説教 「ただ一人の真実の王」
      マルコによる福音書  15 章 1~5 節
        牧師  瀬谷 寛 

 主イエスが十字架につけられる、という記事、その記事の中で、最もたくさんの分量を用いて福音書記者が書いているのは、裁判の記事です。それは、主イエスが十字架につけられて殺されたのは裁かれたから、裁判を受けたからだ、ということです。これは一体、何を意味するのでしょうか。
 先週、わたしたちの教会で、「求道者お茶の会」というのを企画して、実行しました。意外と、礼拝に来てくださる求道者、まだ洗礼を受けていない方が、この教会にはいらっしゃいます。九人の求道者の方が、先週、このお茶の会に出席してくださいました。良い会だったと思います。教会に来ておられる方は、率直な疑問を持っておられます。それを分かち合うことができました。
 先週出席された方のことではありませんが、あるよその教会で、やはり礼拝に来て間もなくの「求道者」が、その教会の牧師に、こういう感想、質問をしたそうです。わたしたちの礼拝でも毎週告白している使徒信条の中で、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」、という言葉がありますが、その「求道者」の方は「ピラトさんがかわいそうです」とおっしゃったそうです。そして、「どうして、使徒信条の中で、『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』というのですか、という質問をした」、といいます。確かに、教会が生まれて間もなく、使徒信条が形作られてから始まって、世界中の教会で、おそらく主イエスが再び来られるときまで、主イエスはポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けた、と唱え続けられるでしょう。
 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」というのは、主イエスがローマの権力によって裁かれた、そのために、苦しみ、十字架につけられた、ということを意味します。けれども、牧師はその求道者の方に、「なるほど確かにそうかもしれないが、主イエスが十字架につけられて殺されたのは、ピラトだけの責任ではありません。ピラトはわたしたちの代表です」と答えたそうです。ピラトだけに同情することは、使徒信条の意味を誤解することになるだろう、というのです。あなたはどうなのか、というのです。
 主イエスの十字架は裁判の記事が多い、と申しましたが、確かにすでに、マルコによる福音書第14章53節以下に、大祭司に導かれる最高法院の法廷に主イエスが引き出されて、そこで、ユダヤ人の指導者、代表者たちの裁きを受けて、死罪に相当する、という判決を受けておられます。けれども、ユダヤ人だけでは死刑を執行することはできません。当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあったからです。したがって、ローマの権力に、それをしてもらわなければならなりません。それで、ローマの総督であったピラトのもとに主イエスを連れていきます。そこで、今日の、第15章1節以下の物語が始まります。
 その間に、もう一つの記事がありました。その最高法院の会議が開かれている中庭で、主イエスが愛したペトロが、三度主イエスを「知らない」、と言い張りました。呪いながらです。神様によって滅ぼされてしまえ、ということが、呪いです。裁いたのは、最高法院だけではなく、ピラトだけでもなく、ペトロも、すなわち主イエスの弟子も、主イエスを裁きました。
 この後、祭りの中で、罪人をひとり赦す慣例がありました。ピラトは群衆に、バラバとイエスとを並べて、どちらを赦すか、と尋ねます。群衆は、主イエスを十字架につけることを求めました。裁いたのです。
 つまり結局、ここにいる人物たち皆が、主イエスを死に定めたことになります。だれも責任逃れをすることはできません。
 しかも、ここで第15章5節を読むと、「イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った」という言葉が記されています。「不思議に思った」という言葉は、「驚いた」と訳せる言葉です。なぜピラトは驚いたかといえば「イエスがもはや何もお答えにならなかったから」です。主イエスはここから、十字架の死の直前に叫ぶまで、驚くべき沈黙が始まりました。ピラトはなぜ、驚いたのでしょうか。
 ピラトは、裁判官です。裁判は、自分が正しいと思って訴えます。あるいは、多少自分の責任、罪を認めても、弁護をするものです。ピラトは、そういう裁判に慣れていました。しかしここで、全く弁護をしない被告に出会い、驚きました。しかも、ピラトが見ていても、この男はどうして死罪に値するのかわかりません。ピラトは黙っている主イエスがどうしても、理解できないで、驚いています。
 わたしは、わたしたちキリスト者が、このピラトが驚くほどに、裁かれている主イエスのお姿に、驚くことがなくなっていないでしょうか。そうとすれば、わたしたちの心の鈍さは、すでに大きな罪ではないでしょうか。わたしたちが裁くのは、自分が正しいと思っているからです。そうしてまで他人を裁きます。裁くことによって相手を拒否し、否定し、滅ぼします。相手を支配します。裁くことは、わたしたちの、王になりたい、と思う思いの表れなのです。
 わたしたちは、大小さまざまの裁判をいつもします。「あいつはダメだ」、それは裁判の始まりです。「あの人はおかしい」ということも裁判の始まりです。お互いに裁き合う。そうして、裁き合っている中で、主イエスが裁かれておられます。わたしたちはそのことにどれだけ気づいているでしょうか。
 わたしたちが、そのような裁きの罪から免れるのは、わたしたちが王であることをやめる時です。また、偽りの王を迎えることを断固拒否する時です。それは、ただ一人の真実の王を迎える時です。
 なぜ、主イエスは黙っておられたのでしょう。真実の王であるならば、このときこそ、すべてを敵に回して、王者の宣言があってもよいはずです。主イエスは、ただ、ピラトの言葉を受け入れただけで、その後は、黙っておられました。それは、主イエスを裁いたのは、ただわたしたちだけではなく、神でもあった、ということを示します。主イエスが受け入れてくださったのは、実は、神の裁きでもあったのです。主イエスは、わたしたちの罪が現れる裁きを受け入れて、しかしまた、この愚かな人間の裁きの中で、神の、主イエスに対する裁きが行われているのです。主イエスはただ人間の愚かさを受け入れられたのではありません。神の裁きを受け入れておられます。そして、そこで本当は裁かれるべきわたしたちの罪を赦してくださっておられます。
 ここに、主イエスが黙っておられることの本当の秘密があります。黙っておられることの中にこそ、わたしたちが生かされているという恵みの秘密があります。もしもここで主イエスが口を開かれたならば、わたしたちは誰ひとり、ひとたまりもなかったでしょう。黙って裁かれてくださいました。そしてわたしたちに、もうおまえたちには、わたしが裁かれているような、裁きと滅びへの道はない、と言われます。
(3月3日 主日聖餐礼拝説教より)

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