み合う聖餐にあずかっている仲間たち一人ひとりが作る教会で、主イエスが地上での働きをなさっておられます。ここに、逃れ道があります。わたしたちにとっていちばん大切なことは、このキリストの体として生きるところに、いつも立ち帰ることです。
 わたしたちにとって、偶像は何の意味も持ちませんが、だからといってわたしたちが偶像に仕えて供え物を献げるならば、それは悪霊に献げた供え物になります。主イエスが戦ったあの悪霊の仲間になってしまいます。パウロはわたしたちに、主イエスの仲間ではなく悪霊の仲間になってしまわないように、偶像礼拝から主イエスのもと、教会の仲間のところに逃れるように、と招いています。

【2020年 9月 6日 主日礼拝説教より】

説教「試練に耐える」
      瀬谷 寛 牧師 
       民数記 第20章 9−13節
       コリントの信徒への手紙一 第10章 1−13節

 昨年、2019年の2月ころ、二人のアスリート、フィギュアスケートの羽生結弦選手と競泳女子の池江璃花子選手が、同じ聖書の言葉を用いてメッセージを発信した、と一部で話題となりました。それぞれ苦労を味わいながら、羽生選手は「試練は乗り越えられる者にしか与えられない」白血病を告白した池江選手は「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています」と語りました。
 この二人が共に思い描いていたであろう言葉が、今日の第10章13節のみ言葉です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。良い言葉だ、と慰められる方も多いでしょう。けれども、これだけを取り出して覚えていると、大事な点を見逃しているかもしれません。
 わたしは、この箇所で最も大切な点は、「神は真実な方」というところだと思います。耐えられない試練はない、と言ったときに、そこに何があるかを知らなければなりません。それが、神の真実だ、というのです。
 そこでパウロは、神に導かれ、モーセに率いられて旅をしたイスラエルの民を思い起こさせています。彼らの中には、神の恵みはいつもそばにあったけれども、その恵みを与えてくださる神の御心に逆らうようにして、滅びてしまった民がたくさんいる、というのです。なぜなら、偶像礼拝をしていたからです。さらにそれと結びつくのはみだらな行いです。それらは神を試みることと結びつきます。神は何もしてくれないではないか、とその存在を否定するのです。これこそ、「神は真実な方」「真実なのはただ一人、神」ということを忘れてしまっています。
 そしてこれこそ、一番厳しい試練の内容です。人生のちょっとした挫折、どころではなく、神を否定し、他の物に心を惹かれる試練。わたしたちはその試練にさらされています。しかしまた、それに対する逃れる道が用意されています。主イエスです。主イエスは、わたしたちが神を試み、否定する心をすべて、十字架に背負って滅ぼしてくださいました。それゆえ、試練に耐えることができます。

【2020年 8月 30日 主日礼拝説教より】

説教「悪をむさぼることのないように」
      瀬谷 寛 牧師 
       コリントの信徒への手紙一 第10章 1−6節

 モーセがシナイ山で神から十戒、という律法の言葉を受けていたときのことです。その帰りが遅い、と言って、イスラエルの民は、モーセの兄アロンに、自分たちのために神を作ってくれ、と迫りました。アロンは偶像を作りました。これは実に見事に人間の愚かさ・真相を示しています。人間は神がなくては生きていくことができない、ということです。モーセによって神を拝む生活をしていた彼らが、モーセが見えなくなると、すぐに偶像を作ったのです。パウロはこれまで、この手紙の中で、偶像への供え物をどうするか、という話をしてきました。ここに、偶像礼拝そのもののことに至りました。
 わたしたちは、自分が偶像礼拝をするとは思っていないでしょう。しかし実は、あらゆるところで偶像を造っています。「これこそ頼りにべきもの」をもっているならば、それは偶像であり、いくらでも考えられるのではないでしょうか。
 「偶像礼拝をしてはいけない」とはっきりと出てきます。けれどもここで書いてあるのは、洗礼と聖餐のことです。パウロは、偶像礼拝の問題を、洗礼と聖餐に表される教会の生活と比べて語ろうとしています。教会の生活の中心である礼拝を崩す偶像礼拝が、問題になるのは当然のことです。パウロはそのことを語るのに、イスラエルの民と教会との関係を語ります。
 イスラエルの民の最大の経験は、エジプトでの奴隷状態からの解放です。その時の、葦の海を二つに割って、イスラエルの民が陸地を渡るように海を超えました。パウロはこれを、モーセが海の中で洗礼を受けた、と説明しました。  そのイスラエルの民は、神によってマナという食べ物で養われ、モーセが杖で岩を打つと、水が湧き出るようになりました。いつでもどこでも水を飲むことができる岩は、臨在されるキリストに当たる、とパウロは言います。そして信仰生活に当てはめて言えば、それは聖餐に当たる、とも言えます。
 イスラエルの民は、洗礼と聖餐の原型を受けていたにもかかわらず、偶像を礼拝し、罪を犯して滅ぼされてしまいました。それを乗り越えるのが、主イエスの十字架の死による救いの出来事です。わたしたちがこの出来事を受け入れて、解放された時、神の子とされ、神の自由の中を生きることができます。

【2020年 8月 23日 主日礼拝説教より】

説教「賞を得るように走る」
      瀬谷 寛 牧師 
       エゼキエル書 第16章 7−14節
       コリントの信徒への手紙一 第9章 24−27節

 パウロは、一所懸命生きた伝道者であったことを、わたしたちは、ここまで、コリントの信徒への手紙を読んで、感じるのではないでしょうか。
 今日のところに「走る」という言葉が出てきました。自分を含めてキリスト者の生活を、パウロは走ることにたとえています。23節「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」という言葉に表れているでしょう。
 そして24節「あなたがたは知らないのですか」知っているでしょう、親しみを込めて語り始めます。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい」。パウロは病弱だったようですが、心のなかで思ったでしょう。「自分はもう、競技場で走れないけれども、伝道の競技場では、一生走り抜くんだ」と。そして、「あなたがたも、賞を得るように走りなさい」と勧めます。だれもが一等になりたいと思う人の中で、賞を受ける人はたった一人だけ、その一人になれるように、心を込めてひたすら走る、それが大切だ、というのです。
 パウロは、そう願っている人たちが心がけるのは「節制」だ、といいます。野球であれ、サッカーであれ、競技をする者は体を鍛え、練習に練習を重ねます。スポーツに限らず、プロと呼ばれる人たちは、普段から、努力を重ねます。
 パウロは、わたしたちの信仰生活が、節制を求めると言います。これは先の、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」という言葉を受けてのことです。主イエスの喜びの訪れが、この世において、一人でも多くの人に伝わるように、自分はどんなことでもする、そのために、自分はユダヤ人だけれども、ユダヤ人でない人には、その人の傍らに立つために、ユダヤ人という自分自身のこだわりを捨てる、と言っていました。それも、節制の一つの姿です。
 もう一つ、心に留めなければならない言葉は「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」と語っていたことです。競技で賞を得る人たちは、月桂樹の冠を受けますが、やがて枯れてしまいます。けれども、信仰の競技は、主イエスによって赦され、救われる喜びの冠を受けること、そのために勝つ、その努力をするよう促されています。

【2020年 8月 16日 主日礼拝説教より】

説教「主の望まれること」
      平賀 真理子 教師 
       イザヤ書 第55章 1−5節
       ヨハネによる福音書 第4章 13−26節

 今日の新約聖書の箇所から、私達が「主」と呼ぶイエス様がどのような御方かを再確認し、その「主」が私達に望まれることを読み取りたいと思います。
 まずは、イエス様は、このサマリアの女性の生活の場に、御自分の方から現われて声掛けなさったことから、私達人間の人生の場に降りてきて招いてくださる御方だとわかります。ユダヤ人の男性が、蔑視していたサマリアの女性にお願い事をすることは、当時の社会ではありえないことだったにも関わらず、イエス様は、その人間達の常識を悠かに超えて「人間を分け隔てなく愛する神様の御心」を実現なさる御方としての行動を取っておられたのです。
 次に、イエス様は、人間の魂の渇きの源を本人に気づかせ、それを「主」たる御自分に告白できるように導き、それを喜ぶ御方だと読み取れます。「生きる水」を欲した、この女性に対して、イエス様は「夫を呼んで来なさい」とお答えになりました。なぜ、こんな応答をなさったのでしょうか?当時のその社会の人々が奉じた律法の中でも婚姻関係は尊重すべきことでしたが、彼女は、それを尊重しない行動を続けたゆえに、周りから疎外されていました。彼女の魂の渇きがそれと関連していると見抜いたイエス様は、やんわりと配偶者について尋ね、本人が自分を苦悩に置いている源に気づき、「主」の御前に告白できるように導かれたのでしょう。「わたしには夫はいません」という、ほんの一言を、イエス様は「ありのままを言えた」と喜ばれました。それが「悔い改め」の第一歩だからです。
 三番目に、イエス様は「飲み水」についての問答から「生ける水」に対する問答へと論点を変えていることから、常に「神からの人間の救い」を第一の基準として言動を取る御方だとわかります(「生ける水」とは「救い主が人間の渇いた魂に与えることができる潤い」即ち、救い主から人間への「罪からの救い」の例えです)。
 その「主」が私達人間に望まれるのは、悔い改めた人間が「霊と真理をもって礼拝する」ことです。「霊」とは「神の霊」です。「真理」とは「ありのまま」という語と同源で、「現実の姿」即ち「真実」とも換言できます。「神の真実」と違い、人間の真実は罪深く醜いものですが、「神の霊と真実」の中で救われた人間が諦めずに行うように、父なる神と御子(イエス様)が求めておられるのが「まことの礼拝」です。

【2020年 8月 9日 主日礼拝説教より】

説教「どんなことでもする」
      瀬谷 寛 牧師 
       エレミヤ書 第31章 31−34節
       コリントの信徒への手紙一 第9章 19−23節

