【2019年 12月 29日 主日礼拝説教より】

説教「安らかに去る証人」
      瀬谷 寛 牧師 
       創世記 第46章28−30節
       ルカによる福音書 第2章22−38節

 今年のクリスマスも、多くの機会を通して、主イエスとの出合いを与えられました。特に、今年の新しい試みとして、12月25日の「降誕祭聖餐礼拝」には、思いの外多くの方が集まって、主イエスの命の恵みを味わいました。
 最初のクリスマスにも、幼子主イエスと何人かの出合いがあったことを、福音書記者ルカは伝えます。マリア、ヨセフ、羊飼い。そしてそれに引き続いて、二人の老人が、この主イエスにお会いした出来事が記されています。
 当時、長男が与えられた両親は、エルサレム神殿に詣でて、特別に神に献げ物をし、その子が神のものであることを確認すると同時に、その子が与えられたことを神に感謝しました。多くの親子がいるその中に、貧しい大工のヨセフと、決して着飾っていないマリアと、小さな生まれたばかりの主イエスがおりました。周りの人々も、ここに、後に世界の救い主になるものがいる、とはだれも気づかなかったに違いありません。
 ところが、その幼子の正体を見抜いた人がいました。二人の老人、シメオンとアンナです。シメオンは、幼子主イエスを抱いて、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/このしもべを安らかに去らせてくださいます」と歌いました。神さま、わたしはもう死んでもよいのです、いえ、どうぞ、もう死なせてください、わたしの人生は満ち足りています、と歌ったのです。はっきりと、自分の死を見つめながら、自分たちが救われるとはどういうことか、シメオンは主イエスとの出合いで見抜く事ができました。
 アンナは若い時、夫に死に別れ、84歳になっていました。計算すれば、約60年間、神殿を離れなかったことになります。それは、自分の不幸を嘆き続けた、というよりも、悲しみの人だったからこそ、神に仕え、神がどのように救ってくださるのか問い続け、神の救いを待ち望み続けました。幼子主イエスに出会ったシメオンが歌った「主よ、今こそ…このしもべを安らかに去らせてくださいます」という歌は、一日の終り、そして一年の終わりに読まれ、歌われます。わたしたちは、主イエスとの出会いによって、この年も、またこの地上の人生も、安らかに去らせてくださいます、と歌い、祈る幸いに与らせていただけます。

【2019年 12月 22日 主日礼拝説教より】

説教「人間のただ中に救い主が」
      瀬谷 寛 牧師 
       サムエル記上 第16章1−5節
       ルカによる福音書 第2章1−7節

 クリスマス(降誕祭)は、キリスト教会にとって、イースター(復活祭)と並んで大きな祝祭です。どちらも、光の祝祭です。特に主イエスの御降誕を祝うクリスマスは、夜の闇の中に輝く光の祝祭です。
 主イエスは、ナザレというイスラエルの北部でお育ちになられ「ナザレのイエス」と呼ばれます。しかし、この方のお誕生は、イスラエルの南部、ベツレヘムという町においてでした。どうしてそうであったのか、聖書はその様子を、皇帝アウグストゥスによる勅令があった、という世界史との関連で描いています。当時、この地域を支配していたのは、巨大な帝国、ローマです。その皇帝アウグストゥスが、全領土の住民に、住民登録をするように、と勅令を出したのです。
 その勅令に従って、普段は本籍地から離れている人々は皆、自分の本籍地に戻って登録をしなければなりませんでした。ヨセフもその一人です。彼は、このベツレヘムを本籍地としていました。聖書では、繰り返し、繰り返し、ベツレヘムという地名が出てきます。これには、背景があります。旧約聖書ミカ書 第5章にこういう預言の言葉が記されています。『エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる』。
 実は、このベツレヘムは、かつて王であったダビデの誕生の地でした。ヨセフは、このダビデの血筋であったので、ダビデの出生地であるそのベツレヘムこそが、ヨセフの本籍地だったのです。イエス・キリストがこのベツレヘムで誕生した、ということは、主イエスが、このダビデ王とつながった救い主、メシアであること、しかもダビデ以上のメシア、皇帝アウグストゥス以上の王であったことが意味されています。
 ダビデは人々から愛されていた王でした。しかしまた、彼は罪を犯しました。部下であるウリヤの妻、バト・シェバを自分のものとするために、ウリヤを殺しました。とんでもない過ちを犯しましたが、悔い改め、王として立てられました。主イエスは、このような王の子孫としてお生まれになられました。まさしく、この方こそ、罪深い人間のただ中においでくださった、まことのメシアです。

