説教 「平和の王が来られる」
      マルコによる福音書  11 章 1~11 節
        牧師  瀬谷 寛 

 エルサレムという街は、海抜 800 メートルにある街なのだそうです。主イエスと弟子たちは、長い上り坂をようやく上り終えて、エルサレムに近づいています。
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」(1~3 節)。
 そして、弟子たちが出かけていくと、全部そのとおりになりました。
 大切なことは、ここで父なる神様のご計画が、着々と行われている、ということだと思います。
 このときのことだけではありません。弟子たちは何度も、本当に、主イエスの仰る通りになるのかな、そんなふうに思いながら、人生を歩んできたに違いありません。けれどもビクビクしながら歩みますと、すべて主イエスがおっしゃる通りに歩むことができるのです。もうこの悩みは、この苦しみは、自分には乗り越えられないと思う。もう、憎しみに燃えるこの自分は、あの人だけは許せないと思う。本当に許せるんだろうか。けれども主イエスのおっしゃるとおりに生きてみると、なるほど、その通り、主イエスのお言葉どおりに生きることができるのです。
 ある隠退された牧師が、聖地旅行に行った時の話を聞いたことがあります。その先生がよく話してくれたのは、「聖書に書いてあることは、全部本当だったね」ということだったそうです。聖書の言葉というのは、そういうものでしょう。5 年、10 年、あるいは、20 年、30 年、80 歳、90 歳になって初めて、「ああ、聖書に書いてあることは全部本当だった」と言える、そのことの、なんと嬉しいことか、と思います。
 弟子たちは、主イエスの言葉を確かめるように、子ろばを借りて来ました。主イエスはこの子ろばにまたがって、エルサレムの城門をくぐりました。多くの人が、自分の服を脱いで、あるいは別の人は野原から葉のついた枝を切ってきて、道に敷きました。みんな讃美歌を歌いました。「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ」。
 こうして主イエスはエルサレムに到着されました。この聖書で明らかなことは、ここで主イエスは、王になろうとしている、王として迎えられることを望んでいる、ということです。
 二人の弟子は、自分の服を脱いでろばにかけて、主イエスの座を作りました。また、一緒に来た者たちは、主イエスの前に、要らなくなったボロの服ではなくて、いま着ている上着を全部脱いで、ろばに踏ませました。これはじゅうたんを敷いているのです。今でも、テレビなどを見ると、外国からのお客様がやってくると、飛行場に赤いじゅうたんをさっとひいて迎えます。レッドカーペットです。主イエスは王になろうとしておられます。主イエスは、王として迎えられることを望んでおられます。
 けれども、わたしは正直申して、ある違和感がありました。主イエスはここで王になろうとしていますが、どうも、王になろうとするのは、イエスさまらしくないような気がしたのです。王というのは権力者です。主イエスは、支配する方ではないのではないかと思いました。どうしてそう考えたかと言うと、自分が、支配者を信用していないからかもしれません。けれどももう少し、心の中をさぐって見ると、自分には、主イエスに対する思い込みがあるのだと思います。主イエス・キリストとは、支配する方ではなくて、わたしたちに仕えてくださるはずの方ではないか、わたしたちを助けてくださる方ではあるけれども、わたしたちを支配する方ではないはずではないか、そう思っています。
 一方では確かにそう思いながら、他方、わたしたちが実際にしているのは、自分自身が主イエスを支配し、拒否している、ということです。心の一部分では、主イエスを迎えるところがあるかもしれません。けれども、「イエスさま、ここの部分には入ってこないでください。ここは、わたしがなんとしても果たしたい計画をもっています、そこだけはあなたは、わたしの言うとおりにしてください。そこだけは、踏み込まないでください」、それがわたしたちの正直な心です。
 けれども、信じる、というのは、主イエスを自分の生活の王様として迎え入れることです。主イエスに、心の中、生活の中すべてを、愛をもって支配していただくことです。大切なことは、主イエスがここで王となろうとしておられるというのは、わたしたちが知っているような権力者とは違うということです。もしも、主イエスが、わたしたちが知っているようなこの世の王様であるならば、平和の象徴である子ろばなんかには乗らないで、白馬に乗るでしょう。子ろばに乗る。これは、大の大人が、三輪車に乗るようなものです。足だって、下に届いたに違いありません。一所懸命主イエスは低くなろうとしておられます。わたしたちが描く権力者とは違う姿をわざわざ取りながら、しかしそれでも、わたしたちの王となろうとしておられます。どうしてでしょうか。
 もしもわたしたちの王に、主イエスがなってくださらないなら、わたしたちが病んでしまうからです。わたしたちが、自分が自分の主人だと思い込む限り、わたしたちの心は病んでしまうのです。
 わたしたちは、神の御子主イエスも、自分に仕えるべきだ、と思いこみます。自分が自分の人生を支配できると思っています。更に悪いことには、自分が周りの人たちの人生や、命を、心さえも、支配できると思ってしまっています。自分の子供を、自分の親を、思い通りに動かそうと思います。とんでもない過ちです。わたしたちの生活が本当に不健康になるのは、主イエスを王様として迎えることを拒むときです。あるいは、一度は主イエスに王様になっていただいて、自分を全部譲り渡したのに、その主イエスに出ていってください、とお願いする時です。主イエスはわたしたちの王となろうとしていてくださいます。
 周りの者達は、自分の服を、上着を脱いで、主イエスをお迎えしました。自分の服をロバに踏んでもらいながら、主イエスを迎えました。わたしたちも、服を脱ぎたいと思います。ずっと何年も着込んで汚れた服です。絶望、という服を着ている人がいるかも知れません。憎しみ、コンプレックス、恨み、失望。なんと名前をつけてもいいでしょう。主イエスを信じながら、ずうっと着続けている服があります。それだって、主イエスに踏み砕いていただいたらいいのです。「ホサナ、主の名によってこられる方に、祝福があるように」。主イエスをお迎えしましょう。
(2018 年 8 月 5 日 礼拝説教より)

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