 「わたしはどんなことでもする」、「わたしは何でもする」、パウロはここで言っています。これは、素晴らしいことです。何でもできる人でないと言えない言葉です。そして、わたしたちは、なかなか言えません。勇気もないし、力もない。
 わたしが子どもの頃、野球が好きでした。自分が応援しているチームが負けると、悔しい思いをしながら、自分が、そのチームで大活躍してリベンジする、という空想をしました。空想の中では、わたしたちは何でもできます。
 小さな子どもの夢ならばまだ傷は浅いかもしれませんが、大人になってもわたしたちは自分自身について期待を持ち続けます。自分は何でもできる、と思い込みながら、現実にはかなわない時、わたしたちはつらい思いをします。
 「わたしはだれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」。どんなことでもする(できる)自由、これは主イエスによって与えられたキリスト者の大きな特権です。しかし同時に、自由であるが故に、すべての奴隷になった、とパウロは言います。わたしたちはこの、自由を与えられているが故に、人々に仕えることが主イエスによって求められていることを、もう一度よくわきまえる必要があります。
 そしてこの自由であることと、仕えることが一つになった時に、ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、そうでない人にはそうでない人のように、弱い人には弱い人には弱い人のように、すべての人には、すべての人のようになり、その人達と一緒に生きてあげるようになる、というのです。なぜかといえば、何とかして、「何人かでも救うため」にです。パウロはここで、「すべての者を救うため」とは言いませんでした。すべての人のことを考えながらも、救う者は神さまが決めてくださることだからです。パウロは、だれに対しても、その人に仕えることを、自由にまず考えました。そのことしか考えませんでした。そこからどんな実りを与えてくださるかは、神がしてくださることだ、と思っていました。
 しかし同時にパウロが楽しみにしていたのは、「わたしが福音に、共にあずかる者となる」ことでした。福音は、人に伝えれば伝えるほど、伝える伝道者も、伝えられる信徒も、さらにまたその福音の喜びが増してくるものなのです。

【2020年 8月 2日 主日礼拝説教より】

説教「福音を告げずにはいられない」
      瀬谷 寛 牧師 
       エレミヤ書 第20章 7−12節
       コリントの信徒への手紙一 第9章 13−18節

 新型コロナウイルスの陽性者の数が増え続けています。けれども、教会では、礼拝と伝道をやめることはいたしません。YouTubeの活用など、礼拝の仕方が変わることはあっても、礼拝と伝道をやめるつもりはありません。
 なぜ、わたしたちは、礼拝をし、伝道をするのでしょう。伝道とは、福音を宣べ伝えることです。それならばなぜ、福音は、宣べ伝えられなければならないのでしょう。それは、強制され、必要に迫られるからです。神が、わたしたちを愛し、憐れんでくださる、その福音を聞き、救いをいただいたからです。
 信仰を持つ、というのは、なにか新しい考え方を持つことではありません。罪と死の力から救い出されることです。ですから、止むに止まれぬ思いを持って伝道します。ここでパウロは、「福音を告げ知らせないなら、わたしにとっては災い(不幸)である」と言います。罪と死の力の中にとどまることになるからです。
 もう、伝道するよりほかはない、というのは、預言者エレミヤが、主の言葉が、心の中に閉じ込められていて、それが火のように燃え上がる、その燃える火を押さえつけることができない、もう負けを認めるしかない、と語る言葉に表れます。強制とは、このように、もう伝道することが押さえつけられなくなることです。
 パウロはさらに17節「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、委ねられている務めなのです」と語ります。奴隷が当然の務めを果たして、報酬を期待しないように、無報酬で福音を宣べ伝え、報酬を受ける権利を用いない、と語っています。そもそも、福音とは、救いとは、全く値なしに与えられたものでした。主イエスが十字架について死なれ、復活なさいました。ただそれを信じるだけで、わたしたちに与えられた、それが福音であり、救いです。それならば、それを宣べ伝えるのに、無償で与えられるべきは当然でしょう。
 皆さんの多くは、福音の伝道を職業にしているわけではないかもしれません。けれども、神により、主イエスにより一方的に愛されて、救われるものとなりました。そうであればわたしたちは誰であっても、心を尽くして神を愛し、神に仕える者とならせていただきたいです。伝道は、神を愛する最も貴い一つの形です。

【2020年 7月 26日 主日礼拝説教より】

説教「福音の妨げにならないように」
      瀬谷 寛 牧師 
       申命記 第25章 1−10節
       コリントの信徒への手紙一 第9章 8−12節

 聖書における段落の区切り方、というのは、実は、世界共通ではなく、翻訳ごとに、違っています。今、わたしたちの多くが用いている『聖書 新共同訳』のように、12節で区切るほうが、パウロの言いたいことが現れる、と思います。
 パウロは、働いたものが報酬を受けるのは、当然のことではないか、とくどいほどに言います。それを聴くと、福音を伝道することも、お金のためにやっているのか、と思う人があるかもしれません。そこで、パウロの本当の気持ちはどこにあるのかを今日のところでは語り、説明しています。14節で区切りますと、パウロがいかにも報酬のために働いているかのように、そのことが強調されます。パウロの言いたいことは、12節で区切るほうがわかります。
 パウロ自身は、伝道することにおいて、報酬を受けてはいませんでした。しかし、報酬を受けている伝道者のために、報酬を受けることは当然だ、と弁明しています。そうしながら、福音を宣べ伝えるとはどういうことか、教えようとしています。福音とは、神の恵みによって救われることです。それならば、その福音を宣べ伝える伝道者の生活の仕方が、それを誤解させることもあるでしょうし、正しく知らせることもできでしょう。
 パウロは一方で、働いた者は、農家であっても、伝道者であっても、皆報酬を得るのが当然だ、と言っています。けれども、福音の伝道者については、まるでそれが権利のように考えてはいませんでした。主イエスは、「空の鳥を見るがよい」とおっしゃって、鳥は何も働かなくても、神が養ってくださるではないか、それならば、鳥よりも優れたあなたがたは、なおさら働かなくても、神が養ってくださるだろう、とおっしゃっています。だから、何も要求せずに、人のために働くことこそ、望ましい言い方、と考えます。そしてパウロも、この伝道者の心意気を知ってもらいたくて、この報酬を受ける権利を利用しませんでした。そうすることで、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」と考えたのです。
 パウロは、福音そのものの力を信じていました。神が、その独り子主イエスをこの世に遣わされ、わたしたちを救ってくださった、これ以上に力ある言葉はないはずです。この、福音を妨げない生き方が、わたしたちにも求められます。

【2020年 7月 19日 主日礼拝説教より】

説教「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
      宮城学院学院長 嶋田 順好 教師
       イザヤ書 第43章 1−2節
       マタイによる福音書 第14章 22−33節

 直前の5,000人の供食の出来事を経験した群衆のなかには出エジプトの再来の時と理解し、主イエスを「王に」しようとする不穏な動きが出てきました。そのことを察知し、機先を制するように主は「弟子たちを強いて舟に乗せ・・・・・群衆を解散させられた」(22節)のです。この時の主は「暗殺」と「革命」という人間の思いの嵐の中に巻き込まれ、独り山に退き父なる神に祈られるのです。
 他方湖に漕ぎだし弟子たちは、夜通し風と波に悩まされます。この時の彼らは恐れと不安のなかで強いて舟に乗りこませた主イエスを責める気持ちで一杯となり、祈ることも忘れていたに違いありません。しかし、山で祈られる主イエスは、その弟子たちを見いだし、歩み寄り、救ってくださる方なのです。嵐をついて弟子達のもとへと主イエスは歩み進まれます。その時、なんと弟子たちは「『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」のです。人は祈りを忘れ、恐れに囚われた時、いともたやすくこれほどの不信仰に陥るのです。
 そんな弟子たちに向かって主イエスは、語りかけて下さいました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。その慰めに満ちた力あるみ言葉に励まされてペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらへ行かせてください」と申し出ます。「来なさい」と招かれたので、彼は舟からおり、水の上を歩いて主のみもとへ赴きました。主を信じ、主を見つめ、嵐の中を歩み始めたのです。その時は確かに彼は水の上を歩くことができました。
 けれども、突然、サァーッと突風が吹いてきて、「あっ、危ない」と思い、主から目を反らしたその瞬間、彼はブクブクと水の中に沈んでしまったのです。主がこんなにも近くに共にいてくださるにもかかわらず、主の背後に吹き荒れる強い風に気がついた時、彼は恐くなって溺れてしまいました。しかしこの出来事は、ペトロが溺れることによって終わりはしません。よく目を見開いて、はっきりと見つめて欲しいのです。ペトロが溺れたからといって、主イエスも溺れはしなかったということをです。沈みかけるペトロが「主よ、助けてください」と救いを求めたとき、嵐の中で立ち続ける主は見捨ておかれず、すぐに手を伸ばして捕まえ、事実、助け出してくださる方であることを心に刻み歩んでまいりましょう。

【2020年 7月 12日 主日礼拝説教より】

説教「自由な使徒の権利」
      瀬谷 寛 牧師 
       申命記 第25章 1−4節
       コリントの信徒への手紙一 第9章 1−7節

 コリントの信徒への手紙の著者、パウロは、わたし自身がひるんでしまうほどに、自分のこと、自分の考えを実に具体的に、率直に語っています。しかしそれは、パウロがどうしても伝えたいことがあったからです。それは、福音によって生かされる、十字架にかかられた主イエスによって生かされるとは、自由に生きる、ということだ、と思います。
 今日の直前のところでは、「偶像に供えられた肉を食べてよいかどうか」について、語られていました。食べることも食べないこともできるが、信仰の弱いものをつまずかせないために、「わたしは肉を食べない」、とパウロはいいました。
 ところが、だれもつまずかせない、とは言っても、「あなたは伝道者としての報酬は受け取っているではないか」と意地悪な批判が出たようです。それに対してパウロは、自分の立場を示そうとします。
 信仰者の生活が自由であることについてパウロは、「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか」と言い、次に「わたしたちの主イエスを見たではないか」と言いました。主イエスを見た、とは、パウロが、復活の主イエスにお目にかかった、ということでしょう。それが意味するのは、主イエスが十字架で死に、復活したことを信じる、ということです。そしてそれはさらに、自分の罪が主イエスによって赦されたことを信じる、ということです。
 このことは、パウロだけに起こっていることではありません。わたしたちもまた、礼拝において、御言葉によって、復活の主イエスにお目にかからせていただいています。主イエスがわたしたちの罪を赦しておられることを信じています。
 またパウロは、自分は使徒である、と言っています。使徒は教会の指導者でもあるので、教会の中で大変大きな権利・自由を持っています。しかしそれを用いて威張るのでなく、謙遜さをもって仕えようとしています。
 それでも伝道者パウロは、飲み食いにおいて、結婚において、また労働において、つまりあらゆる点において、人々から批判を受けました。伝道者に限らず、一人の人間が、神のために生きることが、どんなに難しいことか、と思います。