【2019年 12月 15日 主日礼拝説教より】

説教「身分の低い者を高くあげ」
      瀬谷 寛 牧師 
       詩編 第34篇1−11節
       ルカによる福音書 第1章46−56節

 ルカによる福音書の冒頭部分は、讃美に満ちています。マリアの讃歌があり、ザカリアの讃歌があり、シメオンの讃歌があります。また最も有名なのは、羊飼いに天使が主イエスの誕生を告げたあとの、天使の讃美です。
 今日はマリアの讃歌に耳を傾けます。その始まりはこうです。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。マリアは、「わたしは主をあがめ」ではなく、「わたしの魂は主をあがめ」と言います。彼女の存在の、奥深くの霊において、受け止められています。「主をあがめ」という言葉は、「神を大きくする」という意味です。しかし、もちろん、神の大きさは、わたしたち人間の態度によって変化するものではありません。けれども、人間の態度は大きくも小さくもなり、またその人間にとって、神が大きくなったり小さくなったりすることはあります。
 ある説教集に、神と自分の関係は、分数で考えるとわかりやすい、とありました。分母が自分、分子が神です。分子である神は1であることに変わりはありません。分母の自分が10であれば10分の1、分母が5になれば5分の1、分母が1であれば1、分母が0.5であれば2になります。最初の数の20倍になり、結果として自分が小さくなれば神さまがどんどん大きくなります。
 ところで、マリアは少女、おとめ、と言われますが、この歌にはおとめらしい清純さ、優しさは見られません。美しい歌ではありますが、激しい歌です。ある人は、これは革命の歌だ、とさえ言いました。「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、/飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」。かつて権力者ヒトラーが猛威を奮っていたドイツで、若い牧師がこの言葉を解き明かす説教をしました。「他人は自分を頼らねば生きられない、と思っているところで、神はあなたを捉えている、この神の恵みに対してあなたは不自由だ」と。
 この歌は、資本家に対して労働者に革命を呼びかける歌でもありません。神は、すでにそのみ腕による戦いを始めています。その支配は、力の支配ではなく憐れみによる支配です。憐れみがなければ、飢えや惨めさから自由になれません。

【2019年 12月 8日 主日礼拝説教より】

説教「重ねられた喜び・祝福」
      瀬谷 寛 牧師 
       士師記 第5章24節
       ルカによる福音書 第1章39−45節

 わたしがお休みをいただいていた11月の主日礼拝で、宮城学院の嶋田順好先生が、マリアについての説教をしてくださいました。まだ、少女であるマリアが、天使ガブリエルから「おめでとう、恵まれた方」と言って、神の子主イエスを自分の身に宿すことを告げられると、戸惑いながらも「お言葉どおり、この身に成りますように」とマリアが受け止める場面は、大変印象的です。
 さて、その出来事の直後、マリアは「急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶」しました。どうして、マリアは急いだのでしょうか。不安や心配のためでしょうか。
 この時、急ぎ足で山道を向かうマリアの心にあったのは、喜びでした。神の御子を宿す者の喜びがここにあります。そして、親戚であるエリサベトにも、年をとっていながら、同じように天使から「男の子を身ごもっている」と告げられたのを確かめ、共に神の恵みを数えて喜びたかったのです。
 そして二人は出会いました。ここでのマリアとエリサベトの出合いの物語は、昔から、画家や彫刻家が特に愛した主題です。マリアに対する天使の受胎告知の場面と並んで、よく描かれました。人間としての心をもっている者にとって、このマリアとエリサベトが抱き合うようにして喜んでいる姿は、一度見れば、忘れがたいものであると思います。この二人の祝福された母たちはピッタリ抱き合っており、何の隙間もありません。喜びで一つに溶けています。しかもその時、エリサベトとマリアだけが喜んでいるのではなく、エリサベトのお腹の中にすでに宿っているヨハネもまた、喜び踊りました。ここで、喜びからはみ出しているものはだれもいません。打てば響くような喜びを呼び起こしています。
 彼女たちは、何に共鳴しているのでしょう。一つは、お互いに子が与えられていることです。しかし、ただそれだけではありません。二人とも、同じ神の祝福の中にある、その祝福を分かち合うことができる、その中で喜び合っています。昔から、この喜び合う二人の女性の姿こそキリスト教会の姿である、と言われてきました。教会の方たちと讃美歌を歌っていると、この二人の女性の光景を思い起こします。仙台東一番丁教会も神の祝福の喜びを、味わい続けたいと思います。

【2019年 12月 1日 主日礼拝説教より】

説教「驚くべき神の約束の前で」
      瀬谷 寛 牧師 
       エレミヤ書 第1章4−5節
       ルカによる福音書 第1章5−25節

 今日から、主イエスの誕生、ご降誕を待ち望むアドベント(待降節)に入ります。クリスマスをめぐる人に焦点を当てて、聖書を読んでいきたいと思います。
 さて、ルカによる福音書は、マタイによる福音書が、主イエスの系図を長々と書き始めたのに対して、一人の身分の低い、無名の祭司の物語から始めています。この祭司は、ザカリアという名前でした。当時の祭司の数は、大変多かったようで、ダビデの時代にすでに2,700人いた、と言われています。それからさらに千年ほど経っているのですから、大変であったにちがいありません。ですから、ザカリアの属している組が当番に当たること、しかもその中をくじで選ばれて神殿の聖所に入って香を焚くことは、ザカリアにとってとても貴重な時でした。
 ザカリアが、神殿でその務めを担っていた時、主の天使が現れ、香壇の右に立ちました。それを見たザカリアは、意外にも恐怖の念に襲われた、と言います。祭司であれば本来、神のご臨在を表す天使が現れても、驚くことはないはずです。しかし、たとえ非常に珍しい機会であったとしても、神の臨在の力に触れたときに、恐れおののいてしまうのです。
 そのザカリアに天使が告げます。やがて男の子を得る、その子はヨハネと名付けられる、神の霊に満たされて、イスラエルの人々を主なる神に立ち帰らせるために働く人になる、と。しかしザカリアは、自分は老人だし、妻も年をとっているのに、どうしてそんな約束を信じることができるでしょう、と言い返します。
 それに対して天使は、あなたは神の約束を信じなかったのだから、この事が起こるまで話すことができなくなる、と言いました。ザカリアの、神の御業を素直に信じて喜べない罪は裁かれます。しかし、喜びそのものは奪われませんでした。
 このザカリアにはエリサベトという名の妻がいました。おしゃべりだったかもしれません。しかし夫ザカリアが、このことで物を言わなくなってしまいました。そこに年老いた自分が妊娠していることに気づき、驚いたでしょう。とにかく二人でただ黙って、少なくとも5ヶ月の間引きこもっていました。この二人の静かな日々、沈黙を強いられているところで、どんなに深く神の恵みを味わったことでしょう。教会は、神の前に沈黙し、神の言葉を聴くところです。

【2019年 11月 24日 主日礼拝説教より】

説教「わたしの人生をはかるものさし」
      福島伊達教会 白井 真 牧師 
       詩編 第1篇1−6節
       マルコによる福音書 第1章14−15節

1、出エジプトと神の国
 古代イスラエル人はエジプトの国に暮らしていました。たいへん豊かな土地であり、430年も住み続けていましたけれど、預言者モーセに率いられてエジプトの国を出ることになりました。エジプトの法の支配下から、神の言葉による裁きが行われる生活を目指して旅したのです。その旅の途上で、主なる神はイスラエルに十戒を授けられました。エジプトの法に照らして人が裁かれることはなくなり、十戒によって人間のあるべき姿が問われるようになっていったのです。
2、罪の悔い改め
 現代日本において「罪」の話をするとき、まず一番に思いめぐらすのは「日本の法律に違反しているかどうか」です。けれども教会は神の国を待ち望む者たちの集いですから、神の法をもって自らの罪を問うべきです。イエスさまはおっしゃいました。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。いままで日本の国の法律に照らし合わせて「わたしは罪びとではありません」と胸を張って生きてきた人間が、神の国の裁きに堪えられるような人間になるよう、自分自身の人生をくみなおすことこそが「悔い改め」ではありませんか。
3、悔い改めと福音
 ルカによる福音書19章に登場するザアカイと言う人物。この人はエリコの町に住む徴税人の頭でした。いちばんのお金持ちです。彼は罪びとでしょうか。ローマの法に基づく裁きの場ではザアカイの無罪が証明されるでしょう。そのザアカイがイエスさまと出会って自らの罪を悔い改めたのです。しかも喜びをもって悔い改めました。イエスさまはザアカイの悔い改めをお喜びになって言いました「この家に救いが訪れた」。
 もう一つルカによる福音書、放蕩息子のたとえ。放蕩息子は嘘をついたわけでもなければ盗んだわけでもない。けれども彼は悔い改めたのです。悔い改めは「福音」と結びつけて語られます。「一人の人間としてあなたの生き方はどうか」と責められるのではなく、父親に愛されている一人の息子として、自分自身のあるべきかたちを考えるようになるのです。

【2019年 11月 17日 主日礼拝説教より】

説教「信仰のおとな」
     瀬谷 寛 牧師 
       イザヤ書 第49章 1−6節
       コリントの信徒への手紙一 第3章 1−9節

 パウロは、いくつもの教会に手紙を送りました。おそらく、それらの手紙の多くは、礼拝の中で朗読されたのではないか、と考えることができます。さまざまな問題を抱えていたコリント教会で今日のこの箇所が朗読された時、パウロを尊敬している人であっても、カチンと来たかもしれません。
 「わたしはあなたがたには…乳飲み子である人々に対するように語りました」(1節)。あなたがたは、おとなではありませんね、と言うのです。もちろん、乳飲み子、というのは信仰的な意味です。コリント教会の人々はむしろ、自分たちはおとなだ、と思っていました。自分たちは、ギリシア文化の都、コリントに住んでいる、という自負がありました。そこに生まれた教会も、自分たちはおとなと自負していました。だから、争い合い、集会が混乱していました。そのような人たちに、「あなたがたは乳飲み子だ」というのですから、パウロという人は、大事なことは遠慮なく言えた人なのだ、と改めて思います。しかし一度はカチンと来たコリント教会の人たちは続くパウロの言葉で納得したかもしれません。
 パウロは、「あなたがたは、まだ肉の人で、神の霊に開かれた心・キリストの心に生きていないではないですか。なぜなら、あなたがたは互いに妬み合い、争い合っているでしょう。だから、ただの人に過ぎないでしょう」、と語ります。
 けれども、コリントの教会の人の立場に立つと、「パウロ先生、あなたが非難されているから、あなたのために一所懸命弁護し戦っているのに、それをパウロ派になっているのはよくない、とどうしておっしゃるのですか」と言いたくなるだろう、と思います。自分のしていることを正当化したい思いがあるでしょう。
 パウロはしかし、自分も、アポロも伝道者で、コリント教会の人々を信仰に導くために、それぞれ分に応じて立てられ、働いているに過ぎない、と理解していました。大切なのは、植える働きのパウロでも、水を注ぐ働きのアポロでもなく、成長させてくださる神だ、といいます。何でもおできになる神は、十字架のキリストによって恵みを与え、伝道者たちを、わたしたちを、神のために力を合わせて働くものとしてくださいます。「大切なのは神」。この子どもでもわかるような単純な真理に生きることこそ、おとなである者の知恵に生きることなのです。