【2020年 7月 5日 主日礼拝説教より】

説教「兄弟のための自由をもって」
      瀬谷 寛 牧師 
       イザヤ書 第59章 1−8節
       コリントの信徒への手紙一 第8章 7−13節

 信仰が強い、とか、信仰が弱い、ということは、言葉に出すことはあまりないかもしれませんが、自分のことでは、心の中で、もっと強い信仰がほしい、などと考えたことがあるのではないでしょうか。
 改めて、信仰の強い・弱いとは、どういうことでしょうか。偶像への供え物は決して食べない、という人が、信仰が強いと思うかもしれません。けれどもパウロは、偶像は存在しないもの、と考えて、偶像にとらわれることなく、自由に振る舞える人のほうが、信仰が強い、と見ているようです。それは、形を守る人は、信仰のみによって生きず、自分がすることによって救われる、と考えることになるからです。信仰の確かさを得るために、自分で神の戒めを作るならば、それは、決して信仰の強いことではなく、むしろ弱いことです。信仰は自由を与えます。
 しかしここでパウロが述べている大切なことがあります。それは、9節「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように」気をつける、ということです。信仰の上では、何を食べ、あるいは何を食べないかは、問題にはなりません。けれども、信仰の弱い人が、自分では偶像に供えられたものを食べるのは良くない、と思いながら、信仰の強い人が食べるのを見習うならば、それは信仰の弱い人が偽りの生活をすることになります。
 けれどもパウロは、「この(弱い)兄弟のためにもキリストが死んでくださった」と言います。もちろん、弱い兄弟のことだけでなく、すべての人のために主イエスは十字架にかかって、救おうとされました。そうであれば、「彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すこと」だ、と言うのです。わたしたちは、自分の生活の大事な柱に、キリストがわたしたちの罪のために本当に、十字架で死んでくださった、ということを置かなければなりません。
 最後にパウロは、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と言いました。他の人の信仰の妨げになるならば、自分は自分を殺す、自分の自由を捨てる、と言うのです。友のために命を捨てる。さらに大きな自由がここにあります。

【2020年 6月 28日 主日礼拝説教より】

説教「自由の知識」
      瀬谷 寛 牧師 
       イザヤ書 第44章 9−20節
       コリントの信徒への手紙一 第8章 1−6節

 この手紙を、少しずつ読み進めながら、今日から第8章に入ります。前回までの第7章には、結婚のことについて、随分事細かに書かれていました。第8章でいきなり「偶像に供えられた肉について」語られます。唐突に思えますが、おそらく、この手紙の著者パウロに、いくつも質問が寄せられたのでしょう。パウロはそれに、一つ一つ、答えているのだと考えられます。
 当時、コリントの町では、様々な神をまつる祭壇がありました。毎日毎日、この祭壇に多くの生き物が、献げものとして献げられていました。その一部は神殿で仕える者たちが取り、残りの大半は市場に流通していたようです。この、一度偶像に献げられたものは、使徒言行録第15章のエルサレムの使徒会議では、食べてはいけない、と決められていました。けれども、コリントの教会で、そのことについて、論争が起こりました。偶像に供えられた肉を食べたからと言って、何が問題か、我々は知識を持っている自由な人間だから、惑わされずに平気で食べていいのだ、と主張する人たちがいました。
 この知識とは、わたしたちが考える学問的知識ではなく、神秘的な体験を伴う霊的な知識でした。この知識に生きるようになったときにおこるのは、知識を持たない者に対して傲慢になることです。そして、愛を失うのです。
 そこで、もう一度コリントの教会の人々に考えてもらいたいのは「愛は造り上げる」ことだ、というのです。ある人が、崩れそうになっている時、いや、もう崩れてしまっている時に、愛が注がれ、その人が慰められ励まされて、もう一度立ち上がることができる、そのような愛です。
 実は、わたしたちが知るべき知識とは、傲慢になって愛を失ってしまうような知識ではなく、神が、わたしを、造り上げるような愛をもって愛してくださる、そのように神がわたしのことを知っていてくださる、ということを知ることです。神の愛を知ることです。この愛なる神、唯一のイエス・キリストの父なる神を知る信仰に堅く立つ時、偶像に供えられた肉を食べるか、食べないか、という問題も、きちんと解けていきます。

【2020年 6月 21日 主日礼拝説教より】

説教「小さくても大きい」
      宮城学院中高 大久保 直樹 教師 
       創世記 第1章 31節ab
       マルコによる福音書 第10章 13−16節

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創1:31)神によって一人ひとり、皆等しく、「極めて良い者」として創られた、命与えられているのがわたしたちです。そしてその命=わたしたちには一人ひとり使命がある、必ず。前任校の卒業生のご長男は生後間もなく天に召されました。しかし、彼はその命をかけて、お腹に宿った頃から彼の使命(命の尊さと生きる意味を伝えること)を果たしていたのだと思いますし、現在も果たし続けてくれているのだとわたしは信じています。
 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」(マルコ10:13)幼ければ幼いほどただただ親をはじめとする他者に依存するしか生きてゆくことはできない。そこにわたしたちに求められる謙虚さを重ねて見るのです。神の一方的な愛・恵みによって生かされるわたしたちが、ただひたすらに神に感謝し謙虚な心で生きようとするとき、神の国に入れられる、キリストによる平和な世に生きるものとされるのです。抱きかかえられ祝福されるのはわたしたちでもあるのです。ときに自分自身が本当に弱く小さく思うこともあるかもしれません。自分の存在意義が見えず、生きる意味が分からず、自分はなぜ生きているのだろう…などと思い悩み苦しむこともあるでしょう。誰にも頼れず、誰をも信じることもできない、真っ暗な闇の中にいる、…そんなわたしたちを「抱き上げ、手を置いて祝福」してくださるのです。この神の一方的な愛、主イエス・キリストの大いなる恵みの愛を注がれているわたしたち一人ひとりは、尊い存在とされて祝福されているのです。わたしたちはとかく、人間の物差しによって、目に見えるものを比較し、そのことがあたかも人の価値を決めるかのような思いを抱いてしまいます。劣等感から人を羨んだり、逆に優越感を持って人を蔑んだり…。そんなわたしたちのこの世的な価値基準によれば、たとえ小さくて弱い存在であったとしても、実は神の目から見れば、皆等しくとてつもなく大きな存在であり、極めて良い存在・尊ばれている存在なのです。一人ひとり生きる意味があることを心に刻みたいと思います。

【2020年 6月 14日 主日礼拝説教より】

説教「神の霊を受けた者として」
      瀬谷 寛 牧師 
       イザヤ書 第11章 1−5節
       コリントの信徒への手紙一 第7章 36−40節

 わたしたちはどこかで、信仰生活は自然な人間の生活を抑圧・禁止するものである、と考えるところがないでしょうか?自然な生活は信仰に反する、と考えているところがあるのではないでしょうか?
 今日与えられた聖書は、それに関係があるかもしれません。36節のあたりに、ある異性への情熱が強くなり、一緒にいたいと思うなら、結婚しなさい、と、ある意味では極めて当たり前のことをパウロは語っています。このわかりきったことを言わなければならなかったのは、当時のコリントの教会の中に、信仰生活のためには独身であることがいい、と考える人がいたからでしょう。パウロも、そういう考え方であるように見えます。38節には「結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人のほうがもっとよい」と言われています。
 それではやはり、信仰者は、自然の生活を重んじないのでしょうか。そうではないでしょう。創世記の第2章には、男と女がいるのは、神のみ心によっている、ということが記されていました。結婚は自然なこと、赦されていることです。
 39節に、「妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません」とあります。思い起こすのは、ローマの信徒への手紙第7章2節、そこに同じような言葉がありますが、それに続く4節に「あなたがたもキリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり」とあります。つまり、信仰者の生活は、どういう時でも、キリストとの関係が切れないようになっている、というのです。結婚について考えなければならないことは、自然のままに生きるのか、神のみ心と考えて厳しい生き方をするのか、と考える時に大事なことも、「キリストとの関係を切らないようにする」ということです。信仰のある妻は、夫に繋がれ、またキリストに繋がれているのです。結婚してもしなくても、キリストと離れないで生きるようにするのです。
 最後に「わたしも神の霊を受けている」とあります。それは、主イエスとつながっている、ということです。神の霊を受けるために、主イエスを信じて祈り・聖書を読み・教会生活を送る生活になお一層励みたいと思います。

【2020年 6月 7日 主日礼拝説教より】

説教「品位をもって、ひたすらに」
      瀬谷 寛 牧師 
       創世記 第2章 18−25節
       コリントの信徒への手紙一 第7章 25−35節