【2019年 11月 10日 主日礼拝説教より】

説教「主イエスの地上における最後の御業」
     嶋田 順好 教師 
       イザヤ書 第53章 1−10節
       ヨハネによる福音書 第19章 25−30節

 主イエスの母マリアと聞けば、アドベント、クリスマスのマリアを思い浮かべるでしょう。今朝は、天使ガブリエルから、なぜ「おめでとう、恵まれた方」と呼ばれるのか、彼女の生涯の歩みを見つめつつ、主イエスの地上における最後の御業との関わりを通して、思いめぐらしてみたいと思います。
 誕生の告知を受け、賛歌を歌い、また、12歳の主イエスとのエルサレムでのやり取りに立ち会わされた彼女は、主イエスを身ごもり、母となったがゆえに、およそこの世の母たちが決して味わわない悩み、不安を味わい尽くし、その都度考え込み、心に納め、思い巡らし、驚き続けてきました。
 成人して、ご自身の活動を開始してからも、主イエスの不思議な振る舞いに対して、家族が取り押さえに行くと、「神の御心を行う人こそ、わたしの母だ」と自分を拒絶する言葉を我が子から聞かされ、マリアは泣き伏したことでしょう。
 その後、彼女を見出すのは、我が子の十字架の処刑に立ち会う時です。なぜ立ち会ったのか、それはわが子イエスのことを忘れ去り、消し去ろうとはしなかったからです。マリアは身じろぎもせず、苦しみの極みにあるわが子をひたすら見つめ続けます。我が子の苦しみに参与し、自らも剣で心を刺し貫かれること以外に、我が子に愛を注ぐすべがなかったからです。
 そのとき彼女は、十字架上の我が子が息も絶え絶えに、自分とそのそばにいる愛する弟子とを見つめ、まず自分に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言い、愛する弟子に「見なさい。あなたの母です」というのを聞きました。これは、肉親の母マリアの拒絶の解消ではなく、肉親である母への愛を持ちつつも、その愛を遥かに超えた、神の愛の交わりの中への、マリアの招きです。主イエスは、母マリアを、弟や妹たちにではなく、愛する弟子に委ねました。肉親の交わりから、教会の交わりへと招かれました。これが主イエスの十字架の上の死の苦しみと痛みの中で、地上における最後になさった御業でした。マリアは、神の救いの御業を担うものとして、こんなに豊かに自分を用いられたことに驚き、恐れ感謝し、我が子イエスを心の底から「我が主イエス」と呼べるようになりました。その事においてマリアは本当に、「恵まれた方」と言い得るのです。(文責:瀬谷)

【2019年 11月 3日 主日礼拝説教より】

説教「キリストの思いを抱き」
     瀬谷 寛 牧師 
       イザヤ書 第40章 12−14 節
       コリントの信徒への手紙一 第2章 6−16節(2)

 「わたしたちはキリストの思いを抱いています」。パウロは、確信と誇りを持ってこの言葉を書いています。この、「思い」という言葉は、「心」とも、「理性」とも訳せる言葉です。けれども「理性」と訳すと、わたしたちの間で誤解が生じるかもしれません。
 一方では、理性は高く評価されます。「あの人は理性的な人だ」といえば、多少のことでは動揺せず、冷静に、きちんと判断できる人、あるいは、知るべき知識をきちんとわきまえている賢い人、という意味のほめ言葉です。
けれども他方、「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」(14節)とあります。自然の人、生まれながらの人のもっている理性は、信仰に届かない領域だ、と考えられるところがあります。この場合の理性は、多少悪い意味がこもっていて、理屈にこだわる、わからないことは受け入れない、など、信仰が理性に反したものである、と理解されます。だからこそここでは、生まれながらの人、自然な人の理性ではなく、キリストの理性を語っているのだ、と理解すべきなのかもしれません。
しかし、もう少し考えてみると、「キリストの思い」が「キリストの理性」と訳せるならば、そのキリストとはだれか、といえば、この手紙の 第1章 30節 で「神の知恵」である、と言われていました。キリストの思い、とは、十字架につけられたキリストの理性、知識、判断、知恵、と読むことができます。つまり、十字架のキリストの知恵は、一見、生まれながらの人の知恵、理性では理解できない、愚かに見えるようだけれども、しかしそれは、正しくその力に生きるならば、健康な理性と矛盾・対立せず、むしろそれを生かすものであることがわかります。この神の力・知恵は、わたしたち人間が本来知るべき知恵です。
そう考えると、信仰は、半理性的・超理性的で、人々には簡単にわからない、というところにとどまることは赦されないのではないでしょうか。「霊の人」という言葉も、特別熱心な人のことではなく、教会にいるわたしたちは皆、神の霊を受けた「霊の人」です。神からの霊を受けたので、神の恵み、主イエスの十字架の恵みが自分に大切なものであることを知って、生きていくことができます。

【2019年 10月 27日 主日礼拝説教より】

説教「神の深みさえも究めて」
     瀬谷 寛 牧師 
       イザヤ書 第64章 1−4 節
       コリントの信徒への手紙一 第2章 6−16節