 今年の三月辺りから、日本中の教会は、新型コロナウイルスの影響で、通常とは違う、集まることを制限した礼拝を、献げなければなりませんでした。わたしたちの教会も例外ではありませんでした。しかし今は、だいぶ通常の状態に近づいています。近隣の教会でも、今日から集まる礼拝を開始するところもあれば、制限をせずにずっと、集まる礼拝を続けていた教会もあります。それぞれの教会に、自由な判断が与えられていた、と言えるのかもしれません。
 コリントの信徒への手紙一第7章、パウロが結婚の問題について、長々と書いています。今日の25節は、どんな思いでパウロが記しているか、現れていると思います。「未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより、信任を得ている者として、意見を述べます」。結婚をしてはならない、それが唯一の答えだ、という仕方で語っているのではない、ということです。主なる神から信任を受け、使徒として立てられた者としての意見を言う、というわけです。つまり、ここにも、自由が尊重されています。
 今日のところは、これまでパウロが語ってきた、結婚は、なるべくならしないほうがいいでしょう、という意見が強く繰り返されていると思える反面、これまで語ってこなかった新しいことが語られています。それは、26節の「今危機が迫っている状態」、あるいは29節の「定められた時は迫っています」という言葉です。随分厳しい切迫感があります。世の終わりが迫っている、結婚どころではないだろう、とパウロは言います。
 この頃のパウロたちは、世の終わりが近いことを、とても切実に感じ取っていた、と説明されます。しかし、今日のわたしたちは、それとは状況が違う、と簡単に言っていいのかと思います。終末信仰、世の終わりに、主イエスが来られることに備える緊張の姿勢を忘れていたのでは、信仰の大事な所が失われます。
 大事なことは、キリストのために、キリストの奴隷として一筋に仕えることです。そのために結婚してはならない、と縛るのではなくて、35節「品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせる」ことが大切だ、と言います。与えられた自由の中で、終末に向けて、折り目正しく主に仕える生活を送りたいと思います。

【2020年 5月 31日 聖霊降臨主日 礼拝説教より】

説教「一つに集まる所に吹く風」
      瀬谷 寛 牧師 
       サムエル記上 第7章 2−6節
       使徒言行録 第2章 1−13節

 本日は、聖霊降臨主日(ペンテコステ)の礼拝です。イースター、クリスマスと並んで、教会にとっては大きな祝いの日です。そしてこの礼拝に合わせて、受洗者が与えられました。イースターやクリスマスに比べ、ペンテコステを目指して受洗する、という人は珍しいと思うかもしれません。けれども、ペンテコステは、洗礼を受けるのに、実にふさわしいときです。
 洗礼とは、「これからわたしは、主イエスをわたしの主、救い主として、信じて受け入れて生きていきます」という信仰を表明し、告白する者に授けられます。今から二千年前の、パレスティナ地方で働きをなしたイエス、という方を、わたしの罪を赦してくださった救い主と告白する、という出来事は、誰にでも起こるわけではなく、聖霊によって与えられなければ、起こることはありません。聖霊が降って、わたしたちが信じることが可能となりました。聖霊が働くところにこそ、信仰が生まれます。それを覚えるのが、このペンテコステです。ですから、信仰が生まれたことを、ペンテコステに覚えるのは、実にふさわしいのです。
 けれども、この主イエスを信じる信仰を与える聖霊は、今日のわたしたちに先立って、降ってきました。それが今日読んだ聖書に記されていることです。
 主イエスの十字架と復活の後に、弟子たちは方向を見失っていました。ただ彼らは、日毎に神殿に集まって祈りをしていました。そしてある日、いつものように弟子たちが祈りをしているところに、激しい風が吹いて、炎のような霊が彼らの上に望んだ、といいます。そこから、神の言葉が広がり、教会が生まれました。聖霊降臨は、教会の誕生日だ、と言われます。聖霊は、その働きは、いろいろと多様であるように思われますが、聖霊は何よりも、教会を生み出します。
 この聖霊が降ったのは、「一同が一つになって集まっている」ところでした。これは、同じ場所に集まる、という、新約聖書の中で、「教会」を特徴づける言葉です。同じ場所で集まり、そこで祈り、そこで神の言葉を聴く、まさにそこに、神御自身の霊である聖霊、すなわち神御自身が訪れてくださいます。今、わたしたちが一つに集まっているこの教会に聖霊が降っています。信仰を与える聖霊は、この教会に、この礼拝に働く聖霊から、一人ひとりに分け与えられています。

【2020年 5月 24日 主日礼拝説教より】

説教「自己受容」
      瀬谷 寛 牧師 
       創世記 第17章 9−14節
       コリントの信徒への手紙一 第7章 17−24節

 今日の聖書の言葉の中には、「召された」という言葉がたくさん出てきます。聖書の中で、救いに関わる最も重要な言葉の一つです。召される、というのは、神がお呼びになる、ということです。わたしたちが今、この礼拝に集まっているのも、神が召してくださったからです。わたしたちが洗礼を受けるのも、神が召してくださったから、呼んでくださったからです。
 神は、わたしたちを召して、お呼びになって、どうされるかというと、ご自分のものとされます。神に属するものとされます。ある教会に属する若い女性が、結婚が定まった時に、「わたしを必要とする人が現れたので結婚する」と言ったそうです。ある意味でこの女性は、その人に召された、と言えるかもしれませんが、さらに、神が必要としてくださると信じて結婚することを決めた、ということでしょう。神が必要としてくださる人、その意味で神のものとされた人は、わたしたちの営むどんな小さな貧しい業も、神が、それをなすようにとお求めになっておられる、と考え、神のものとされた者としてその求めに応えようとします。
 ここでは、教会の中でイスラエルの民にとってはとても大切なしるしである割礼を受けるか受けないかということ、そして、奴隷であるか、奴隷ではない自由人であるかということが、問題となっていたことが伺われます。しかし、大切なのは、神のものとされたこと、神に属する者とされたことです。そしてそれにふさわしく、神の掟を守ること、神の言葉を守ること、神が示された愛に生きることです。なぜ、そういう事ができるのでしょうか23節「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません」。わたしたちは、罪の奴隷から、神によって、イエス・キリストの十字架の死、という身代金を支払われて、買い取られて自由になった存在です。神のもの、神に属するものとされました。他の物に奴隷のように縛られることはないのです。
 わたしたちは、自分のいろいろなことが気になります。けれども、キリストの奴隷になったわたしたちは、何も気になるものがなくなります。わたしたちはもう、神の前に認められ、神に受け入れられているのです。だから、わたしたちは、自分自身をそのまま受け入れたらよいのです。そこから始めることができます。

【2020年 5月 17日 主日礼拝説教より】

説教「確かな慰めと支え」
      東北学院中学校・高等学校 宗教主任 松井浩樹 
       民数記 第17章 6−15節
       ヨハネによる福音書 第11章 1−16節

 コロナ騒動が長引いており、今後も素晴らしい未来を描くことが難しい状況が続いております。こういう状況において、聖書の代表的な考え方が、「現代社会への警告」です。「民数記」で言うならば「神への不信仰、神への不従順に対する警告」との理解です。それをベースにして、神が私達に「悔い改め」を求めておられる、そこで時の指導者が、神と共に前を向いて生きることを促すのです。
 ヨハネ福音書に記されている「この病気は死で終わるものではない」は、「ウイルスは恐れる必要がない」ということを言いたいのではありません。このキリストの言葉は後の11節の言葉につながります。「私の友ラザロは眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。だから「この病気は死で終わるものではない」とつながるのです。しかしながら、今日のこのラザロの復活物語の結論はそうではありません。今日の後の53節にその結論が語られています。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。そして実際に、主イエスは十字架で殺されます。ラザロも死を経験しました。後の記述によると、ラザロは四日もの間、死者の住む世界とされる陰府に下りました。そのラザロさえも、主イエスは涙を流されるまでに激しく興奮し、生き返らせるお方だったのです。今を生きている私達は、なおのことキリストは激しく、気に留めておられるに違いないのです。
 今日の礼拝で、もっとも大事なことはイエス・キリストが、私たちのすべての重荷を背負い十字架で犠牲となられ、そして復活して今も私達と共に今を生きておられる、そこに集中することです。そのことをこの自分が、この教会が感じること、身に受けていると思うならば、すべてをご存知であられるキリストが、そっと私達に触れられている現実を、確かに知るのです。そこに厳しい状況でも少し身動きが取れ、そこから自己相対化が促され、多角的な御心にかなう判断が促されていくのです。気がつくと私達は、一歩と言えなくとも、いつのまにか半歩は前に向けて、歩み始めているはずです。だから、「私達の病気は死で終わるものではない」し、肉体の死を超えた生きる上での「確かな慰めと支え」を覚えて、この時を気をつけて、ご一緒に過ごしてまいりたいと願います。

【2020年 5月 10日 主日礼拝説教より】

説教「平和に生きるために召され」
      瀬谷 寛 牧師 
       マラキ書 第2章 13−16節
       コリントの信徒への手紙一 第7章 8−16節

 新型コロナウイルスがわたしたちにもたらした一つのことは、わたしたちの具体的な生活に変化を強いた、ということでしょう。実際に、文字通りそうできるかはともかく、外出自粛、人との接触を八割削減せよ、などと言われています。
 コリントの信徒への手紙一第七章に入って、この章は終わりまで一貫して、わたしたちの具体的な結婚生活について記しています。パウロがはっきり打ち出している一つの線は、「できれば皆わたしのように独り(独身)でいるのがよいでしょう」というものです。しかし、始めから独身でなくてはならない、結婚することは間違っている、という考え方はしていません。聖書に残されているパウロの言葉は、「こうしなければならない」と規則を並べ立てているわけではありません。具体的な場面においては、わたしたちは、その都度、判断しなければなりません。パウロの言葉は、その判断の参考として聴くべきなのです。
 ここで、おや、と思うのは、10節に「更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です」という言葉が記されていたのに、15節では「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません」とあることです。主イエスは、離婚を禁止していると考えられる言葉を残しています。しかしここでは、離婚を認めているかのようです。
 大事な言葉は、「結婚に縛られてはいません」という言葉です。結婚生活において、あなたがたは自由な決断ができるはずだ、と言っています。
 またもう一つ大切な言葉は、「平和な生活を送るようにと神はあなたがたを召された」という言葉です。この平和は、例えば、もともと未信者の夫婦の一人が神に呼ばれ、神を信じたことで、平和が乱れてしまう、というような平和ではないでしょう。むしろ、神に召していただくことによって始めて、平和の中にいることが確保される、そのような平和です。これに16節で「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、…」と続きます。夫婦で自分だけが信仰を持っていても、相手を伝道しなければ、と勢い込むことはありません。神が平和を与えてくださる、この神のことを忘れずに、信頼すればよいのです。

【2020年 5月 3日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスに倣って歩む群れ」
      瀬谷 寛 牧師 
       ホセア書 第6章 1−6節
       フィリピの信徒への手紙 第3章 17−21節