 秋の伝道礼拝で、金沢教会の井ノ川勝先生から、わたしたちの信仰の先輩たちは、「キリストの道の者」と呼ばれていた、と学びました。その姿、生活の仕方を見れば、キリストの道の者だと分かる、そういう生き方をしたそうです。今日のわたしたちも、「キリストの道の者」として歩む生き方、姿勢を示すのは、聖書のみ言葉を読み、また思い巡らせながら、歩む、ということだと思います。
 今日与えられた聖書の言葉も、一見難解だ、と思うかもしれませんが、遠ざけずに、繰り返し繰り返し、読んで黙想すれば、神の声が聞こえてくると思います。わたしが刻みつけたのは10節の「神の深みさえも究めます」という言葉です。だれが、でしょうか。神の霊です。この神の深みさえも究める霊が、わたしたちに与えられている、と12節でパウロは語ります。その間に挟まれている11節は、神の霊を与えられる以外に、わたしたちが神のことを知ることはできない、と言います。
 英語で「プロフェッサー」という言葉があります。普通は「大学教授」と訳します。この言葉は、昔は「信仰者」のことを指していました。「プロフェス」という言葉は「公にいう、信仰告白する」という意味です。「教授」がプロフェッサーと呼ばれるのは、その領域においては専門家であると公にいう、というところから来ます。
 ここではパウロは、その意味でプロフェッサーとして語ります。一つの意味はもちろん、信仰を言い表している人、ということです。「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」と明確に言い表しました。しかし同時に、パウロはこの信仰における専門家でした。神の深みを極めておられる神の霊を受けた人間だからです。
 この段落は、「信仰に成熟した人たち」という言葉から始まります。この「成熟した」は「完全な人」と訳すことができる言葉です。誰が、成熟しているのでしょう。わたしたちは信仰においていつまでも不完全で未熟なのでしょうか。この「信仰に成熟した人」に対比されるのは、「この世の滅びゆく支配者」です。それは、「栄光の主を十字架につけ」た人と考えられます。ピラトやユダヤの指導者を考えるかもしれませんが、わたしたちも主イエスの十字架を無視したりする罪に支配されます。この罪から解き放たれた時、わたしたちにも信仰の成熟が生まれます。それは、十字架につけられたキリストに集中するところから、初めて学び取ることができます。

【2019年 10月 20日 主日礼拝(伝道礼拝)説教より】

説教「キリスト道を生きよ」
     井ノ川 勝 牧師 
       イザヤ書 第50章 4 節
       使徒言行録 第9章 1−20節

 わたしは、神学校を卒業し、伊勢神宮の外宮の前にある山田教会に派遣され、30年間、伊勢の街の人々にひたすらキリストを伝えてきました。そして6年前に、真宗王国と言われる北陸・金沢でキリストを伝えています。わたしが語る説教は、キリスト教を教え、知識を皆さんに紹介するのではありません。
 昔から、「何々『道』」と呼ばれるものが受け継がれています。剣道・柔道・弓道・合気道・相撲道・作動・華道・書道などです。これらは単なるスポーツ、お稽古ごとではありません。わたしたちの日々の生活、生きる姿勢を、それらを通して形作っているものです。その道に精進したら、生き方の姿勢が変わるのです。
 わたしは、「キリスト教」という言い方は、わたしたちの信仰を的確に表していないと思っています。キリストの教え、知識を身に着けていくのではないのです。的確に表しているのは、「キリスト道」だと思います。「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られた主イエスと共に生き、共に死んでいくのです。生ける主イエスと出会うことによって、わたしの生き方が、その姿勢が変わります。主イエスがこのわたしを生きてくださっている、そのようにわたしたちはキリスト道に生きています。キリストの道を歩んでいきます。それがわたしたちの信仰です。
 そのことを語る大切な御言葉が、使徒言行録第9章の御言葉です。キリストの教会が生き生きとキリストを伝え、伝道する姿が描かれています。そのキリスト教会は、もともと揶揄された呼び名であった「キリスト者」という呼び名で自分たちを呼びました。自分たちは、揶揄されたキリストのものなのだ、と認めたのです。
 その呼び名よりも前に呼ばれていたのが、「主の弟子たち」という呼び名であり、さらに重要なのは、「この道のもの」という呼び名です。「ああ、あの者たちは、その生き方、生活の仕方を見ていると、主の道の者だとわかる」、そう言われていました。キリストと共に生きていく信仰が、日常の生活の中での姿勢を形作ります。
 キリスト道に生きるわたしたちは、個人が信仰の精進をして生きる姿勢を形作るのではく、仲間と共に生きます。キリスト教会の迫害者サウロが、キリストと出会い、伝道者パウロとして生きていくときに、アナニアという人を用いました。教会の仲間と共に、キリストの道を真っ直ぐに走り抜くことができます。(文責:瀬谷)

【2019年 10月 13日 主日礼拝説教より】

説教「更にまさった故郷を熱望し」
     瀬谷 寛 牧師 
       創世記 第28篇 13−15 節 a
       ヘブライ人への手紙  第11章 8−16節