 本日の礼拝は、今年の5月1日で、この仙台東一番丁教会の創立から139年が経った、その記念の礼拝です。新潟からやってきた、初代牧師である押川方義先生と二代目の牧師に位置づけられている吉田亀太郎先生によって、仙台での伝道がはじめられ、最初の二人の受洗者が与えられたのが、今から139年前の5月1日、この日をかつての仙台東一番丁教会、「仙台教会」誕生の日としたのです。
 創立記念礼拝は、本来は祝いの時です。けれども今は、新型コロナウイルスの対応のために、教会堂で、皆で喜びを分かち合うことはできません。しかし、そのことを嘆いていても仕方ありません。これもまた、神がわたしたちに与えられた試練であり、もっと大きな喜びへの招きであるかもしれません。
 この教会は、約140年の間に、約2,900名の者たちを教会員として迎え入れました。初期の教会では、一年に150人もの洗礼者を生み出したこともありました。この旺盛な伝道力が、わたしたちの教会の特徴と言えるでしょう。その旺盛な伝道力は、一体何に根ざすものなのでしょうか。
 かつて当教会で仕えておられた、鈴木廣徳牧師の「昨日と明日の間にある教会―仙台東一番丁教会史の視座」という文章は、そのことを考察しています。一つは、初代牧師、押川方義が1872年に洗礼を授けられた時の宣教師バラ、ブラウンという人たちの教会史背景をなす、改革派教会の信仰の特質を教えられたこと、を挙げています。もう一つは、しかしそれが、狭い排他的分派の信仰ではなく、この日本と世界を愛する主イエスというお方との出会いを重んじる信仰を受け止め、キリストに愛され・生かされ、聖霊に満たされた愛の人の感化力を伝道に生かしたと指摘します。
 今日与えられた手紙を書いた使徒パウロは、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と述べました。これは決して、自分を誇る言葉ではなく、わたしがキリストに倣っている、そのわたしに倣いなさい、ということを意味しています。かつての仙台教会、仙台東一番丁教会には、このキリストに倣う信仰者がおり、彼らが「わたしに倣う者になりなさい」と言い続け、洗礼を受ける者たちが次々と生み出されました。その連鎖が、今でも続けられるようにしたいです。

【2020年 4月 26日 主日礼拝説教より】

説教「信じる者は個性豊か」
      瀬谷 寛 牧師 
       創世記 第2章 18−25節
       コリントの信徒への手紙一 第7章 1−7節

 新型コロナウイルスの感染者増加の勢いが止まりません。いろいろなことを考えて、長老会は4月26日、5月3日の2週にわたり、教会員・求道者が教会堂に集まってする礼拝を休止する決断をしました。本当に苦しい決断でした。しかし、仙台東一番丁教会の礼拝は止めません。ごく少人数での礼拝を続け、幸いにその礼拝をYouTubeのライブ配信で見ていただくことができます。多くの方に、利用してほしいと思います。しかし、すべての方が見られるわけではありません。言うまでもなく、やはり礼拝は皆で集まってするものです。ライブ配信はあくまで緊急事態、異常事態の措置、とご理解ください。
 その決定と並行するように、教会員の皆さんに小さなおハガキでみことばのメッセージを送らせていただきました。ローマ8章39節「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。コロナウイルスが、顔を合わせて礼拝に集まろうとするわたしたちを引き離そうとしても、どんな被造物も、主キリスト・イエスによって示された神とわたしたちの愛の絆を引き離すことはできないことを信じたい。
 本日のコリントの信徒へ手紙のパウロの言葉は、愛の交わり、絆の基本とも言える結婚について語っているところです。7節前半「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」。明らかに、独身を勧めているように読めます。が、すぐに続いて「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」とあります。結婚したい者はしたらいい、と言います。
 大事なことは、結婚しようがしまいが、みだらな行いなど、不品行というサタンに脅かされず、罪、というサタンに惑わされず、自分ではなく神の力・主イエスの力によって戦い、神に従い、仕えぬけるかどうか、ということ、真実な愛の絆を保てるかどうか、ということなのではないでしょうか。
 わたしたちの今の、ウイルスに翻弄されているこのような状況の中で、なお、神に従い、仕えぬけるか、祈りが問われています。十字架に死に、復活してくださった主イエスをお迎えし、祈りつつ、その主イエスの力によって、真実な愛の絆によって、この難局を共に乗り越えてまいりたいと思います。

【2020年 4月 19日 主日礼拝説教より】

説教「パウロのイースター」
      宮城学院学院長 嶋田 順好 教師 
       ヨブ記 第19章 25−27節
       使徒言行録 第9章 1−19節 前半

 サウロはダマスコまでキリスト者討伐の旅に赴きます。その途中、彼は「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける復活の主の声を耳にします。そこで明らかになったことは、サウロがあれほど熱心にお仕えしようとしていたイスラエルの神が、またイエスという名を持つお方だという驚くべき事実でした。言い換えれば神の敵を征伐していると思い込んでいたサウロが、反対に神に敵対していたことが明らかとされる出来事でもありました。この時のサウロの驚愕、恐れ、絶望はいかばかりであったことでしょう。
 しかし、盲目となった無力のサウロに、復活の主は一切の咎めだてをせず、新しい使命を与えるべく「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と告げます。サウロは三日間断食してひたすら祈り続けます。彼の脳裏にはずっと「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」とのみ言葉がこだましていたことでしょう。彼は十字架の主のみ前にひれふし、自らの犯した罪に悔いくずおれつつ、復活の主を仰ぎ見続けていたに違いありません。
 一方、サウロによる迫害に慄いていたダマスコのキリスト者アナニアにも、復活の主は現れ、ユダの家にいるサウロを訪ねよと命じます。あろうことか迫害者のもとに赴けとの俄かには信じがたい告知でした。この危険極まりない使命を引き受けることにためらいを覚えるアナニア。その逡巡を打ち消すように復活の主は「行け」と激しく迫ります。ついにこの主の命令に従いアナニアはユダの家に赴きます。勇気をもって信仰の冒険に踏み出すのです。
 ユダの家を訪れたアナニアが、開口一番語った言葉は「兄弟サウル」という呼びかけでした。「兄弟!!」、その一言が発せられることによって、最早サウロの過去全体がなきものにされます。それは紛れもなく赦しの言葉、愛の言葉、キリストの体なる教会への招きの言葉でした。思い起こしてみてください。私たちが信仰へ導かれた時のことを。確かに私にとってのアナニアと呼べる兄弟姉妹がいたのではないでしょうか。そうであれば私たちの周りにもアナニアを必要とする人々がいることを覚え、私たちもまた信仰の勇気をもってその人々のもとに「兄弟サウル」との喜びの音信を携えて赴く者にならせて頂こうではありませんか。

【2020年 4月 12日 主日礼拝説教より】

説教「主の復活の出来事の前で」
      瀬谷 寛 牧師 
       詩編 第16篇 10−11節
       マタイによる福音書 第28章 1−15節

 「主は甦られた。本当に甦られた」。イースター、おめでとうございます。本日は主イエスが本当に甦られたことを、共に、心から喜び礼拝する日です。
 先ほど、洗礼式・信仰告白式を行いました。洗礼、そして信仰告白の出来事は、主イエスが復活されたこと、本当にお甦りになられたことを、まさに、わたしたちの目の前で明らかにされる出来事であると思います。主イエスが本当にご復活なさらなかったならば、洗礼も、信仰告白もなかったでしょう。今日読んだ少し先のところで、復活された主イエスは「あなたがたは言って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさい、とおっしゃいました。わたしたちが今洗礼を授けるのは、復活の主イエスのご命令によるのです。復活され、今生きて働いておられるからなのです。
 けれども、ご復活の主イエスに最初に出会った人々は、「死んだら終わりだ」という思いにとらえられていました。しかも主イエスがお甦りになられたあとも、あまり変わらなかったようです。弟子たちは、望みなく、甦りを信じ得ないままに、暗い思いで故郷に帰っていきました。
 その思いは、主イエスの墓を訪ねた二人のマリアにおいても同じでした。彼女たちは、すでに死んでしまった主イエスを訪ねて墓に行きました。深い嘆き悲しみの中で墓を見つめていたこの女性たちの前で、大地震が起こり、墓を塞いでいる石が脇に転がりました。そして天使は告げます。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない」。あの方、主イエスはここ、墓の中にはおられない、それが復活です。
 すべてのものをとらえているのは死の力です。死んだらもう終わり。今日のわたしたちも、この力にとらえられようとしています。死の前に立つのは恐ろしいことです。けれどもこの時の婦人たちは、ただ恐れたのではなく「恐れながらも大いに喜び」ました。墓を空になさる方が「恐れるな」と語りかけ、「おはよう」と訳されている元の言葉である「喜びなさい」と語りかけてくださる方があるからです。死はもう終わりではありません。主イエスがご復活されたように、わたしたちも復活して、もう一度、新しく生まれ変わって、生きることができます。

【2020年 4月 5日 主日礼拝説教より】

説教「主がお入り用なのです」
      瀬谷 寛 牧師 
       ゼカリヤ書 第9章 9−10節
       マタイによる福音書 第21章 1−11節

 本日は、棕櫚の主日、と呼ばれています。来週迎える復活主日、イースターに備え、主イエスのエルサレム入城の場面をご一緒に味わいたいと思います。主イエスはいよいよイスラエルの都、エルサレムにお入りになられます。当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。これまでも、支配者、王と呼ばれるような者がエルサレムに入ってきたことがありましたが、皆ローマ人でした。イスラエル人たちは、自分たちを解放する王がいつか来る、と待ち望んでいました。
 主イエスはエルサレムにお入りになる時に、二人の弟子たちを遣わされました。そして向こうの村へ行くように、するとすぐ、ろばの子がつないであるのを見つける、それをほどいてわたしのところに引いて来るように、そしてもしだれかが何か言ったら、「主がお入り用なのです」と言うように、と主イエスは命令なさり、それはすぐ実行されました。
 これからいよいよ、主イエスの大事業が始まります。人々を救う、王が王であることを貫かれます。その時に、間違った支配者と戦わなければなりません。しかし、その戦いに選ばれたのは、たくましい馬ではありませんでした。武具を備えた軍勢でもありませんでした。なんと、ただでさえ小さなろばの、しかも子どもでした。大の大人が乗るのは、こっけいな姿です。主イエスがそれをなされたのは、低くなることを弟子たちに教えるためでした。本当の支配者は、人に仕える者なのだ、と。そして、わたしたちと同じ貧しい者と同じものになられるためでもありました。そして弟子たちが、命じられたとおりに、ろばと子ろばを引いてくると、その上に主イエスがお乗りになり、人々は自分の服を道に敷き、また木の枝(「棕櫚」と訳される箇所がある)を切って、道に敷きました。そして群衆は「ホサナ」と讃美し、迎え入れました。
 釈然としないのは、ここに喜んで迎え入れた群衆が、数日後に同じ口で、主イエスを「十字架につけよ」と叫んだ、ということです。愚かに映ります。けれども、主イエスはこの群衆たちが愚かな存在であることをご存知でした。そしてわたしたちもこの愚かなことをしてしまう存在です。にもかかわらず、主イエスはその讃美を受け入れてくださいます。ろばの貧しさを受け入れ、用いられます。

【2020年 3月 29日 主日礼拝説教より】

説教「何にも支配されないで」
      瀬谷 寛 牧師 
       コリントの信徒への手紙一 第6章 12−20節

 「わたしには、すべてのことが許されている」。12節に二度繰り返されている言葉は、今わたしたちの手にしている聖書『新共同訳』では、引用文を示すカギ括弧(「」)でくくられています。コリント教会の人々が自分を正当化するためによく用いていた言葉であった、と解釈されます。けれどもかつての聖書『口語訳』ではカギ括弧がありませんでした。パウロ自身も、キリスト者は、すべてのことが許される自由を持つ、ということを知っていたと理解したからだと思います。
 これに続く言葉は、一度目の方はわかりやすいです。「『すべてのことが許されている』。しかし、すべてのことが益になるわけではない」。何でもできるけれど、利益にならないこともあるから、それはしないほうがいい、ということです。
 あとの方は、少しわかりにくいかもしれません。「『すべてのことが許されている』。しかしわたしは何事にも支配されはしない」。これは、何をするにも許されているだろうけれども、そのおかげでなにか別のものに支配されるようなことはしないほうがいい、ということでしょう。いったい、利益にならないような支配を受けるな、というのは、どういうことでしょうか。
 その後の13節の言葉、「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり」はまず、わたしたちが毎日、食物を摂って生きる、そのために腹はある、ということでしょう。では、その食物に生かされる体は、何のためにあるのかといえば、「主のためにある」と言います。わたしたちが体を持った存在として生きていくときには、地上に生きる人々と体をもって関わりを持ちますが、主イエスとの関わりにおいても、体を持つことを忘れてわならない、というのです。その体は、やがて甦る霊の体、と呼びうるものです。主イエスは、体を持ってお甦りになられました。体は大事なのです。19節にも「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや、自分自身のものではない」とまで言っています。体のすべてが主イエスのものになっています。その体を、神の栄光以外の罪に支配されることは、間違っています。「すべてのことが許されている」から、罪を犯しても構わない、というわけにはいかないのです。

【2020年 3月 22日 主日礼拝説教より】

説教「神の国を受け継ぐには」
      瀬谷 寛 牧師 
       ダニエル書 第7章 15−22節
       コリントの信徒への手紙一 第6章 1−11節

 前回までの第5章に引き続いて、今日から第6章に入りました。第5章でパウロは12節「外部の人々を裁くことはわたしの務めでしょうか」と言い、わたしが裁くのは、教会の中の人々の罪だ、と言っていました。
 ところが第6章に入ると、「聖なる者たちが世を裁く…世があなたがたによって裁かれるはず」と語ります。これは矛盾でしょうか?
 数回前の第5章の説教題を、「いつも新しくあるために」と付けました。それはここでも当てはまります。コリントの教会で次々と問題が起こるのは、コリントの教会が古くなってきたからです。新しい集団のでき始めは、お互い仲良くなりますが、古くなると争いが生まれ、悩みが生じます。ここでは、一人が仲間と争い、それを教会内ではなく、教会の外のこの世の裁判所に問題を持ち出した、というのです。パウロはそこで、「わたしたちは天使たちさえも裁く」力があるではないか、と問いかけます。
 この言葉を、キリスト者は裁判所に訴えてはならない、と一般的原則と考えるならば、それは誤解です。教会だけは世の権力の外で、裁く権利がある、と考えると、傲慢な主張となります。
 ここで具体的にどういうことが争われていたのかはよくわかりませんが、一つはっきりしていることは、「不義を甘んじて受けな」かったということです。相手のやっていることを不当と思っても甘んじて受けず主張していた、ということです。自分が正しく相手が間違っていると考えときには、わたしたちも争います。パウロはそこで、なぜ奪われるままでいないのか、あなたがたは不義を甘んじて受けるところに立たされたのではなかったか、と問うています。それは神の義に生きる生活です。主イエスが十字架の上で、率先して示してくださった姿勢です。
 ですから、聖なる者たちが世を裁く、と言った時に、この不義を甘んじて受ける生活をする、その事自体が、争いに明け暮れている世に対する、一つの裁きとなるのです。そのようにしてあなたがたは神の国、神のご支配を受け継ぎ、その恵みの宝を受け継いで生きるのではないか、とパウロはコリントの教会の人々に問いかけるのです。神との正しい関わりに生きる者の生活がここにあります。

【2020年 3月 15日 主日礼拝説教より】

説教「信仰の訓練」
      瀬谷 寛 牧師 
       レビ記 第20章 22−26節
       コリントの信徒への手紙一 第5章 9−13節

 本日、この礼拝終了後、2020年度第一次定期教会総会を開催いたします。この教会総会は、みなさんにとって、ある意味で、最も大切なことを決める総会、と言って良いと思います。長老を選出する教会総会だからです。長老教会を目指しているこの教会は、基本的に長老が教会の責任を負っています。けれども、長老以外の教会員は、その長老を選出する、という仕方で教会の責任を負うのです。この教会が、どのような教会として、何を目指して進んでいくのか、教会員の方はぜひ、教会総会に出席して、その意志を表していただきたいと思います。
 ところで、今日の聖書のところでパウロは、かつて自分がこのコリントの教会に「みだらな者と交際してはいけない」と書き送った手紙を誤解して受け止めている者がいる、と感じていました。そして、その本当に意図するところは、「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者…とつきあうな」ということだ、と説明し直しています。つまり、教会の仲間の中で、罪を犯した者がいたら、その人とはつきあうな、ということだというのです。つまりパウロは、教会の中の者は、すべての罪から遠ざかりなさい、と教えています。けれども正直なところ、教会の中のわたしたちでも、それは随分厳しい要求だ、と思うに違いありません。
 確かにパウロは、教会と世間の区別を語っています。「外部の人々」「内部の人々」という言葉遣いもあります。外部の人々を裁くのは、我々のすることではない、内部の人々をこそ裁くのだ、と語られています。教会の中は、やはり厳しい生活の基準を求められる、ということなのでしょうか。
 前回の8節で、主イエスがわたしたちの過越の小羊の犠牲となって死んでくださったのだから、わたしたち教会もまた、過越祭を祝おう、と言っていました。小羊の命がイスラエルの民を奴隷から救ったように、十字架の主イエスがわたしたち教会を罪の奴隷から救い出してくださった、それを祝おう、というのです。
 つまりパウロは、この主イエスの罪の赦しの恵みを知っているかいないか、それが教会の内部と外部の根本的な違いだ、といいます。パウロが教会の中の罪を厳しく指摘しているのは、教会が主イエスの十字架の罪の赦しの恵みに真剣に生きていると考えるからです。わたしたちの教会もそのように訓練されたいです。

【2020年 3月 8日 主日礼拝説教より】

説教「いつも新しくあるために」
      瀬谷 寛 牧師 
       出エジプト記 第12章 1−20節
       コリントの信徒への手紙一 第5章 1−8節

 2019年度の終わりを迎えています。新しい2020年度に、この教会で新しくなる一つのことは、同じ地区の岩沼教会の牧師が辞任し、わたしがその代務者に決まったことから、わたしが月に一度、岩沼教会に出かけることとなり、仙台東一番丁教会に、別の説教者をお願いしなければならなくなった、ということです。
 どこの教会でも問題を抱えます。今日の聖書で言えば、2節の「高ぶり」があり、そこから教会内の意見がぶつかり、分かれてしまうことがあります。
 6節でパウロは「わずかなパン種が練り粉全体をふくらませることを、知らないのですか」と語ります。教会の中における罪の問題を、パンとパン種にたとえています。ごくわずかなものが、全体に影響を及ぼして全体を腐敗させる、ということを言おうとしています。それゆえ、「古いパン種をきれいに取り除きなさい」と7節で言っています。
 聖書でパン種が悪い意味で用いられているのは、過越祭の出来事と関係します。過越の小羊は、先立って殺されて、人々が食べて、血を、自分たちの家の門に塗りました。それによってイスラエルの民が、エジプトの奴隷状態から逃げ出すための神の保護をえることができたのです。その時にもう一つ、パン種を入れないパンを食べて出て行きました。急いで脱出しなければならず、グズグズできなかったからです。やがてパン種を除き去ることに神経が集中されるようになり、パン種を悪いものとして除き去る感覚が生まれました。
 けれどもパウロは、パン種を除き去るように、罪を犯した人を教会から除き去ろうとしているのではありません。7節後半に「あなたがたはパン種の入っていない者なのです」といい、7節前半で「パン種を取り除きなさい」と言いました。教会は、既にパン種のない清いものとされている、だからそれにふさわしく整えなさい、といいまず。なぜなら、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたから」です。キリストの十字架の死は、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されるために犠牲となって殺された小羊と同様、罪を犯して死ぬべきわたしたちに代わってなされた犠牲の死でした。わたしたちは、このキリストのおかげで、清い者とされています。その恵みを無にしないように歩みたいです。