 本日は、一年に一度の、「逝去者記念礼拝」として礼拝を献げています。仙台東一番丁教会は創設以来、洗礼者・転入会者が与えられると番号が付けられ、現在は約 2,900 番になっています。今生きておる方を多く差し引いても、2,500 名以上はすでにわたしたちの「信仰の先輩」として、すでに地上の歩みを終えていることでしょう。
 ヘブライ人への手紙第 11 章は、「信仰の大先輩」として、アブラハムが覚えられています。また、その子イサク・ヤコブも覚えられています。イスラエルの民は、自分が彼らの子孫であることを、誇りを持って語りました。ここにいるわたしたちも、その信仰の血筋を受け継いでいます。その信仰の民の歴史は、創世記第 12 章、アブラハムが、神の言葉だけを聞いて、それに従って旅立ったところから始まります。突然、神の声を聞き、生まれ故郷、父の家を離れなさい、と呼び出されました。信仰とは、呼ばれること、そして故郷を出ることです。
 そしてアブラハムは、他国に宿るようにして約束の地に住みました。行く先を知らずに旅立ったアブラハムの行き先は、約束の地、カナンでしたが、そこを、永住の場所としませんでした。まるで他国に宿るように、仮住まいをしていました。
 なぜアブラハムはそうしたのでしょう。10 節「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」。神が、しっかりした土台をもった、永住可能な家のある都を作ってくださる、その望みに生きたのです。彼らは、更にまさった天の故郷を熱望していたのです。信仰とは、故郷を出、この天にある故郷を仰ぎつつ、旅をすることです。
 その後アブラハムには、決定的な試練が与えられました。高齢になってやっと与えられた息子イサクを神に献げるように、と命令がくだされます。アブラハムは山に上り、一方で、本気でイサクを殺して献げるつもりでしたが、他方で、イサクと帰ってくる、と信じています。そして、「アブラハムは神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼はイサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」とこの手紙は説明します。
 「信仰の先輩」たちも、甦りの信仰に生きつつ、天の故郷を目指して旅していました。わたしたちも、その信仰の血筋を受け継いでいることを覚えたいと思います。

【2019年 10月 6日 主日礼拝説教より】

説教「不安に勝つ」
     瀬谷 寛 牧師 
       詩編 第42篇 1−7 節 a
       コリントの信徒への手紙一  第2章 1−5 節

 このコリントの信徒への手紙一の著者、パウロは、第2章に入って、しかし第1章で問題にされていることを、思い起こしています。つまり、教会が、「パウロにつく」「アポロに」「ケファに」という、分派の問題を乗り越えて、もう一度一つになるにはどうしたらいいか、ということです。それは、原点に戻るよりほかはありません。原点とは、どんな言葉を聞いて、教会の歴史が始まったか、ということです。
 そこでパウロは、自分の言葉の特質について、「優れた言葉や知恵を用いませんでした」と語ります。パウロは、神の秘められた計画、神の心、救いの計画、しかも、わたしたちに深く関わるご計画を宣べ伝えました。パウロは自分の言葉と知恵のすべてを注いで語りました。しかし、それを頼りにせず、あてにはしませんでした。自分の言葉と知恵で、神の恵みを証明しよう、と意気込んではいませんでした。むしろその心をそれを捨てたのです。
 そこでパウロは一つの明確な決断をしました。2節「あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと、(自分で)心に決め」たのです。あのナザレで生まれ、十字架で殺されたイエスがキリストであられる、ということです。この御方が主人であり、この方以外に救いはないのだ、とはっきり心に決めたのです。わたしたちが伝道する時に、誘惑があります。牧師が主イエスの十字架に集中して語るとき、それだけですか、他の仕方で満たしてもらえませんか、と考えてしまうのです。しかし、このことに集中できないとき、教会は、過ちを犯します。教会の歴史は、十字架集中のための戦いでした。
 そのキリストの十字架だけに集中するとき、何が起こるのでしょうか。パウロは、自分の語った言葉は霊と力の証明によるものだ、と一方で言いながら、他方、自分は衰弱し、恐れ、ひどく不安だった、と語ります。使徒言行録第18章の、コリント教会での伝道の様子を見ると、周りに襲われ、危害を加える者たちがいる中で、ひどい恐れがパウロを捉えていたことがわかります。パウロは、愚かにしか見えない十字架につけられたキリストを宣べ伝えました。ユダヤ人は、これに躓きました。彼らに襲われるような不安の中でこそ、パウロは、自分の力ではなく、十字架につけられた主イエスの声、力によって生かされる自分を発見し、感謝したのです。