【2020年 3月 1日 主日礼拝説教より】

説教「滅びと救い」
      瀬谷 寛 牧師 
       箴言 第23章 13−14節
       コリントの信徒への手紙一 第5章 1−5節

 テレビや新聞は、わたしたちを不安にさせる新型コロナウイルスの情報ばかりです。そのような中で、人が集まり、礼拝を献げています。これはすごいことだと、讃美歌を歌いながら改めて思いました。こんなに不安な中にあってわたしたちは、「静かな喜び 声合わせ歌おう」と歌いました。このように礼拝を献げるのは、主イエスがご復活されたからです。それを喜んでいるからです。
 けれども、今日与えられた一コリ5:1以下の言葉は、実はわたしたちを喜ばせるように思えないものかもしれません。ここでは、教会の中のある人が父の妻をわがものにしているという、異邦人(=信仰を持っていない人)の間にもないほどのみだらな行いがあった、といいます。パウロは伝道者として、はっきりこのみだらな行いを指摘しました。しかしそれは、罪を犯している人を批判するためではなく、コリント教会のすべての人々に対して、自分たちの中でこのような罪が行われているのに、あなたがたは高ぶっている、と批判するためです。みだらな行いがあるのに、問題にせず、見て見ぬ振りをしている、というのです。
 こういう高ぶりは、わたしたちの中にもあるかもしれません。自分の罪を指摘された時に、腹を立て、反発・弁明し、言い訳をするのは、この高ぶりの思いが働いていると言えるでしょう。高ぶりに捕らえられると、人は悔い改めを失います。自分の罪を悔い改めることができなくなり、悔い改めた人を許して迎え入れることもできなくなります。そこでは罪は、内密のうちに切り捨てられるか、見て見ぬ振りをされるか、あるいはひたすら避難し合う対立を生みます。
 パウロはこの罪を犯した者を、「主イエスの名により、…その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」と言いました。具体的には、教会の交わりから除外する「戒規」のことを言っているのかもしれません。けれどもそれは「主の日に彼の霊が救われるため」だ、と言います。それは最終的に彼が悔い改めて救いに与る者となる、ということです。教会の交わりを除外する戒規は、悔い改めを促すためになされることです。すぐに効果が出ないかもしれませんが、最終的にその人が悔い改めて主イエスの救いに入れられる希望を、パウロは抱いています。
 教会は、悔い改めて、主イエスの十字架の救いに生きる人々の群れです。

【2020年 2月 23日 主日礼拝説教より】

説教「神の国、言葉ではなく力」
      瀬谷 寛 牧師 
       詩編 第62篇 1−13節
       コリントの信徒への手紙一 第4章 14−21節

 礼拝の説教は、学校の講義とは違って、語られた内容を覚えていなければならないものではなりません。目的が違います。講義ならば記憶して知識を得ることが目的です。しかし説教は、それが語られる礼拝において、主イエスと出会うことが目的です。神の救いの恵みにあずかる体験ができればいいので、覚えているかどうかは問題ではありません。
 今日も主イエスと出会うことを願っていますが、そのために、たとえば今日の箇所で一つ立ち止まるのは、16節「そこであなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」という言葉です。ここに一つの鍵があります。それに続く17節ではパウロが、自分がどんな生き方をしているのか、語ってもらうために協力者テモテをコリントの教会に派遣したことが記されています。
 パウロはこれまで、コリントの教会の人たちに、随分激しい言葉を語って来ましたが、それは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、あなたがたを愛する子どもとして諭すためだ、といいます。これまでもたとえば、パウロは、自分は神の家、教会の管理人、と言っていましたが、実はこの管理人は父親でもあった、ともう一度説明し直しています。あなたがたは自分の言葉を聞いて信頼して、受け入れて、父なる神の子になったが、それは親と子の間にあるような深い信頼・愛の関係があった、その愛を込めて、あなたがたに勧める、と言います。
 そこでパウロが語った「わたしに倣う者になりなさい」というのは、あなたはわたしの子だから、父であるわたしにならってほしい、ということです。今日、父権の権威の喪失によって、父親がそう言えないことが問題かもしれません。しかしここでパウロが言っているのは、先の10節の愚か者、弱い者、侮辱されている者であるわたしに倣え、ということです。ただひたすら主イエスの力により頼み、世間から愚か者と侮辱を受けても主イエスにつながり続ける姿です。
 「神の国は言葉ではなく力にある」という20節の言葉は、キリストの十字架における神の力によってこそ、わたしたちは本当に力を発揮し、本当に新しい現実を生み出すことができる、ということでしょう。神の国、神のご支配、その力は、人間の知恵の言葉でなく、十字架の言葉にこそあります。

【2020年 2月 16日 主日礼拝説教より】

説教「キリストのために愚か者に」
      瀬谷 寛 牧師 
       哀歌 第3章 43−57節
       コリントの信徒への手紙一 第4章6−13節

 2 月 23 日、「求道者お茶の会」を催します。このお茶の会では、その求道者の方に、信仰のこと、教会のこと、礼拝のことなど、自由に何でも聞いて良い時として準備します。今のところ、十数名の求道者の方が、この会に参加予定です。
 今日の説教題を「キリストのために愚か者に」としました。10 節の言葉からつけました。パウロは、信仰とはキリストのために愚か者になることだ、と言います。そう聞くと、お茶の会に出ようとしている求道者の方は、驚くかもしれません。自分が何もわからないながらも礼拝に出席しているのは、少しでも信仰において賢くなりたいと考えているからだ、という方もあるでしょう。あるいは、信仰者になることは、立派な人間になることだ、と考えているかもしれません。けれどもパウロは確かに、信仰とはキリストのために愚か者になること、と言います。どういうことでしょうか。
 コリントの教会の人々が陥っている信仰的な間違いを、パウロは、あなたがたは高ぶりに陥っている、それは、神からいただいたものを、神からいただかなかったような顔をしているからだ、と指摘します。信仰者になったことで、自分たちが偉く、立派になったように思っているのではないか、と指摘します。
 けれどもパウロは、信仰者としての本当の姿は、「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返す」姿ではないか、と言います。まさに、主イエスご自身のお姿です。
 信仰とは、賢い者、強い者、人々から尊敬される者となることではありません。主イエスを信じる時、わたしたちは賢い者ではなく愚か者になります。自分の知恵や力にではなく、ひたすら主イエスにより頼んで生きます。それは決して格好の良いものではなく、弱いもの、軽蔑すべきものと見られます。主イエスが十字架で死んでくださったのは、自分の知恵・力では正しく生きられない、罪と汚れに満ちた、愚か者のわたしたちの罪を背負って、わたしたちに代わって死んでくださった、ということです。わたしたちはこの主イエスにつながる時、高ぶりから解放され、主イエスに支えられて生きる愚か者として生きることができます。

【2020年 2月 9日 主日礼拝説教より】

説教「高ぶりを捨てて」
      瀬谷 寛 牧師 
       創世記 第1章 1−19節
       コリントの信徒への手紙一 第4章6−13節

 教会に仕える伝道者パウロは大胆にも、コリントの教会の人々に向かって、「あなたがたは王様、わたしたちは死刑囚」と言っています。とても痛烈な皮肉、批判、と読むこともできます。パウロは、このような言葉が、コリントの教会に人々にとって、聞きにくい言葉である、と当然考えたでしょう。ですから、少し先の14節のような言葉が置かれています。「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」。
 親は、子どもに、きちんというべきことを言わなければなりません。パウロはここで、コリントの教会の人をまさに子供のように愛するがゆえに、生かすために、言わなければならないことは言わなければならない、と考えています。
 ここで繰り返されている言葉のひとつは、「高ぶる」ということです。傲慢になることです。その姿を、大金持ち、または王に例えています。あなたがたはまるで大金持ち、王のように振る舞っている、といいます。
 大金持ち、王様は、自分のものをすべて自分で獲得したものであり、自分で自由にできる、と考えています。しかしそれらは神からいただいたもののはずです。
 パウロはしかし、8節後半で面白いことをいいます。「実際、王様になっていてくれたらと思います」。本当の意味において、王として自由に生きることができるはずだ、しかしあなたがたは、そのような王になりきれていない、と言います。3章21節の「すべてはあなたがたのもの」という言葉の意味を思い起こします。
 それに対して、わたしたち伝道者は死刑囚だ、と言いました。古代の見せ物で、最後に死刑囚を引き出して、人々に見せながら、獣の餌としたりします。そのような辱めを受ける、といいます。あるいは、11節に「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せるところもなく」とあります。パウロは、自分がこのように見せ物となっているのは、神が自分にそうしておられることだ、といいます。なぜでしょうか。12節「侮辱されては祝福し」という言葉が鍵です。神の祝福は、王になった者でなく、愚か者が侮辱されながら、下から祝福するものだ、といいます。これは、主イエスがわたしたちにしてくださったことです。伝道者だけでなくキリスト者皆にも、高ぶりについて、問いが投げかけられています。

【2020年 2月 2日 主日礼拝説教より】

説教「自分を裁くこともせず」
      瀬谷 寛 牧師 
       詩編 第143篇 1−12節
       コリントの信徒への手紙一 第4章1−5節

 わたしは、自分で自分を「コンプレックスの塊のような人間だ」と見ています(少なくともかつてはそうでした)。
 今日のところでパウロは、自分自身について語っています。しばしば、わたしたち伝道者の間では、説教で自分の話をしてはいけない、と互いに戒め合います。特に説教で語るべきは、神、キリスト、そしてその福音であって、自分の話は必要ない、というわけです。
 パウロはその点で自由でした。自分を語らざるを得ないところでは、自分を語ることを躊躇しないのです。パウロがこの手紙の最初から問題にしていたのは、コリントの教会の中にあった分派です。牧師・伝道者という存在は、教会の中で大きな責任を持っています。人々の眼差しの中に立って自分を隠すことができません。教会の人たちが、伝道者をどのように位置づけるか、が大事です。
 他方、やはり問われるのは神の神殿としての教会の人々です。教会の中で、伝道者は、管理者と見るべきだ、とパウロは言います。神の家のハウスキーパーです。そのハウスキーパーは、まず、その家の主人、キリストに忠実に仕えます。そのうえで、その主人の意向に沿ってこの家をどう取り仕切るかを問います。
 わたしたちは、自然と、他の人を見る時に、評価をします。裁きます。パウロは、伝道者として、自分の存在・言葉を、教会の人々、世の人々にさらしました。そしていつも裁かれて生きました。評価されていました。なかなか自由になれなかっただろうと思います。だからおそらく自分自身にも言い聞かせるように「わたしは自分で自分を裁くことすらしない」といいます。
 わたしたちは(かつてのわたしがそうでしたが)、もしも自分の目、他人の目で自分自身をがんじがらめにして裁くなら、それは罪です。本当に裁いてくださるのは主イエスだからです。その主イエスがやがて来られる時に、すべての評価が明らかになります。それが、「神の秘められた計画」です。神が、この計画を、神の家としての教会の人々、そしてその家を司る管理者としての伝道者に託してくださいました。そして、その神の評価が明らかになる時、わたしたちは神からおほめにあずかる、と約束されています。もう評価を恐れることはありません。

【2020年 1月 26日 主日礼拝説教より】

説教「わたしたちはキリストのもの」
      瀬谷 寛 牧師 
       詩編 第94篇 8−15節
       コリントの信徒への手紙一 第3章18−23節

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(一コリント1:18)。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(同1:25)。
 神と人間、どちらが賢いか、そんな問いは子供の問いのように思います。当然、神が賢い。けれども人間は、いつの間にか、神より人間、そして自分のほうが賢いように思えるときがあります。けれども聖書が語るのは、神はおらず、自分の知恵がすぐれていると誇るものこそ、愚かなのだ、と言います。
 「自分を欺いてはなりません」(3:18)という言葉は、神の前に小さく愚かなものに過ぎないありのままの、本当の自分を知ろうとせず、自分の知恵を誇ろうとするものに、自己検討のすすめとして語られています。
 自分の知恵が愚かであるのは、神の知恵に遥かに及ばないから、と言えます。神は天地を創造されました。わたしたちはこの世に生まれながら、何のために生まれたのかも知りません。また、命がどうして大切で、失われてはならないか、はっきり答えることができません。もしわかっていたら、簡単に命を傷つけてしまうわたしたちの社会の現実が変わるでしょう。
 しかし、わたしたちは生き死にのことについて、知りたいと願います。それを知って、安心して、救われたいからです。しかし、そのことを知ろうとする時に避けて通れない最大の問題は、わたしたちが罪から逃れる事はできない、ということです。これに対して、神がお与えになった知恵が、十字架です。神の御子が、十字架にかかって人間の罪のために死ぬ、これは世の知恵からすれば、実に愚かしく見えることです。この単純なことが何の役に立つか、と考えるからです。
 しかし十字架は、神が考えに考え抜いた、神の愛の極みの行為です。その愛によってわたしたちは、「あなたがたはキリストのもの」(3:22〜)とまで言っていただけました。この言葉は、ハイデルベルク信仰問答1の大事な典拠の言葉です。「生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰めは」「生きるにも死ぬにも、イエス・キリストのものであることです」。わたしたちの命と死には、主イエスのものである、ということが神の知恵としてわたしたちに示されています。

【2020年 1月 19日 主日礼拝説教より】

説教「すべてはわたしたちのもの」
      瀬谷 寛 牧師 
       ヨブ記 第5章 8−16節
       コリントの信徒への手紙一 第3章18−23節

 先週の月曜日から水曜日(13〜15日)にかけて、説教塾全国委員長の平野克己先生をお招きし、「東北説教セミナー」が行われました。何人もの、この教会の信徒の皆さんも参加していただきました。日本の宝と言える説教者たちの、受難と復活についての説教をひたすらに読みました。どの説教者も、自分の遣わされた時代や教会の状況の中で、心を込めて、十字架の主イエスを語っていました。
 パウロのこの手紙も、コリントの教会という当時の時代状況の中で心を込めて語りました。パウロは、その賜物を用いて、徹底的に事柄を説くところがあります。ときに、わたしたちに驚きを与えるほどに。
 まず驚くのは、「だれも自分を欺いてはなりません」(18節)という言葉です。なぜ驚くかといえば、そんなことは特別聖書に教わらなくても、よく知っていると思っているからです。誠実に生きようとする誰もがわきまえるべきことです。
 けれども考えてみるべきは、ここでパウロがいう自分とは、「あなたがたは神の神殿」と前のところで言われていたように、神がお住いになられる自分だ、ということです。その自分を欺いてはならない、というのです。神が住まわない、神と無関係な自分ではないのです。その自分を欺かないためには、愚かな者になることです。この世の知恵は、わたしたちが神の神殿になる前、神を自分にお迎えしていない時に現れる自分の姿です。神を拝まない世界で、自分が知恵ある者だと考えることは、愚かな者であることに気づくべきです。そしてそこから、神を誇り、自分を誇らない生き方が生まれます。それが自分を欺かないことです。
 もう一つ驚くのは、「すべてはあなたがたのもの」という言葉です。何でも自分のものにしたい、という所有欲を無限にもっているわたしたちは「本当に、そんなことを言っていいのだろうか」、と思います。なぜこんなことが言えるのでしょうか。「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」(23節)。あなたがたの全存在が、キリストの所有になっている、そしてキリストご自身は神のもの、というのです。一切はキリストのものだから、その御手の中にあるわたしたちが触れるものすべては、困難、死すらも、キリストゆえにわたしたちのためのもの、と信じて受け入れることがゆるされています。なんと幸いなことでしょう。

【2020年 1月 12日 主日礼拝説教より】

説教「わたしたちは神の神殿」
      瀬谷 寛 牧師 
       イザヤ書 第28章 14−22節
       コリントの信徒への手紙一 第3章10−17節

 この手紙の第3章9節で、「あなたがたは神の建物」という言葉が出てきました。この言葉が17節で、「神の神殿」と言い換えられます。「建物」ならいろいろありますが、「神殿」は、建物中の建物、かなりグレードが上がっています。
 こう見ることもできます。9節で「あなたがたは建物」と言ったのは、なぜ神が、その建物を必要とされるのかといえば、17節で、そこに神ご自身が住むためだ、ということです。同じ手紙の第14章で、わたしたちがしている礼拝に、まだ信仰を持っていない人が来て、そこで語られる言葉がわかったときに、神がわたしたちのうちにおられるということがわかり、罪を認めて、神の前に膝をかがめるようになる、と記されています。皆さんが、神が生きておられるなら、そのことを教えてほしい、と尋ねられたら、パウロは、あなたがたが神の神殿だ、あなたのうちに住んでおられる神を教えればよい、と言います。
 その事が起こるために大切なことは、前回も強調しましたが、11節「イエス・キリストというすでに据えられている土台を無視」しない、ということです。どんな人間も、教会の土台にはなりません。教会に長く来ている人も、長老も、牧師も、教会の土台にはなりません。土台はイエス・キリストです。わたしたちはこのイエス・キリストを本当に土台とするために、熟練した建築家のように努力をする必要があります。教会が、一番苦労したのは、このことなのです。
 それでは、本当にイエス・キリストを土台に据えるにはどうしたらよいでしょうか。それには、主イエス・キリストのことを、自分が望むような偉人として信じるのでなく、神がわたしたちに送ってくださった神の御子であり、しかもわたしたちの罪のために十字架について死んでくださった方だ、と信じることです。
 教会には信仰告白というものがあります。代々の教会が、イエス・キリストをこのように信じる、と言い表した文書です。具体的に、例えば毎晩寝る前に、使徒信条を唱え、主の祈りをする、それは、主イエスを土台として据える一つのことです。そしてその上に、わたしたちが神の神殿、教会を建てます。この神殿は、時間が経てばだんだん値打ちがなくなる普通の建物とちがい、時間が経つに連れぐんぐん成長する生きた建物です。わたしたち自身が、この建物なのです。

【2020年 1月 5日 主日礼拝説教より】

説教「教会の土台−イエス・キリスト」
      瀬谷 寛 牧師 
       詩編 第66篇 10−12節
       コリントの信徒への手紙一 第3章10−15節

 新しい、主の年2020年の最初の礼拝から、以前に読み進めてきていた、コリントの信徒への手紙一にまた戻って、読んで参りたいと思います。
 今日読んだところの直前、3:9に、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」という言葉がありました。わたしたち主イエスの教会に生きるものには、それぞれの働きがありますが、それは「神のために力を合わせて働く」働きだ、と、手紙の著者パウロは語ります。その働きはわたしたちを神の畑として耕し、神の住む建物として建てるようなものだ、というのです。その場合、根本的に力を発揮されるのはあくまで神であり、わたしたちは、その神の働きの中で用いられているに過ぎないものだ、というのです。
 今日のところは、その「神の建物」ということについて、展開しています。10節で「わたしは神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」とパウロは語ります。これまでの自分のコリント教会での働きをまとめたような言葉です。パウロは、コリント教会の土台を据えてきました。けれどもそれは、自分によってではなく、「自分に与えられた神の恵み」によるものだ、と言っています。パウロは、神に用いられる器に過ぎませんでした。
 けれども、とても面白いことに、パウロは自分のことを「熟練した建築家」と言いました。未熟な仕事はしていないのです。立派な土台を据えたのです。しかし、それは自分の力ではないので、栄光は、神が受けるべきだ、というのです。
 手紙は続いて、「他の人がその上に家を建てる」と言います。パウロの働きを引き継いで、教会を建てる、それは牧師・伝道者のこととまずは言えるかもしれませんが、しかし教会は、すべての信徒が建てるものです。また広く、神の国建設、と考えるなら、わたしたち一人ひとりの生き方、生活についても、その生き方は、土台の上に家を建てることだ、と言えます。ただ、「どのように建てるかに注意すべき」と促されています。そこでパウロは、「イエス・キリストというすでに据えられている土台を無視して、だれも他の土台を据えることはできません」と言います。この年のはじめに、わたしたちは、十字架につけられた主イエス以外の土台を据えようとしていないか、確認してみる必要があります。

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