【2019年 9月 29日 主日礼拝説教より】

説教「十字架以外、何も知るまい」
     瀬谷 寛 牧師 
       コリントの信徒への手紙一  第2章 1−5 節

 この手紙一を書いたパウロは、その自分の後半生を、町々に教会を建てるために献げました。自分の使命が終われば、次の町へ、その中の一つが、コリントの町にも建てられたのです。しかし、そこには、いくつかの問題がありました。仲間争い、性的不道徳、裁判争い、偶像礼拝、聖餐の乱れ。コリント教会の人々は、教会なんて、そんなものだ、と思っていたかもしれません。しかし、パウロは我慢できませんでした。教会という場所がわかっていない。そこで、手紙を書き送りました。
 パウロはこれまで、十字架につけられたキリストをひたすら宣べ伝えました。教会は、この世の価値観によって計られてはならない、教会には、教会に与えられた特別なことがある、それは、十字架につけられたキリストが、わたしたちの真ん中におられるではないか、ということです。
 「教会」という日本語は、不幸な翻訳です。教える集会。まるで、わたしのような前に立つものが、先生のように教える、まるで学校です。しかし、教会の本来の意味は、呼び出された者たちの群れ、という意味です。主イエスが呼びかけておられるのです。わたしと共に生きよう、と。他の数多くの中から、なぜかこのわたしを呼び出し、選んでくださり、そして一人ひとりに、使命を与えてくださいます。
 この日本で、キリスト者は1%に満たない、と言われます。その中で、どうしてわたしたちが選ばれたのでしょう。小さなわたしたちにも使命があるからです。それは、主イエスとともに生きることです。けれどもいつの間にかそのことを忘れ、社会のやり方が教会の中に持ち込まれてしまうことがあります。
 わたしたちが主イエスを知るのは、わたしたちが最も弱くされているときではないでしょうか。神に捨てられたと思うような苦しみに出会うときがあります。けれども、その時に、神に捨てられて十字架にかけられた主イエスが、そばにいてくださる、そのことを知るのです。葬儀のときにはさらに、本当に陰府にまで下に降りてくださった、その主イエスを真ん中にして葬儀の礼拝をします。この世の支配者には気づかない、弱っているもの、貧しいものとともに、十字架につけられたキリストがおられます。わたしたちにできることは、この礼拝に、一番低いところにいてくださる、十字架におかかりになられた主イエスを、お迎えし続けることです。

【2019年 9月 22日 主日礼拝説教より】

説教「慰め−大切に受け、伝える」
     瀬谷 寛 牧師 
       イザヤ書  第53章 5−12 節
       コリントの信徒への手紙一  第15章 1−11 節

 教会が伝えるべきものの中で、最も大切なものは何でしょう。教会が伝えるものはどれも大切で、その中に、「最も大切なもの」があると考えるのは、間違っているのではないか、と考えるかもしれません。けれども、教会が伝えるべきものの中には「最も大切なもの」がある、というのは今日の御言葉が語っていることです。
 本日は、教会修養会ということで、年間聖句を取り上げながら、テーマについて考えます。上の、年間聖句にも含まれる「最も大切なもの」とは、自分がそれによって生きている、生活の拠り所となる、「福音」と言いかえることができます。パウロは、その「最も大切なもの」は「わたしも受けたもの」と言います。自分で考え出したことではない、というのです。自分も、パウロの先輩の伝道者たちから受け取ったもの、それを自分もあなたがたに渡す、と言っています。キリストの教会というのは、パウロだけではなく、誰であっても教会に生きる時に、この最も大切なことを受け継ぎ、引き継いで命とします。それは一体何でしょうか。
 「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」。特別な、なにかの教え、というのではない。神のご計画に従い、キリストがわたしたちの罪のために本当に死なれた、赦しの死、贖いの死、ということです。そして、「三日目に復活したこと」、神が、キリストを甦らせたことです。
 さらにその次に、ケファに現れ、十二人に現れ、五百人以上の兄弟に現れ、すべての人に現れ、そして、わたし、パウロにも甦りのキリストが現れた、と語ります。
 どこの教会でも共通に自分たちの信仰を言い表しているものに、「使徒信条」という文章があります。もともとは、洗礼を受けたい、という人のための、最小限の条件となった信仰の言葉です。その元の言葉がここにある、と理解できます。
 パウロにとっても、生活の拠り所は、この、自分のために死んでくださったキリスト、三日目に神が甦らせられたキリストが、このわたしにも現れ、恵みを示してくださった、その神の恵みによって、今日のわたしがあるのだ、と言っています。
 しかしパウロはここで、使徒の務めを与えられた自分一人が例外的に、神の恵みに入れられていることを誇っているのではなく、すべてのキリスト者もまたこの福音、喜びを拠り所とし、それを受け、また伝える働きをなすのだ、と語るのです。

【2019年 9月 15日 主日礼拝説教より】

説教「慰め−寝ても覚めても主と共に」
     瀬谷 寛 牧師 
       イザヤ書  第43章 1−7 節
       テサロニケの信徒への手紙一  第5章 1−11 節

 年に一度の教会修養会を来週に控えて、今日から、その修養会に向けての、主題に沿ったお話を始めます。まるで今日から教会修養会が始まったように。
 今年の教会修養会の主題は「私たちの教会の歴史と慰めの共同体ー慰めの共同体を目指してー」というものです。ここに至るいろいろな経緯はありますが、この主題となった一番の理由は、「慰めの共同体」ということを継続的に、教会全体で、ご一緒に学んでいきたい、ということです。
 今日読みました、テサロニケの信徒への手紙一は、パウロが最も早い時期に書いた文書だ、と言われています。キリスト教会の最初の頃の教会の姿がここに反映されています。パウロはそこで、教会に集まってくる人々のことを「兄弟たち」と呼びました。同じ手紙の4:9には、「兄弟愛」という言葉が出てきます。ギリシア語では「フィラデルフィア」という言葉です。もともとは肉親を愛する愛のことをさします。パウロは信仰の仲間たちこそ、真実の兄弟と思ったのではないでしょうか。しかもパウロは、「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません」といいます。もう書かなくても十分わかっている、というのです。
 そのような兄弟が集まるところに、神の家が造られます。教会に集まるわたしたちが、なぜ兄弟なのでしょうか。それは皆、神の子だからです。お互いに違いはあるけれども、同じ神を父とする、神の子とされているので、兄弟、姉妹と呼べます。パウロは、その兄弟に対して、5:11で、「あなたがたは…励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」といい、他にも「励まし合いなさい」と勧めていますが、これらは「慰め」と同じ言葉です。パウロは、慰め合うことは何よりも教会の中で始まる、というのです。
 トゥルンアイゼンという先生は、「福音の慰めを、わたしたちは日常の会話の中で、語ることができる」と言い、ボーレンという先生は、「人間は(誰でも)慰めを求めている」と言います。教会で神の慰めを知った人は他の人も慰めることができます。
 5:10に「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです」とあります。わたしたちは生きている時も死ぬ時も、主が共にいる慰めに生きることができます。

【2019年 9月 8日 主日礼拝説教より】

説教「誇るものは主を誇れ」
     瀬谷 寛 牧師 
       エレミヤ書  第9章 22−23 節
       コリントの信徒への手紙一  第1章 26−31 節

 今日のところで取り上げたいのは、28節「世の無に等しい者」という言葉です。神が、コリント教会に集う者たちを召し、選び、呼び集めてくださいました。そこで選ばれたのは、知恵あるものや能力、家柄の良いものではなく、「世の無に等しい者」だった、というのです。この言葉は、神が、「存在していないものを呼び出して存在させる」という強い意味の言葉です。ないものをあるものに変える、というのです。その変えるときのポイントとなるのが、主イエスの十字架だ、というのです。
 しかしそうは言っても、この「無に等しい者」が選ばれた、という時に、皆さんはこれを、ご自分に当てはめることができるでしょうか。「あなたは無に等しい者ですね」と言われて、「本当にそうですね」とは、なかなか答えにくく、いや、いくらなんでも「無に等しい」は言い過ぎではないか、と反論が聞こえそうです。
 しかし、わたし自身のことを振り返ると、本当に自分が、この「無に等しい者」であることを実感するのです。わたしは、かつて就職をしていた時に、職場で伝道したいと思っていました。教会で礼拝をしながら、真面目に、立派に仕事をする自分の姿に憧れを抱いてもらって、教会に引きつけよう、と考えていました。けれどもわたしは、自分が全くそのような人間とは正反対、むしろ、人々を躓かせることしかできない小さな者、本当に「無に等しい者」であることを、痛感させられたのです。わたしは、主イエスに対して、自分がそんな人間でしかないこと、そして今まで高慢であったことを、申し訳なく思いましたが、その主イエスから「わたしはまさに今のお前を赦して、救うために十字架にかかったのだ」という声が聞こえたように感じ、こんな自分でも、十字架を宣べ伝えるものとされたい、と願うようになったのです。
 そもそも皆さんが、どうして今礼拝の中に置かれているのか、と考えた時に、自分の中には何も理由がなく、神が、主イエスが呼び出し、選んでくださったところに理由がある、としか言えないのではないでしょうか。
 「誇る者は主を誇れ」と31節にありますが、厳密には「主にあって、主の中で誇れ」という意味です。わたし自身が無に等しくとも、主イエスに結ばれ、主イエスの中で、わたしたちは誇ることができ、用いられることができます。

【2019年 9月1日 主日礼拝説教より】

説教「あなたが神に召し出されたのは」
     瀬谷 寛 牧師 
       ヨブ記  第34章 16−21 節
       コリントの信徒への手紙一  第1章 26−31 節

 前回読みました25節に、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という言葉がありました。神の愚かさとか、神の弱さ、というのが、そもそも何を指しているのか、わかりにくいことです。
 そのことを受けるように、パウロは、続く26節で「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい」と語ります。つまり、神の愚かさや弱さは、あなたたちが十字架のもとに召され、呼び出された、そのあなたがたのところに見える、というのです。あなたが立派で、決心して十字架を選ぶことができたのではなく、あなたが愚かであるにも関わらず、神さまに呼ばれたのでしょう、そのことを忘れずに、思い起こしてみなさい、というのです。この思い起こす、というのは、元の言葉で、じっと見る、という言葉です。「わたしは神さまに選ばれているのだ、しかも自分には選ばれる理由はなかったのだ」ということを、じっと見なさい、思い起こしなさい、というのです。
 このあとパウロは、26−28節に、少しくどいくらいに、あなたがたが召された時に、もう力も家柄も、学問も、力も地位も、よいものをもっていなかった、と畳み掛けます。これは一方で、よく分かる言葉です。しかし他方で、わかりにくいところがあります。かつて負け犬だった者が、神に召され、選ばれて、かつて勝ち犬だった者を見下すようになるための言葉のように、あるいは負け犬が、勝ち犬に「いつか見返してやろう」という気持ちを起こさせる言葉のように受け止めがちです。しかし、決してそうではありません。
 26節に「人間的に見て知恵ある者が多かったわけでなく、能力あるものや家柄のよい者が多かったわけでもありません」とあります。当時のコリントの町には、奴隷が多く、その奴隷を使う者との明確な階層の区別がありました。ところが、パウロたちの伝道によって生まれた教会は、そのような差別を超えてしまい、皆が同じ神の子、主イエスの兄弟として、教会を作っていました。神がどんなに、この世とは違った知恵をもって、わたしたちを生かしていることを知ったのです。主イエスが、どの階層も関係なく、そのすべての人達のために十字架に死なれた、わたしたちの教会の仲間たちも、その出来事によって選ばれています。

仙台東一番丁教会(ホーム)